メリング川を渡り終えたエオメルは、ふっと息をはいた。
この川を隔てて南側がゴンドール、北側がマークなのだ。
(生きて帰ってこれようとはな…)
国境を越えたとは言うものの、景色に劇的な変化などはない。しかし故国へ戻れた嬉しさからか、なんの変哲もない草原も、頬に当たる風の匂いすらも好ましく感じた。
「兄上!」
隣を走るエオウィンに呼ばれる。
「とうとう戻ってこれましたわね。マークへ!」
エオウィンは行きと同じように鎧を身につけ、冑を被ってはいたが、髪はもう中に押し込まれてはおらず、風に煽られるに任せていた。頬は薔薇色に輝き、灰色の目は幸福そうに細められている。唇には自然な笑みが浮かんでいた。
エドラスを出る前と何と違う事か。
「ああ…。戻ってきたな」
王の帰還
帰りの行軍は焦る必要がないため、行きよりも余裕を持って進む事にしていた。おそらくエドラスに到着するまで十日かかるだろうとエオメルは見積もっている。
東や北から招集された兵は故郷が近くなった時点で解散させているため、軍勢の規模は徐々に小さくなっていった。それでもまだ中央地域と西から来た者たちが大勢いるのではあるが。
そしてとうとう黄金館を遠くに見出したときの感慨は言葉に言い表す事はできなかった。館はエオメルの記憶と違わず、威風堂々と太陽の光を浴びて金色に照り輝いていた。
エドラスの門をくぐると、国中の人間が総出で繰り出してきたのではないかと思えるほどの歓声に迎えられた。エオメルは馬の足を緩めてその声に答える。
そこかしこから「マーク万歳」「新王万歳」の声が聞こえてきた。セオデンの訃報は、すでに知れ渡っているのだ。
館の入り口前には、館に仕えている者たちや、北境を守っていた諸将たちが勢ぞろいしていた。先頭にいるのはエルケンブランドとだ。彼女は相変わらず灰色のドレスを着ていたが、銀色の飾り帯と若葉のような緑のマントを羽織っているため、重苦しい印象は薄くなっている。婚約者の喪に服しつつ、慶賀を祝おうとする心がそうさせたのだろう。相変わらず幼げな容貌だが、丸みが目立っていた顔の線が少し落ち着いて大人っぽくなっていた。
エオメルは下馬すると階段を昇っていった。
エルケンブランドが恭しく礼をする。はじっとエオメルを見上げていた。その大きな目には涙が浮かんでいる。
「ようこそお帰り遊ばせ、マークの王よ。陛下のご帰還を心からお喜び申し上げます」
声は感極まって震えているが、小柄な身体に威厳すら漂わせては寿いだ。
「エオメル王、万歳!」
が叫ぶと一斉に唱和された。それは地が揺れていると思うほどの勢いだった。
エオメルは背筋を震わせた。民の声に、自分の立場が大きく変わったことを自覚しないではいられない。しかしそれは責任の重さに怯んだと言うよりも、自身を奮い立たせる類のものであった。頭に浮かぶのはセオデンやセオドレドに恥じないようにしなければ、という想いのみ。
と同時にへの感嘆も覚えた。使者から彼女がマークを統治しているという報告を受けたときには、心配と懸念しか感じなかったのだ。エオウィンがマークにいない以上、それしかないだろうとはエオメルも思っていたが、しかし彼女はエオウィンのように民のまとめ方を知るには至っていないはずなのだ。どうなるのだろうかと案じていたのだが、いらぬ心配だったようだ。エドラスは少しも荒れたところがなく、人びともを中心に動いている。この短期間でこれだけ人心をつかめたのなら、きっと良い王妃になっただろうに、とエオメルは残念に思った。
「兄上。…エオメルったら。なにをぼんやりなさっているのです。早くお声をかけませんと」
冑を脱いだエオウィンがエオメルの肘をつついた。
「あ、ああ…。変わりはないか?いや、ないわけがないな。前よりも元気そうだ」
しどろもどろのエオメルに、は一瞬きょとんとして、すぐに苦笑した。
「やらなければならないことが山ほどあったのですもの。落ち込んでいる暇なんてありませんでした。皆もそうでしょう」
