1913年3月7日(金) ジュディから届いた手紙の内容は、ここ久しくなかったものだ。ジョン・グリア孤児院に関すること、そこで育った 自分のことをつらつらと思い返しているようだ。 卒業が近付いていることで、自分自身をみつめ直してみたのかもしれない。 ジョン・グリアでは月に一度、第一水曜日に評議員会があって、今でも私は都合がつく限りは出席しているのだ が、帰り際に子供たちの頭をなでてゆく評議員というのは案外大勢いるのだ。 それでジュディは、自分がまだそこにいた頃、私―スミス氏―が彼女の頭をなでたことがあるかと聞いてきた。 正直言って、覚えていなかった。私は気が向いた時くらいにしか子供の頭をなでたりはしていなかったのだ。 彼女自身が、自分は肥った委員にしかなでられたことがないと言っていたので、多分その通りなのだろう。 私が彼女の顔がどんなであるか知ったのは、後見人になると決めたときでもなければ、大学に入学する準備を する時でもない。入学してたっぷり半年は経ってからのことなのだ。それも、気まぐれを起こしたからであって、もし 私が彼女の手紙に誘われて、一体どんな少女がこれを書いているかという好奇心にかられなければ、これまで 援助をした少年たち同様、直接会ったりはしなかっただろう。立派な社会人になってくれさえすればそれで良いと 思って。 彼女はペンの力だけで、自分自身だけではなく、私のことも変えてしまった…。 今では評議員会に出席するため、ジョン・グリアを訪れると、どこを見ても、ジュディがにこにこ笑ってそこにいる ような錯覚さえ起きるほどだ。 出会った頃よりももっと若く、いたいけな、それでも生きる力に溢れて、それでも…親がいないという絶対的な ハンデに喘いでいたジュディ。私はあの頃の君を少しも覚えていないことに、一抹の罪悪感を覚えているよ。 こうなってくると奇妙なもので、もっと早く気付いていれば良かったとか、どうして気付かなかったのかなどと、 今更言っても仕方がないことを考えてしまうのだ。 それに、こんなことも考えたんだ。 もしも私がずっと以前、小さなジュディがどこか元気のない子供たちに混じって、にこにこと笑っている頃に 出会っていたら、なんて。 私は独り身だから養女にするわけにはいかないが(第一、いくらなんでも彼女くらいの子供のいる年ではない) やっぱり後見人になって、学校が休みの度に一緒に楽しく過ごせたのではないかと思う。本当の叔父さんや姪 のように。 夏休みはロック・ウィローに。クリスマスにはニュー・ヨークに。復活祭の休暇には、気の向いたところへ。 その時には彼女に恋することはなかっただろうが、それとは別の強い絆が私たちの間には生まれていただろう。 これはただの想像だ。あったかもしれない、未来の一つ。 それにしても、随分楽しげな想像だと我ながら思う。 |
*実は、これに対応する手紙の出だしは「明日は月の第一水曜日」というものです。
ジュディがこの手紙を書いた日付が3月5日なので、6日が水曜日ということになります。
それで、えー、実は、1913年の3月6日は木曜日なのです。
6日が水曜日になる日は、1912年です。
かといって、そこに日付を合わせても、またどこかで狂いが生じますので、そのままにしておきます。
ウェブスター女史、カレンダーとか調べなかったんだろうなぁ。