蒼天落ち来たりて もの皆すべてを押しつぶさぬ限り、

豊饒なる大地引き裂かれ もの皆すべてを飲み込まぬ限り、

波立つ海原干上がりて もの皆すべてを涸らしめぬ限り、

この誓い 破らるることはなし。

我ここに誓う。

汝仮初めの巫女なれば その意その志 我は妨げんことを。










保護者と王子と隊長と









「《やあ、こんばんは。いい晩だね》」
ヴァロマは親しげに笑いかけた。
少女よりも優に頭二つ分は背の高いエルフの青年が2人、呆然としたようにそんな[彼]を見下ろしていた。
一人は闇の森の王子であるレゴラス。
もう一人はロスロリアンの国境警備隊長ハルディア。

ロスロリアンを揺さぶるような圧倒的な力に慌てて駆けつけると、そこには王妃ガラドリエルとすっかり人が変わってしまった異世界の少女が妙に和やかに話しながら歩いているところだった。
2人は先に現場に着いていたエルフたちから、異世界のヴァラールが現れたらしいことを聞かされた。
圧倒的で異質な力は、その者が放っていたのだと。
多くのエルフたちがそうしているように、レゴラスとハルディアも王妃と[彼]の動向をマルローン樹の陰から見ていたのだが、[彼]は突然自分たちがいる方にずんずん向かってきて、朗らかに挨拶をしてのけたのだった。
「《返事はなしかい?せっかくふれんどりーにいこうと思ったのに》」
腰に手を当ててヴァロマは残念そうに首をかしげた。
「貴方…が、ナセ殿…?の迎えに来たのですか…?」
[彼]が誰かなどと確認するまでもなかった。
が己の半身と呼んだ、異世界のヴァラ。
確かに「必ず」迎えに来てくれると彼女は言っていたが、
(こんなに早く来るなんて…)
恋を自覚したと思ったら、すぐに別れるかどうかの選択を迫られ、苦渋の決断でそれを受け入れた。
かと思えば、他ならぬ自身によってその選択はなかったものとなり、ほっとした反面複雑な気分になったのだが、それでも少しでも長く共にいられるのは純粋に嬉しかったのだ。
だが、それはまたしても覆されてしまった。
[彼]が来てしまったのだから。こんな形でとは思いもよらなかったのだが。
レゴラスは目の前が暗くなってゆくのを感じながら、愛しい少女の姿をした恋敵を凝視していた。


「ナセ…?」
ハルディアは訝しげにレゴラスに目を向けた。
主人の一人であるガラドリエルは、[彼]をヴァロマと呼んでいた。
エルフの彼に聞こえなかったはずはないのに。