一度言葉を切ると、再び少女は表情を改めた。可愛いばかりであった物腰には艶を帯びた優雅さも加わっている。留守の間にずいぶんと変わったものだとエオメルは思った。
「まずは中へ。お部屋はすっかり整えてございます。お湯の用意もしております。旅路の埃をお落としくださいますよう。それから夕刻から宴が始められるよう準備をすすめております。内々のものだとの連絡がきておりましたのが、本当にそれでよろしゅうございましたか?」
「ああ。長の遠征で皆、疲れているからな。まずは故郷に戻してやりたかったのだ。論功行賞をする必要もあるから、正式なものは改めて催すつもりだ。それから、私の方はいいから、お前はエルラダン殿とエルロヒア殿をもてなしてさしあげてくれ。大切な客人なのだからな」
はわかったというように頷くと一礼をしてエオメルの側を離れた。
宴はエオメルの乾杯で始まった。
の願いにより、今回の宴はエドラスの住民すべてが参加してよいということになったのだが、全員は入りきれないので扉を開け放ち、館の外にもテーブルを並べた。暖かい季節になったからこそできることだ。
穏やかな春の陽がゆっくりとオレンジ色の尾を引いて藍に変わる。星々が輝く頃になると宴は最高潮に達していた。飲み比べをする者あり、腕比べをする者あり。楽器を奏でる者や、手拍子で歌いだす者と様々だ。そこにこれまでは大人しか参加できない集まりに、初めて加えてもらえた子供らの興奮した高い声が混じる。
王となったエオメルはさすがに以前のように浮かれ騒ぐわけにもゆかず、ひたすら務めをこなしていた。勇士に会えば労を労い、夫や父親、兄弟を亡くした婦人に会えば悔やみを言う。失われた国人は決して少なくないが、彼らのためにもマークの復興に力を入れねばなるまいと心に刻んだ。
「素晴らしい夕べですな、エオメル王」
新王の姿を見つけて歩み寄ってきたのは、西の重鎮エルケンブランドであった。エオメルは明るい笑みを浮かべて迎える。
「北での戦いでは我が軍の損害は一人も出なかったそうだな。嬉しいことだ。礼を言う、エルケンブランド」
「なんの。皆、これ以上わが国をオークの泥足で踏みにじられたくなかっただけのことです」
口の両端にあるしわをますます深くしてエルケンブランドは力強い笑みを浮かべた。
「わたくしが生きている間にこれほど明るい夜を迎えることができるとは思いもよりませんでした。長生きはするものですな」
「ああ。だが、すべての悪が一掃されたわけではない。これからも完全な平和を打ち立てるまで戦いは続くのだ。そういうわけで、そなたにはまだまだ現役でいてほしいものだ。私にはそなたの力が必要だ」
エオメルは熱の篭った眼差しで真っ直ぐにエルケンブランドを見据えていた。
「無論のことです。わたくしはエオル王家に忠誠を誓った身。いついかなる時でも力をお貸ししましょう」
エオメルは満足げに頷いた。しかし真顔になり、
「とはいえ、戦場を駆け回ることしか知らなかった私には、王として至らぬ点もあるだろう。エルケンブランド、その時には遠慮なく指摘してもらいたい」
西の谷の領主は年若い王の生真面目で謙虚な物言いに微笑を浮かべた。
「それは、甘やかすなとおっしゃっているのだと受け取りましょう。どうぞ、お任せあれ」
慇懃ではあるがどこか冗談じみた返答に、エオメルは思わず噴出した。明るい笑い声に周囲からの視線が一層集まる。国王であるということもあって、彼は一分も注目されていない時間はないのだ。
エオメルは周りの者たちにも新しく注いだ酒を回してやり、何度目かわからないほどの乾杯をした。ぐいと一息で半分ほど飲み干す。杯から顔を上げると、人垣の向こうに一際背の高いエルフの双子がいて、その間に挟まれるようにした少女の姿があった。三人ともローハンでは珍しい濃い色の髪をしているので、とても目立つのだ。
エルフの公子であるエルラダンとエルロヒアは、しばらくエドラスに滞在したいとマークへ戻るエオメルたちについてきたのだ。彼らの一族がアラゴルンに挨拶に行くのでその先導をするのだと聞かされている。エルフの集団がこの国に踏み入るなど、前代未聞であろう。本当に、アラゴルンに出会って以来、自分はずっと伝説の中を歩いているようだ。
