こんなことを考えていた。
彼の君がある日突然現れるということ。
きっとその背は高く、厳めしく、輝いた姿をし、
の手を取り、連れ去ってしまう。
私は省みられることはない。

こんなことを考えていた。
彼の君を前にして、私には憎しみを抑えることができないだろうと。
叡智を秘めた目、力ある声、ただ手の一振りで、どれほど奪い、どれほど癒せるのか。
年経たものが持つ、すべてを見透かしたような眼差しは、
私を打ちのめすのだろうと。










疑惑










「ナセ…!」
王の館入り口から少し離れて立つ、少女と同じ姿をしたその人は、少女をしっかりと見据えると慈愛深い微笑みとともに両手を広げた。
刹那、の背は雷に打たれたように震えた。一瞬後、少女は駆け出した。ローブが大きく翻り、風を孕んで広がった。
会いたくて会いたくてたまらなかった自分の半神だ。
懐かしさと愛しさと、少しの罪悪感とともにはヴァロマにしがみついた。
「ナセ、ナセ、ナセ!」
叫んで叫んで、子供のように手放しで泣く。
ヴァロマは黙って少女の背中をさすった。
それを嬉しいと素直に思う反面、自分はもうヴァロマに導かれ、すべてが彼と共にあるのだと思っていた頃とは大きく隔たってしまったのだと感じた。
こんな風に甘えることなど、これから先二度とないだろう。そう思うと心の中に言い知れぬ苦しさと寂しさがじわじわと広がっていくのだった。
ヴァロマはが落ち着くまでじっと立っていた。はしばらくしゃくりあげ、息もままならないほどになったが、やがてすすり泣きに代わると少女のものと同じ形の白いローブの袖でそっと涙を拭った。
「…会いたかった」
無意識の内にもう片方のヴァロマの袖を握り、はようやくそれだけが言えた。
「ああ。わたしも」
ヴァロマはにこりと目を細めた。
「来てくれて、ありがとう」
が続けてそういうと、ヴァロマは皮肉げに唇を持ち上げた。
「もっと、早く来てあげたかった」
の表情が強張る。レゴラスとのことは後悔はないと胸を張って言えるが、それでもどこかでヴァロマを裏切ってしまったという思いがまとわりついていたのだ。
背信を責められているように感じて、は俯いて唇を噛んだ。
しかしヴァロマはのあごに手をかけて上を向かせた。
「わたしがついてやれなかったばかりにこんなに傷ついて…。すまない、おと姫。無事、だとはいえないが…生きていて良かった」
自分と同じ顔をした、しかし幼い頃から慕っている力ある存在の、悲しげだがどこかほっとしたような表情にの目が潤んだ。
やはりわかっていたのか、と思った。
は今までヴァロマに「ひいな」と呼ばれていた。彼の庇護する小さくて可愛いものを意味する特別なその呼び名は、今はただ後継者を意味するものに変わっていた。
「おと」は「乙」であり、「弟」である。どちらも二番目や年下を意味する言葉だ。の一族では直系で家督を継ぐ者にはすべてこの「おと」という呼び名が使われていた。その後ろには男子を意味する「彦」か、女子を意味する「姫」がつく(だからの父親は「おと彦」と呼ばれているのだ)。もちろんこの場合、「一番目」であり「年上」なのはヴァロマだ。人知の及ばぬ存在との共生を表すものだとは幼い頃から聞かされていた。ただ、自分がその名で呼ばれるときが来るとは思わなかったのだが。
なぜなら巫覡に必要なものは心身の純粋性である。相手が必ずヴァロマである必要はないのだが、巫覡として「彼ら」と付き合い続けてゆこうとするのなら、「彼ら」以外に心を傾けてはいけないのだ。身体も同様である。
家督を継ぐためには子をなさねばならないのだが、巫覡であろうとするならばそれはできないのだ。直系の一人っ子、そして巫女の才能があったはどちらかを選ばなければならなかったのだが、彼女はずっと巫女を務めることになるのだろうと思い込んでいたため、
レゴラスに恋して、初めてそのことに気付いたのだった。
むろん、巫覡から家督者になった者も中にはいるのだが、選んだ相手が異世界の、さらに異種族であったため、さらなる苦悩を抱えることになってしまった。
しかし、冷静に考えてみれば選択の余地はなかったのである。
ガイアには当然ながら「人間」が存在した。まったく同じかどうかはわからないがアルダにも「人間」がいる。しかし、ガイアにはエルフは存在しないのだ。
共通点が多かろうと、エルフというまったく異種のものが、それらがまったくいない世界に適合できるものだろうか?答えは否である。形が同じでも、海の魚は川には住めないものだ。その逆も同じである。必ずなにか不具合が起きるだろう。
だからは自分が残ることにした。
ヴァロマがそれを許してくれるかは、賭けである。
「はい。運良く生き残れました。それから、あの、報告しなければいけないことが…。もうわかっているみたいだけど」
が口ごもりながらレゴラスと結婚したことについて告げようとすると、ヴァロマはそっと少女の唇に指を当て、片目をつぶって囁いた。
「その話はあとで。順番があるでしょう?わたしはまだ後ろの者たちに挨拶もしていないのだからね」
「あ…はい」
加えてここは屋外である。第七階層まで上がってこられる者は限られているのだが、それでも誰に見られるかもわからないのだ。現に後ろをちらりと振り返ると、事情を一切しらない衛士たちが目を白黒させていた。騒ぎが大きくなる前に、中に入った方がいいだろうと、はようやく思い至った。



