会いに行くよ――


愛しい

愛しい

我がひな鳥よ











現―アラワル―









ほう、とは息を吐いた。
ぱたぱたと落ちる水滴は星明りに銀のように煌く。
水の冷たさに肌は白く冴えていた。



城壁に囲まれたカラス・ガラゾン。
その中を通る銀筋川から枝分かれした小さな流れと、広場にある噴水から流れてきた水がぶつかり合い、ちょうど池のようになっている所があった。
流れは穏やかでさして深くもないが、水は身を切るほど冷たかった。
この場所を見つけたとき、は禊をするのにぴったりのところだと思った。
奥まったところにあるそこは昼間にレゴラスと散歩をしていてたまたま通りかかったのだ。急に立ち止まってじっと池に見入ってしまい、まだ体調が良くなっていないのではと心配されてしまったり、そんなことはないもう本当に大丈夫なのだと納得させるのにわあわあと言い合いをしていた間、そしてそこまで往復する間に、行き逢うエルフたちがほとんどいないことをしっかり確認し、夜になってから再び訪れたのだ。
エルフたちは夜でもかなり大勢が起きているのだが、たいてい歌っているか星を愛でているか楽器を弾いているかで昼間に比べて出歩く者は少なく、この分ならまず見つからないだろうと踏んだからである。


は仰向けになって手足を伸ばした。
白衣がわりに身にまとった寝巻き用のドレスがたゆたい、四肢に絡みつく。
長時間水に浸かったままでは凍えてしまうが、まだ上がる気にはならなかった。
清冽な冷たさが心地よかった。








森を歩くものがいた。
エルフの常で草踏む音はまるでしない。
優雅で悠然とした足取りに迷いはなく、求める人物がどこにいるのかはわかっているようだった。

夜はまだ浅い。
訪ねるのなら少女の部屋へ行けばよかったはずだ。
夜毎に眠らねばならない人の子とはいえ、まだ起きていられる時刻なのだから。
だが、そうしようとする気は少しも起こらなかった。
そして心が導くままに歩を進めている。

風が吹き、金色の髪がふわりと揺れた。








は水に浮かんだままぼんやりとしていた。
現れては消える記憶は、慣れ親しんだ向こうのこと。
こちらに来てからのことを思えば、あちらの世界のなんと平和なことだったか。
危険なことがなかったわけではない。
むしろ同じ年頃の少女たちに比べれば、何度も修羅場を潜り抜けてきたといってもいい。死にかけたことも1度や2度ではない。
それでもその危険は、負ってもかまわないと承知で自ら飛び込んでいったものばかりだった。
だが、今は――。
はぎゅっと目を瞑った。
今はまるで先が見えなかった。
こちらに来たばかりの頃は、もっと楽観していた。
彼らの旅の目的を知っても、それはまだ消えなかった。

たまたま来てしまっただけ。
ただの事故。
時が来れば、迎えが来る。
きっと帰れる。
帰れる。
そう言い聞かせていた。だが、心はずっと叫んでいた。
――帰りたい。と。


涙が溢れそうになるのを感じたは、勢いをつけて頭まで水の中に沈んだ。









水の跳ねる音がした。
目を凝らすと木立の先にわずかに少女の頭が見えた。
何度か上下し、次には何かを振り払うように強く頭を振る。
苦悩しているようだ。
エルフの聡い耳には細かな水滴が落ちる音も聞こえた。
少女が身を起こした。
彼女はこちらに背を向けているので、まだ気付かない。
髪はたっぷり水を含んで色を濃くし、冷水にずっと浸かっていたせいだろう、両腕は紙のように白くなっていた。
まとっている寝巻きが透けて、肌の色がはっきりわかるのだ。








は息が続かなくなるまで潜り続けた。
限界が来て浮上し、荒く息をつく。
ぽろぽろと涙が落ちたのは、苦しかったせいだろう。
選択を悔いてはいないはずだ。
人にはどうしても避けられない、やらねばならないことが往々にしてあるのだということを、は己の経験から知っていた。
これもそうなのだ。
わかっていたはずなのに。
は迷いを振り払うように何度も頭を振った。

