味も量も十分満足した夕食を食べ終わり、予約していた貸し切り風呂の時間になったので、俺たちは連れだってそこへ向かった。
「わぁ」
「へぇ」
 中に入るとすぐに浴室が目に入る。脱衣所と風呂場を隔てる引き戸がガラスでできているからだ。
「思っていたより広いな。綺麗だし、いい感じだね」
「そうですね」
 話をしながらガラス戸をからりと開ける。二方向が床から天井まで届く大きな窓になっており、建物の中にいながら露天風呂の雰囲気が味わえるようになっていた。それだけ大きな窓では防犯面、特に外から覗かれることを心配しそうだけれど、そこのところは問題はない。ここは一階ではないからだ。
 昼間ならば雪景色が眺められるのだろうが、夜では生憎と視界は利かない。だが夜空は夜空で素敵だった。これまで俺が見たことがないほどのたくさんの星がきらきらと瞬いており、爪の先のような形の月も、俺たちが暮らしているところで見るより綺麗な気がした。それに雪明りでぼんやりと山の稜線が白く浮き上がっている。浴室の照明は少し暗めなので、本当に夜空の下でお風呂に入っている気分になれるだろう。
 もう片側の方は岩や玉砂利、小振りの松などでできた庭園のようになっている。丸い形の石灯籠からオレンジ色の明かりがこぼれ、積もった雪が温かそうな色に染まっていた。雪なのだから本当に温かいわけはないのだろうけれど。
 浴槽は五、六人が一度に入れそうな大きさの木製。床も同様で、湯気で湿った空気を吸い込むと、ほのかに木の香りが混じっていた。
 お湯の流れる音が優しく耳を打つ。壁からはお湯が出てくるところがあって、そこから絶え間なく浴槽に供給されているのだ。
 ここを俺たち二人だけで使えるなんて夢みたい。マスターと俺はラブラブ恋人同士なんだから、これまでにだって一緒にお風呂なんていうイベントのひとつもあってもおかしくはなかったのだと思うのだけど、アパートのお風呂場は狭いので拒否されていたのだ。
 ようやく念願が叶うのかと思うと、嬉しくて仕方がない。俺は溢れる喜びを溢れっ放しにさせて、マスターを誘った。
「それじゃあ入りましょうか」
「あ、先行ってて、カイト。わたし、コンタクトつけるから」
 そして彼女の肩を抱き寄せ、半分冗談で「脱がせてあげましょうか」と言おうとした矢先に、マスターは片手を上げて踵を返した。伸ばしかけた手が行き場を失ってしまう。これではマスターが了解してくれたら本当に脱がそうと思っていた自分が馬鹿みたいだ。
 俺は作戦失敗を悟られないように、冷静さを装う。
「コンタクトって、どうしてですか?」
 マスターは近視だが、入浴の時にはメガネやコンタクトは外している。どこに何があるのかわからない程ではないし、慣れているので特に問題はないということだったけれど……。
 ポーチ以外の荷物を脱衣かごに入れて、据え付けられている洗面台兼ドレッサーに向かうマスターは、軽く振り返って答えた。
「景色が微妙な感じなら別になくてもいいかと思ってたんだけど、そうじゃなかったからね。見ないのももったいないじゃない」
 それからメガネを外してコンタクトを用意しだした。
「それじゃあ、ご飯前にお風呂に入ったときもコンタクトをしていたんですか?」
 大浴場も外の景色が堪能できるようになっていたのだ。いや、景色が見えないようになっていたとしても、初めての場所で周りの状況がつかめないのは危険だろう。けれどマスターは湯上がり後の常として、すっぴんメガネだった。わざわざ何度も付け外しするくらいなら、付けたままにしておけば良かったのに。
 そう言うと彼女は、そうもいかなかったのよと答えた。
「サウナにも入るつもりだったからね。眼鏡だとフレームが歪むかもしれないし、コンタクトだと乾燥して目が痛くなりそうだし……。でも今度はお風呂だけだから、大丈夫かなって」
「色々あるんですね」
 俺はマスターの後ろに立って、彼女がコンタクトを入れるところを眺めながら相槌を打った。片目にレンズを入れたマスターが、鏡越しに俺を上目遣いしてくる。
「……先に行ってていいんだよ、カイト」
