「…っく。…ひ…っく…」
寝台に突っ伏したままどれくらい時間が過ぎただろうか。
ずっと泣いていたらおかしな感じに泣き癖がついてしまい、なかなか止まらなくなった。
草原にぽつんと作られた墓標を『見た』動揺はいい加減治まっていたが―それでも悲しみがなくなったわけではないが―しゃっくりが止まらず、涙も思い出したように溢れだしてくる。
もう止まってくれてもいいだろうに、との頭の中の冷静な一部は呆れていた。










危険な兆候











「…っく…」
しゃっくりをするにもずいぶん苦しくなってきた頃、厳かな調子で扉がノックされた。
「…どなた、ですか?」
つっかえないように無理やり息を整えて返事をすると、
「入ってもいいか?」
低い声とともに扉が開く。
「まだ泣いていたのか!?」
セオドレドは開口一番にそう言った。
「入ってもいいなんて、わたしは言っていませんよ」
は寝台から起き上がりはしたものの、袖で顔を隠すように覆って膨れたように答えた。
ずっと泣いていたのだ。
きっと目も鼻も頬も真っ赤になっているだろう。
とてもではないが人前に出せるような顔ではない。
「すまん。だが、あれからもう三時間は経っているぞ。何をそんなに泣いているのだ?」
セオドレドは寝台の前までゆっくり近づいてくる。
の部屋は居間と寝室の区別がない。
入り口から部屋全体をすぐに見渡すことが出来るのだ。
それは少女のあてがわれたところが侍女用であるからだというわけではない。王家の人間の部屋以外はたいていこうなのだ。
「三時間……?もうそんなに経ちましたか」
驚いたように顔を上げる。部屋に一つだけある小さな窓を見ると、確かに日はそれくらいの時間が経っていることを示していた。
「申し訳ありません。会議……中断させたままにしてしまって……」
「いや、それは構わん。もうほとんど終わっていたのだからな」
セオドレドは居間部分にある小さなテーブルから水差しを持ち上げると、中身があるのを確かめるように左右に振り、杯を取って水を注ぐ。
「さ、飲みなさい。そんなにしゃくりあげて、まるで子供だな。エオウィンが小さかった頃を思い出すよ」
は杯を受け取り、ゆっくり中身を飲み干した。
熱くなった喉に、冷たい水は心地よかった。
セオドレドはそんな少女をまじまじと見ていたかと思うと、しみじみとした様子で呟いた。
「しかし、すごい顔だな」
「!」
は弾かれたように立ち上がり、
「顔洗ってきます!」
と部屋から逃走を図ろうとした。
「まあ待て、水場まで走って行く気か?構わないからここにいなさい」
セオドレドはの腕をつかみ、そのまま自分の方に引き寄せた。
彼は寝台に腰掛け、少女を自分の膝の上に座らせるようにして囲い込む。
逃げ場を失った少女は半ば混乱して暴れることも忘れた。
「は…放してください〜!」
上ずった声でようやくそうとだけ言うと、セオドレドは目を細めて少女を見下ろす。
その眼差しにはからかっている様子も、欲望のかけらも見当たらない。
ただ気遣う思いだけが垣間見えた。
セオドレドはぱっと片手を広げての前に見せたかと思うと、一度握り、また開く。
するとそこには手品でも使ったかのように、ハンカチが現れた。
さすがのもきょとんとする。
セオドレドはそのどこからか取り出したハンカチで少女の顔を拭い、ロヒアリムのものに比べればずいぶん低い鼻にあてがった。
「ほら、洟を拭け」
「……」
ずいぶんな子供扱いに、は恥ずかしいのを通り越してなんだか腹が立ってきた。
静かにむっとしていると、セオドレドは子供をあやすようにゆっくり揺らしながら、ぽつぽつと話し出す。
「エドラスの民にはいつ避難しても良いように仕度をするよう触れを出した。もうすぐ秋の収穫時期でもあるから畑を離れさせるのは酷な話だし、下手をすると籠城するための蓄えが足りないやもしれん…。だが本当にモルドールの軍が迫っているのであれば、そんなことも言っていられぬ。…そなたの鷲からの知らせはまだないか、?」