暗闇が迫っている、とハルディアは言っていた。
自分たちにできることは、与えられた時代で何をするのかを決断することだけだ、とガンダルフは言っていた。

指輪を持つことを決めたフロド。
彼のために安全よりも共に行くことを選んだサム、メリー、ピピン。
彼を守ると誓ったアラゴルン、レゴラス、ギムリ、ボロミア。

あのモリアでの話は、自分に向けて言われたことのように感じた。
現実から目を背けていたことを見透かされていたように思ったのだ。
自分が恥ずかしくて、情けなくて、泣いてしまった。
だがガンダルフは何も聞かずにただ慰めてくれた。聞く必要もなかったのだろう。

ぎゅう、と拳を強く握った。
決意した以上、二の足を踏んでいるわけにはいかない。
前を向け。恐れるな。
だけどもし叶うのなら――
ナセ。
あなたに会いたい。
いつものようにがんばれって言ってほしい。

は涙をぬぐうと、部屋に戻ろうと振り返った。
そこには……
「……あ」


金色の髪が揺れていた。








少女が振り返った。
身にまとう夜着はすでに用をなしておらず、星明りに裸身が白く輝いているようだった。
なだらかな肩。優しく膨らんだ胸。その下の曲線はきれいにくびれている。
腰から下は水に浸かっているが、清く澄んだ流れとエルフの視力の前では夜間といえども隔てはないのと同じだった。
細作りだが痩せているだけではなく、華奢ではあるが弱々しさは感じない。


「……あ」

振り向いた少女は驚きで立ちすくんでいるようだった。
柔らかい茶の瞳はこぼれんばかりに見開かれ、寒さにやや青みを帯びた唇は強張っている。

ぱちくりと音がしそうなほど瞬くと、少女は我に返って後ずさった。








「早く上がりなさい。そのままでは凍えてしまう」
「ご、ごめんなさい!」
は後じさると反射的に胸の前で両手を握り締めた。
「何を謝るのです?」
「だって・・・勝手に入ってしまいましたから・・・」
が本気でばつが悪そうな表情をしているので、安心させるように微笑んだ。
「禁止はしていませんよ。と言ってもここで水浴びをする者はめったにいませんが。ここを訪れる者も少ない。ですが誰も訪れないわけではないのです。ですから、貴女はこのように無用心なことをしてはならなかった、とだけ言っておきましょう。今のロスロリアンはいつものロスロリアンよりもざわめいています。外からこれほど多くの客人を迎えるのは本当に久方ぶりなのですから。それゆえあなた方は、あなた方の望むと望まざるとに関わらず、我らの注目を集めているのです。見られているのですよ。貴女も」
「み、見られてるんですか・・・!?」
紙のように白かった顔色が一気に青くなった。
「今はわらわ以外、貴女を見ている者はおりませぬよ」
いたずらっぽく笑うと、少女は力が抜けるように水中に沈んだ。
「驚かさないでくださいませ、奥方様」
あまりにも情けなさそうな少女の声に、ガラドリエルは朗らかに笑った。
「さ、本当に、もう上がりなさい。せっかく傷が癒えたというのに、このままでは風邪をひいてしまいますよ」
「あ、はい」
はざぶざぶと水を掻き分けて岸に近づいていった。
ガラドリエルが差し伸べる手にありがたくつかまり、体を持ち上げようとした。
(あ…れ…?)
?」
急に動きを止めたに、ガラドリエルは訝しげに声をかけた。
は右腕を上げたままの状態で固まっていた。
「どうしたのです?」
とにかく岸に上げようとつかんだ手に力を込める。しかし少女の手はするりと逃げ、力尽きたように倒れ伏した。
?」
伏せた身体に手をかけようとしたガラドリエルだったが、少女の異変に気付くやゆっくりと膝を折り、彼女が起き上がるのを待った。