いや、とエオメルは思い直した。
この一年間に起きた出来事は、本当に伝説になるはずだ。そしてここにいる者すべてがその登場人物であるのだと。
宴は盛況のうちに終わった。
部屋に引き上げたは、ぼんやりと椅子に腰掛けていた。酔いもまわっているし、疲れてもいるのだが、どうも寝入る気にはなれないのだ。これまでのことが取り留めもなく頭に浮かんでは消えていった。
そこへ密かなノックの音がして、は我に返った。
「どなた?」
「わたくし」
顔を覗かせたのはエオウィンだった。
「良かったわ。まだ眠っていなくて。ね、まだ起きているようなら、少しお話しない?三人だけで、ゆっくりと」
はまばたきをすると、エオウィンの意図を察して微笑んだ。明日も早くから予定がたてこんでいる。身内だけで話す機会は取れそうにないのだ。
「いいわ」
は立ち上がる。
エオメルの部屋へ行く前に二人は台所へ寄った。杯を三つと水差しにいっぱいのビールを用意する。そして王の部屋ではなく、これまでエオメルが使っている部屋へと向かった。エオメルは頑として戴冠式までは部屋は変わらないと言い張ったのだ。
部屋をノックすると誰何する声が返ってきた。答えると足音がして扉が開かれる。
エオメルもまたたちと同じく、宴の時の装いのままだった。
「入れ」
促されて二人は中へ入った。エオウィンはテーブルの支度をし、は椅子代わりにスツールを引っ張る。
飲み物が満たされた杯が置かれると、誰からともなくそれを打ち合わせた。
「マークに」
エオメルが言うと続いてエオウィンが、
「セオデン王に」
最後にが、
「エオメル王に」
厳かな空気が漂う。三人はしばらく無言のままゆっくり口をつけていた。
「ようやく終わったな…。まだ片付けなければならないことはたくさんあるのだが」
エオメルが言うと、は微笑を浮かべた。
「まずは戴冠式ですよね。忙しくて息をつく暇もないわ。だけどできるだけ早くしていただかないと。いつまでも王の部屋が空だと、奥向きの女官たちが不満がるもの」
エオメルは困ったように頬をかいた。
「すまんな。感傷的になっているだけだとわかっているが、あの部屋を使えば、どうしてもいなくなられた方を思い出さずにはいられない。もういないのだという現実を突きつけられるのは、さすがに堪える」
「兄上…」
エオウィンは秀麗な眉をひそめて表情を曇らせる。そんな妹にエオメルは力づけるように肩を叩いた。
「心配するなエオウィン。自分の役目も立場もわかっている。務めをないがしろにするつもりはない。だがもう少しだけこのままでいさせてくれ」
「ええ。兄上を信じます」
エオメルはに向き直ると、改まって軽く頭を下げた。
「それから、お前には苦労をかけたな。急な国王代理だったが、よくやってくれた。実をいうとかなり心配だったのだが、私の杞憂だったのだな。さすがはセオドレドが選んだだけはある」
言われたは走馬灯のように留守番中のことを思い出してしまった。不安も苦労も山のようにあったのだが、戦いの勝利を新王の帰還に喜んでいる民の前で不満をぶちまけるわけにもいかないと、あえて考えないようにしていたのだ。しかしエオメルの方から水を向けられては、黙っていることはもうできない。望んで得たわけではない地位は、とにかく重たかったのだ。
「大変なんてものではありませんでしたよ。毎日ヒヤヒヤの連続で胃に穴が開くかと思ったもの。だけどわたしが不安そうな顔をすると、それが周囲にうつるから、心細くても怖くても、そんなこと感じてませんって顔をしてなければならない。はっきり言って、こんなこと二度と御免です。エオウィンもエオウィンよ。黙っていなくなって。どれだけ心配したと思っているの?どうしてもゴンドールに行きたかったのなら、相談してくれれば良かったのに。本気の願いなら、わたしは止めたりしないわ。いってらっしゃいと送り出すついでに、後継者をちゃんと指名していってねって、言ってあげたわよ」
