「うっそーん」
 こんなところにあるとは思えないものが目の前にある。
 あたしは、思わず呟いた。
 ――VOCALOID KAITO――
 最近、あたしが気になっているソフトのひとつだ。

 ここはさして規模の大きくないリサイクルショップ。ただしフィギュアやトレカなど、いわゆるマニア向けのものを中心に取り扱っている店ではない。ごくごく一般的な、家電や服、家具などが商品のほとんどを占めているところだ。
 本やCDならそういうものを専門で扱ってる中古屋があるので、そのせいだろう、それらもほとんどなかった。だからあたしがそのコーナーに行ったのは、本当にただの偶然だった。品揃えなんて、最初から期待していなかったもの。ただ一度入った店はぐるりと回らないと気がすまないという、日頃の癖が発揮されたからに過ぎない。
 ああ、だがしかし、このしょぼいラインナップしかないコミック、CD、DVD、その他ソフト関係の棚には間違いなくKAITOが並んでいる。一体これはどうしたことだ。前の持ち主はなんだってこの店で売ったんだ? まさか今の時代、KAITOを買うような人が専門店を知らないなどとは思えないんだけど……!
 いや、まあいい。
 おそらくそのお陰、と言えるのだろう。彼の値段は我が目を疑うほど格安になっているのだ。
 KAITOの定価は二万円近く。通販サイトなどでは割引されているものの、一万五千以上はする。中古もあるけど、それでも一万円を切ることはないだろう。高校生の買うものとしては、少し高い。
 だが、この店の人(ちなみに、チェーン店ではないはず)は市場価格を調べなかったか、この店ではそれでは売れないと判断したのだろう。目の前のKAITOの値段は投げ売りといってもよい四千九百八十円だった。これは買うしかあるまい!
 ほくほくと舞い上がるあたしに、しかし頭の中の冷静な一部が囁く。『こんなに安いもの、大丈夫なの?』と。
 あたしはKAITOのパッケージを手にしながら、逡巡した。CDやDVDと違って、あたしはPCソフトの中古というものを買ったことがない。ましてやこんな専門店ではない店だもの、一度インストールしてみてちゃんと動くかどうか確認しているのだろうか? 前の持ち主がロムにうっかり傷とかつけていたら? 中古ソフトの不具合でもメーカーサポートとかしてくれるのかなぁ。
 こういう不安は、一度家に帰って調べた方がよいのだろう。この店なら明日来てもおそらくまだ売れ残っているだろうし。
(でも、万が一ということがないとは言い切れないし)
 四千九百八十円で買えるKAITOなど、二度とお目にかかれないだろう。もし、あたしが明日この店に来る前に売れてしまったら、悔やんでも悔やみ足りなくなる。
「…………」
 困った。
 あたしは、本当は最初に買うならミクだと思っていたのよ。そりゃあそのうち兄さんのこともお迎えしようとは思っていたけど、あたしはDTMなんて動画サイトでボーカロイドのことを知るまでぜんぜん聞いたこともなかったくらい興味のなかった分野なんだから。でもそんな初心者でもミクなら使えるという話を知ったので、まず彼女で練習をしつつ、ボカロやDTMの知識を増やしてそれから兄さんに取り掛かろうとしていたのだ。
 それからもうひとつ、問題がある。
 いくらKAITOとしては安いとしても、あたしの財政能力ではそれでも大きな出費になるということだ。
 あたしは両親から高校生の間はバイト禁止を言い渡されている。大学に進学するつもりでいるならそれからでも遅くはないだろう、だから今は学業とクラブ活動に専念しなさいということで。付け加えるとこれはかなりはっきりした命令で、大学への進学費用を盾に取られてすらていた。
 それでもどうしても必要で、でもおこづかいでは足りない分は出してくれるという約束なので、普段は特に不自由していない。服とかはなんだかんだいって、お母さんが買ってくれるから、結局自分ではお金を出さずにすんだりするし。
 そして毎月のおこづかいは一万円。月半ばになったのでいくらかは使っているので、現在の所持金は六千円とちょっと。KAITOを買ったら、残り半月を千円強で過ごさなければならない。
 ……それって、難しいよねぇ。友達とのつきあいもあるし。さすがにKAITOでは『どうしても必要なもの』だと親には認めてもらえないだろうし。
「う……ん」
 思わずため息がこぼれる。
 あたしは今年受験だ。大学生になるまで、順調にいけばあと一年もかからない。
 逆に考えれば、そのくらいの期間だけ我慢すれば、バイトをして趣味に使えるお金を増やす事ができるので、新しいKAITOを買うこともできる。それに今買ってもろくに使いこなせないまま放置、となる可能性は非常に高い。それを考えれば、ここで無理して買わなくても……。
(だけど、もし使いこなせなかったら、新品だと中古よりダメージが大きくなりそうな気がするのよね。なにしろ二万近くするんだし)
 五千円しないこの値段なら、まだ……。
(それに、受験受験って目を吊り上げてもしょうがない。もともとまったく手の届かないところを目指しているわけじゃないもの。たまの息抜きくらい、許されるよね……?)
 あたしは、せっかく頭の中の冷静な部分が構築してくれた『買わない理由』をあっさりと振り捨て、青いパッケージを握りしめてレジに向かった。

