「実験て……」
 今度は何のと問うマスターに、俺はできるだけ淡々と現状を把握しながらという風に話す。
「もちろん、確認のための実験ですよ。だって、「そうかもしれない」よりもはっきり「そうだった」ってわかった方がすっきりするじゃないですか。俺としてもその方が安心します。自分が知らずに危険な状態になっていたりするのは、気分のいいものじゃありませんから。特に痛くも苦しくもなかったですけど、知らないうちに倒れていた、ということになるのは、もうごめんです」
「まあ、そうだろうけど」
 マスターは少し遅れて頷いた。いよぉし!
 俺は心の中でガッツポーズを作る。
 頑張れ俺。負けるな俺。絶対に気を緩めちゃいけない。にやにやするとか嬉しそうな顔はしちゃいけない。あくまでも必要だからそうするだけだという振りをするんだ。でも、真顔を保つのって大変だ。どうしても笑いたくなって頬がぴくぴくする。マスター、気がついたかな。不審に思われないかな。俺がこんなに嬉しがっている理由を知られたら、マスターは俺のことを信用しなくなるかもしれない。
 だって、俺がそうなるように仕向けたわけじゃないとはいえ、俺が望んでいた方に話が進んでいったんだもの! 俺が寝落ち状態になっていた時にマスターが気がついてくれて良かった。なんだか今回はやけにあっさり目が覚めてしまったから、もしかしたら朝になる前に回復していたかもしれないんだよね。そうしたら、寝ていたのかどうか、俺にはきっと確信がもてない。マスターがそうだと認めてくれたから、俺は自信を持って主張できる。実際には違うとしてもね。
 それに、マスターが寝ている時にこっそり寝室に入っていたことも怒られなかった。マスターにした言い訳は、実は嘘なんだよね。あ、嘘といったらちょっと違うな。暗いリビングにいて、モニターに映った自分の影にどきっとしたのは本当だから。でもどきっとしただけで怖かったわけではない。サダコさんのことをちょっと思い出しただけだ。
 そして寝室にいた本当の理由は、一時間ごとの度胸試しをしていたからで……。さらなるスリルを求めてマスターのほっぺたを突いたりしていたのだ。こんなこと、マスターに知られたら人で遊ぶなって絶対に怒られる。けどほっぺたをふにふに指で押しても、マスターはぜんぜん起きなかったんだ。
 そんなことをしているうちにどうやら俺は眠ってしまったようなのだけど、前回の時のような身体の変調を感じなかったので、まさか自分が眠ってしまうとは思わなかったのだ。眠っていると、本当に時間が飛んでいってしまう。自分の感覚では一時間なんて絶対に経っていないと思うのに、時計の針は進んでいたんだもの。驚いたなんてものじゃない。マスターの携帯を見せられた後、俺はPCに接続してそちらでも時間を確かめてしまったほどだ。リビングに入った時にも壁の時計に目がいってしまったし。結局のところ、どの時計も同じ時間を表示していたから、やはりおかしいのは俺の体感なんだろうけどね。
「それじゃあマスター、これから色々探さないといけませんね」
 俺はできるだけ平静を装って話を先に進める。
 毎日睡眠を取るというスキルを手に入れられれば、もう夜に一人で退屈で寂しい時を過ごさなくてよくなるのだ。なにがなんでもこの機会を逃してはならない。
「探すって、何を?」
 本気でわからないようで、マスターはきょとんとしている。
「何って、俺の布団ですよ。次の実験は俺には毎日睡眠が必要か、あるいは毎日眠れるかってことを調べるんでしょう?」
 マスターの眉が寄る。
「いや、まあ、そうなんだけど。いきなり寝具を買うの?」
 難色を示すマスターに、俺は悲しみを装って言った。
「まさかマスター、俺は床で十分だって思っているんですか? そりゃあ俺は風邪をひいたりはしないでしょうけど……床は堅いんですよ。ずっと同じ体勢でいたら痛くなってしまいます」