レゴラスはがヴァロマに駆け寄ろうとした時、反射的に止めようと手を伸ばした。
しかしそれはガンダルフによって遮られ、彼の手はむなしく空をつかんだだけだった。
両手を広げたヴァロマに向かって、は真っ直ぐに走ってゆく。
彼の名を呼んで、身を振り絞るように泣く少女に、レゴラスは焦りと不安を感じないわけにはいかなかった。
「ミスランディア、離してください!」
「少し待て、親しき者たちの再会を邪魔してはならん」
「でも!」
レゴラスとガンダルフが声を抑えて言い合っている間、少女はひたすら嗚咽していたのだった。が落ち着きを取り戻すまで、レゴラスはじりじりと焼け付くような痛みを持て余しながら爪が食い込むほどきつく拳を握っていた。
レゴラスにとってずいぶんと長い時間が経ってからようやく、ヴァロマが少女から離れてこちらに向かって歩いてきた。
先頭でことの次第を見守っていたアラゴルンの背中が緊張で強張っている。彼はヴァロマに会うのは初めてなのだ。
目の前まで来たヴァロマは目元に柔らかい微笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「不躾な呼びたてをお許し願いたい。人の子の王よ。こちらの方々に不用意に目立つなといわれているものでね、このような形をとらざるを得なかったのだよ」
異世界のヴァラと聞かされていた人物の穏やかな物腰に、アラゴルンは驚いたように息を飲んだ。少女の姿をしているという点を除いても、レゴラスの話から想像していた厳しく険のある人物像とはだいぶかけ離れている、と思った。
アラゴルンは威儀を正して礼を返した。
「遠き世界よりようこそお越しくださいました。異世界のヴァラよ。かかる高貴な方を迎えることができようとは、光栄の至りでございます。今、都は喜びの内にあり、西方世界の主だった諸卿、美しい方々、誠実なる友らが大勢集っております。さあ、どうぞ中へお入りになり、われらの歓迎を受けてください」
アラゴルンがいうと、ヴァロマは少し困ったような表情になった。
「いいや、王よ。わたしはそなたたちと話ができればそれでよいのだ。宴は無用。わが姫を助けてくれた者たちに礼を言うためにここへきたのだからね。それから、わたしはこちらのヴァラではない。本来ならばこの場にいることなどありえぬのだから、あまり多くの者に見られるのも困る。記録に残すことも一切してはならない。ここにはわたしはこなかった。よいね?」
ヴァロマは唇に指を当てて目を細めた。
「承知いたしました」
アラゴルンは即座に頷くと、ファラミアを呼び寄せ耳打ちをした。
ヴァロマの存在に気付いただろう衛士などに箝口令をしくために、ファラミアはその場を離れた。