まくし立てるに、エオウィンは小さくなった。
「ご、ごめんなさい。わたくし、夢中だったから、すっかり館のことを忘れていたの」
は肩をすくめる。
「そうではないかと思っていたわ。ねえ、気になっていたのだけど、メリーとは示し合わせていたの?」
「示し合わせたわけではありませんけど、メリアドク殿はわたくしが連れてゆきましたの。わたくしも彼も、置いてゆかれたくなかったのよ」
エオウィンはしんみりと答えたので、それ以上文句を言う気力はすっかり削がれてしまった。なんと言っても彼女たちは戦場へ行って命のやりとりをしていたのだ。こんな風に文句を言う事など二度とできなかった可能性もある。戻ってきただけで充分と思わなくては。
「終わった事ですし、二人とも無事だったのだもの。もういいわ。それにあなた、とても幸せそうに見えるもの。魔王を倒したなんてすごいわよね。陛下よりも武功は上なのではないの?」
無邪気に問うと、エオメルはむっとしたような顔になる。
「確かに、わが国で最も大きな功を打ち立てたのはエオウィンとメリアドク殿だ。悔しいがな。しかしエオウィンが幸せそうなのは、それが理由というわけではなくてだな…」
「違うんですか?」
首を傾げるに、エオメルは言葉を切ってぷいと顔を背けた。エオウィンがくすくすと笑ってその理由を告げる。
「わたくしは確かに功をほしがっておりましたし、実際に手にすることができましたけれど、今ではもう武功を何よりも得たいとは思っていないのですよ。騎士を羨ましがるよりも、すべての育ってゆくものを慈しむつもりです。そしてわたくしにそう思わせてくださった方、ゴンドールのファラミア様と結婚をします」
エオウィンの爆弾発言には杯を取り落としそうになった。
「結婚!?本当に?向こうにいたのなんて二ヶ月もないじゃない。なのに決めてしまったの?」
「本当になぁ…」
エオメルは遠い目になって重苦しいため息をついた。
兄の様子に気付いていないわけではないが、しかしエオウィンの表情は晴れ晴れとしている。
「正式な発表は、もう少し先なのです。ファラミア様というのは、ゴンドールの新しい執政で、も知っているボロミア殿の弟君なのよ」
「ボロミア殿の?それなら結構年が離れているのではないの?」
の疑問にエオウィンは「まあ」と笑う。
「あなたとセオドレドほどではないわ。それに、そんなことは問題にならないのだということは、もよくわかっているでしょう?」
それもそうかとは納得した。自分とセオドレドは二十歳も離れていたのだ。エオウィンが一回り違った相手を選んだところで驚くほどではないと思い直す。
それから二人は出会いからプロポーズまでの話題で大いに盛り上がった。その間エオメルはなんとも面白くなさそうな顔をして、手酌でビールを飲んでいた。
ようやくエオメルの拗ねたような様子に気付いたは、
「ファラミア様のことが気に入らないのですか?」
と聞いた。彼はさっきから少しも話しに加わってくれないのだ。
「彼とはゴンドール滞在中に何度か話をしたが、高潔な人柄で部下にも慕われ、文武に優れている。良縁ではあるのだろうよ。しかし、ファラミア殿はイシリアンに館を賜ったのでな…。あそこはミナス・ティリスよりも遠いんだ」
エオメルは憮然として答えた。は呆気に取られた後、噴出してしまった。こう言っては何だが、拗ねている理由が可愛らしすぎる。彼はエオウィンがいなくなるのが寂しくて仕方がないのだ。
新王は肩を震わせて笑うをじろりと睨みつける。
「ご、ごめんなさい。だけどこういうことはやっぱり世界が違っても変わらないのね。思わず懐かしい歌を思い出しちゃったわ。『親父の一番長い日』っていうの。陛下はきっと気に入ると思うわ。そうだ、結婚式で歌いましょうか?式はどちらでするの?やっぱりゴンドール?」
「面白がっているだろう、」
エオメルは頭をかかえて呻いた。