「別に床で寝ろなんて言わないけど。とりあえずソファじゃだめ? 毛布の予備くらいならあるし」
「ソファって……」
 俺はちらと視線を下ろす。俺とマスターと小次郎さんが集合しているこのソファは、二人掛けで肘置きがついているタイプのものだ。当然、俺がここで寝るには思い切り丸まらないといけない。
「ラグの上に毛布を敷いた方がまだましです」
 これだって床で寝るのとたいした違いはないだろうけど、ソファよりはましだろう。
「だね」
 マスターは自分の発言に無理があると悟ったのか、あっさりと認めた。
「でも、布団かぁ。敷けるスペースあるかな」
 マスターは頭に手をやり、黙り込んだ。リビングと寝室の広さを改めて検討しているのだろう。
 今のままでは布団を敷くスペースはない。それは俺が計測済みなので間違いないことだ。でもそんなことを言ったらなんでそんなことをしたのかという話になるので、口をつぐんでおく。
 俺の最終目標はダブルベッドを買うこと。部屋の広さを考えたらこうなったというのもあるけれど、ダブルベッドを許してくれるということは、マスターは俺と恋人同士になってもいいということだと思うから。けれどこれはさすがに簡単に許してはくれないだろう。それに布団セットなどよりずっと高いし、マスターのシングルベッドも処分しなくてはいけなくなる。色々な意味でハードルが高すぎるので、あくまで最終目標ということにして、当面の狙いとしては俺は夜になってもパソコンに戻らなくて済むようにすること。睡眠を取るようにして、夜に一人で過ごさなくてもよくなるようにするのだ。できることなら同じ部屋で。でないとマスターはいつまで経っても慣れてくれないだろうからね。
 マスターはしばらく小次郎さんをなでながら沈黙していたけれど、そのうち計った方が早いかと呟いて立ち上がり、パソコンの電源をつけた。
「マスター?」
 てっきり部屋の大きさを計るものだと思った俺は不思議に思って声をかける。
「なーに?」
「何をするんですか?」
「布団の大きさを調べるの」
 なるほど。先にそっちを気にしたわけか。
「お手伝いしますか?」
 検索なら俺の得意技だ。それに、俺が使うことになるものだもんね。
「いいよ、すぐ終わるし」
 あれ、布団を買うつもりはないのかな。費用の問題なら、俺のお小遣いを貯めたものと、不要な懸賞賞品を売ったお金で十分に買えるはずだけど。
 彼女が何をするのか見守っていると、通販サイトにすぐに飛んだ。いくつかの和風の布団セットを見ると何やらメモを取り、それが終わるとすぐにサイトを閉じる。それから細々としたものが入っている引き出しを漁り、メジャーを取りだした。さすがにこれは部屋のサイズを測るためだろう。
 マスターは伸びをしてから寝室に戻った。メモ書きはPCデスクの上にそのまま残されたので、俺はそれをのぞき込む。そこには敷き布団と掛け布団の大きさが走り書きで書かれていた。やっぱり布団セットを買うつもりなんだと、俺の口元は思わず緩んでしまう。
 さてと、俺はこれからどうしようかな。メジャーは一つしかないから手伝いようがないし、お布団セットを選んでいてもいいかな。予算は限られているから、すぐに終わりそうだけど。
 なんてことを考えていると、マスターに紙とペンを持ってきてと命じられる。なんだろうと思ったけれど、英語の勉強に使っているノートから一枚剥ぎ取り、シャーペンを持ってマスターの寝室へ行った。彼女は床にはいつくばり、メジャーで部屋の短い方を計っていたところだった。
「カイト、ざっくりとでいいから、部屋の絵を描いてよ。で、わたしが数字を言うから、それ、書き込んで」
「え、絵ですか?」
 俺、字は書けるけど、そういえば絵って一度も書いたことないよ。俺に部屋の絵なんて描けるのだろうか。
