1911年5月8日(月) ジュディたちの大学では、先週、運動会が行われたようだ。 気候も穏やかになったことだし、戸外で運動するにはよい季節だろう。 ジュディは50メートル走で優勝したとのこと。 きっと彼女は大はしゃぎをしたことだろう。元々、活発な子のようだから。 本領発揮、といったところかな? それから、今回の手紙は久々の長さだったが、その原因が「ジェーン・エア」だ。 作中に登場するローウッド慈善学校が、彼女をしてどうしてもジョン・グリア孤児院のことを考えさせずにはいら れなくしたようなのだ。 (もっとも、ジョン・グリアはローウッドよりもひどくはない、とは断言しているのだけれども。) ジュディは長い間ジョン・グリアにいて、そして現在は女子大学に在籍している。 自分で言うのもなんだが、女子就学率がまださほど高くないという現状から鑑みれば、彼女のような存在は珍し い部類に入る。 人は、自分の置かれている現状を本当の意味で的確に理解しているとはいえない。 なぜならそこには、どうしても拭い去る事のできない固定観念が、つまり、自分にとっては当たり前過ぎて気付け ないことが存在するからだ。 その状況―階級でも、家庭環境でも何でもいいが―の良さと悪さを、冷静に判断できる者がいるとすれば、その 状況に置かれていない第三者ということになろうか。 だが、その第三者とても、完璧ではない。 なぜなら、第三者ではその状況に置かれているが故の当事者の心情までは理解しきれないからだ。 ジュディは孤児院に一番必要で、そして現在まったく省みられていないものは想像力だと言っている。 他の人の立場を自分に置き換えて考えることができれば、親切で情け深くなれるだろうと。 確かに、ジュディがあの施設で想像力を何とか踏む潰されずに成長し、こうして存在していることを思えば、彼女 の指摘は理にかなっているのかもしれない。 少なくとも、あの作文がなければ、私はジュディに興味を持つこともなく、結果、彼女はどこかの家庭の使用人か、 農場の手伝いをして働いていたことだろうから。 高等教育を受けたことで、彼女は自分の置かれていた立場というものを当事者としてでも第三者としてでもなく 彼女独自の視点で解釈したのだ。 さて、ジュディはその想像力を使って、孤児院を運営するという遊戯をしているそうだ。 『たとえ大人になってからどんなに苦労をするとしても、せめて子供時代を振り返ったときに幸福だったという思 い出をもたせてやらなければならない』という言葉が彼女の切実な思いを表しているようで、耳に痛い。 あの場所では、彼女は少しも幸せではなかったということなのだから。 評議員としては、ここは謙虚に耳を傾ける必要があるだろう。 そして、少し考えたのだが、もしも彼女が小説家としては成功しなかったら、彼女にジョン・グリアを任せてみる というのはどうだろう。 孤児としての思いと、それ以外の世界を知ったものの、両方の視点であそこを切り盛りできるのならば、現院長 の元よりも、子供たちはよほど幸福になれるのではないかと思うのだが…。 |