エオメルたちは今日の昼前には出発する予定であったが、予定を延ばしてヴァロマとの会談に望むことにした。自然、彼らに同行するはずであったアラゴルンらも同じく日程を延ばすことになる。
しばらく慌しい雰囲気になったが、アラゴルンは広間をイムラヒルに任せ、自分たちは王の館の一室に場所を移した。
その部屋に入れたのは、と直接かかわりを持った者たちとその縁者たちである。すなわち旅の仲間の八人、ロスロリアンからは領主夫妻と警備隊長。裂け谷の主とその子供たち。ローハンの王とその妹、執政の十八人だ。
そこにとヴァロマが加わり総勢二十人が集っている。
各方面への指示を出し終えたファラミアとエオメルが部屋に入ってくると、ヴァロマはくつろいだ様子で椅子に座っていた。その隣にはがいる。今のヴァロマはと同じ顔であり、同じローブを着ているため見間違えてもよさそうなものだが、纏う雰囲気があまりにも違うため、そういったことは起こりようがなかった。の若々しく柔らかい雰囲気に比べ、ヴァロマは華奢な身体からはあたりを払うような威厳と覇気が溢れているのだ。
「これで全員?」
「ですね」
ヴァロマがに簡潔に確認すると、それでは、と立ち上がった。
彼はまずフロドの前に行くと、ホビットの目線に合うように膝を折った。
「まずは、困難なる旅を遂げられた、指輪所持者たちへ祝福を。わたしはあなたがたの世界の者ではないゆえ、なんの恩寵も差し上げられないが、偉大なる功績は世界を隔てた者であろうと、讃える言葉を惜しみはしない。よくぞ戻られた」
そういうとフロドの額に口付けをした。
フロドは驚きのあまりに目を大きく見開いたまま動くことができなくなった。と同じ形の茶色の大きな瞳には、深い知恵と愛情があり、また少女とほとんど同じながらもしなやかな強さのある声は快い音色のようであった。
ヴァラに跪かれているという衝撃から我に返ったフロドは、耳まで赤くなりながら震える声でようやく礼を言った。ヴァロマは屈託のない笑顔を浮かべ、隣にいるサムの前に行き、同じく膝をついて額に口付けた。
次に[彼]はガンダルフの前に行くと胸の前に手を当てて軽く頭を下げた。
「長きに渡る務めがようやく終わりましたな、オローリン。あなたの働きは千の風によってすでに遙か西方まで伝わっておりますよ」
ガンダルフは礼を返すと、ヴァロマの本質を見極めようとするかのように少女の姿をじっくり眺めた。
「どうやら殿はわしが思っているよりもはるかに多く、わしらやこの世界のことをご存知のようですな」
「それはもちろん。他所の世界に行って好き勝手に振舞うわけにはいかないからね。色々教えてもらったさ」
片目をつぶると、次にアラゴルンの前に行く。
「人の子の王には過ぎ行く過去よりも未来を祝おう。今はまだ多くのものが傷つき疲れてはいるが、それらを癒すのがそなたの務め。重く厳しいものとなろうが、そなたの傍らには王妃がいること、頼もしき執政、同盟国の主ら、また多くの諸卿がついていることを忘れないように」
ヴァロマの言葉に聞き入っていたアラゴルンは自然、膝をついた。アルウェンもそれに倣う。エオメルとファラミアはヴァロマの言葉を肯定するように、力強い笑みをアラゴルンに向けた。
その後[彼]はロリアンの領主夫妻にの世話と傷の手当てをしてくれたことに改めて礼を言い、エルロンドに挨拶をした。ハルディア、裂け谷の双子たちの功を讃えると、残りの旅の仲間たちの前に行った。
サムの隣にいたメリーにはアングマールの魔王と対峙したことを讃え、についていてくれたことに礼を言った。
メリーの隣にいるのはピピンだった。
ピピンはヴァロマから陽気な挨拶を受けると、かちこちに身体を強張らせてぴょこんと頭を下げた。
「あの…その姿って、本当のものじゃないんですよね?とそっくりにしているだけで、本当はもっと別の姿なんですよね?」