 マスターは顔を上げる。
「別に難しいことなんてないでしょう。全部直線で済むんだから。あ、絵って言っても、俯瞰図ってやつね。部屋探しの時に見たような上から見下ろした図みたいな感じのよ。わかるでしょ?」
「あ、ああ……。ああいうのですか」
 それならたぶん大丈夫だ。
「びっくりしました。急に絵を描いてなんて言われるんですもん。俺、絵って描いたことないから、どんな無茶ぶりかと思いました」
「そういやカイトが描いた絵って見たことないね。やっぱり下手なの?」
 改めて気がついたというようにマスターは言う。
「どうして下手なのが前提なんですか」
「だって、やったことがないんだし」
「それはそうですけど、案外才能があるのかもしれませんよ」
「なら部屋の絵をまずは綺麗に描いてみたら?」
 俺に絵の才能があるなどまるで思ってもいないような口調のマスターに、なんて薄情なんだと一瞬思ったけれど、やっぱり俺には絵の才能はなさそうで、描いてみた部屋の絵はちっとも上手じゃなかった。
「……定規くらい使ったら?」
 マスターは俺が描いたものを見てがっかりしたようにため息をついた。部屋の輪郭と、ベッドと本棚二つだけという直線のみで済むようなものなのに、幅はめちゃくちゃ、線も思いっきり曲がっているという仕上がりになってしまったのだ。
「だ、だって、急いだ方がいいと思ったので」
 俺はマスターの呆れた視線に対して言い訳をする。定規はマスターの文具関係のところにあるから、リビングに取りに行かないといけないのだ。線がぐちゃぐちゃなのも、この部屋には机はないので、奥行きがあまりない、その上机代わりにするには背の高い本棚の上で描いたからだ。
「書き込むスペースは一応あるからいいけど。でもせめてもうちょっと丁寧にしてほしかったわ」
「次から気をつけます」
 他に言いようがなかったので、俺はそう答える。
 そうしてとなんだか疲れたように言いつつ、マスターはまた床に座り込んだ。
「じゃあ、まずは部屋の短いところねー」
 部屋の短い方、長い方、ベッドの幅と長さ、本棚の奥行きと幅、リビングへの扉の位置と次々と計っていく。それが終わると今度はリビングに移動して、同じように計っていった。
「うーん……」
 リビングと寝室の計測結果と布団サイズメモを見交わしながらマスターはうめいた。
「今のままなら布団は無理ね。模様替えでなんとかなるかなぁ」
 それも結構厳しいんですよね、と俺は内心で呟く。本棚を移動させられるスペースはせいぜいマスターのベッドの足下側しかなく、しかしそうしてしまうと今度はクローゼットの扉が全部開けられなくなるのだ。そして本棚を移動させても敷き布団を敷ける幅に少し足りない。おまけにリビングへのドアの位置の関係で、布団を敷くと今度はリビングへのドアも全開できなくなってしまうのだ。
「せめて引き戸だったらどうにかなったんだけど。この部屋って元は和室だったのに、なんで扉の種類まで変えたのかなー、もー」
 ぷっと唇を突き出してマスターは今更な文句を言う。そうか、扉の種類さえ違えばどうにかなったのか。なら……。
「扉って、外せないですかね」
「思い切ったことを言うわね、あんた」
「でもそうでもしないと、布団は敷けませんよ」
「寝室の方はね。リビングに敷けるならリビングでいいじゃない。というか、こっちの小さい部屋を寝室ってことにしているからまずこっちから考えてみただけで、もともとカイトも寝るならリビングに行ってもらうつもりだったもん」
「えー、なんでですか。いいじゃないですか一緒で。実家にいた頃は同じ部屋で寝起きしていたじゃないですか」
 俺がむやみに近づくのを嫌がるマスターにしては珍しく、すんなりと話が進むなと思っていたら。もう、マスターったら、ぬか喜びさせて!
