わたしは次の日、メグに付き添ってもらって買い物をしに出かけた。
今までさんざん歯がゆい思いをさせたであろうラウルに、謝罪と感謝の意味を込めてなにか贈り物をしようと思ったのだ。
とはいえ、名門貴族の子息であるラウルにどんなものを贈ればいいのか、皆目検討もつかなかった。
彼の財力なら、手に入れられないものはほとんどないだろうし、実際、彼が身につけているものはどれも上品で高価なものばかりなのだ。
こういうときはセンスで勝負よ!とメグは息を荒げさせたが、センスのいいものもたいていは高価だったりするのだ。
わたしたちはあっちこっちの店をめぐり、お財布の中身と相談して、さんざん頭を悩ませた挙句、ようやく贈り物を決めることができた。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
さらにその翌日。
ノックの音に扉を開けると、ラウルが立っていた。
「入ってもいいかな……?」
少し疲れたような顔だった。
「ええ。もちろん」
ラウルは一言断ってから、わたしの部屋にある唯一の肘掛け椅子にすわり、深くため息をついた。
彼の様子にわたしはひどく心配になった。
おとといの出来事以上に彼をこんなに消耗させるどんなことがあったというのだろうか。
「一体、なにがあったの?ラウル」
ラウルは一瞬、話そうかどうしようか迷っていたが、意を決したように口を開いた。
「実は、さっきまで《ドン・ファンの勝利》の上演について、支配人たちと話し合いをしてきたんだ」
わたしは息を飲んだ。
「これを上演するかどうかについては、そもそも話す必要もなかった。二人ともファントムに逆らう気力はないくらいで、断ることなど思いもよらないようだったからね」
ラウルはちらっと笑う。
「あとはファントムの要求をすべて飲むかどうか、だ。何しろ支配人室にはあいつからの手紙が改めて来ていて、オーケストラやコーラス、舞台装置や演出についても細々とした指示があってね、それを全部やるには大掛かりな出費が必要になるし、あいつが要求するとおりの人材を探すには時間がないときている。このなかのいくつかはとてもできない、無理だというものがあってね。それをどうするか、ということを話していたんだ」
一拍置いて、
「でも、そういうことははっきりいって僕にとっては二の次だったんだ。僕は、アミンタ役は断固として君にやってほしくなかったから、この役だけは誰か別の人にやらせるように言ったんだ。誰かといっても、現状ではカルロッタ嬢しかいないんだが……」
わたしはラウルの言葉を聴いて、ほっと肩の力を抜いた。
「そうだったの。とてもありがたいわ、ラウル。わたしも他のオペラならともかく、あれにだけはどうしても出たくないと思っていたところなの」
「支配人たちの抵抗は激しくて、だけど僕はここのパトロンだから一度は彼らを説得できたんだが……すまない、」
「え?」
わたしはラウルの暗い眼差しに不安を感じた。
「ファントムを捕まえるための案を思いついたんだ。あいつは君に執着している。だから君があいつの指示通りアミンタとして舞台に立てば、あいつも現れるだろう。それはあいつを捕まえるいい機会になる」
「……ラウル!?」
目の前が、真っ暗になった。
わたしは呆然とラウルを見詰める。
「君がアミンタをやらなくても、あいつは自分の要求どおりにオペラが上演されるか様子を見には来るだろう。だが、もしそこでアミンタが君じゃないと知ったら、舞台を滅茶苦茶にしてすぐに消えてしまう、そう思うんだ。イル・ムートのときみたいにね。だが君が舞台に立っていれば、それだけあいつも長く舞台のどこかにいる……」
ラウルはわたしの肩をぐっとつかんだ。
「武装させた警官を配備し、上演が始まったらすべての入り口を封鎖する。それであいつは袋の鼠だ。だから、頼む、。舞台に出てくれ!」
「い、いや、いや、いやよ!」
わたしは何度も首を横に振った。
「怖いのよ、ラウル。お願い、そんなことはさせないで!」
「」
ラウルはわたしを抱きしめる。
「わかっている。だけど生きている限りあいつは僕たちを脅かし続けるだろう。逃げたところで逃げ切れるのかもわからない。だからここで反撃してファントムのオペラに幕を降ろすんだ。成功したら、君は自由になれるんだ」
「あの人はわたしを連れて行ってしまうんだわ。わたしたちは引き離されて二度と会うことはできない。闇の中にあの人が君臨してわたしは永遠に逃げることは出来なくなる……!」
「僕だってこんなことはさせたくない。だけど、すべての希望は君にかかっているんだ。、お願いだ、勇気を出してほしい」
ラウルは抱きしめる腕に力を込め、何度も背中を愛撫する。
だんだんと落ち着きを取り戻したわたしは、彼の腕の中でラウルの言った「作戦」を反芻した。
そんなことはやりたくない。
たとえどれだけの警官がいようと、エリックに勝てるとは思えなかった。
マスカレードのときに思い知った――。
彼の力はこのオペラ座の隅々まで行き渡り、創造主を守るために働いているのだと。
そんな場所で、エリックを捕らえる罠など成功するのだろうか。
だけど……ラウルの言うとおり、こうなってしまっては逃げたところで安心できない。
たとえヨーロッパの反対側に行っても、エリックの影は死ぬまで追いかけ続けるのだ。
それが本物であっても、幻影であっても。
わたしはラウルの胸に顔を埋め、彼の暖かい体温を感じようと頬を押し付けた。
お願い、どうかわたしを守って……。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
しばらくそうしていたけれど、わたしはラウルの腕を押しのけて、しっかり彼を見詰め、
「わたし、やるわ」
声は震えていたけど、ちゃんということが出来た。
ラウルは涙ぐんでわたしの唇に何度も軽くキスをしてきた。
ふと思い出して、わたしは部屋の片隅にある作り付けの棚に向かった。
中には綺麗な紙で包まれ、リボンで飾られたプレゼントの箱を入れておいたのだ。
「?」
不思議そうにわたしを呼ぶラウルに、
「本当は、こういう形で渡すつもりではなかったのだけど……。今までわたしを支えて、見守ってくれてありがとう。感謝の気持ちよ」
包みを渡すと、ラウルはぱっと顔を輝かせた。
「驚いた……!ありがとう、」
わたしがあげたものは……
ティーカップ 万年筆 