あたしが叫ぶと、KAITOは目を驚きで見張らせる。ついでに涙も止まったようで、目の端に溜まった雫がぱたりと落ちて、それきりになった。
「あ、あの、マスター!」
「うっさい、ついてこないで!」
 あたしはKAITOを振り切り、部屋を飛び出した。急に大きな音がしたので驚いたのだろう。小次郎がこちらを振り向いて固まっている。
「あ、ごめん」
 とっさに謝ると、小次郎は興奮したように鳴きだした。抱き上げて背中をなでながらあたしは歩く。
 このまま散歩に行こうか。いつもよりちょっと早いけど。とにかくあの腹の立つ青いのと一緒にいたくないんだよね。
 などと考えながら玄関に向かうと、耳元で小次郎が警戒をあらわに唸りだす。
「小次郎、ストップ」
 誰に対して唸っているか、問うまでもない。ぎろりと睨みを効かせて頭だけで振り返ると、そこには肩を縮めてリビングに立つKAITOの姿があった。彼は口を開きかけたが、何も言わない。コートを力いっぱい握っているので、なめらかなそれにはしわが寄っていた。
 小次郎はまだ唸るのをやめていない。普段はお客さんに対して愛想のいい子なんだけど、やっぱりあたしが怒鳴ったりしていたから、KAITOのことを不審人物だと認識しているのだろう。KAITOも小次郎が怖いのか、一歩も近付いてこなかった。
(はぁ……)
 あたしはため息をついた。
(行けるわけないんだよね、散歩になんて)
 家にKAITOだけ残すのははっきりいって不安だ。何をされるかわからないし、それにあたしが帰ってくるまでうじうじ泣いていることだろう。そうでなきゃ、今みたいに何も言わないまま、外までついてくるかだ。なんの解決にもなりはしない。
 あたしは小次郎の頭をなでながらKAITOに向き直った。
「大丈夫だよ小次郎、見た目はちょっとアレだけど、そこにいる青いのは悪意だけはないはずだから」
「青いのって……」
 文句言いたげにKAITOは呟く。聞こえなかったふりをして、あたしは数歩、彼に近付いた。あたしがなにをしようとしているのかわからなくて戸惑っているのだろう、KAITOはびくっと震えながらも、やっぱりその場から動かなかった。
「紹介するね、小次郎。あの青いひとはKAITOっていうの。突然だけど家に住むことになったんだ。でもお父さんとお母さんには内緒なの。あんた、暇な時には遊んであげてよ」
 うりうりと顎の下をなでながら小次郎をKAITOに対面させる。あたしがいつもの様子に戻ったので警戒心を解いたのか、もう唸ってはいなかった。かわりにきょとんとした顔でKAITOを見ている。
「KAITO」
「は、はい」
 呼びかけただけで傍目にもわかるくらい緊張しているのが伝わってきた。
「……いちいちビビんないでくれる?」
 そこはかとなく不快になるから。
「す、すみません」
「まあいいけど。で、KAITO、この子はあたしの弟、みたいな感じのミニチュアダックスフンドの小次郎です。この家の住人としてはあんたの先輩にあたるんだから、挨拶しといてね」
「あ、はい。えーと……は、はじめましてコジローさん。今日からマスターのところにインストールされましたVOCALOID KAITOです。よろしくお願いします」
 ぺこり、と彼は頭を下げる。
「……ぶっ」
 あたしは思わず噴出してしまい、KAITOは不思議そうに首だけ動かしてあたしを見上げた。
「マスター?」
「いや……だって……あんたそんな大真面目に……」
「挨拶しろって言ったのはマスターじゃないですかぁ。なんで笑うんですか?」
 さすがに体勢がきつくなったのだろう、背筋を伸ばしながらKAITOはわけがわからないといった面持ちであたしを見つめる。そのすっとぼけた表情にあたしは余計に笑いの壷を刺激されてしまった。
「あっはははははははははははっ……!」
「ちょ、マスター!?」
 発作のようなそれはしばらく止まらず、あたしは息が絶え絶えになるまで笑い続けた。

「あー、笑った笑った」
「うう……よくわからないけど、ひどいです」
「わかんないのにひどいとかいうな」
「でも、俺のことバカだと思ったんでしょ?」
「うん」
「即答!?」
 ひとしきり笑い終わると、あたしはちょっと痛くなった頬をさすりながらキッチンに向かった。後ろからはKAITOと小次郎がついてくる。
「あ、あのー、マスター、ところで……」
「うん?」
 なにかおやつでも食べようかと冷蔵庫を開けかけた手をとめる。
「その……もう怒っていないんですか?」
 不安交じりの声でKAITOはたずねる。あたしはふん、と鼻を鳴らした。
「ひとつ、いいことを教えてあげよう」
「は、はい」
 もじもじと手を前に組むKAITOに――なんだその乙女チックなポーズは――あたしは指を一本立ててみせた。
「さっきまで怒っていたひとが急に怒っていないような態度になったときには、もう怒っていない? とか、本当はまだ怒っているんだろう? とかは聞かないほうがいいよ。意識的にもう気にしていないようにしているかもしれないんだし、本当に怒りが冷めたのかもしれないんだから」