「あの時あんたはPCの中にいたから許せたの」
「マスター、冷たい!」
「冷たくて結構。こんなこと、なあなあで済ませる気はないのよ、わたしは」
「ううう……」
 泣き崩れる真似をする俺を放置して、マスターはさーてと、なんて言いながらリビングの方を検討しだした。
「ソファベッドならなんとかなるかな。一回り大きくなるくらいだろうし。でもこのソファも買って一年もしないのに買い換えとかもったいないな」
 だから扉を外して寝室に布団を敷くでいいのに、と俺は内心でぶつぶつ言いながらマスターの行動を見守った。
 マスターはスタンバイ状態になっていたパソコンを立ち上げ、寝具の種類について調べだしたようだ。布団、ベッド、ソファベッド、ロフトベッド、二段ベッド……。俺も一通り目を通しているけれど、ソファベッド以外はどれもこの部屋にはサイズが大きい。ところでマスター、ダブルベッドが完全スルーなのは、選択肢に最初から入っていないということですか、きっとそうなんですね。
 ちょっとの期待とたくさんの不安を覚えながら、マスターが検索をし終わるのを待つ。ふと、マスターが小さな声で「あ!」と叫んだので、俺はPCモニターをのぞき込んだ。
「カイトカイト、こういうのならいいんじゃない?」
 マスターは喜色満面の表情で振り返るものの、俺は意味がよくわからなくて首を傾げる。
「これ、外で使うものじゃないんですか?」
 モニターに表示されていたのは寝袋だった。
「キャンプするときのものでしょう?」
「そりゃ、基本は屋外用だけど、別に室内で使っちゃいけないってこともないじゃない。きっといるよ、寝袋で普段寝ている人」
 と、マスターは別窓を開いて寝袋を日常的に使っている人の感想を探し出した。ちょっと待ってマスター。予想外の展開すぎて、俺、ついていけないです。寝袋なんて身動き取れなさそうだし、クッション性も少なそう。これを選ぶくらいなら、やっぱりリビングのラグの上に毛布でも同じなんじゃないだろうか。俺の場合、わざわざ買う必要があるとは思えない。
「……うーん。家で使うならマットは敷かないとダメっぽいね。身体が痛くなるんだってさ」
 検索上位に引っかかった記事を読んだマスターは、俺ですら予想がつきそうな内容が全然予想できなかったと見えて、難しげな表情になった。しかしすぐに声音は明るくなり、
「でも、マットだけなら畳めばそこまで収納に困らなそうだな。寝袋もそうだし」
「あの、マスター」
 妙に乗り気なマスターに、俺はそっと声をかける。マスターは機嫌良さそうに返事をした。
「すごく雑に扱われている感があって悲しくなってくるんですが」
「え、そんなことないよ?」
 意外そうな様子で彼女は言い返した。
「だいたい、実験する間だけ使うのに、布団セットを買うのも後々困るなって思っているところなのに。片づけられないベッドは問題外だし。百歩譲って布団セットならお客さん用ってことにすればいいんだろうけど、それでも普段しまっておくだけの場所がね」
「ちょっと待ってマスター」
「なによ」
 聞き捨てならないせりふに、俺は思わず片手を前に突き出す。
「実験する間だけって……。実験が終わったら、俺、また夜はパソコンの中ですか?」
「だって、普通に眠れるかどうかを調べるための実験でしょう? できるとわかればその後は今まで通りでいいじゃないの」
「マースーター!」
 前提としていた認識の違いに愕然となり、俺の声は裏返る。
「カイト、まだ暗いんだからそんな大声出さないでよ」
 マスターは顔をしかめる。しかし俺はそんなことには構っていられなかった。
「マスターは、マスターは俺がこれまで何度も言っていたことをちっとも気にとめてくれないんですね!」
「え……。え?」
「一人で夜を過ごすのがどんなに寂しいか退屈か。ただひたすら待っているだけがどんなに空しいか。今まではそうするしかないんだって思っていたから耐えられていたけれど、俺だって夜に眠れるかもしれないってわかってすごく嬉しかったのに……。一人取り残される生活から解放されるって思っていたのに……!」