 見られているのが居心地悪そうだったので、俺は仕方なく先に入ることにした。
 浴衣と下着を脱ぎ、湯気でいっぱいの浴室に入る。入浴前のかけ湯はしたが、頭や身体を洗うのは一度目のお風呂の時にしたので今回は省略してもいいだろうと、そのまま湯船に浸かった。ざあっとお湯が溢れ、さらに湯気が立ちこめる――。
 大浴場もそうだったけれど、このお風呂もアパートのそれより深さがあった。首のところまで来るお湯は少し熱め。でも気持ちいい。
 俺は頭を浴槽の縁に預けて両手と両足を伸ばす。全身がお湯に浸かっていると、ふわっと身体が浮く感じがするのが面白い。けれど胸が押されるように苦しくなるところは、ちょっと苦手だ。
 以前マスターにそう言ったら浮力と水圧のせいだという答えが返ってきたのを思い出す。アパートの浴槽よりずっと大きいから浮力というのも大きいんだろうな、と俺はお湯の中で足先を持ち上げるようにした。横から見たら俺の身体は『く』の字みたいになっているだろう。
「うわっ」
 足先が思っていた以上に浮き上がってしまい、バランスを崩してお湯の中に沈没しそうになる。慌てて後ろ手をついて身体を支えて間一髪、難を逃れた。
「び、びっくりしたぁ……」
 安堵しながらも、マスターに見られていたら笑われるだろうと脱衣所を見やれば、両目にレンズを入れ終わったマスターがこっちに背中を向けて浴衣を脱いでいるところだった。
 俺は浴槽内を脱衣所側の方にお湯を掻き分け掻き分け、そそくさと移動する。実際には距離なんてたいして変わるものではないけれど、気分の問題だ。
 膝立ちになりながら両肘を浴槽の縁に引っかけるようにして上半身を支え、良い景色を眺める。振り返ったマスターと目が合ったので笑いながら手を振ると、マスターは照れ混じりの困り顔になった。マスター、早くこっちにきてくれないかな。


「あんまりじろじろ見ないでよ」
 からりと引き戸を引いて中に踏み入ってきた彼女は、精一杯のしかめ面をする。だけどタオルで前を隠しながら、やや前かがみになっているので全然迫力がない。
「今更何を言ってるんですか」
 苦笑しながら言い返すと、マスターはますます渋面になる。そしてふいっと横を向いた。
「羞恥心がないって、ある意味幸せよね」
「確かに俺は見られても恥ずかしくはないですが。特にになら」
 断言すると彼女はがっかりと肩を落とす。
「少しは否定してよ……」
 マスターは多分、俺と一緒にお風呂という場面に急に照れが襲ってきたのだろう。でも貸し切り風呂はマスターも乗り気だったから予約をしたのだという事実を忘れないでもらいたい。
 けれど今のやりとりで踏ん切りがついたらしく、洗い場でかけ湯をすると、彼女は当然のような顔でに俺の隣に来た。肩がくっつくかくっつかないかという距離で並んでお湯に浸る。
「んー。いい気持ちー」
 顎のところまでお湯に浸かり、幸せそうにマスターは呟く。それからゆっくりと周辺を見渡した。
?」
「ここ、深くて息苦しいわ。移動しない?」
 それから浴槽の片端が段になっていることに気がついたマスターは、そこが良いと判断したらしく、腰を浮かしかける。
「あ、待って……!」
 俺はとっさに彼女の二の腕をつかんで引き止めてしまった。どうしたのと首を傾げるマスターに、俺は躊躇しつつも提案を持ちかける。
「あのー。俺を椅子代わりにすれば苦しくなくなると思うんですけど」
 こういうことを言ったら真っ赤になって嫌がったりへそを曲げたりする可能性はとても高い。だけどここは俺とマスターしかいない空間だ。こういう場合は譲歩してくれる可能性もありだとそれまでの学習から判断し、自分を勇気付ける。でも断られることを考えるとあまり強くも出られなかった。
 マスターはしばし硬直したように動きを止めた。温かいお湯の中にいるのに、凍ってしまったかのよう。
「えっと……。駄目、ですか?」
 せっかく二人きりで旅行に来たというのに、満足するほどいちゃいちゃできていないように思うのだが、どうだろう。そればかりが目的というわけではないけれど、もうちょっとそれっぽい雰囲気はあってもいいのではないか?
