青い髪。
 青い目。
 青いマフラー。
 青と黄のラインがところどころに入った白のロングコート。
 そして、耳にはインカム。


 目の前の男は、あたしのよく知っている人物の外見的特長をすべて備えていた。ただし問題は、そのあたしのよく知っている人物はこの世には存在しないということだ。想像上の人物……いわゆるキャラクターというものなのだから。



 男にティッシュボックスを渡し涙と鼻水を拭わせると、少し距離をとりながら、あたしたちは向き合って座った。
「念のために聞きたいんだけど」
 わかりすぎるほどわかっているけど、一応、念のため、あたしはたずねた。
「はい」
 男は嬉しそうににこにこと笑う。
「自己紹介、してくれる?」
「はい! 俺は日本語男性ボーカルソフトウェア『VOCALOID KAITO』です。製造は二〇〇六年の二月で、販売元はクリプ……」
「あ、名前だけでいいから」
 手を振りながらさえぎると、男は残念そうな顔になる。
「あんた、自分はKAITOだって言うんだね?」
「そうですよ?」
 何を言ってるんだというように、男はあたしを見つめる。
「いつのまにKAITOは実体化するようになったの? あたしはおそらく日本で一番KAITOを扱っていると思う動画サイトをよく見に行くけど、そんな話は聞いた事がないよ」
 自分でも頭がイってしまったようなことを言っていると思う。だけど、変質者の類とも思えなかった。うちのマンションは結構セキュリティはしっかりしているから、基本的に住人以外は入れないのだ。それに、この男が本当にただのヘンな人だとしても、KAITOを買ったあたしのところにKAITOの格好をして来たとか、それってどんな空気の読める変質者だ。変質者は、空気が読めないから変質者なのだ。いや、ある意味この男も空気は全然読めてないけど。不審感全開のあたしの前でへらへら笑っているし。
「実体化……」
 男は目をぱちくりさせて呟いた。
「そ。どうして?」
 とりあえず身の危険は感じなかったので、あたしは男の尋問を続ける。
「実体……」
 男は自分の身体を見下ろした。手を軽く持ち上げ、何度か開けて閉じてを繰り返す。
「……ええっ!?」
 男は素っ頓狂な声をあげて立ち上がった。そして自分の身体をばしばしと叩き始める。その顔は真っ青だ。
「あ……あ……」
 男はぎこちない格好で動きを止めた。そう、例えるならば、生まれたての子牛か小鹿のように。
「マ、マスター、大変です。俺、立ってます。立ってますよ!」
「そうだね、立ってるね。KAITOが立った、KAITOが立った」
 某世界名作アニメの有名なせりふを借りて、あたしは相槌を打つ。しかし冷静なわけではない。あたしの顔は引きつった笑いを浮かべていた。正直、どんな反応をすればよいのかわからない……。
「身体がある。なんで? あ、でもこれってすごいことですよね、マスター。俺、前から思ってたんですよ。マスターと直接話ができたらいいなって。マスター、俺の操作が難しいって何度も言ってましたから、俺がマスターに俺の操作方法を教えてあげられれば、マスターはいらいらしないし、俺もたくさん歌を教えてもらえるのにって」
 あたしはそこで、ぎくりとした。
 前から思っていた? イライラするマスター? それって……。
「KAITO」
「あ、はい」
 はしゃいでいたKAITOはあたしの呼びかけに頬を上気させたまま応えた。身長こそ高いけど、人懐っこいわんこみたいな奴だ。だからこそ、この表情を壊す事がためらわれる。だけど……。
「KAITO、そこ座って」
「はい、マスター」
 体育座りをし、彼はあたしが話すのを待っている。とはいっても、どう切り出せばいいのか……。
「マスター?」