「いまのところは、まだ…。モルドールの軍が来るとしたら、西街道からだと伺っていますけど、軍隊らしきものはなにも…」
「鷲はどのあたりを飛んでいるんだ?」
は南東方面に向かった鷲に意識をあわせた。
「えっと…。西街道沿いに飛んでいましたが、沼地も森も通り抜けました。国境はこのあたりでしたよね?ですからそこで一度範囲を広げて周辺全体を調べています」
他の方向に向かった鷲たちの現在状況も知らせた。
知らせで聞いた通りマークの東地域では住民が動揺しているらしき様子が見て取れたが、敵らしいものの姿はまったくなかった。
「そうか…」
そうとだけ言って、セオドレドは黙した。
深く考え込んでいるようで、眉間にはややしわが寄っていた。
「そなたが使っている術…。どれくらい消耗するのだ?」
「それほどでもありませんよ。寝ている間でもそのまま動きますし」
「ほう?」
セオドレドは興味を惹かれたように目を光らせた。
「ではやはり、明日の朝まで警戒をしておこうか。それで何もないのであれば当面は大丈夫だろう」
わずかに安堵の篭った声で呟く。
「しかし、何だな。そなたにかかっては、マークの心配事などたいしたことではないように思えてくるな。父のことにしろ、モルドールのことにしろ…」
そこでセオドレドは喉の奥で笑う。
「それに、南に向かった鷲は白の山脈を越えたのだろう?あそこにはな、馬鍬砦からゴンドール側に通り抜けられる道があるというんだ。だが我らがこの地に移り住む前から、そこは生きているものは誰も通り抜けられぬ死者の道だと伝えられていた」
「死者の道…?」
が呟くと、セオドレドは頷く。
「二代目の王ブレゴの息子バルドールがその道を探ろうと軽率にも誓いをたて、結果、彼は二度と戻ってくることはなかったという。私も昔は血気盛んだったから、度胸試しとして入り口まで行こうとしてみたことがあったが、あまりにも異様な雰囲気に途中で戻ってしまったのだ。死者の道と呼ばれるのも頷ける。だが山脈の上を通ってしまえば、死者の呪いも関係ない話だからなぁ」
便利ではあるな。というセオドレドに、はひどく脱力した。
「一応言っておきますけど、陛下のことはたまたま似たような事例を知っていただけですし、鷲にもわたしにも戦う力があるわけではないのですよ。敵に攻め込まれたら、わたしなんて逃げ出すしかできないんですから、あまり頼られても困ります」
と釘を刺す。しかしセオドレドは手を唇の端を上げ、満足そうに唇を軽く持ち上げる。
「わかっているさ。そなたを兵の一人として考えてはいない」
セオドレドは改めて少女を抱えなおし、背を優しくさする。
相変わらずの子供扱いだが、はもう腹を立てなかった。
話の内容は平穏とは言い難いが、セオドレドが穏やかに話していたせいか、の心はずいぶんと落ち着きを取り戻している。
それどころか男の暖かな体温に包まれて眠気が襲ってきた。
大泣きして疲労してしまったせいだろう。
それに、昨夜は夜中になっても館に駆け込んでくる者が多かった。エオウィンが起きて対応している以上、侍女のが寝るわけにもいかなかったのだ。
とろとろとまどろみかけたは、いつしかセオドレドの肩に頭を預ける。
彼は鎧姿のままなのでずいぶん堅いのだが気にならなかった。
「眠くなったのか?」
そっと声をかけてくるセオドレドに、は小さく頭を振った。
自分に求愛している男の前で、それも部屋に二人きりの状況で眠ってしまうのはさすがにまずいと考えるだけの理性は残っていた。
しかしすでに眠くなりすぎて、身体が思うように動かない。
「マークの騎士は…」
それでも眠るまいと、少女は話を続けようと口を開く。