 マスターははっとしたように瞬きをする。
「駄目っていうか……。なんだか温泉でのベタベタすぎるシチュエーションすぎてびっくりした。カイトはこういうのが好きなの? それともこれもジョーさんの入れ知恵?」
「ジョーさんは関係ありませんよ……」
 マスターのこの反応はきっと例の悪代官と町娘ごっこのせいだろう。だが俺はそんなにジョーさんに踊らされているように見えるのかと、がっかりした。
「あ、違うんだ。えーと、ごめんね?」
 気落ちする俺にマスターは首を傾げ、疑問系で謝罪する。でも何が悪いのか、わかっていなさそうだ。
「謝らなくていいですから……」
 態度で応えてくださいと俺は両腕を広げる。
 来てくださいマスターと、声に出さずにそう言った。


 マスターを後ろから抱えてお湯に浸かっていると、幸せで溶けてしまいそうになる。
 ゲームに熱中するマスターにほったらかしにされた時には、強制的に構ってもらうために何度か同じ体勢になったことはあるけれど、あれは服を着ていたから今とはやっぱり密着度が違った。
 マスターの腰にゆるく腕を回す。彼女は俺の肩に頭を預けてお湯を満喫するように目を閉じた。時折そっとすべすべしたお腹や柔らかい太股に手を這わせると、マスターは片目を開けて、イタズラはダメよと言いたげな視線をよこす。その眼差しに、背筋がぞくぞくした。
 ここではしませんとやはり目で訴えてみると、通じたのだろうか、マスターはくすくすと笑う。その笑い声はいつしか音楽に変わっていった。
 唇を閉ざしたまま紡がれるそれは鼻歌。その曲が自分の中にもあるものだと気づき、キリの良いところで加わる。浴室は音が響きやすいというけれど、本当にそうだ。かけた覚えがないサウンドエフェクトが加わって、雰囲気が変わる。
 二人の声が絡み合うのをうっとりと聴き入りつつ歌っていると、マスターの肩と声がだんだん震えてきた。どうしたんだろうと鼻歌を止めずに顔をのぞき込むと、彼女は今にも吹き出しそうになっていた。
 最後の一節が反響しながら消えていく。それを待っていたかのように、マスターは楽しげに笑った。
「カイト、今の良かったよね。いかにもお風呂で鼻歌って感じだった!」
 身体を反転させて俺に向き合う形になったマスターは、目をきらきらさせて見上げてくる。
「思いっきり響いていましたからね。俺もさっきのは気持ち良かったです」
「わたしも。ねえ、帰ったらまた鼻歌シリーズを追加しようか」
「いいですねぇ」
「何か希望の曲はある?」
「えーっと」
 俺はマスターが最近鼻歌った曲を思い返した。いつものことだが、俺は覚えるのならばマスターの好むものがいい。それに鼻歌シリーズはサビの部分を中心にハミングだけで作成するから、一日あれば数曲分を完成できるのも魅力的だった。
 あれこれと曲名をあげていると、マスターが俺の首に腕を回してしなだれかかってきた。柔らかい膨らみが俺の胸に押し付けられる。
……?」
 積極的なマスターは珍しい。部屋まで待たずにこのまま頂いてしまってもいいのだろうかと悩んでいると、熱っぽい声が耳朶をくすぐった。
「カイトー。喉乾いた。のぼせそう。お水持ってきてー」
「ああ……。はい」
 期待に反してちっとも色気のない要求に俺は肩透かしを食らう。落胆しつつもマスターを抱えてお湯からあがった。
「もう出ます?」
「ううん、もう少しいたい」
 のぼせそうなら部屋に戻った方がいいのではないかと思って聞いたが、マスターはいやいやと頭を振った。
「じゃあ、あそこに降ろしますね」
「うん」
 浴槽と窓の間には少し高くなっているスペースがある。すのこ状になっているそこは腰掛けて休憩するのに使っていいのだろうと判断し、マスターを運んだ。
「大丈夫ですか? 倒れそうだったら言ってくださいね」
 汗なのか湯気なのかわからないが、湿った額に張り付いた前髪をそっと払う。
「大丈夫だよ」
 マスターはにこっと笑った。
 本当かな、と思いつつも買っておいたミネラルウォーターを取りに脱衣所へ行く。
 キャップを開けつつ戻ると、彼女は水滴のついたガラス窓によりかかるようにして額をくっつけていた。
「何しているんですか?」
「涼んでるの。ここ、冷たくて気持ちいい……」
「はあ……」