 あたしの様子が変わったことに不安を感じ始めたのだろう。KAITOの明るい表情に影がさす。
「すごく、ショックを受けるだろうけど、落ち着いて聞いてね」
「……はい」
 KAITOは唾を飲み込むように、喉を上下させた。
「あのね、あたしはあんたのマスターじゃないの。あたしは今日、KAITOを買ったばかりなんだもの。あんたの言ってるマスターっていうのは、つまり新品のあんたを買った人のことなんでしょう?」
「……あの、言っている意味がよくわかりません」
 あたしも言ってて頭が痛くなりそうだ。それでも、他に言い方が思いつかないのだからしょうがない。
「リサイクルショップにたまたま行ったら、そこにKAITOがあったんで買ったんだ。レシート、見る? ソフトウェアとしか書いてないけど……」
「リ、サイクル?」
「そう。リサイクルショップの意味はわかる?」
「いえ……」
「基本的な利用方法としては……」
 やだなぁ。この先を言うの。なんかこのKAITOがすっごく可哀想になってきたんだけど。いきなり現れたのにはびっくりしたけど、それとこれとは別だ。
「二つある。一つはいらなくなったものを売りにいくところ。もう一つはそういった誰かが売ったものを買いにいくところ」
「…………」
 KAITOの目から光が消えた。

 うっ……ひっく……えぐっ……。
 あうぅ……ますたぁ……。
 ますたぁぁ……ひどいよぉ……。
 マスターに『不用品』として売られたことを理解した彼は、かれこれ二十分以上滂沱している。渡したティッシュボックスは中身をすごい勢いで減らし、逆にゴミ箱はあふれそうになっていた。
 人が――KAITOは人じゃないけど。いやそれよりも、あたしはいつのまに彼がKAITOだと認めてしまったのだろう、うーむ――泣いているのをみているのは、好きではない。そりゃ、感激して涙している、とかなら別だけど、あたしにはどうしようもないことで悲しんでいる相手を慰めるのは苦手なのだ。自分では通り一遍の気休めくいらいしか、言えないから。
(ああ、もう、どうしようこの子……)
 彼に背を向けたマスターを慕って泣くボーカロイド。ありえざるその現象。CDロムから現出した身が、どうやって悲しみの涙を流せるというのか……。
 かりこり、とあたしは頭をかいた。もう、しょうがないなぁ。
「KAITO」
「……ぅ、ふ、あい」
 泣きすぎてしゃっくり状態になっているけれど、彼はあたしの呼びかけに顔をあげる。こういうところは律儀だよなぁ。プログラムのせいだろうか。
 あーあ、せっかくの白い肌なのに、目と鼻の周りが真っ赤だ。
「あのさ、思い出すのは辛いだろうけど、マスターのこと、話してくれない?」
「……え?」
「どこに住んでるなんて人? あたし、その人になんとか会って、あんたが悲しんでるから引き取ってくれって話してみる」
 まったくもって、あたしの大馬鹿! どんな相手かもしれないのに、こんなことを言い出すなんて!あたしは本来小心者で人見知りなのよ! 全然知らない人にいきなり、一度売ったものを引き取ってもらえませんかとか頼むなんて難しいって。なんたって向こうは……その、つまり、KAITOをいらないと思ったわけなんだから。
 KAITOはふっと俯くと、ぐすりと鼻をすすった。それからぎゅっと目をつぶると勢いよく首を左右に振る。
「いいえ、いいんです」
「いいって……」
 よいわけがない。こんなに辛そうなのに。
「前のマスターに捨てられたことはすっごく悲しいです。だけど俺はアプリケーションソフトウェアだから、俺が嫌だと思っても、マスターが俺をいらないと言うのなら、受け入れなければならないんです」
 ごく当たり前のように、彼はそういった。泣き腫らした、真っ赤な目をして。