「おめでたいことですもの。暗い顔をする必要などないでしょう?」
はにこやかに返した。
「そうですわ。それに、エオメルもわたくしの心配をしている余裕などすぐになくなるに決まっています。エオル王家の男子は兄上お一人だけとなったのですもの。おまけに、マークの王なのですもの、お見合い話が山ほど来るはずですわ。ローハンだけではなく、ゴンドールからも。わたくし、すでにゴンドールの大将たちの何人かに、兄上には恋人がいるかどうか探りをいれられていますもの。きっと妹君や娘御を娶わせようとしていらっしゃるのだわ」
「な、なんだと?」
エオメルはがばっと身を起こした。は両手を叩いて喜ぶ。
「良いお話が続きそうで良かったじゃない。わたしにできることなら何でも協力するわよ」
「本当に?嬉しいわ。それなら兄上が逃げ出さないように見張ってくださる?わたくしがいなくなった後だと、何か理由を見つけてお見合いをすっぽかしそうなんですもの。他に諌められる身内はいないし。兄上も『義姉上』の言いつけならよもや無視したりはしないでしょう」
兄の弱点を正確に見抜いていたエオウィンは勢い込む。は笑顔で了解、と言った。
妹と義姉が手を取り合ったのを見てエオメルは思わず天を仰いだ。
「一応、言っておくがな、私は妥協で結婚するつもりはないぞ」
「しなければよろしいじゃないの。わたくしは何も、愛のない結婚でも我慢してくださいだなんて申してはおりませんわ」
ようやく見つけた反論も、エオウィンに一蹴されてしまう。
「だ、だがな。それだと一体いつになるか…。それこそセオドレドのようにだな」
「セオドレドは理想が高かっただけです。女性と交際すること自体は楽しんでいましたもの。兄上の場合は、女性に近付くのを面倒くさがるところに問題があると思いますの。…あら、ごめんなさいね、」
がむっとしたのでエオウィンは軽く会釈した。エオウィンに罪はないと思いつつも、やはり過去の女の話しなど聞きたくはない。しかし目を塞げばそれでいいというわけにもいかないのだ。なにしろセオドレドは自分と会った時点ですでに四十歳だったのだ。それまで何もなかったなどと思えるほど、は初心ではない。
むかむかする胸を押さえると、指先に硬いものに当たり、その存在を思い出す。
(そうだ、これはもう返さないと…)
は首の後ろに手をまわして長い鎖を引っ張り出した。
「、何をしているの?」
兄妹たちはの唐突な行動に言い合いをやめた。
「忘れないうちに返しておこうと思って…」
鎖を頭から抜くと、その先についていたものを手の平に乗せた。青い飾り石のある金色の指輪だ。婚約前に渡され、婚約後には嵌めるようになったもの。セオドレドが亡くなってからは再び鎖に通され、胸元に隠してあった。
辛すぎて嵌め続けることはできず、他の装飾品とともにしまうこともできなかったのだ。
「これは…」
「セオドレド様からいただいたものです。だけど、もうわたしが持っているわけにもいかないわ。これは彼が王妃であったあの人のお母様から譲り受けたものですもの。それなら次に持つべき人は陛下の奥方がふさわしいでしょう」
は指輪をエオメルの手に乗せた。エオメルは困惑する。
「いや、しかし、これはお前にとっても思い出の品ではないか。確かに指輪の中では由緒のある品だが、私は従兄上がお前に渡したものを取り上げるつもりはないぞ」
エオメルは指輪を戻そうとする。しかしは手を膝にのせて受け取ろうとしない。
「思い出の品なら他にもあります。だけどこれはエオル王家の財産で、わたしが私的に持っていていい物ではないわ。ですからお返しします」
「それならこれは国王代理の任を務めた褒美の一つとして改めて取らせよう。それならば名実共にお前のものにしてやれる」
「もう…。お願いですから、本来の目的のために使ってください。あの人はもういないのですから、わたしが持っていても仕方がないでしょう?」
「いいや、お前が持つんだ。これはセオドレドの愛情の証ではないか。彼の母上から彼に与えられたものなのだから」