 あーあ、あたしってば。
 鍵を開け、家の中に入ると、どさりとバックと買い物袋を下ろし、ため息をついた。
「あ、ただいま。小次郎」
 玄関にはすでにあたしの足音に気づいた我が家の愛息子、小次郎がしっぽをふりふりお出迎えしてくれる。ちなみに小次郎はミニチュアダックスフンドだ。年は四歳。
「うりうりうり〜」
 わしわしと頭をなで、ただいまのスキンシップをとると、時計をちらりと見る。午後二時過ぎか……。なら散歩に行く前にKAITOをインストールしてしまおう。
 それにしても、あの店に入ったのは、帰りのバスが来るまでの時間潰しだったはずなのに、まさかこんな大きな買い物をするはめになるとは思わなかった。中間テストが終わって、ぱーっとストレス発散したかったというのはあるにしても。ま、バス代は定期を使っているからKAITOを買っても特にお金が足りなくなるなんてことにはならないからいいけど。
 とはいえ、今月の残金もあとわずか。なんだか早くも後悔してしまいそうだ。
(いやいやいや、せっかく買ったんだから、インスト前に後悔するのはやめよう)
 けれどあたしはこんな急にボカロを買うことになるとは思っていなかったから、解説書みたいなものは何も用意していなかったのだ。しょうがない、検索をしまくって、初心者向けのKAITOの調教を公開している方々を探そう、うん。
 となると、まずはPCの電源をいれないとね。
 あたしは荷物を拾い、鼻歌まじりで部屋に向かった。ちょこちょこと小次郎がついてくるが、部屋の前でしゃがみ、うっかり挟んでしまわないように小次郎を制しつつ、ゆっくりとドアを閉めた。配線をいたずらされると困るので、基本的にこの子はあたしの部屋には入れないことにしているのだ。
 さて、と。PCが立ち上がるまで、インスト手順でも確認しておくか。
 パッケージを取り出し、それを包んでいるビニールを外す。中の箱はさすがに中古らしく、前の持ち主が開けた跡が残っていた。少しよれたその箱の中身を取り出し、必要なものが全部そろっているか調べる。よし、これは問題なし。
 スペック的にも問題はないはずだ。これは、以前うちのPCでもKAITOって使えるのかなと思ったときに調べたので間違いないはずだ。と、こうしている間にも起動が終わったらしい。では、早速……。
 あたしはCDをセットした。手順は今までインストールしたことのあるものと比べても特にどうということもない。指示通りにサクサクと作業を進めていった。順調順調、これで終わり、っと。
『……ァー』
 インストール完了してすぐ、囁くような声がスピーカーからした。
「え……?」
 何、何? なんだって、こんな声が。
『……スター』
 ……KAITOの声、だよね。え? ええ? なにこれ、やっぱ中古とかまずかった? エラー? それともこれが普通なの?
『マスター。……マスター?』
 かぼそい声は泣いているようだった。泣き声なんて、これが仕様とは思えない。やっぱりエラーなのだろう。なんといっても怖すぎる。
『マスター。マスター。マースーターァ……』
 声は、ちっとも止まらなかった。これ、どうすればいいんだろう。なんか、本気で気味悪いんですけど。
(一回アンインストールしたほうがいいのか、な……)
 でもどうやらフリーズしてるっぽいから、強制終了させてみる? やだなぁ、これでPCが壊れたりしたら。両親拝み倒してようやく買ってもらったものなのに。買ってもらったとはいっても、半分はあたしの貯金から出したのだ。貯金といっても、お年玉とかをちまちま貯めたものだけど。
 あたしは心持ちPCから身体を遠ざけるようにしながら、恐る恐る本体に近付き、電源スイッチに指を伸ばした。その時。
『マスタァァァァァァー』
 一際大きな声がした。驚いたのと怖いのとで、あたしの喉は凍りつく。そして間を置かずにモニタがまばゆい光を放ちだした。
「何これ!?」
 爆発は、爆発だけはやめてーー!

「マスター」
 ああ、心臓が、ばくばくいってる。
「マスター、よかった。俺のこと捨てたわけじゃなかったんですね。もう一回チャンスをくれるんですね」
 爆発は免れたみたいだ。しかしインストールしただけでこんなに発光するCDロムとかしゃれにならない。ひきつけを起こしたらどうするんだ。メーカーに苦情を申し立ててやる。
「俺、がんばってちゃんと歌いますから、もう、もう、ア……アァァァァ!」
「うるさい!」
 人の上に乗ってさっきからグダグダグダグダ喋りやがって。それと、泣くな。
(うん、泣く?)
「…………」
 光りだしたのにびっくりしすぎたのか、あたしはいつの間にか仰向けになって倒れていた。そしてそんなあたしにしがみつくようにして抱きついている、図体のでかい男――。
「…………」
 痴漢。変質者。強盗。最初に頭に浮かんだのはそんな単語だった。だけど、いやいやいや、ありえないって。
「マスター?」
 その男は子犬的な仕草で首をかしげる。これで顔が涙と鼻水でぐしょぐしょでなければきゅんとしたかもしれなかった。それくらい可愛い、ううん、カッコいい顔立ちをしていた。
 が。
「ちょっと待て」
 あたしは額に手を当てて、視界を軽く遮った。なんか、見てはいけないものを見ている気分だ。
「はい」
 男は素直に返事をする。
「少し、落ち着かないと」
 あたしがだけど。
「わかりました。待っています」
 鼻水を垂らしたまま、男はへにゃ、と笑う。
「ついでに」
「はい?」
「どいて、重たい」
「ス、スミマセン!」
 わたわたと男は立ち上がり、
「ひあっ……!」
 後ろにあった椅子にひっかかって見事にすっころんだのだった。




一人称が「あたし」の子と「俺」の人って、主人公レベルでは初めて書くかもしれない……。
結構新鮮な気分です。



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