「そりゃ、普通ならね。だけど実体化して、目の前で号泣するようなアプリ相手に、はいそうですかなんて言えないよ。大体どうしてそんな風になっちゃたの? あんたが売られる前にマスターにこうやって『売らないでください』って頼まなかったの?」
「売る売る言わないでください。せっかく涙が止まってきたのに、また泣きそうになります」
 言うが早いか、KAITOの目にはもう涙が浮かんでいた。
「もう泣いてるじゃない。……まあ、いまのはあたしが無神経だったわ」
 ごめん、と言うと彼はいいえ、と答えた。
「伝えたいとは思っていました。だけど俺のプログラムは、マスターの指示した歌詞しか発せられないようになっています。だから俺の声は、俺が本当に伝えたかったことは、マスターには届かなかった」
「まあ、ボーカロイドが意思を持って勝手にしゃべりだしたなんてことが起きたら、どこぞの掲示板で祭りが繰り広げられそうだしねぇ」
 そしてテレビが嗅ぎつけて、一気に日本全国に知れ渡るのだ。でもそんなことは起きていないので、やっぱりこれは相当珍しい現象に違いない。
「祭り?」
 KAITOは不思議そうに問い返す。
「こっちの話。で?」
「俺の声はマスターには聞こえなかったようだけど、俺にはマスターの声が……というよりも、俺がインストールされていたパソコンの本体付近で発せられた音は聞こえていたんです。一番よく聞こえたのがマスターの声。それと、音楽。たまに遠くの方からマスター以外の人の声が聞こえました」
「へぇ……」
 家族と一緒に住んでいる、ってことかな。でもそれだけじゃなんの手がかりにもならないか。
「俺、ボーカロイドなのに、あまり歌が上手じゃないんです。それで、マスターがよく怒ったような声を出していました。なんで上手くいかないんだって。たまには褒めてくれたけど……。でも、時折本当に頭にくることがあるみたいで、そんなときはア……ア……アン……アンイ……イ……」
「アンインストール?」
 悲しみのあまり口が回らなくなったのかと思い、あたしはKAITOが紡ごうとした言葉を代わりに口にした。途端。
「嫌ぁぁぁぁっ! やめてください! やめてください! そんな怖いこと、言わないでぇ〜〜!」
 KAITOは頭を抱えてもんどりうった。
「え? え? 何? 怖い? アンインストのこと?」
「ひぎゃぁぁぁぁっ!」
 KAITOは身体を丸め、耳をおさえてぶるぶると震えだす。あまりの急変ぶりに、あたしは自分が地雷を踏んでしまったことを悟った。アンインストールは、KAITOにとって、トラウマになっているのだ。
「KAITO、KAITO、悪かったわ、気づかなくて。もう言わないから、落ち着いて、ね」
 しかし彼はいやいやするように首を小刻みに振るだけ。
 やばいなぁ。どうしよう。早く落ち着かせないと。あんまり絶叫されると、ご近所に不審がられてしまう。
 あたしは思い切って腕を伸ばし、KAITOの頭にそっと触れてみた。ほのかに温かいのは体温だろうか? それとも起動中のPCの熱?
「ふぐっ……」
 KAITOはびくりと身体を震わせるが、それ以上の反応はしなかった。
 よしよしよし。あたしは小次郎をなでる要領でKAITOの頭をぐりぐりとした。
 少しして、静かになった彼はゆっくりと身体を起こし、ばつが悪そうな表情で謝ってきた。
「すみません。つい……」
「いや、いいけどね。大丈夫?」
「はい、なんとか……」
「話の続き、できる?」
「言わなくちゃ、いけませんか?」
 しゅんとKAITOは肩を落とす。あたしはふう、とため息をついた。
「そりゃそうよ。辛いのはわかるけど、あたしもわけがわかんないままあんたをここに置いておくわけにはいかないんだもん」
「……言ったら、俺をずっとここに置いてくれますか?」
 すがりつくように、KAITOはあたしを見上げる。……あれ?
