牧場でアイスと雪を堪能した俺たちは、今日の宿泊先である温泉旅館へと向かった。
 旅館の近くまで行くバスもあるのだが、マスターが寒い中バスを待っていたくないというので、タクシーを呼ぶことにする。それに乗って十五分ほどで目的の宿には到着した。
 ホテルと旅館というものは、同じ宿泊施設であるというのに随分違う。チェックインから部屋に案内されるまでの短い間に俺はその差に戸惑った。
 ホテルでは受付をしたあとに部屋の鍵を渡されただけのセルフサービス式。だけど旅館では部屋まで旅館の人がついてきた。着物を着た女の人で、俺たちを先導してくれる。
 部屋は和室。広さはアパートの寝室にしてある部屋が二つ分は余裕で入るくらい。
 片方の壁側はふすまと作り付けのクロゼットらしい扉がある。反対側には出窓のように壁側が一部へこんだようになっていて、その中にテレビが納められていた。段差のあるその凹みの上の方には額入りの風景写真が飾られている。
 部屋の真ん中あたり――といってもややテレビがある壁側寄り――には低いテーブルと木でできた座椅子があった。そのテーブルにはお茶道具が一式用意されている。
 ネット予約をする前に画像で内装の様子は確認していたので、この部屋がマスターが言うところの『よくある旅館の和室』であるということは認識しているけれど、実際に見てみると思っていた以上に広いと感じる。大きな家具がないということもあるだろうけど、本当にここを俺とマスターだけで使っていいのだろうか。がらんとしていて、ちょっと落ち着けなさそう。
 そんなことを考えながらきょろきょろしていると、旅館の人がにこやかに奥にある障子を開けた。そこは部屋というには小さい空間に肘掛け椅子とテーブルのセットがおいてある。ここに座って窓の景色を眺めたりするためのものなのだろう。
 せっかくなので窓の近くに寄ってマスターの隣に並んだ。
 すでに弱くなっていた冬の日差しが真っ黒にすら見える木立と、その上に降り積もった雪を照らしている。
 眼前は山。眼下は川。川と山の間は俺たちが通ってきた道路が線のように伸びている。人家もそれ以外の建物もほとんどない。普段は建物だらけのところで生活している俺にはひどく新鮮だった。本当に、遠いところに来たのだなぁ。
 旅館の人は周辺の観光名所の話を交えつつ、館内の説明もしていた。この真下――玄関と反対側の方――には庭園があり、日没後には石灯籠に明かりを灯しているのだそうだ。冬でなければそこを散策できたのだそうだけど、さすがに今の時期は窓越しに眺めるしかない。
 なんて、ゆったり構えている風だけど、実際にはこれまでのやり取りについていくのが精一杯で、旅館の人との受け答えはほとんどマスターがしていたのだ。俺はてきぱきと彼女が食事の時間の確認などをしているところを眺めていただけ。旅館の人は俺のことをずいぶん頼りがいのない恋人だと思っていることだろう。……うう。
 そして旅館の人がお茶を入れてくれて、食事の時間までゆっくりしてくださいと告げると足音も立てずに部屋を出ていった。俺は旅館の人がいなくなった部屋入り口を感嘆の思いで見つめる。
「旅館ってこんなに丁寧に色々やってくれるんですね」
「宿にもよるだろうけど、やっぱりホテルよりはね。でも、さすがに緊張したな」
 足を崩して座るマスターは、指を組んで腕を伸ばした。それから湯気を立てる茶碗を取り、一口。
「緊張?」
 俺は向かいに座り、茶碗を自分の方へ引き寄せた。
「家族以外と旅館に泊まるなんて初めてだもの。ホテルならこっちから呼ばない限り基本的に放っておかれるじゃない。そういう意味ではホテルの方が気楽なのよね」
 マスターが言いたいことはなんとなくわかった。
「こっちはもうちょっと……なんというか……」
 ああ、うまくいえない。
 俺がもごもごしていると、マスターはくすりと笑う。
「大人としての品格を求められている感じがするってところ? もちろん、実際にはもっと気軽に構えていいんだろうけど」