あまり物も考えられない状態なので、自分でも何を言おうとしているのか判断できなかった。


眠そうな小さい声でしゃべる少女に、セオドレドは顔を寄せた。
半分以上伏せた瞼に長いまつげが影を作り、稚く、愛らしかった。
「戦いで死んでしまったら、その場に葬られてしまうんですね…」
「ああ、そうだ」
「なぜ…?」
セオドレドは戸惑った。少女の疑問がわからない。
「なぜって…死体は重いからな。生きている間と体重が変わるわけでもないというのに。だから抱えて馬に乗せるのは難しい。それに死んだ場所によっては、故地へ着く前に腐ってくる」
「ああ…そうか」
は片手を顔までもってゆく。
緩慢な動作と、哀切を帯びた響きにセオドレドはぎくりと身体を強張らせた。
何ということでもないはずなのに、背筋が粟立ってきた。
「それならば、形見の品を届けたりは…?」
ぼんやりと見上げる少女の眼差しを受けて、セオドレドは目を閉じた。
ようやく彼女が取り乱した理由がわかったのだ。
おそらく鷲のどれかが彼女に草原のどこかにひっそりと作られた墓を見せたのだろう。
それは二日前に作られたというエルフヘルムの部下のものかもしれないし、別のものかもしれなかった。
平和な世界に暮らしていたという少女は遺族の元に返さないことを、死者に対する冒涜だと思ったのかもしれない。
「特にはない。形見の品があるとしたら、それは生きているうちに騎士から彼の愛しい者たちへ渡されているものだからな。それに、騎士が身につけている武具は騎士の誉れ。家族や恋人が無事を祈って作った守り袋の類を持っているものもいるが、そういうものを剥ぎ取っては名誉ある死を遂げたものに対して無礼だろう」
「そう…」
の頬につう、と涙が伝った。
セオドレドの心臓が大きく波打った。
「最後のお別れをするのは悲しいわ。だけど、お別れすることすらできないのは、もっと悲しい…。マークの女性はそのことに耐えなくちゃいけないのですね」
、そなたは…」
いつ帰るかわからない男の帰りを待つのは耐えられないか?
そう問おうとして躊躇した。
「わたしにそんなことが出来るのかしら…?」
セオドレドより先に、消え入りそうな声で少女は自身に問う。
だが答えはなかった。
とうとう眠気に負けたは彼の腕の中で意識を手放していたからだ。



セオドレドはがしっかり寝付いてしまったことを確認すると、やおら抱き上げて寝台に横たわらせた。
毛布でしっかりくるみ、音が出るほど己の頬を叩くと足早に部屋を出る。
通りかかった侍女を呼び止め、の部屋にタオルと水を張った桶を運ぶように言いつけた。
いつもと変わらない顔で、だが内心ひどく動揺しながら王の息子は自室に向かう。
扉を閉め、誰にも見咎められないことを確認した途端、セオドレドの身体からは力が抜け、床に座り込んでしまった。
肩までかかる金髪の頭を抱え、自分の青臭さに身悶える。
(危ないところだった…!)
セオドレドはを愛してはいたが、少女の気持ちが自分に向くまで冷静でいられる自信もあった。
泣いていた少女を抱えた時も、真実『エオウィンも小さい頃にはよくこんな風にぐしゃぐしゃに泣いていたな』という思いしかなかった。とはずいぶん年が離れているので、たまに自分が彼女の父親になったような錯覚も覚えるのだ。
恋に溺れたこともあるが、それは過去の話。
自分はもう暴走する未熟な恋情に引きずられる若造ではないと思っていたのに、自分の胸に頭を預け、いつか自身を襲うかもしれない悲しみに恐怖する少女を見たとき、セオドレドは一気に二十は昔の自分に戻っていることに気がついた。
愛しさが全身を駆け抜け、もう目の前の女しか目に入らない。
髪の一筋から眼差しのすべてまで、自分のものにしてしまいたい。
涙にくれる少女に愛の言葉をささやき、組み敷いたら、どれほど甘美な幸福を感じられるか。
(けだものか、私は!)