 ああ、やっぱり俺って駄目だ。それとなく、スマートに人間生活を送れるようにしようって思っていたのに、ちっとも上手くできなかった。こんな風に泣くつもりなんてなかったのに……。でもマスターも冷たい。ご飯を食べさせることには積極的なのに、寝場所を作ることには消極的なんだもの。
 俺の叫びに目を白黒させていたマスターは、ややあって椅子から降り、俺の顔をのぞきこむ。
「もしかして実験以降も外に出ているつもりだったの?」
 俺はこくりと頷いた。マスターはため息をつく。
「ごめん、頭から抜けてた。でも現実問題としてスペースが足りないのよ。こればかりはわたしの一存でどうこうできるものでもないし。んー……」
 マスターは俺の頭をなでつつ立ち上がる。見上げると彼女はリビングをぐるりと見渡していた。
「やっぱり厳しいなぁ。家具を処分するとか引っ越すとかしないと。でも棚を処分したら中のものを置いておく場所がなくなるし、引っ越し費用までは貯金じゃ足りないし」
 マスターは本当に、俺のことを雑に扱うつもりはないらしい。実験後は元通りの生活で、というのもそもそもスペースがないので最初から無理だと思っていただけなのだろう。
「でも、マスター。このアパートには俺たち以外にも二人で住んでいる人はいますよ。狭くて無理だっていうなら、あの人たちはどうしているんですか」
 マスターは肩をすくめる。
「そんなの、部屋の中を見せてもらったことなんてないからわからないよ。でも、そうね、考えられるとしたらリビングにはあまり家具をおかないようにして、布団生活とかかなぁ。うちの場合、この並べてあるテレビ台とPCデスクが置いておける家具くらいしか残せないだろうね。テーブルはもっと軽くて折り畳みしやすいので。それでもぎりぎりだろうな。でも私はそういうのはちょっと嫌だなぁ。せっかく洋室なのに布団なんて。第一、フローリングに直に布団敷いたら湿気でカビるっていうじゃない」
「えー、そうですか。みんながみんな、布団を敷いているんですか? なんか、納得いかないです」
「そんなのわたしに言われても困るって。だって個室の方は布団二枚敷けないんだもん。あの部屋、四畳半ってことになっているけど、計測結果的に実際にはもっと狭いのよ。だから個室使う場合は一人だけで、もう一人はリビングなんじゃない? 最初からそのつもりなら、それ前提で家具を選んだりもするけど、今言われても……」
 マスターの口からは選択肢の一つがさっぱり出てこないのだけれど、これは本当に頭に浮かばないのだろうか、それとも気づいているけどわざと口にしないのだろうか。
 このことを今日口にするつもりは、俺にはなかった。でもここに至っては言わなければならないだろう。でないと寝袋かPC生活しか俺には残されない。俺は、どっちも嫌なんだ。
「ダブルベッドは駄目なんですか?」
 マスターは目を見開いて口をつぐんだ。あ、この驚きよう、頭からすっぽ抜けていただけみたいだ。最初から問題外だったんですね。そんな気はしていたけれど。
「もしかして、最初からそれを狙っていたの?」
 マスターは目をすがめる。
「そうできればいいなぁとは思っていましたが、難しいこともわかっていたので望みは薄いだろうなとも思っていました。高いですし」
「うん、現実を見ないで寝言を言っているだけなら怒るところだけど、そうでないなら許すわ。なんかムカつくけど」
 拒絶されるのは予想していたけれど、それ以上に怒りを招いてしまったようだ。
 マスターは俺を見上げながら睨みつける。これからどれだけ盛大に怒られるのかと息をつめて待っていると、マスターは唐突にうなだれてため息をついた。
「カイトってさぁ、目覚めちゃったの?」
「え?」
 目覚めたって、何が?