「あ、そうです。そんな感じ。でもマスターはちゃんとしていましたよ。俺なんて、あの旅館の人が動くたびに次は何をするんだろうとか、俺はどうしたらいいんだろうとかばっかり考えていましたから」
 マスターは照れくさそうに髪に手をやる。
「そんなの、家族旅行をした時のお父さんとかお母さんの様子を思い出して真似してただけだし。これでも結構冷や冷やしてたんだから」
「そうは見えませんでしたけど……。あ、ところでマスター」
「なに?」
「旅館の人はこの後もこの部屋に来るんですよね?」
 念のためだが確認はしておかないと。
「夕食は部屋でっていうプランだから、料理を持ってくる時と片付ける時と、あとはお布団を敷きに来るとき、かな。朝は布団を畳みに来るだろうし。後は何か用事があってこっちから呼ばない限りは来ないと思うけど」
「結構あるんですね」
「それが旅館仕様だからね」
 それからあの着物を着た人は仲居さんというのだと付け加えた。
 そうなのか。だけど、そうなると、やっぱり……。
「あの、マスター」
 俺はなんとなく正座になって、マスターを見つめる。
「ん?」
「今、ふたりっきりじゃないですか」
「え? あ、うん」
 マスターの表情がかすかに困惑に揺れた。
「だから俺はマスターのことはマスターって呼んでしまうんですけど、いつ仲居さんがくるかわからないようなら、ここにいる間は『マスター』じゃなくて、名前で呼んだほうがいいんでしょうか」
 これは俺にとっては重要なことだ。だってマスターとの大事なお約束なのだから。
 昨日泊まったホテルの部屋にはホテルの人は来なかった。だから家と同じようにマスターのことはマスターと呼んだのだ。でもここでは何度か仲居さんが来るというのなら、昨日と同じにしたらうっかり聞かれてしまうかもしれない。マスターに迷惑をかけるのは極力避けたいものだ。
 問うとマスターは一瞬拍子抜けしたような顔になる。
「そうだね、それでいいと思うよ」
「マスター? じゃなくて、? どうかしたんですか?」
「なんでもないから」
「そうは見えませんが」
 すると彼女はうつむき加減で目頭を押さえる。
「……ちょっと飛躍して深読みしすぎただけ。カイトのせいじゃないから。むしろカイトは問題ないから」
「えーと、それはどういう……」
 わけがわからず重ねて問うと、マスターは低い声で答えた。
「お願いだからそれ以上聞かないで」
 お願いされてしまったので、俺はそれ以上聞かないことにした。


 お茶を飲んで人心地ついたので、荷物の整理をすることにした。これから使うものを取り出し、そうでないものは鞄に戻す。
 コートはクロゼットの中へ。下についてある引き出しに浴衣が入っていると仲居さんが言っていたので、ついでにと引っ張りだしてみた。
「これが浴衣かぁ……」
 サイズ違いで同じ模様の浴衣が何着か綺麗に畳まれている。その中の一つを取り出し、広げてみた。白い地に紺色の模様がある。どの客室でも同じものを置いてあるのだろう。部屋に行くまでの間にすれ違った人が何人か、同様のものを着ていたのだ。
「で、こっちが帯?」
 灰色い太めの紐状のものが結ばれて引き出しの隅にまとめておいてある。
「カイト、もう着替えてみる?」
「うーん……」
 俺はうなりながら帯らしきものを解いた。ぱたぱたと折りあとをつけたそれが解けて床に垂れる。
「これが帯なんですよね」
「そうよ」
 改めて問うと、顔をあげてマスターは答えた。
「思っていたのと違います」
「違うって?」
 不思議そうな顔で彼女は聞き返してきた。俺は宿泊受付をするためにロビーにいた時から覚えていた違和感をマスターに打ち明ける。
「帯ってもっと太いものじゃないんですか? それで仲居さんのように結んだりするものなんでしょう? 着物と浴衣は違うかもしれませんけど、テレビで見た着物を着ている人もそうでしたし。でもこれじゃ、あんな風に結べないじゃないですか」
 ああ、と俺が言わんとしていることを理解したようで、マスターは笑んだ。
「カイトが言っているのはお祭りとかで着る、夏の装束としての浴衣よ」