だが、長年培ってきた彼の理性は、セオドレドにそうすることを許さなかった。
騎士として、また王の息子としての矜持は、自分に完全になびいていない娘に力ずくで事を進めるのを良しとしない。
たとえ彼の留守中、毎夜のように彼女がセオドレドの身を案じていたにしてもだ。
自室での会議後、の部屋に行くまで留守中のできごとの報告を受けていたおりに、近衛隊長のハマからこの話を聞かされたときには単純に満足していたのだが、今となっては新たな喜びと苦悩が増えただけだった。
彼女がマークに馴染めば馴染むほど、本来が知ることはなかった苦痛を与えてしまうのだ。それがセオドレドには忍びなかった。
しかしこの山を越えることができたなら、彼女は真実マークの民になれるだろう。
そうなれば、セオドレドの望みは簡単に叶うと思われた。
彼女はセオドレドを憎からず思っているのだから。
(知らずに済んだものを知ることは、幸せなことばかりではない。あの娘はロヒアリムの心情など知らずに育った。それでなんの問題もなかった。我らの心を知ったのなら、それはむしろあの子にとっていらぬ影をもたらすことになりはしないだろうか。だが…)
それを嬉しいと思ってしまった。
「重症だ…」
セオドレドは顔をあげて呟く。
寄りかかっていた扉に頭をひどくぶつけてしまったが、痛みは感じなかった。










空から見下ろすマークは、草の海に沈んでいる。
日が落ち、夜間の明かりといえば空に浮かぶ月と星だけ。
目標となるようなものはほとんどないが、身に帯びた鳥の本能が自分がどの方角に向かっているかを知らせてくれる。
北に向かっていた鷲はマークの北の国境である白光川を越え、合流した東の国境であるアンドゥインを遡るように飛んだ。
川の両側には大軍が通れる道はないということを確認すると、鷲は元来た方へと方向を変える。
疲れを覚えることのない翼は軽快に空を切り開く。
視界に北上する折に見つけたマークで最もうっそうとした森―エント森とロヒアリムは呼んでいた―が入った。
ここも念のために確認しようかと考えていると、遠くで馬のいななきがした。
この辺りには人家はない。
はぐれた馬だろうかと考えた。
マークの馬は大体が軍馬としての調教を受けている。
狼の一頭や二頭に出会ったところで、力強い後ろ足で蹴り飛ばしてしまうほど勇敢だが、群れや飼い主からはぐれてしまったのであれば知らせた方が良いように思えた。
鷲は声のした方へ向かった。
馬は思っていたよりも近くにいた。
だがその毛色が夜の闇に溶け込んでいたため、すぐにそれと見分けられなかったのだ。
それは堂々たる体躯をしており、マークの馬の中でも一際大きかった。
馬の近くには同じように暗闇に溶け込む灰色の装束を身にまとった老人がいた。
(飛蔭とガンダルフだわ!)
