頭に軽い衝撃を感じて俺は目を覚ました。
 瞼を開けると、寝起きで髪が少々乱れたマスターが俺の前髪を引っ張っていた。
 目が合った途端、彼女は慌てたようにその手を離す。それからぼそっと、
「動けないんだけど」
 と呟いた。
「あ……すみません」
 ぎっちりとマスターを抱き抱えていたので、窮屈だったようだ。腕の力を緩めると、マスターは身体をうつ伏せにして大きく息を吐いた。
「ベッドに入った記憶がない……。わたし、寝落ちした?」
「ええ。いたずらせずに我慢した俺の辛抱強さを褒めてください」
「……バカ」
 笑って答えると、マスターは枕に顔を埋める。けれどその耳は赤く、声には強さがない。
 ふいに昨夜は制御できたイタズラ心がここにきて決壊を起こした。ぱくりと耳たぶをくわえてみると、速攻で腹にパンチが返ってくる。もっともそれははなはだ頼りない程度のものだったけれど。


 ♪・♪・♪



 出発の準備を済ませてホテルを出た俺たちは、次の目的地へ行くバスを待って乗り込んだ。郊外へと向かうにつれて雪の量が多くなっていっているような気がする。これはとても期待できそうだ。
 小一時間ほどバスに揺られて着いた先は、観光農場だ。出発前に確認しておいたのだが、さすがにこの季節なので、外で動物と触れあうとか、折々の花を鑑賞するなどということはできない。外のテーブルで景色を眺めながら食事をするということも無理だそうだ――雪で地面が埋まっているし、寒すぎるから。
 しかし俺の目的はそういったものではない!
 俺は、俺は。
 雪だるまが作ってみたいのだ。雪合戦をしてみたいのだ!
 それに、この牧場では冬季限定企画として雪でアイスを作るというイベントをやっている。ホームページでそのことを知った俺がここに行きたいとマスターに希望したのは当然のことと言えるだろう。寒い場所で冷たいものを食べたいなんてと、さすがにマスターは呆れられたが、今回の旅行は旅行初体験な俺の要望をできるだけ叶える方向で考えてくれるということになっているので、ここを行き先に加えられたのだ。
 バスを降りると、一気に冷気が身体を包む。
「カイト、本気で雪だるま作るの?」
 口が開くたびに白い息を立ち上らせてマスターが言う。
「もちろんですよ。大きいのを作ってマフラーを巻いて、一緒に写真を撮るんです」
 雪遊びといったらそれが基本だということなので、ぜひとも体験してみたかったのだ。かまくらを作って中でお汁粉を食べるというのもやってみたかったけど、かまくらを作るのは時間がかかるということなので、今回の予定には入れていない。
 マスターはぶるっと身体を震わせた。
「ここ、予想以上に寒いからわたしは遠慮したいわ。アイス作りは参加するから、雪だるまは一人で作ってよ」
「そんなぁ。それじゃあつまらないですよ。それに一人じゃ雪合戦だってできないし!」
「それも本気でやる気? 時期が時期だからかもしれないけど、日曜だっていうのに観光客はまばらにしかいないし……。閑散としているところで雪合戦とかなんか空しいんだけど」
「人が多かったら雪玉がぶつかってしまうかもしれないから、むしろ少なくて良かったと思うんですけど」
「そういう意味ではそうだろうけど……」
 マスターは人気のない真っ白な牧場に目を向けて、やるせなさそうにため息をついた。
、寒いからテンション下がってるんですよね。まずは建物の中に入って暖かいものでも飲みましょう。そうすれば気分も上向きますよ!」
 俺はマスターの手を取って、歩きだした。マスターは再びため息をついたが、おとなしく俺に引っ張られた。
 軽食が食べられる建物に入り、ココアと焼き菓子のセットを注文する。ここで使われている乳製品はここの牧場の牛から搾ったものなのだそうだ。
 中にはそこそこ人がおり、外で感じた閑散というほどの雰囲気はない。大きなストーブには薪が燃えていて、見た目からして暖かかった。
「親子連れが多いね」
 周辺のテーブルを見渡して、マスターは小声で話しかけてくる。
「そうですね」
「やっぱり午後のアイス作りに参加するのかな」
「そうじゃないですか。せっかくイベントに参加しないなんてもったいないですし」
「うん、そうよね」
 マスターは困惑とも憂鬱とも取れる表情を一瞬浮かべる。彼女はココアをゆっくり飲むと、カップを置いた。
「もっと人がいないと思っていたんだけど、そうでもないのね」
「賑やかなところが良かったんですか?」
「そういうわけじゃないけど……。もっと少なかったら良かったのにと思って」
 マスターの答えに俺は首を傾げる。
「人が少ないと空しいんじゃあ……?」
「いやそうなんだけど……。色々あるのよ」
 意味がわからない。けれどマスターはカップを握りしめてなにかを堪えている様子を見せていた。
(これはもしかして、マスターはアイス作りも雪だるま作りもつまらないと思っている……のかな。雪が積もるところに行くんだからスキー場に行ってみようかとか言ってたもんなぁ。でも今回は俺の希望を優先するってことだったからそのまま俺の希望を押し通してしまったけれど……俺、自重するべきだったのかな……)
 しかし今からスキー場に行くとなると、今晩泊まる宿にたどり着けなくなってしまうかもしれない。ちょっと奮発していい部屋を取ったのに、キャンセルなんてしたくない。
(よぉし、ここはなんとかして俺が盛り上げないと!)