「つまり、これとは別のものってことですか?」
 するとマスターは首を振る。
「元は同じものだったはずよ。でも旅館の浴衣は誰でも簡単に着られるようにできているの。ちゃんと帯を結ばないといけない浴衣だと、自分で着られない人もいるからね。寝る時にも邪魔になるし」
「そうなんですか」
 ちょっと残念だと思っていると、それが顔に出ていたのかマスターが困惑した顔になる。
「ここではやってないけど、旅館によってはカイトの言う浴衣を選べるサービスがあるところもあるのよ。だいたい女性客向けみたいだけど……。そっちがよかった?」
「あ、いえ。別に俺が着たかったわけじゃなくて」
 マスターによけいな心配をさせてしまっている。俺は慌てて浴衣にこだわっていたわけを話した。
「旅館にある浴衣が普通はこういうものだというのなら、ジョーさんが言っていたあれは嘘か冗談だったんだろうなって思ったんです。あやうくまたかつがれるところでした」
 マスターの目がうろんげになる。
「……ジョーさんは何を言ったの?」
「恋人同士で旅館に泊まるなら、寝る前には彼女の浴衣の帯を「よいではないかー」と言いながら引っ張って、悪代官と町娘ごっこをするのが脈々と受け継がれてきた様式美だと言っていました」
「ネタ古っ!」
 マスターは反射的に叫ぶ。それで俺は確信した。
「やっぱり冗談だったんですね。良かった気がつけて。帰ったらジョーさんに文句言ってやります」
「うん、まあ、わたしからもカイトで遊びすぎるなって言っておくわ……。それにしてもカイト……成長したね」
 げんなりとマスターが言ったので俺はうんうんと頷く。
 俺はジョーさんには何度かこんな風にかつがれてきたのだ。まったく、俺がもの知らずだと思って! でもいつまでも騙され続けたりはしない。
「さすがに今回は気づけましたよ。だってドラマとかで見る着物と随分違いますからね。こんな細い帯じゃ、一回転だってできるかどうか。様にならないじゃないですか」
 胸を張って主張すると、マスターがもの悲しげに肩を落とす。
「……それはなんか違うと思うんだけど」
「え?」
 違ったの?
 答えを求めるも、マスターは無性に優しい眼差しで俺を見上げ、そしてぽんぽんと肩を叩く。
「ところでわたし、夕食前にお風呂行ってこようかと思うんだけど、カイトはどうする?」
「え? お風呂ですか? えっと、行きます」
「そう、じゃあ準備しようか。えーっと、わたしのサイズの浴衣はっと……」
「あ、これがそうだと思います」
 俺は持っていた浴衣をマスターに渡す。マスターはそれを身体にあてて、そうみたいと言った。
「カイトのはきっと一番大きいサイズだろうね」
「ということは……これかな」
 二人で引き出しの前にひざをついて、ごそごそと中を探る。
 浴衣には洋服みたいに襟裏にサイズタグがついていた。その一番大きいサイズを取って広げる。マスターはそれを見下ろして苦笑した。
「丈が短いね。もっと大きいのはないのかな」
 引き出しの中をさぐったが、やはりこれ以上大きいサイズはないようだった。マスターは一瞬動きを止めたあと、部屋にあった電話をかける。これ以上のサイズはあるかと問い合わせしているようだ。そして彼女が電話をしている間に、ふいにさっきのジョーさんの冗談を流されていたことに気が付く。ネタが古いということは置いておいてもそれが定番だというのならやってみたかったんだけどなあ。もしもっと新しいものがあるなら、それでもいいんだけど。
(でも多分、蒸し返しちゃ駄目なんだよね)
 ふう、と小さくため息をついたのと、マスターが受話器を置くのは同時だった。そして、
「これから持ってくるって」
 ほっとしたように言う彼女に、
「良かったです」
 俺は何も気付いていなかったように答えた。
 数分後、届けられたそれを服の上から羽織ってみる。これでもまだ少し短くて格好がつかない感じだったが、これ以上大きいものはないのだという。さっきよりはましだけど、でもやっぱりちょっと気になる。膝をついて俺の浴衣の裾を調整できないかと頑張っていたマスターは、やがて諦めたように首を振りつつ立ち上がった。