風が吹いた。
珍しく強いそれは、ガラドリエルの金の髪を吹き煽る。
周囲の空気がどんどん密度を濃くしていくようだった。
ガラドリエルは水面に視線を移す。
そこには胸から下はまだ水に浸かったままの少女の姿が、本当の身体と重なるように映っている。
そしてもう1つ。
さらに少女に覆いかぶさるように別の影があった。
伏せる少女の体勢をそのままなぞるように、その影も伏せていた。ために顔はわからない。
濃い紫の、見慣れぬ形の長衣をまとったその影は、大柄な男のもののようだった。


少女の指がぴくりと動いた。


むくりと起き上がる。顔はまだ伏せたままだ。
頭痛を抑えるように額に手を当てる。
ゆっくりと頭を振って、上げた。




「《やあ》」
の全身から圧倒的な力が溢れてきた。
「《お初にお目にかかる。エルフの女王よ》」
少女はひたとガラドリエルを見据える。
「ガラドリエルと申します」
敵意も悪意もない、ただただ刺し貫くように強い眼差しを彼女はわずかな緊張と共に受け止める。
「《知っている》」
少女はにこりと微笑んだ。
発する声は二重。の高い声と、落ち着いて深みのある男の声。
「《不躾な訪問をお許し願いたい。行方の知れぬ我がひな鳥が心配でたまらず、こうして参上した次第。しかしこれは我がひなには伝えておらぬこと。こちらへ参ったはわたしの独断ゆえ、どうかこの子を責めないでやってほしい》」
「心中お察しいたします。もちろんそのようなことはいたしませぬ。ですがいま少しお力を抑えていただけませぬでしょうか。貴方の力は強く、わらわが張り巡らせたロリアンの守りがかき消されてしまいそうなのです」
「《ああ、すまない》」
少女と男の声で、力の加減は難しいと呟いた。
小柄な少女の身体から吹き荒れていた異質な覇気がすうっと薄れてゆく。
「《これでいいかね?》」
「結構でございます。それから、水から上がられませ。娘君の身体が冷え切ってしまいます」
言われて少女は己の身体を見下ろして苦笑した。
「《やれ、とんだ衣通姫(そとおりひめ)だ》」




岸に上がった少女は、布でも絞るかのように髪を絞り、濡れてへばりつく夜着を脱ごうと悪戦苦闘した。
見かねて手を貸したガラドリエルだったが、身体は少女のものでも中身は声と言動からどう考えても男性のもので、表情にこそださなかったが複雑な心境だった。
「貴方が、娘君が申した異世界ガイアのヴァラの君なのでしょうか?」
「《その通り。そして今わたしはひいなの身体に降りているゆえ彼女の知ることはわたしの知るところでもある。
ひいながこちらでどのような目にあったのか。
誰と出会い、何を話したか。
何を考え、何を決めたか。
ここがどこで、そなたが誰か》」
ガラドリエルは乾いた布を取り上げ、少女の身体から丁寧に水気を拭っていった。
[彼]は何も身に着けていないことなど全く頓着していない。
「わらわは貴方がどのような方であるのか存じ上げませぬ。名はなんと仰るのです?」
「《わたしの名を知りたい?》」
可愛らしいともいえる仕草で[彼]は首をかしげる。
「名を知らなければ呼べませぬ」
「《道理。だが女王よ、わたしは名乗れないのだよ。名とはその者を表すもの。わたしには多くの名があるが、それは全てガイアの言葉によって作られている。女王よ。いまわたしはガイアの言葉でそなたに話しかけているのだよ。そなたはガイアの言葉を知るまい。だがわたしやひいなが話すことがわからぬということはなかっただろう?なぜこのようなことが起こるのかはわたしも知らぬゆえ聞かないでくれ。確かなことは、わたしが名乗るは危険だということだ。我が力がこちらの世界に具現してしまうことと同義であるのだから。わたしが繰る言の葉の力はそれほど強い。しかしわたしはこちらの貴人ではないので、こちらの世界に影響を与えるような真似はしたくない。そなたや我がひな鳥を名で呼ばぬのも同じ理屈だ。わたしが名を呼んだ者は、わたしに支配されてしまう。だがね。そなたがこちらの言葉でわたしを呼ぶ分には、一向に構わないのだよ》」
「わらわがクウェンディの言葉で貴方に名をつけるのですか?ですがわらわは貴方を存じ上げませぬ。貴方を表す名にはならぬやも」
「《知らぬということはあるまい。我々はこれまで言葉を交わしたのだから》」
ガラドリエルは[彼]にじっと目を注いだ。
「それではわらわは、貴方をヴァロマ、つまり力の声殿と呼びましょう」
「《重畳》」
ヴァロマは満足げに頷いた。
「《ともかく、そなたに会えたのはわたしにとっては僥倖だ。王も交えて話がしたい。都合はつくだろうか》」
「今宵は急ぎの用はございません。わらわは娘君に聞きたいことがあり、こうして訪ねて参りました。ですがその答えは思いもよらない方からもたらされるようですね」
ヴァロマはただ目を細めて笑みを深くした。