 俺はマスターがココアを飲み終えるのを待って、外へと連れ出した。


 外の世界はモノトーンのグラデーションが広がっている。
 建物を背にしてしまえば、目に入るものは雪の白と陰影による濃淡の違う灰色だけ。冬でも葉を落とさない木でさえ、吹き付け、積もった雪のせいで本来の色を失ったように見える。空も薄曇りなので、余計にその印象が強くなった。
 まばらにいる観光客も暗い色のコートを着ている人が多いので、やはり水墨画のような世界に溶け込んでいる。若干、そうでない人もいたけれど。
 マスターはぼすぼすと踏み固められていない雪を踏みしめながら、その若干でない人の方に視線を向ける。
「ダウンって暖かそうでいいなぁ。あのモコモコしたシルエットが太って見えるから敬遠していたけど、思い切って買えば良かったかも」
 その若干という人はもれなくダウンコートを着ている人たちなのだ。表面の生地のテカリともこっとしたシルエットでそれとすぐにわかる。ついでに、小さい子供がこういったコートを着て雪遊びをしているところは動く雪だるまといった感がある。
ー。寒くなったら俺が暖めてあげますから雪だるまを作りましょうよ。やっているうちに楽しくなるますよ、きっと」
 俺はしゃがみ込むと、周辺の雪をすくって両手でおにぎりを作るようにぎゅうっと握った。これを固めて、雪の上に転がしてだんだん大きくしていくんだよね。
 マスターもしゃがんで俺の手元を眺める。何度かぎゅ、ぎゅ、とするものの、手の中の雪はなかなか固くなってくれず、ぼろぼろと隙間からこぼれていった。
「あれー?」
「カイト?」
「ぜんぜん雪玉になりません」
「え? どれ……」
 マスターも自分で雪玉を作るべく、両手を使ってぎゅうっとするも、やはり俺の時と同じようになった。
「うわ、すごい。パウダースノーっていうのよね、これ」
「パウダースノー?」
「気温が低いとこうなるみたいよ。雪でも温度によって状態が違ってくるんだって。雪まつりのところの雪像もそうだけど、ある程度水分がないと形にならないとかなんとか」
 そういえば、テレビですごく大きい雪だるまを作ってみようという企画のものを見たことがある。それで確かそんなようなことを言っていたのを思い出した。
「ということは、ここでは雪だるまは作れないということ……?」
 せっかく期待していたのに。
 改めて周りをよく見てみると、雪遊びをしている家族連れの中に雪だるまを作っている人たちはいないようだった。雪の中を散歩している風だったり、雪合戦ならぬ雪をつかんで相手にぶちまけ合戦のようになっていたり。
「ジョウロとかバケツで水を加えつつやれば固まるとは思うけどね。でもジョウロなんて売店に売ってるかな。頼んだら貸してもらえるかな」
 マスターの提案に、
「ダメで元々で聞きに行ってきます……」
「そんなに作りたいんだ、雪だるま……」
 では、と立ち上がり、俺たちは建物に逆戻りする。だが結局バケツなどはなくて、雪だるまを作ることはできなかった。けれどなんとか形を整えて小さな雪うさぎのようなものを作ったり、雪の天使――腕を広げて雪の上に倒れ込み、その状態のまま両腕と両足を動かすと、羽が生えたようなちょっと変わった人型の跡が雪の上に残るのだ――をやってみたりした。それから雪合戦ならぬ相手に雪をぶちまけ合戦も。コートの首のところの隙間から雪が入って、冷たくて悲鳴をあげてしまったり、それを見てマスターが笑ったり。お返しにと俺もやり返したら、マスターは背中を押さえてやっぱり悲鳴をあげていた。
 何も遊び道具はなかったけれど、気づくと夢中になっていた。マスターの住んでいたところは雪が降っても積もることはほとんどなかったので、彼女も雪で遊んだ経験はほとんどなかったんだそうだ。
 さんざん笑って遊んでいたけれど、マスターの顔色が白くなっていったので、そろそろ限界かと建物に戻る。ちょうどお昼の頃合いだったので、昼食にした。身体の芯から暖かくなるシチューセットを平らげて、腹ごなしにお土産売場を見て回る。お菓子類を試食してみたり――マスターはクッキーを買っていた――、小物を手に取ってみたりしているうちに、アイスクリーム作り体験に参加する人は正面玄関に集まってくださいという館内放送が流れた。