「やっぱり駄目か。でもないものはしょうがないわね。気になるようなら館内を歩き回る時には浴衣を着ないようにするしかないけど……」
「それでもいいんですか?」
「好みだからね。浴衣を着ないといけないっていう決まりはないはずだよ」
はどうします?」
「わたし? わたしは浴衣を着るよ。お風呂からあがったら部屋でごろごろするつもり」
 何をいばることがあるのか、彼女はえっへんと胸を反らした。ごろごろはいいですけど、いちゃいちゃの方も忘れないでくださいね。……本当に大丈夫なんだろうか、この人。ちょっと不安になってきた。


♪・♪・♪



 部屋で先に浴衣に着替えてから――教わっておかないと着方を間違えるかもしれないからだ――俺たちはお風呂に入りに行く。
 男女別に分かれた大浴場には三種類の浴槽があった。それに順繰りに浸かっていたら、一時間があっと言う間にすぎていた。
 自動販売機コーナーで冷たい飲み物を買ってから部屋に戻る。マスターは宣言通り、ごろごろするための準備をしだした。座布団をいくつか並べて簡易布団のようにしてそこに横になる。枕は俺の膝。堅いとかなんとか文句をいいながらも時折りこうしてくるのは、悪い気分ではない。
 俺は座椅子に座って足を伸ばし、枕としての務めをしつつも横向きに寝る彼女の髪の毛を梳いた。マスターは気持ち良さそうに目を閉じる。
 ゆっくりと過ぎる優しい時間に身を委ね、ぽつりぽつりと、思いつくままに話をした。温泉のこととかこれまでのこととか、これからのことを。
はネコみたいだね」
「なに、急に?」
 話題が飛びすぎたせいだろう、いぶかしげに彼女は目を開け、視線だけ俺に向けた。けれど俺は小さく笑っただけで答えなかった。
 こっちが触ろうとすると警戒して距離を取るくせに、気まぐれに近づいてきたりする。興味はないよってそぶりをしつつも、でもしっかりと観察している。俺はそんなマスターの態度に一喜一憂させられてしまう。でも、だからこそ俺は彼女から目が離せないのかもしれない。
、にゃーって鳴いてみて」
 髪の先端を指に巻きつけ、滑らせる。
 からかうと反射的に「嫌」とか「駄目」と言われたり、実力行使が返ってくるので、いつでもかわせるように心の準備をしていると、
「にゃあ」
 意外にも素直な反応が返ってきた。真顔だったけれど。
 俺は髪をいじる手を止めて、あごの線をなぞる。そのままおとがいに指をかけて顔を上向かせると、マスターは身じろいで仰向けになった。
 下から見上げるマスターの目に、俺が映る。調子に乗るなと抗議を込めた眼差し。でも迫力はない。
 愛しさが込み上げてきて頬が緩んでしまいそうになったけれど、ぐっと堪えて俺は一言。マスターはすねたように言い返し、空に向かってパンチした。その手がぱたりと俺の臑に置かれる。じわっとそこに体温が移ってきて、思わずこくりと息を飲んだ。
 これは……そろそろ?
――」
「失礼します、お食事をお持ちしました」
 ノックの音と仲居さんの声。
「はーい」
 マスターはむくりと起きながら冷静に返事をした。それからぱぱっと浴衣の皺をなおし、すたすたと俺の向かいに座る。その沈着ぶりに俺は呆気に取られた。
 だからぁ、どうしてあなたはそうなんですかー!?




アンケートですが、
『Q.食事の後はどうする?』という感じで
1、卓球(きっとカイトはやったことない)
2、ゲーセン(一昔前に人気があったようなものが数台しかない)
3、カラオケ(やっぱり一昔前の機種(レーザーカラオケっていうんだっけ?)しかない)
というものでもやろうかと思ったけど、自分が閲覧者だった場合、このアンケートを見ても(どれでもいいよ……)としか思わないだろうなと思ったのでやめました。
まあ、上のこれはわたしの旅館内にある暇つぶし施設のイメージなわけですが(汗)



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