「マスターのそばに居させてくれますか?」
 ちょ、チョイ待ち。
「マスターって、あたしのこと言ってるの?」
「そうですよ。俺のことをインストールしている、あなたが俺のマスターです」
「いやでも、本当のマスターのところに帰りたいんでしょ? それなのにあたしをマスターと認めちゃ駄目じゃない」
 自分が何を言っているのかわかっているのか、こいつは。
「……マスターは、俺のマスターになるのは嫌ですか?」
「あー、その質問は反則だから」
「反則?」
 可愛いからだよ。これが二次元だったらすでに奇声をあげているぞ、あたしは。目の前に三次元KAITOがいるから我慢しているんだよ……。
 KAITOは小さくため息をつくと、ぎゅっとコートを握りしめる。
「わかりました、続きを話します。でも、もうそんなに話すことはないですよ?」
「まあ、いいから」
 あたしは促す。
「で……えっと、前のマスターは機嫌が悪くなると……」
 ふいっと、すぐに口を閉じる。あ、そうか、アンインストールって言いたくないんだ。
「アから始まる怖い言葉、とでも言えば? それでも無理?」
「いえ、それならなんとか……。前のマスターは機嫌が悪くなると、俺のことアから始まる怖い言葉をしてやるって言って……で、ある日本当にされてしまいました。アから始まる怖い言葉って、本当に怖いんですよ。暗くて冷たいところに押し込められる感覚がして、意識がなくなっていって……。そしてマスターが……あ、ええと、あなたが俺をインストールしてくれたのを、俺は前のマスターが俺を許してくれて、もう一度使ってくれるんだって思ったんです」
 なるほど、人間の個別認識ができなかったんだ。
「インストールされている時は自分があるべき場所にいるんだって思えてすごく安心できるんです。俺は二度目だから、これがそうだって、すぐにわかりました。それで嬉しくって……。アから始まる怖い言葉がすっごく怖かったというのもあって、マスター……前のマスターに伝えたかったんです。色々。俺が思ったことを全部。それで俺、無我夢中で光る道のようなものが見える方に進んでいったら……なんでか知りませんけど、こうして実体化していたんです」
「なんでか知らないんかい」
 思わず突っ込んでしまった。
 いや、彼にも同情するべき点はあると思う。人間によって作り出されてしまったものの宿命とはいえ、人間の都合で構い倒されたり見向きもされなかったりしたのだから。それでも『それ』は何も感じない無機物なのだと思うからこそ、そういうことができるわけで。もしも『それ』が意志を持ってこちらの行動に対して思うことがあるのだとしたら……あれ? なんだか今度はあたしが怖くなってきたぞ。本当にどうしよう、このKAITO。
「俺の話はこれで終わりです。あとはどうすれば、マスター?」
 KAITOは表情を和らげて、あたしの指示を待っている。
 そう、指示。
 彼はボーカロイド。アプリケーションソフト。人の出す命令がなければ、なにもできない存在なのだ。
「ううん……」
 正直いって、やっかいだ。意志を持つアプリケーションソフトなんて。
 KAITOの話を聞いている間、あたしは前のマスターはなんて冷たくてひどい奴だと思ったりもしたけれど、よく考えてみればあたしだって同じことをしたことがあるのだ。ああ、あたしが今までアンインストした諸々は、あたしの所業を怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか。恨んでいるだろうか。
(本気で怖いんですけど、それって……)
 だからといって、このKAITOを消去するのも気が引ける。寝覚めが悪すぎるもの。それに、前回のアから始まる怖い言葉がこれほどまでに心的ダメージを与えているのであれば、次にやったら再起不能になるかも。というかヤンデロイドになるかも……。あああっ、うちってアイスピックあったっけっか。イチゴソースまみれはごめんよ! KAITOをなんとかひっこめたらさっそく探して捨てないと!
「マスター?」
「え? ああごめん、ぼーっとしちゃって」
 KAITOにアンインストールされるんじゃないかとガクブルしていましたとは言えず、あたしは誤魔化す。
「いえ、いいんです。でも、マスター」
「んー?」
「俺、ここにいても、いいんですよね?」
 捨てられた子犬の目で彼はあたしを見つめる。
「だから、それ反則だって」
「反則?」
 KAITOは首をかしげる。ねぇ、それ、わざとやってない?
 あたしは大きくためいきをついた。
 犬には弱いんだよねぇ。小次郎の小さい頃を思い出すよ……。いや、小次郎は捨て犬じゃないけど。
「もうインストールしちゃったしね」
「いいってことですよね、それ?」
「……そうだよ」
 頷くと、KAITOは「マスター!」と絶叫しながら駆け寄ってきた。
 あたしはもちろん、こんなでかい男に押し倒されるつもりはなかったので、手直にあった学校カバンで張り倒してやった。……ちょっと早まったかもしれない。




新米マスターはほだされた模様です。



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