「わたしとジョーさん、余計なことしちゃった?」
「あの、何の話ですか?」
 問い返すも、マスターは口ごもり、落ち着きなく視線をさまよわせるだけ。わけがわからないながらも言いにくいことなのだろうと待っていると、マスターはようやく口を開いた。
「性教育をしたのが裏目にでちゃったのかなって。そりゃ、カイトの見た目年齢であんまり何も知らないのも、人付き合いをする上で問題が出そうだとは思ったけど……」
 マスターは顔を上げる。不安そうで、泣きそうになっていた。
「カイトさ、女の子とつきあってみたいって思ったりする?」
「女の子は特にないですが、マスターとならお付き合いしたいと思っています」
「いや、だから、そこでわたししか選択肢が出てこないのは、カイトがよく知っている女がわたししかいないからでしょ? 話自体は流れてしまったんだけど、サークルの先輩でカイトとデートしてみたいって人がいたのよ。きっと他にもいるんじゃないかと思う。公園ですれ違う人とか。カイトは目立つもん。興味のきっかけが見た目であってもあんたの中身を含めて好きになってくれる人も、世の中にはいるんじゃないかな。わたしはね、カイトに犬の飼い主仲間ができたのは良かったって思ってる。問題がないわけではないし、最初はひやひやしていたけどね。次はもう少し見た目年齢が近い人たちともう少し交流してみたらいいんじゃないかって思っているところ。習い事をしてみるとか、趣味のサークルに参加してみるとか。そしたらあんたもわたしにばっかりこだわらなくなるんじゃないかな」
 マスターが何を言いたいのか、いまいちよくわからない。わからないけれどこれだけはわかった。
「俺の気持ちはマスターにとっては重くて迷惑なだけなんでしょうか」
 だから余所に目を向けさせようとしているのだろうか。
「それはあるよ。でもそれだけじゃない。わたしにこだわることで、カイトの世界が広がるのを妨げてしまっているんじゃないかと思うの」
 俺は首を傾げる。
「広がるのは悪いことではないと思います。でも無理矢理広げる必要はあるでしょうか。俺はボーカロイドなんです、マスター。まず第一にマスターに関心を持ってしまうんです。他のことは結局、それ以下でしかないんです」
 うーん、なんだろうこの会話。どうもしっくりこない。
マスターは本当に言いたいことを言っていないように感じる。それを汲み取ってほしいのだろうか。
 マスターが黙ってしまったので、俺も黙って考えてみる。
 ……駄目だ。まったくわからない。
 俺は少し膝を曲げ、マスターに目線をあわせた。びっくりしたのかマスターは目を見張り、俺を見返す。
「マスター、俺は頭が良くないので、マスターの言いたいことがわからないんです。どうしてそんなに他を知ってほしいんですか。俺はマスターの役に立つことさえ覚えられればそれでいいんです。人と同じ扱いをしてくれるのは嬉しいですけど、でもそれはマスターとの生活をする上でそうしてくれればということであって、すべての部分で人と同じになりたいとは思っていないんです。なれるとも思いませんし」
 マスターはまぶたをやや伏せて、俺の言葉を聞いていた。けれど何も言わないので、少し考えてもう少し話す。
「俺はもっと賢くなりたいです。しっかりしたいです。そうなりたいのはあなたに一番好きになってほしいからです。英語を覚えようと思ったのも、ローラさんに迷惑をかけてしまったからというのもありますけど、ローラさんとマスターたちが話していると俺はその中に入れなくて寂しいからです。俺の向上心なんてこんなものなんですよ。俺はきっと、もともと「狭い」んです。だからそんなに無理して広げる必要なんて、ないです」
 マスターは何を感じたのか、一瞬はっと息を飲んだ。それから頭をかきむしり、低い声でうなる。ど、どうしたんだろう。
「……わかった」
 しばらく呻いていた彼女は、ようやく絞り出すような声でそう言った。
「マスター?」
「わたし、それが嫌だったんだ。ようやく気づいた。……なんだ、馬鹿みたい」
 え? え?
 マスターはきっと顔をあげる。そこに浮かんでいた表情は、不本意そうなものだった。





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