 いよいよだ、とわくわくして玄関へ向かおうとするも、マスターは全然違う方へ行く。
「カイト、わたし、ちょっと荷物の中から取ってきたいものがあるから、先に行ってて」
「え、じゃあ俺も」
「すぐ済むから」
 一緒に着いていこうとする俺をマスターは制し、コインロッカーのある方へ行ってしまう。なんだろう、と思ったけれど、予約の確認などもあるようなので、一足先に玄関へ向かった。
 アイスクリーム作り体験に参加するのは、俺たちを含めて数組。そして俺たち以外はすべて親子連れだった。一人で受付をすることになった俺は、好奇の視線を一心に浴びることとなる。ニット帽で結構隠れてはいるが、この青い髪も気になっているらしい。聞く気はなくても聞こえてしまうんだ。本人たちは内緒話のつもりでも、結構声が大きいものだから。
 そこへマスターが戻ってきて、全員集合になったらしい。係りの人がアイス作りをする場所へ移動しますと叫んだ。
 そこは雪のない季節には外で食事をするためのものだろう、カフェ風のテーブルセットがあるところで、すでに材料などの準備を他のスタッフの人たちが済ませていた。
 やり方は至って簡単。大小二つの金属ボウルが用意されていているのだが、小さい方にはアイスの材料を入れ、大きい方には雪を入れる。そして小さいボウルは大きいボウルの上に乗せ、雪で冷やしながらかき混ぜていくのだ。そうするとだんだん材料が固まっていって、アイスクリームになる。
「結構すぐ固まっていくんだね」
 泡立て器でカシャカシャやっている俺の手元をマスターは興味深そうに見つめる。
 雪そのものも冷たいものではあるけれど、さらに温度を下げるために――なぜそうなるのかはよくわからないが――塩を雪に混ぜているのだ。そのせいか、かき混ぜ始めて数分もしていないのに、すでに全体的にもったりとなっている。
「そうですね。こんなに早いなんて思いませんでした。こんなに簡単にできるなら、俺も家でアイス作ってみようかなぁ」
 そうしたらアイスを切らした時にも困らないだろう。……近くにコンビニがあるから、そうなったら買いに行った方が早いだろうけど。
「本当? 美味しくできたらわたしにも食べさせてね」
「もちろんですよ」
 そんなことを話しながら時々かき混ぜ役をマスターと交代しつつ、十分を越える頃にはちょっと柔らかめの、でも立派なバニラアイス、といった感じのものができあがっていた。
 好みの堅さになったらお皿に盛って、各自で食べることになっている。ここで食べてもいいけれど、さすがに寒さが厳しいので、建物に戻っても構わないそうだ。
「そろそろいいかな、
「うん、いい感じじゃない。ね、盛りつけはわたしにさせてよ」
「いいですよ」
 では、と場所をマスターに譲り、俺はマスターの作業を眺めた。彼女はロッカーから持ってきた紙袋をごそごそすると、パック入りのフルーツソースを取り出した。それをお皿に適量開け、スプーンで広げる。白いお皿にソースの色がとても鮮やかだ。
「どうしたんですか、それ」
「……家を出る前に用意してたの」
 ばつが悪そうに目を逸らし、マスターは答える。
、実はアイス作り、すごく楽しみにしてた……?」 
「いや、そういうのじゃなくて……」
 ぼそぼそと答えるが、その手元は動きを止めない。別の大きめのスプーンを器用に使って、アイスを楕円っぽくなるように丸めると、それをソースの上に配置した。
 周囲でもそろそろアイスができあがった家族連れたちが、わいわいしながら盛りつけたり食べたりし始めているのだが、一風変わったことを始めた俺たちに気づいて、こちらの様子を見に来る人もいた。