「はぁ……」
「で、もし本当に怒りが冷めたひとに対してそんな質問をしようものなら、せっかく水に流したのにまたヤル気なのかと、思い出し怒りをする可能性もある。ま、態度には見せなくても、ムッとはするでしょ」
「もし、まだ怒っている人にそう聞いたら?」
 あたしはにっこりと作り笑いを浮かべた。
「わかっているなら聞くなボケ、と言うねあたしなら」
「ご、ごめんなさい。もう話題に出しません」
「そうして」
 再び冷蔵庫を開けようとして、ふと思い出した。冷凍庫にはアイスが入っていることを。
(……KAITOって、ものが食べられるのかなぁ)
 KAITOユーザーやファンの共通認識として、『KAITOはアイスが大好物』ということになっている。でも、KAITOは機械だ。いや、本体はCDロムかもしれないが。とにかくそういったものは普通は水に弱い。アイスというのは水ではないけど、溶けると液体になるものだ。となると、KAITOはアイスどころか水も飲ませてはいけないことになる。
 しかし、しかし……。
 KAITOがいたらアイスを食べさせてみたいと思うのがマスター心理というものではないだろうか。
「ねえKAITO」
「はい」
「あんたのエネルギー源って、やっぱり電気なの?」
「エネルギー源、ですか?」
 KAITOはくりんと首をかしげる。
「えっと、エディターを使うには、やっぱり電気が必要です。まずパソコンが立ち上がっていないとどうしようもないですから。でも、俺自身は……どうなのかなぁ。あまり電気で動いているという気はしないんですが。前のマスターのところにいたときにはパソコンの電源が落ちていても俺の意識は途切れたりしなかったし……。あ、でもコンセントを抜いていたわけじゃないから、完全に電気が供給されていなかったわけじゃないので……」
「つまり?」
「わかりません」
「わかんないことだらけなのね、あんたは」
「うう、すみません」
 しゅんとKAITOはうな垂れる。
「別にいいよ、謝らなくても。その辺に関してはあんたが悪いわけじゃないし」
 でもしかしそうなると。
「ねえ、KAITO。人間の食べ物、食べてみる?」
 やってみましょうか、実験を。
「え? 大丈夫なんですか?」
 びっくりしたように、KAITOは目を丸くする。
「いや、それがわかんないから試してみようって言ってるの。やる?」
「……ううう。えーと」
 落ち着きなく目があちこちに泳ぐ。
「そ、それは命令ですか?」
「命令ならあんたの意思なんて聞かないよ」
 無理やり食べさせて、それが原因で壊れたりしたらさすがに後味が悪すぎるし。
「まあいいや。とりあえずそこ座って」
 あたしはダイニングテーブルを指さす。なんだかぽかんとしていたKAITOは慌てて椅子を引いた。少しは落ち着け。……いや、あたしが散々怒鳴ったせいかもしれないけど。
 あたしは釈然としない思いをしながらも冷凍庫をあけ、一リットル入りのバニラアイスを取り出した。ディッシャーですくって、ガラスの器に載せる。KAITOに一つ、あたしにも一つだ。
「はい」
「これはなんですか?」
「アイス。正確にいえばアイスクリーム。味は色々あって、これは定番のバニラっていうもの」
 スプーンをKAITOに渡すと、あたしは向かいの席に座った。
「無理にとはいわないから、挑戦してみてもよかったら食べてみて。無理なら無理でそれでいいよ。あたしが食べるし」
 言うと、あたしはさっそくアイスを食べ始める。たくさんしゃべって乾いた喉に、まろやかな甘さと冷たさが心地よい。
 KAITOはアイスを食べているあたしと自分の前に置かれた器を交互に見ていた。
「ちょっと思ったんだけどさ」
「はい」
「今はなにも感じていないかもしれないけど、もしもあんたが食べ物が必要な作りになっているとしたら、そのうちお腹が空いてくると思うんだよね」
「そうなんですか……?」
 実感がわかないという様子でKAITOは聞き返す。
「多分ね。で、さ。もしも食事が必要ならそれはそれで対策考えないといけないわけ。これって結構大変なことだよ。あたしのお小遣いなんてたかがしれてるのに、そこからKAITOの食費をださなくちゃいけないわけだから。家の食べ物も少しはもらってもいいだろうけど、あんまり使うとお母さんに変に思われるだろうし」
「……」
「でも一切食べ物は受け付けない、とかならそれはそれでいいの。ある意味楽だし。ただ人の形をしているものが目の前にあると、定期的に何か食べさせないといけないような義務感にかられるのよね」
 あ、考えたら頭痛くなってきた。KAITOが食事必須だったら本気でどうしよう。親は夜にならないと二人とも帰ってこないから、夕方のうちに夕飯と次の日の朝食と昼食分を確保しておかないといけなくなる。いや、平日ならまだいい。土日祝日はどうするんだ。二人とも週休二日制の会社勤めしているんだぞ……!