「《…なぜそれを知って…》」
怪訝そうな表情になったのはヴァロマも同様だった。
眉間にしわを寄せ、額に手を当てる。
「《あ》」
少しして思い当たることがあったのか、ぽんと両手を打ち合わせると、くるりと後ろを振り向いた。
「《女王!》」
「何でしょう?」
ガラドリエルはすでに後ろに控えていた。
「《エルフは親愛の情を表すのに接触を多用するのか?握手なり抱擁なり、それ以外でも》」
「いいえ。どちらかというとその逆でございます」
「《…やっぱりね。そんなことだと思ったよ。…王子、こちらに来なさい!》」
ヴァロマは手のひらを上にして手招きし、レゴラスを少し離れた木の陰に誘った。
手振りでしゃがむように指示し、自身も片膝をついて腰を落とすと、やおら首に腕を回して鼻と鼻くっつきそうになるほど顔を近づけた。
「!?」
《一体どういう了見をしているのだね、君は》
少女の細い腕にもかかわらず、レゴラスを押さえる力は強く、ぎりぎりと痛いほどだった。
重なっていたの声はもう聞こえず、代わりに怒りを含んだ男の低い声で囁かれる。
「…了見と言われましても、私には貴方が何に対してお怒りなのかがわからないのですが…」
いつもの温かな色合いの茶色の瞳が、今は挑戦的に細められていた。
訳がわからずレゴラスは途方にくれた。
《ほう。ならばカラス・ガラゾンに着いた翌朝、と言えばわかるだろう?あの子がわたしを口に出してそう呼んだのは、その時しかないのだから》
「……あ」
ぎくりとしてレゴラスは動きを止めた。
《眠っている乙女の部屋に侵入するとは、随分な真似をしてくれたな》
(…そうだった。)
あの時は自分の気持ちで手一杯で、彼女がまだいることをきちんと触れて確かめたくて、まだが目覚めないうちに部屋に入ったのだった。
日はもう昇っていたし、部屋の外にはエルフの女性がいたのだけど…。
普段だったら絶対にやらないことで、恋とはここまで男を莫迦にしてしまうのかとか、ちょっとあさってなこと思いついたりしたけど、とにかく問題は。
「なぜそこまで知ってるんです!?」
ということだ。
そのことを知っているのは、自分と、アラゴルンとスーリンーの世話係になっているガラズリムの女性だーくらいのはずだった。
《そんなこと当然だろう。今わたしが入っているのは誰の身体だと思っているのだ。ひいなの身体にひいなの記憶があるのがそんなに不思議かね?》
ヴァロマはひょいと肩をすくめる。
「…っな」
記憶を読んだのだとあっさりいいのけた[彼]に、レゴラスは不快感を覚えた。
「貴方にそこまでしてもいい権限があるのですか!?」
食って掛かるレゴラスをヴァロマは呵呵と笑い飛ばした。
《あるとも。この子はわたしの巫女なのだから。それに、今更ひいなが気にするとは思えないね。今回はいきなりだったから文句を言われるかもしれないが、それくらいだ。たいしたことではない。で、どうなのかね?》
「それは…早まったことをしてしまったとは思います。申し訳ありませんでした。ですが…心配だったものですから。ナセ殿、はどうしているのです。彼女とはもう話せないのですか?」
このまま帰ってしまうのだろうか。
なにも告げていないのに。
別れの言葉もなしに?
《ひいなは今眠っている状態だ。いつもならわたしが降りても意識はあるのだが、さすがに今回は負担が大きいようでな。起きればわたしが来たことはわかるだろうが、この感じでは何も覚えていないだろう。わたしの意思は伝えなおしてもらう必要があるだろうね》
おもしろくなさそうにヴァロマは答えた。
「起きたらって…貴方はの迎えに来たのでは?」
レゴラスがそう言うと、ヴァロマは立ち上がり、ぎろりと睨みつけた。
《君は質問ばかりだな。わたしは何度も同じことをいうのは嫌いだ。そのあたりのことはすでに女王に話したし、ひいなの今後に関しては王と女王に頼むつもりでいる。居場所はわかったのだ。後は道をつなげるだけでいい。どうしても時差が起こるから今日明日というわけにはいかないが、どれだけ遅くても季節が一巡りする前にはこの子は帰れるのだ。それだけわかれば十分だろう!?》
急に不機嫌になったヴァロマの様子から、[彼]が単独ではを連れ戻すことが出来ないのは明らかだった。
レゴラスも立ち上がり、思わず安堵の息をつくと、ヴァロマはさらに表情を険しくした。
《だから、ひいなはこの黄昏迫り来る世界にもうしばし留まらなくてはならない。その間は今までのようにわたしの護りはない状態だ。出来る限りの手は打ってゆくが、それでも状況は尚悪い。
――旅を続けるだなどと》
ぎりっと唇を噛んだ。
しかしの身体だということを思い出したのか、すぐに離した。