頭を上げると、ピピンは我慢できないように一気にしゃべった。
「ああ、そうだよ。『わたし』が来たと悟られず、王の館に近づいても不審がられないために、わが姫の姿をとったのだよ。もともと地上を歩く時には、その場に応じた姿をとっているので姫にはすぐにわたしとわかっただろうが」
ヴァロマは鷹揚に頷いて好奇心旺盛なホビットに説明した。
「そうですよね。だって、ぼくが見たのとぜんぜん違うんですもの!パランティアを覗いた時に、サウロンに捕まりそうになったぼくをが助けてくれたんですけど、その時にでてきたのがあなたの似姿だったんです。後姿しか見えませんでしたけど、背が高い男の人だったのに全然違うでしょう。びっくりしました。それに…」
「それに?」
ぺらぺらと興奮したようにしゃべっていたピピンがはたと気付いて口を押さえると、ヴァロマは首を傾げて続きを促した。
「えーと、その、思っていたより怖い方じゃないんだなあって…」
ピピンはもじもじと上目遣いで答えた。
「おやおや!」
ヴァロマは目を丸くすると軽やかな笑い声を上げた。
その後ろではが顔を背けて肩を震わせている。噴出すのを堪えているのだ。
ヴァロマはピピンの茶色の巻き毛をくしゃくしゃとかき混ぜると、隣のギムリの前に動いた。
ギムリはヴァロマと丁寧な挨拶を交わすと気遣わしげに隣をちらりと見上げた。
ドワーフの隣には、固い表情の闇の森の王子が立っているのだ。
ヴァロマは特に表情を変えることなくレゴラスの前に立った。
「君と会うのも二度目だね」
「ええ。その姿は予想外でしたが」
やんわりとした微笑みを浮かべるヴァロマと対照的に仏頂面とも取れる表情でレゴラスは答えた。
「以前は失礼した。肝心なことを言い忘れていたのだから。わが姫を助けてくれてありがとう。怪我を負ったまま霧ふり山脈に墜落したのだもの、君があの子を見つけてくれなかったら、まず助かっていなかっただろう。君のおかげだ、スランドゥイルの息子よ」
「…は、…え、…いえ、ありがとう、ございます」
しおらしいともいえる態度で頭を下げられ、レゴラスは呆然となった。
目の前にいる人物はレゴラスを嫌っているものだとばかり思っていた。皆にねぎらいの言葉をかけ、祝福をしても自分にはないのだろうとも、無視されるかもしれないとも考えた。
ヴァロマの声からは苛立ちや憤りを抑えている様子は聞き取れない。本当に心からレゴラスに感謝しているようであった。
ヴァロマの後ろではが嬉しそうに笑っている。彼女は「許されるはずだ」と言い切った。その言葉が証明されたと言うように。
「…その姿は、私に対する嫌がらせかなにかだと思っていました」
愛する少女と同じ姿のヴァラに、レゴラスは本音をぶつけてみた。
彼の真意を確かめるためである。
「そういった意味はない、とは言わないよ」
しれっとヴァロマは答える。
(やっぱりね…)
まだ許されたわけではないのだ。
「ヴァロマ殿にはぜひ聞いていただきたいことがあります」
「聞こう。だがまだ挨拶が済んでいない」
ヴァロマはそういうと、レゴラスの前を離れ、執政と婚約者の白い姫、ローハンの王の方へと行った。



(…おかしい。なんであんなに落ち着いているんだろう。前にロリアンに来たときにはに片思いをしていただけなのにあんなに怒っていたのに。はもう実質的には私の妻となったのだから、もうヴァロマ殿のミコには戻れないはず。あの時とは比べものにならないくらいに怒り狂うのかと思っていたんだけど…。何か、企んでいるのかな?)

少女がヴァロマに向ける信頼のこもった笑みが不安だった。
レゴラスには彼女ほど楽観できないのだ。
疑惑のこもった眼差しで、エルフの青年は[彼]がすべての挨拶を終えるのを待った。







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