 マスターにつられるようにガラスに手を触れる。すると火照った熱があっと言う間にさらわれてしまった。
 考えてみれば外の気温はマイナスになっているはずだ。これが本当の露天風呂だったら、いくらお湯が温かくてもマスターは風邪を引いたかもしれない。露天「風」のお風呂にして良かったんだろう、と俺は過去の自分の決断を心の中で褒め称えた。
、お水ですよ」
 ところでいい加減、マスターの態度をどうにかしないといけない。
 予定では明日の今頃はもう俺たちのアパートに戻っているはずなのだ。ということは旅行の時間は既に二十四時間を切っていることになる。
「ありがと」
 マスターが手を伸ばしてきたが、俺はそれをわざと遠ざけて笑ってみせた。
「カイト?」
 意図してやっているのかわからないが、このままマスターのペースに流されていたら、この旅行の締めくくりはとても健全なものになりかねない。
 そういうのも悪くはないが、カップル旅行としては画竜点睛を欠くというものだろう。
 俺はペットボトルに口をつけ、中身を呷った。そのままマスターに近づくと、彼女は驚いたように瞬き、寄りかかっていた窓から身体を起こす。そして俺をまじまじと見上げた。
 マスターの腰に腕を回して抱き寄せ、口付ける。そのまま水を飲ませると、さしたる抵抗もせずに、彼女はそれを飲み込んだ。
「カイト……。いきなりすぎるよ」
 唇が離れると、マスターは苦しそうに喘ぐ。
……。まさかこのまま何もないなんてこと、ありませんよね?」
 至近距離で見つめると、マスターは息を整えて、心外だと言いたげな口調で言い返してきた。
「別に、忘れてはいないよ。だけどそんなに焦ることもないじゃない。第一、ここは一時間しか使えないんだから――」
「ああ」
 俺はぽんと手を打ち合わせた。ペットボトルを持っていたままだったので、中の水が揺れて飛び出てきそうになる。
「一時間じゃ足りないですもんね」
「いやそーゆーことじゃなくて」
 マスターは間を置かずに突っ込んできた。手を左右に振って違うというジェスチャーをする。もちろん俺だって彼女が言いたいことの意味はわかっている。
 でもそうか。マスターはゆっくり時間をかけたかっただけか。良かった。安心した。
 でも、ちょっとくらいは先取りしてもいいよね。
 俺は腰を屈めてマスターと目線を合わせた。おもむろに指を伸ばし、彼女の視線を誘導する。ゆっくりと鎖骨の窪みに指の腹を這わせると、マスターはぴくりと身体を振るわせる。
 彼女の背後には窓を隔てて石灯籠があった。そのオレンジ色を帯びた明かりで滲んだように肌が光る。浴室内の照明の薄暗さと相まって、火照った肢体が浮き上がる様に俺の目を釘付けにした。
「もう少し水を飲みますか?」
 マスターの耳に囁く。
 彼女の吐息が空気を振るわせた。
「……頂戴」


♪・♪・♪



 午前中、十時過ぎ。
 いつもの見慣れた公園へマスターと連れ立って行くと、見知った顔の女の人たちと犬たちが集まっていた。その中の小柄な一匹が尻尾を激しく振ってこっちへ来ようとしている。リードを離さないようにと持ち主は脚を踏ん張っていた。
「皆さんお久しぶりでーす。小次郎さんも、ただいまぁ」
 俺は駆け寄りつつぺこりと頭を下げると、しゃがんで小次郎さんと再会のハグしようとした。
「カイト……。ちょっと落着こうよ」
 追いついてきたマスターが俺の脳天を小突く。それから彼女は犬の飼い主仲間に挨拶をした。ママさんたちが口々にお帰りと迎えてくれる。
 マスターは小次郎さんを預かってくれたマルちゃんのママさんに特に改まった口調でお礼を言っていた。俺も慌てて立ち上がってありがとうございましたと感謝する。
「旅行、楽しかったみたいね」
 マルちゃんママさんは小次郎さんのリードを渡しながらにこにこする。
「はい。雪がすごくて寒くて、でもとっても綺麗でした。思い出がいっぱいできましたよ」
 皆に話して聞かせたいな。見たもの、聞いたもの、食べたもののことを。
 あ、でも。
 あの最高に素敵な時間のことは、さすがに秘密にしないとね。





なんとか終了しました〜。
アンケートに答えてくださった皆様、本当にありがとうございます!


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