「お話中、失礼いたします。ヴァロマ殿」
《なんだね、隊長》
ヴァロマは首だけ動かしてハルディアを見やる。
ハルディアはヴァロマの側まで歩み寄ると礼儀正しく一礼し、おもむろに口を開いた。
「レゴラス殿から聞き及んだことなのですが、殿には指輪の魔力が効かないというのは真実のことなのでしょうか。姫君が旅立ちを決意されたのは、それもあってのこととか。そして姫君が仰るには、旅立つことを貴方はけして止めないと」
《効かないわけではない。単にあの指輪ではひいなが望むことを、つまり帰りたいということだが、本当には叶えられないとひいなが知っているだけのことだ。心を蝕もうとする魔力は、確かにひいなには効きにくい。が、あの指輪の魔力は身体も蝕む。それに対しては通常の人間と同程度の抵抗力しかないだろう。わたしはひいなを旅立たせたくはない。だがわたしには止められないのだ。止めないのではなく。天と地と海にかけてひいなの意志を止めないと誓っているのでな。
だからといって、わたしがこの子が旅立つことに賛成しているなどとは思わないでくれ》
「では、本当に止めないおつもりか?私に言わせれば姫君の行いは、勇気ではなく無謀と呼ぶこそ相応しいものです」
「ハルディア!?」
あまりに端的なハルディアの物言いに、レゴラスは思わず声をあげた。
「貴方はそう思われないのか、レゴラス殿」
レゴラスの声に非難の響きがあるのを聞き取って、ハルディアはレゴラスに冷ややかな視線を投げつける。
「そうだとしても、が望んだことなんだ。それに勝算がまるでないわけでもないのでしょう?出来ないことと出来るかどうかわからないことは、たとえ気休めでも出来るとはは言わないんでしたよね、ナセ殿?」
「なんです、それは?」
ハルディアは指輪の旅の仲間たちの話し合いを知らない。
《家訓のようなものだ。もともとはわたしの心掛けの1つなのだったがね。この子は半分わたしが育てたようなものだから、うつってしまったようなのだよ。それはともかく、無謀といわれれば確かにそのとおりだ。少なくともひいなは無事に旅を終えられるなどと思ってはいない。「出来ること」というのは「なんら危険を負わない」ことと同義ではないよ、王子。ひいなは指輪所持者が使命を果たせるようにすることを、己に任じてしまった。自分の生死はすでに視野にはない》
目の前に立つーの身長からすればー見上げるほど丈の高いエルフの青年たちを双眸に映し、ヴァロマは無感動に告げた。
「そ…そこまでわかっていて止められないから止めないというのですか、貴方は!?なんて融通の利かない方だ!」
ハルディアはしばしあっけに取られ、しかしすぐに我に返ると蒼白になって叫んだ。
《融通云々の問題ではない。出来ぬものは出来ぬのだ。王子、君にはひいなを止める気はもうないと、わたしには思えるのだが…》
大きな目を半分伏せて、試すようにヴァロマは問うた。
「ええ、ありません」
「レゴラス殿!」
即答したレゴラスに、今度はハルディアが非難の声をあげた。
「でも、は私が守ります。絶対に死なせたりはしない!」
《ならば、やはり隊長だな。どうだろう、この子に旅を続けるのを止めるように説得してもらえないだろうか。わたしもそう望んでいると》
続けて決意を告げるレゴラスから視線を逸らすと、優しげにハルディアに微笑みかけた。
「ナセ殿!」
無視されて、レゴラスはかっとなった。
《それはわたしの名ではないし、ひいなにのみ許した呼び方だ。慎みたまえ》
ヴァロマはハルディアに目を向けたまま冷ややかに切り捨てた。
ハルディアは背中にひやりとしたものを感じながら、淡々と返す。
「言われるまでもありません。もとよりそのつもりでした。たとえ少々強引な手段を使ってでも姫を止めます」
を行かせたくないのは己の意志。
ロスロリアンを離れられない身なれば、彼女が旅立ってしまった後、再び会える確立は低い。
そして外へ出れば、危険は容赦なく彼女にも降りかかるだろう。
ここにいればいい。
誰に言われなくとも、そう考えていた。
[彼]がの半身だとしても、[彼]が異世界のヴァラだとしても。
けして[彼]が命じたからそうするわけではない。
《――いや、それはやめてくれ。説得だけでいい。それで駄目だったら、その時は仕方がない、旅立たせてやってくれ》
「しかし――」
ハルディアは困惑して眉をひそめた。
今更何を言うのだろうか。
旅立たせたくないと言いながら、説得だけでいいとは。
「手荒な手段」といっても、物理的に危害を加えるわけではない。
高い場所にあるタランに連れて行き、指輪所持者たちが旅立つまで梯子をはずしておくだけだ。
後を追えぬとわかれば、彼女も無理やりついて行こうとはしないだろう。
《残るにしろ旅立つにしろ、指輪所持者に形代の術を使うだろうからなあ。術式自体は簡単だが継続させるには色々気を使うのだよ、あの術は》
「ですから、私がを守ると――!」
レゴラスが叫んだが、またもやヴァロマは何も聞こえないように言葉を続けた。
《穢れはひいなの大敵だ。あまりに溜まると生命力が弱まるので、指輪の魔力以外の穢れは極力排したい。だが何が穢れに相当するのかはかなり細かい基準があり、何気ない動作がひいなにとって害になることもあるのだ。しかしすべて説明している時間はない。そういうわけだから説得だけでいい》
「そういうことでしたら…」
「ヴァロマ殿!」
《灰色の魔法使い殿が存命であったなら、ひいなも無理せずここに留まってくれたであろうに。全く残念だ》
「無視するのはやめてください。私ではそんなにご不満ですか!?」

《ああ》
ゆるり、とヴァロマは顔を上げ、ひたとレゴラスを見据えた。
《大いに、不満だね》
の大きな茶色の瞳には、温かみの欠片もなかった。
「私が、彼女を愛しているから、ですか?」
[彼]がの記憶を読めるのなら、彼女が気付かなくても[彼]はレゴラスの想いに気付いているはず。
「想うことすら罪になるのですか?」
《男は毒だ。穢れよりも、なお悪い》
ヴァロマは無感動に告げた。
《ひいなが種族問わず好かれることなど、珍しくもない。それに、大体誰かが誰かを想う気持ちなど、止められるものではないよ。まあ、わたしも昔はそのあたりがわからなかったから色々と強引な真似をしてしまったこともあるが…今は紳士的に振舞ってくれさえすれば別に想うこと自体は咎める気はない》
「貴方はどうなんです!?」
「貴方はどうなのです!?」
声を合わせて問う金髪エルフ2人を、ヴァロマはおとがいを上げて笑いとばした。
《わたしは特別だよ。決まっているではないか。ひいなはわたしの巫女なのだぞ。これまでの事は…ひいなは怪我をしていたのだし、それどころではなかったからな、不愉快この上ないが、事情が事情だ。これまでの君の振る舞いについてはこれ以上追及しないことにしよう、王子よ。だが、これからはゆめゆめ男の心をもってひいなに触れるでないよ。もちろん隊長、君も》

もしも触れたら――

その時は。






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