鷲は馬と老人の頭上を円を描くように飛んだ。
飛蔭とガンダルフはじっと見つめあったまま動こうとしない。
(何、やってるのかな…?それにしてもガンダルフ、本当に飛蔭に追いついちゃったなんて、すごいわ)
鷲はしばらく様子を見ていると、ガンダルフはどうやら飛蔭に向かって語りかけているようだった。
風の音に混じって、自分を乗せてくれるよう、懇々と頼んでいる声が聞こえる。
非常に大きな危険が迫っていて、どうしても飛蔭の協力が欲しいのだとガンダルフは飛蔭をひたと見据えて言っていた。
どうやら飛蔭はガンダルフの話を熟考しているようなのだ。
そうでなければ、あの我が道を行く飛蔭が、逃げもせずにいるはずがない。
(うわー、ものすごく珍しいものを見ちゃった。飛蔭が人の話を聞いてるなんて…!こうなったら、とことん頑張ってください、ガンダルフ!これ、黄金館の皆に言ったら驚くだろうなぁ)
一人と一頭の上でぐるぐる旋回していると、ふいに魔法使いは頭を上げた。
「一体どこのいたずら鷲だ!ラダガストの使いならば許してやろうが、もしお前さんがサルマンの手の者なら容赦はせんぞ!」
ぐっと眉間にしわを寄せ、杖を振り上げて怒鳴りつける。
鷲は慌てて急降下した。
「こんばんは、ガンダルフ殿」
顔に似合わない高い声で鷲は挨拶をした。
ガンダルフはあっけにとられたように目を大きくする。
「その声…マークの娘さんか。といったか?」
「はい。お邪魔して申し訳ありません。飛蔭が人の話を聞いているのが珍しかったもので…」
「一体、その姿はどうしたのかね?」
ガンダルフが腕を差し出してきたので、鷲は遠慮なくそこに止まった。
はエドラスでの出来事を簡単に説明する。鷲が話している訳もだ。
真剣な表情で話を聞いていたガンダルフは、みるみる顔を険しくしてゆく。
「その乗り手はどこへ向かったのじゃ?」
「わかりません。最後に目撃されたのはアイゼンの浅瀬の方だったと聞いていますが」
ガンダルフは黙り込んだ。
「ガンダルフ殿はあれが何かご存知ですか?セオドレド様はモルドールの斥候ではないかと考えているようなのですが」
「それは黒の乗り手。冥王の恐るべき手先たちじゃよ。兵を率いることもあるが、彼らだけが現れたのなら、おおっぴらにはできぬ要件で動いていると考えてよいじゃろう。モルドールの力は大きくなりつつあるが、まだマークを囲むほどではない」
「では…?」
鷲はの声で先を促す。
ガンダルフは鷲の金色の目を覗き込み、重々しい口調で諭した。
「乗り手の目的はわしが懸念していることではないかと思う。だがそれはまだあんたたちが知ることではない。この件でマークがこれ以上の被害を被ることはないとわしは思うが、しかしあんたたちはアイゼンガルドこそを警戒した方が良いじゃろう。セオドレド殿にそう伝えておくれ」
「…わかりました」
鷲は納得いかないながらも承諾した。
なんとなく、問い詰めても無駄だと思ったのだ。
「おう、ちょっと待つんじゃ」
鷲が空中に戻ろうと翼を広げたところをガンダルフが呼び止める。
「はい?」
「お前さんはどうやらわしが思っていたよりも経験の豊かな魔女のようじゃが、念のために言うておく。その鷲の術、平時には絶対に使うんじゃないぞ。ベルーシエル王妃の二の舞にならんとも限らん」
鷲はくりんと頭を傾けた。
「ベルーシエル王妃?」
「古のゴンドールの王妃じゃよ。歴史から抹殺され、彼女について書かれた書物は存在しない。じゃが、記憶は書物のみに伝えられるものではない。セオドレドに聞くといい。もし話せるようであれば、セオデンでも。ベルーシエル王妃の猫のことをな」






そ、そこまで言うなら今教えてくれてもいいじゃないですか!






と。
思った辺りでは目を覚ました。

「…あれ?」

そこは星も月もない、真っ暗なところだった。
二、三度瞬きをし暗さに目が慣れると、は自分の部屋の寝台で寝ていたのに気付いた。
(いつの間に…?ところで今何時だろう)
は意識を内側に向けた。
次々と切り替わる夜空の風景は、鷲たちが順調に空を駆け巡っている証でもある。
そのうちの一つは、夢の続きと同じく、飛蔭と魔法使いの様子を中継していた。
他には特に何もなかったため、勝手にそこにピントが合ってしまったのだろう。
鷲の口を使って魔法使いに別れの挨拶をすると、は起き上がった。
(わたし、何で着替えもしないで靴も履いたまま寝てたんだろう?)
