「これが、カニ……」
 目の前にずらりと並んだ料理の数々に俺は圧倒された。
 マスターと外食をしに行くことも時折あるけれど、これまで経験したことのない品数の多さとボリュームがある。
 向かい側に座るマスターは興奮を隠しきれない様子だった。
「すっごいねぇ。全部食べきれるかな」
 和え物、刺身、炭火焼きにしゃぶしゃぶ、それから丸ごとのカニが一匹。卓上にはこれらが二人分、どーんと並んでいるのだ。
 だがこれだけではない。この後にごはんものとデザートも出てくるというのだから、マスターではなくても完食できるか心配になるというものだ。
「さっそくいただこうか」
 いただこうか、と言いつつ中腰になり、マスターは俺の前に置かれていたお猪口にお酒を注いだ。
「あ、すみません。じゃあ俺も」
 俺もお返しにもう一本のお銚子を取る。
 アルコール解禁年齢になっているマスターは俺よりはお酒に強いことが判明しているし、俺も最初の頃よりはひどい酔い方をしないようになっていたので、二人で一本ずつ、地酒を頼んでみたのだ。
 乾杯、とお互いのお猪口を軽く合わせる。ぐつぐつと湯気をあげる鍋の暖気も相まって、ほわんと幸せな気分になった。
 きりりと冷えた日本酒をくいっと一杯。それからカニの攻略に取りかかる。カニかまぼこと総菜のカニクリームコロッケくらいしか食べたことのない俺にとって、本物のカニは未知の領域なのだ。
「こういうのって、食べる順番があるのかな」
 色々あってどれから手をつければいいのか迷う。
「一応はあるみたいだけど、改まった席でもないんだから、好きな順番でいいのよ」
 刺身から攻めると決めたらしいマスターが、醤油をさっとつけて早速一口、口に入れる。
「ん、おいしい」
 彼女の顔が反射的な至福に緩んだので、つられて俺も刺身を選んだ。
「これが……カニ」
 なんだか同じせりふをちょっと前にも言ったような気もするが、衝撃的なことがあると、凝った言い回しなんてできないものだ。
「すっごくおいしいです。やっぱりカニかまぼことは違いますね」
「そりゃあ、同じなら本物のカニのありがたみが薄らぐってものだし」
「あ、でもカニかまはそれはそれでおいしいですけどね」
 安いし使い勝手もいいので、カニかまの食卓への登場回数は結構多いのだ。
「それは確かに」
 マスターは否定できないと頷いた。
 だがやはり本物は違う。
 ほんのりとした甘みと塩気、それに食感は魚の刺身とも甘エビなどとも違っている。なんだろうこれ、不思議な感じだ。
 次には和え物に挑戦してみた。さっぱりとした甘酸っぱい味付けで、カニの他に数種類の海産物が入っている。こちらも文句なく美味だった。
 それから焼きカニを平らげ、しゃぶしゃぶに移る。野菜が煮えるのを待つ間に丸ごとのカニにも挑戦しようとした。
 だが。
「これ……どうしたらいいんですか」
 足をもいだ後、この殻をどうやって剥けばいいのかわからない。さすがに堅いので手でどうこうするのは無理そうな感じだった。固まる俺にマスターは、
「ああ、そのはさみを使って殻を切っていくのよ。あ、でも胴体の方はどうしたらいいんだろう……。中にカニ味噌が入っているはずなのよね。でも上手くやらないとぐちゃぐちゃになりそう」
 やっぱり詳しいことはわからないらしく、困ったように眉をひそめた。
は丸ごとのカニって食べたことがないの?」
「もらいものでカニ鍋とかしたことだったらあるけど、解体とかはお父さんがやってたからなぁ」
「そうなんですか。凄いですね、お父さん」
 さすがは俺が密かに尊敬しているお父さんだ。俺が感心していると、マスターは首を傾げる。
「いや、凄いってものでもないと思うけど。やったことがあるかどうかってだけのことなんだし」
「でも実際のところ、俺にはわからないし、もやれないんでしょう?」
「……そうだけど」
 二人で途方に暮れていても仕方がないので、店員さんを呼んで丸ごとカニの食べ方を教えてもらうことにした。もの知らずだと呆れられるかと思ったけれど、俺たちのような観光客に慣れているようで、やってきた店員さんは手早く胴体を解体すると、足部分へのはさみの入れ方やカニフォーク――見たことがない形の、そして用途のわからないものがはさみと一緒にケースに入っていたのだが、これがカニフォークというものだった――の使い方を教えてくれた。
「このカニフォークって便利ね」
 足の身をほじくりつつ、マスターが言った。
「箸だと細い部分は入りそうにないですからね」
「そうそう、そうなのよ。だから家でカニを食べた時は結構大変だったのよね」
「記念に買っていきましょうか、カニフォーク」
「家で使う機会なんてそうそうないと思うけど。それより遠回しに時々カニ食べたいって言ってるの?」
「それはほら、誕生日とかクリスマスとかの記念日とかならごちそうもありじゃないですか」
「ありだけど……。こっちでないと売ってないものでもないだろうし、カニを食べるって決まってから買えばいいと思うけど。お土産にカニそのものならともかく、カニフォークっていうのもなあ」
「じゃあ、カニも買って帰りましょう」
「……よっぽど気に入ったんだね、カニ」
「市場っていうんですか、そこだったら手頃な価格で買えるって、ガイド本に書いてましたよ」
「……ナマモノだから、買うなら最終日よ」
「やったぁ!」
「あ、カイト、鍋、鍋! 野菜が煮えすぎてる!」
「うわぁ、沸騰してる!」
 カニの身をほじくるのに夢中になっていて、しゃぶしゃぶ鍋のことをすっかり忘れていた。入れてあった白菜やキノコ類はすっかりくたくたになっている。ちなみに俺とマスターは会話をしていたけれど、二人とも視線はカニにがっちりと固定していたので、全く目も合わせていない状態だったのだ。そのせいで鍋の状態に気づくのが遅くなった。
「まあいいか、野菜だし。先にしゃぶしゃぶをやっちゃおう」
 マスターは半ば自棄になったように笑う。
「そうですね。じゃあカニ、入れますね〜」
 半分殻が剥いてある状態のカニ足を鍋に入れる。入れてすぐより少し煮てからの方がおいしくなるとメニューに書いてあったので、その通りにやってみた。
 それから鍋をつつきつつ、丸ごとカニも同時進行した。あっちもこっちも様子を見つつなので結構忙しかったけれど、そうこうしているうちに徐々にどちらもなくなっていった。
 すると頃合いを見計らったように店員さんがやってきて、ごはんの入った小さめの桶のようなものと卵を入れた小鉢を持ってきた。これを鍋に入れて雑炊にするのだという。
「雑炊かぁ。食べたいけど、もうかなりお腹が苦しいのよね。一口くらいならいけそうだけど。カイトは大丈夫?」
 お腹をさすりつつ、マスターは唸った。
「なんとか。この後デザートも出るんですよね。、食べられそう?」
「デザートは別腹だから」
「ああ、そうか。それにしてもデザートってなんだろう。アイスだったらいいのに」
 季節によって変わります、とメニューにはあったから何が出てくるのかは出てくるまでわからないのだ。
 そして出てきたデザートはオレンジ色の果肉をしたメロンで作ったゼリーだった。