 マスターはその人たちが気になるようで、表情に焦りが見えてくる。しかしぐっと唇を引き結び、頬を赤くしつつも作業を続けた。今度は紙袋からさっき買った葉っぱの形をしたクッキーを取り出し、アイスに添える。あ、なんかちょっとおしゃれなデザートっぽく見える。多分バイト先で教わったのだろう。マスターの働いているところはイタリアンレストランで、これまでにもおいしかった賄いのレシピなんかも教わってきたりしていたから。
 マスターはさらに紙袋に手をつっこむ。一体どれだけ用意してきたんだろう。これで楽しみにしていたわけではないというんだから、本当にマスターは素直じゃないと思う。
 さて、今度でてきたのは砂糖か何かで出来た赤いバラだ。それを三つくらい飾り、さらにピスタチオをぱらぱらと散らす。次々取り出されるデコレーション材料に、周囲のお子さんたちから羨望の声があがっている。自分もああいうのがしたいと親御さんにねだる声が聞こえてきた。
 そして次に取り出したのは……チョコプレートだ。 HAPPY BIRTHDAY KAITOと書かれている。
 それをアイスの上に載せ、
「はい、カイト」
 完成したその皿を持ち上げ、マスターは俺に渡してくる。
「少し早いけど、誕生日、おめでとう」
 マスターの顔は雪も溶けそうなほど赤い。俺は俺で、まさかこんな風にお祝いをしてもらえるなんて思っていなかったので――なにしろ二つある誕生日の早い方でも数日先なのだ。それに時期が時期なのでこの旅行自体が誕生日プレゼントみたいなものだと思っていたし――反応が遅れてしまう。
「あ、ありがとうございます」
 どうしよう、うれしい。人目のあるところでデレるのがめちゃくちゃ苦手なマスターが、その苦手に耐えてまで気持ちを伝えてくれたことが。
 これだけ目立つことをしていたのだから俺が誕生日だということもあっと言う間に他の参加者さんにも伝わってしまい、どこからともなくおめでとうという声がかかる。俺はそれにお礼を言い、それがきっかけで一気に打ち解けて色々な人とお話をした。
 自分もアイスを飾りたいというお子さんに、マスターは余りものでよければと材料を分ける。他のご家族も手持ちのチョコ菓子を取り出したり、お土産売場にあるお菓子を買いに行く人まで出るアイスデコレーション会になってしまった。
 こういうのも、楽しいなと思いながらアイスを一口。濃厚なミルク味とフルーツソースの甘酸っぱさが口の中で溶け合っておいしかった。
 と、小学生のお子さんのいるお母さんと話しているマスターの声が耳に入る。
 俺がアイス好きなので、誕生日も近いことだし、サプライズでお祝いしたくなったということ。事前に牧場に電話して、材料の持ち込みをしてもいいのかと確認も取ったこと。そして既製品を使うのであれば問題ないということで、色々用意してきたということ。俺に見つからないように荷物に忍ばせるのが大変だったそうだ。そうだよなあ、あれ、どこに入れていたんだろう。二人分の着替えとかマスターの化粧道具とかは大きな鞄にまとめていれていたけれど、あとはマスターはあまり大きくないセカンドバッグしか持っていなかったのに。
 そんなことを思い出しつつ、アイスを一掬い。
「はい、。あーん」
 俺は笑顔でマスターにスプーンを差し出す。隣にいたお母さんはあらー、とか言いながら面白そうに笑った。
「そういうのはいいから!」
 案の定、マスターは真っ赤になってあとじさる。
「でもこれ、二人分だし」
「いいから、全部食べていいから」
「そんな、遠慮しないで。一緒に食べよう」
 ね、とスプーンを口元へ持っていくと、別のお母さんがほらほらという感じでマスターの背中を叩いた。
 マスターはしばし目を泳がせていたが、意を決したように口を開ける。そしてようやくマスターにアイスを食べさせることに成功すると、なぜか周囲から拍手が起きた。
「……柄にもないこと、するんじゃなかった」
 そしてアイスを飲み込んだマスターは大きくため息をついたのだった。 





今回はアンケートはないです。


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