足がどうにも生暖かいと思ったら、そういうことだったのだ。
は寝台から降り、慣れた仕草でテーブルの油皿に火をつけた。
「あ」
暗い明かりに照らされた室内を見るや、は顔を蒼白にし、次には真っ赤になった。
(そうだ、セオドレド様がいたんだ!ああ、わたし、話の途中で寝ちゃったんだ。なんてことを…。いくら昨日はほとんど寝てなかったとはいえ…!)
床に置かれた桶とタオルにセオドレドの気遣いを感じた。
部屋から離れている水場まで行かずに顔を洗えるようにということなのだろう。
明かりはあっても光量が充分とはいえないので鏡を見てもよくわからないだろうが、突っ張った頬のあたりの感覚で自分がひどい顔をしているだろうということは想像ついた。
はありがたくも困惑しながらタオルを水に浸した。
冷たい水で頭もはっきりすると、はだんだん自分が寝ぼけたまま何を話していたのかを思い出し、居たたまれない気持ちで一杯になった。
(形見の品だとか、帰りを待たなきゃいけないとか、なんだってこんな微妙な話ばかり。そりゃ、あのお墓は衝撃的だったけど…)
はスツールに腰掛け、組んだ足に肘を乗せる。
さらに組んだ両手の甲に額を預けた。
重いため息が少女の口から漏れた。
(わたしは、マークにずっといるわけじゃないのだから…。いつかは帰るのだから、こんな心配をする必要はないはずなのに…)
だがどれほど言い聞かせてもの心は晴れなかった。
なにがそんなに怖いのかと己の不安を丁寧に解きほぐしてみれば、なんのことはない、辿りつくのはセオドレドのところなのだ。
彼は優れた技量を持つ騎士ではあるが、戦いの祭には大将が狙われやすいということくらいはも承知していた。
だから草原に埋もれるようにして残された墓とセオドレドが交錯し、彼もそうなってしまったらどうしようかと恐れたのだ。
(飛躍するにもほどがあるわよ、わたし!縁起でもないったら。だいたいセオドレド様は今回は巡回が主な役目だったんだし…。危険なんてほとんどなかったんだから)
だが一日先のことにすら保障はない。
黄金館は新たな戦の前触れに、着々と仕度を進めている。
の鷲の目には何の異変も見つからなかったが、たとえ今回のことが何事もなく終わったとしても、それですべてが解決したわけではない。
敵は相変わらず存在しているのだ。
そして本格的に戦争となった場合、先頭に立つのはセオドレドなのだ。
(だからといって、わたしにはどうすることもできない。想いに答えられるわけでもないし、力を授けられるわけでもないもの。でも…)
セオドレドが失われてしまうのはいやだった。
自分の目の前であろうとなかろうと、あの少々強引だが優しい人がいなくなるのに耐えられそうになかった。
(そんなことになったら、マークの誰もが悲しむわ。わたしだって…)
はふいにセオドレドに抱きしめられていた感触を思い出し、顔を赤くした。
革と金属で作られた胴鎧と鎖帷子で覆われていたので堅く冷たかったが、それでも温かかった。
すっぽりと自分を包む広い胸と優しく触れてくる大きな手は、そのまま身を預けたくなるほど心地よかった。
(…って、だからそれは駄目なんだってば!わたしは巫女なんだし…。ナセが探してるんだもの。…それに。別に恋ってわけじゃないわ。単にここでは一番親しいから心配になっただけで…)
はたと我に返ってぶんぶんと頭を振る。
大事な相手がいる身で別の誰かを想うのは、ひどく不純なことのように思えた。
しかしの心は相変わらずさざ波のように揺れている。
それは危険な兆候のように思えた。





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