それはおかしな光景だった。
中つ国に住まうエルフの婦人のなかでも最も高貴な女性であるガラドリエルと、ロスロリアンが迎え入れた客人のなかでも最も珍しい素性の持ち主であろう異世界の少女が並んで歩いているのだ。
その上ガラドリエルの方が少女に対し仰ぐように話している。
ヴァロマ降臨時のロスロリアン全体を揺さぶるような力に、何事かとガラズリムたちは騒ぎ出した。
力の出所を探りに来たエルフの何人かが二人に気付き、しかし声をかけてよいのかわからずしばし遠巻きにしていたのだが、ことの次第を飲み込んだ彼らが次々に仲間を呼び寄せたのだ。
そのため、あちこちの枝や木の陰にかなりの数の野次馬が集まってきている。
その事に気付かないはずはないのだが、二人とも周りに誰もいないかのごとく悠然と歩んでいた。
「《――そうゆう訳で、こちらには母女神に無断で来てしまってね、帰ったらどんな目にあわさられるやら。彼女が本気で怒ったら誰にも止められないからねえ》」
ヴァロマはからからと笑った。
姿は相変わらずの愛らしいのものだが、声と仕草がしっかり男のものに変わっている。
あまりのギャップに目が点になる者、頭を抱える者、耐え切れずに逃げ出す者が続出した。
ガラドリエルはおっとりと頬に手を当てて、まあと感嘆の声をあげる。
「それほどの覚悟で参られたとは。ヴァロマ殿は本当に娘君を大切にしておられるのですね。ですがこうして参られたことで、却って殿は心痛を増してしまったのでは?娘君の決意は固く、わらわには娘君にしてさしあげられることがあるのかがわからぬのです」
「《いやいや、中途半端にしかわからないほうが余程心臓に悪いというものだ。まあわたしに心臓はないがね。こちらの状況もひいなの様子もわからないのに、ただ「今のところは生きている」ということだけは否応なくわかってしまう。こんな生殺しの状態が続くくらいなら、いっそ何もわからない方がどれだけ良いかと思ったよ。恐怖を感じたのは本当に久しぶりだった。ひいなの今後に関しては、わたしからも頼みたいことがあるのだが、それは落ち着いて話せる所でしよう》」
「承知いたしました…殿?」
ヴァロマはガラドリエルの返事もろくに聞いていない様子で、急にあさっての方向に向かいだした。
[彼]の唐突な方向転換に、周辺にいたエルフたちは慌ててその場を離れて行く。
そんな彼らには見向きもせずに、ヴァロマはずかずかと進んでいった。

風が吹いた。

真っ直ぐ歩いたその先には、彼の歩みを邪魔するように一本のマルローン樹が生えている。
手前でぴたりと止まり、幹に手をかけ反対側をのぞく。



「《やあ、こんばんは。いい晩だね》」



ヴァロマはにこりと微笑んだ。
そこにいたのは金色の髪のエルフが2人。







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