 満腹になって店を出た俺たちは、ちらほら雪が舞う道を辿ってホテルへ戻る。外の空気は冷たいけれど、温かいものをたくさん食べたので、その冷たさが気持ちいいと感じた。
 だけど帰る前に途中でライトアップされた雪祭り会場に寄らないと。軽くアルコールが回ってふわふわした気分だが、やると言ったことを、俺は忘れていない。
 昼間とは違い、夜の会場は家族連れの姿がめっきりと少なく、俺たちのようなカップルとか、女性のグループが目立つ。色取り取りのライトで照らされた雪と氷の像は幻想的な雰囲気で、いやが上にも気分が高まる。
さん大好きです」
 ぶんぶんと握った手を前後に振ると、マスターは一瞬虚を突かれたような顔になった。しかしわたしも、と小さく呟くと、彼女も一緒にぶんぶんと腕を振る。お酒のせいだろうか、マスターが素直だ……。でもこんな風に目立つ仕草をしていたら周りの人たちにバカップルだと思われるかもしれない。しかしバカップル上等だ。むしろそう呼んでもらいたい。
「えへへ〜」
 嬉しくて幸せで、湧き上がる気持ちを抑えきれずにマスターをぎゅうっとする。マスターの顔が俺のコートに埋まり、ぶふっと変な声を出していた。
「ちょっと、カイト!」
 結構痛かったようで、身を起こしたマスターの目と眉がつりあがっていた。すみませんと頭を下げると、これならぶつからないだろうとマスターを持ち上げる。
「え……」
 マスターの膝裏に腕を回し、しっかりと抱きかかえる。
「このままホテルまで戻りましょうか」
 昼間の会話を蒸し返し、にっこり笑ってマスターを見上げると、我に返った彼女は焦ったように足をばたつかせた。
「バカ。ふざけないで下ろしなさいよ」
「俺は本気ですよ」
 そしてそれを証明するために、マスターを抱き抱えたまま歩き出す。
 しかし、
「うわっ」
「あー!」
 マスターを抱えていたので足下への注意が疎かになっていたのか、雪のデコボコにつまづいてしまった。このままではマスターを落としてしまう。マスターもびっくりしたのだろう。俺の頭をひしっと抱えてきた。お陰で一層バランスが取りにくくなる。
 それでもなんとか踏みとどまれたので、ほっとしながらマスターを下ろした。マスターを落とすんじゃないかと思った俺は相当はらはらしたが、抱えられていたマスターは俺以上だったのだろう。ふらりとその場に座り込み、雪の上に両手をついた。
「こ、怖かった……」
「ごめんなさい!」
「少しは状況を考えなさいよ!」
 口調はきついが、声に力はない。俺は再度謝罪をすると、マスターを立たせた。雪の上に座っていたら、身体が冷えてしまうもの。
「もう、抱っこやだ」
 マスターはぷいと顔を背ける。
「しませんから」
 コートについた雪を払い、まだ力の入らない身体を支えるように腰に腕を回す。それからホテルに戻るべく歩きだしたのだが、マスターは頬を膨らませて無言のままだ。
 やってしまった。
 せっかくの旅行なのに、このまま気まずくなってしまったらどうしよう。どうにかして早めに仲直りしないと。
 どうしたらマスターが機嫌を直してくれるだろうかとぐるぐる悩んでいるうちに会場を通りすぎる。と、隣でマスターが大きくため息をついた。きっと俺のこと、呆れているんだろうなとますます落ち込んでしまう。
 だけど、
「このお調子者」
 ぼそっとマスターが呟くと、俺の方に身を寄せてきた。見下ろす彼女の頬は夜目にも赤くて、俺は自分が許されたことを知った。
「……すみません」
 以後気をつけますと言うと、マスターはどうだか、と小さく笑った。
 良かった。これなら心おきなくいちゃいちゃすることもできそう。いや別にそれが目的というわけではないけど、せっかくいつもと違った場所にいるんだし、雰囲気が変わると気分も変わるし。どうせだったら……ねえ? マスターだって、期待していないわけでもないと思うんだけどなぁ。