「もっと遡れば、陛下やセオドレド様の祖母君の持ち物ではないですか。どうしてそれほどまでに拒むのですか」
「拒んでいるのはお前だろう。持っていてよいと私が言っているのだから、持っていれば良いのだ」
互いに指輪を押し付けあっていたのだが、埒が明かないとばかりにエオメルはの腕に手を伸ばした。
「ちょ…陛下!」
はエオメルの意図を察して部屋の隅に逃げる。彼は無理やりにでも返すつもりなのだ。
だが追いかけようとしたエオメルは、すかさず繰り出されたエオウィンのつま先にひっかかって転びそうになった。
「まったくもう、少しは落ち着きなさいな、二人とも」
エオウィンは立ち上がって腰に手を当てると、唇を尖らせた。
「兄上、そんなに怖い顔で女性を追いかけるものではありませんわ。ならず者のようですわよ」
「エ、エオウィン」
エオメルは眉も口も八の字になった。
「それにも、そんなに必死で拒む必要もないでしょう。持っていれば良いのよ。どうしても気にかかるのであれば、エオメルが妃を迎えたときに、から渡せば済む事ですもの」
「あ、そうか。そうよね」
指摘されてはやっと逃げるのをやめた。
エオメルはならず者のようだと言われた顔をなんとか和らげようと片手で顔を抑えながら、指輪をに渡した。少女は大人しく受け取る。
しかしエオメルは釘をさすのを忘れなかった。
「これはお前のものなのだから、私の妃に渡す必要はないぞ」
「渡します」
はきっぱりと答えた。再び二人は一触即発になる。だがエオウィンはにっこりと笑って兄に近付いた。
「そんなにに指輪を持っていていただきたいの?」
「ああ。セオドレドが彼女を愛した証だ。当然だろう」
「それならとっても簡単な方法があるわ。エオメルがを妃にすれば良いのよ。そうすれば彼女が指輪を手放さなければならない理由もなくなるでしょう」
「な…っ。エオウィン、お前までそんなことを言うのか!?」
言い出したエオウィンも、驚いていたも、エオメルの発言に顔を見合わせた。
「までって、どういうことですの?わたくし以外にもを妃にといった者がいるのですか?」
「ないわよ、そんなもの!」
はぶんぶんと首を振る。婚約者を亡くしたばかりなのに、すぐ別の相手と結婚しようとするような女だと思われてはたまらない。
「エオメル?」
ずいと妹に詰め寄られて、エオメルは己が口を呪った。
「…伯父上が、以前にな」
「伯父上ですって!?」
「いったい、いつ?」
誤魔化せないと観念したエオメルは、目をそらしながら答えた。
「アイゼンガルドから戻った後にちょっと、な。断っておくが、伯父上はそうせよと言ったわけではないぞ。ただそういうこともあっても良いとおっしゃっていただけだ。は世継の妃になるはずだったのだから、と」
「まああ」
意外な展開に、エオウィンは感嘆の声をあげた。
「ということは、伯父上ご公認というわけですのね。驚いたこと。だけど考えてみればそれもありえるお話だわ。亡くなった兄弟の婚約者と結婚するということは、珍しいことでもありませんもの。もちろん、わたくしも賛成いたしますわ」
両手を組み合わせて目を輝かせているエオウィンをはたしなめる。
「興奮しているところを悪いんだけど、わたしは別に王や世継の妻になりたかったわけではないわ。セオドレドを愛しているから彼の立場に付随する諸々のことも引き受けようと思っただけなのよ。あの人のためでなければ、妃の立場に立とうなんて思わないわよ。それに陛下だってさっきおっしゃっていたじゃない。妥協で結婚するつもりはないって。だからこの話はこれ以上進みようがないわ」
「そうなの…」
には全くその気はないとわかってエオウィンはがっかりした。
だが、と彼女は兄をちらりと見上げる。
エオメルはそうではないかもしれない。
兄が再会した少女に長い間見惚れていたことを、エオウィンは忘れていなかったのだ。
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