 と思ったのに。
 ホテルに着くと、足がむくんでパンパンだというマスターに先にバスルームを使ってもらい、その次に俺が使ってそこを出ると、昨夜の睡眠不足と今日の疲労とですっかり寝こけているマスターがいたのだった。
 空調が効いているとはいえ、上掛けもかぶっていない。
「マ、マスター。まだ十時前ですよ!?」
 心の声が思わず漏れる。いつもならまだ起きている時間なのに……。
 どうしよう、俺、すっかりその気になってるのに。今更お預けとか結構キツいんだけど。
 でもマスターは疲れているのだろうし、無理矢理起こすのも酷だよなぁ。もう一泊あるし、俺としてはそっちが本命のつもりだったから、今日はこのまま寝かせてあげてもいいんだけど。ああ、でもちょっとだけでも、無理かなぁ、マスター。
 まだカーテンを引いていない窓から見える夜景は目に染みるほどきらきらして綺麗だった。部屋の中は半袖でも平気なくらい暖かく……というよりも暑い。
 これで燃え上がらないでどうする、という絶好のシチュエーションなのに、最愛の人はすっかり夢の中だ。
(俺……どうしよう……)
 旅の醍醐味を優先するか、マスターの体力を優先するか。
 眠るマスターを見下ろしながら俺は泣きたい気持ちで悩んだのだった。




この頃のカイトは自分の欲望にかなり忠実なんだよなー。
(前からその傾向はあるが…)


アンケートの結果

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