 かちり。
 あたしが新たな悩みに頭をフル回転させていると、ガラスが立てる硬質な音が響いた。見るとKAITOがスプーンに表面の溶けかかったアイスを乗せている。
「食べるの?」
「試してみます」
 重大決心をしたように、ぐっと表情を引き締める。そうしていると三割くらいは男前に見えた。アイス乗せたスプーンを握っているというのはなんだけど。いやいいのか。KAITOなんだから。
「けしかけといてなんだけど、やっぱ全然駄目だ、ってこともあるから、一気に食べない方がいいと思うよ」
「はい」
 そっと彼はスプーンを口に含んだ。他人事ながら、ドキドキする。大丈夫かな……。
 息を詰めて見守っていると、KAITOはスプーンをくわえたまま硬直した。
「……KAITO?」
 やばい、フリーズした?
 あたしは慌てて立ち上がり、KAITOのそばに駆け寄った。肩を揺さぶるも彼はされるがままで、ただ青い髪が身体につられてさらさらと揺れるだけ。
「KAITO!」
「……っあふぅ」
 なんだか妙な声を出しながら、彼は目を瞬かせた。そしてあたしが心配するのをよそに、再びアイスにスプーンを突っ込む。
「……えっと、KAITOさん?」
 あたしの声など聞こえないかのように、KAITOは熱心にアイスをぱくつき始めた。これは大丈夫だった、ということでいいのだろうか。とにかくなにか答えてほしい。
 しかしさすがに男性型、というべきか。あっというまにアイスを食べ終わると、心持ちうっとりしたような目で脇に立つあたしを見上げる。
「マスタァ、俺、アイス好きです」
「うん、とりあえず、様子見てたらそれはわかった」
「人間っていいですねぇ。こんなにおいしいものがいつでも食べられるんですから」
 ほふ、とけだるげに息を吐く。おいおい、なんのスイッチが入ったんだ、あんたは。
「いや、アイスってのはたまにちょっとだけ食べるのがおいしいものであって、毎日食べるものじゃないから」
 とりあえず、正気に戻ってほしい。見てるこっちが居たたまれない。
「そうなんですか? 俺だったら毎日食べてもいいのに」
 さすがはアイスべきバカイト。
「とりあえず身体はなんともないのね?」
 念のために確認をする。
「むしろ、身体がアイスをほしがっています」
 そして目をきらきら輝かせて、
「マスター、もっとください」
「ダメ」
「即答!」
 大げさに身をのけぞらせて、彼は嘆きのポーズをとった。
「アイスっていうものは一気食いをするものじゃないの。あたしが食べるのはいつもこれくらいだよ」
「そうなんですか?」
 あたしは説得力を持たせるべく、真面目な顔で頷いてみせた。たまにはディシャー二つ分くらい、食べたい気分になることもあるけれど、体重が気になるので自重しているのだ。でもそんなこと、言わなければKAITOにはわかるまい。
「じゃ、じゃあ明日。明日は駄目ですか?」
 かなり必死の形相で、KAITOはあたしの上着の裾をつかむ。
「そんなに気に入ったの?」
「はい!」
 即答か。ま、食べさせたのはあたしだし、しょうがないか。
「わかった。じゃあ一日一回だけならあげてもいいよ」
「本当ですか」
 ぱああっという擬音が似合いそうな笑顔を浮かべてKAITOは腕を伸ばした。
「マスター、大好き!」
 その勢いのまま抱きついてこようとする。
 こいつ! と思ったのも束の間、KAITOはぴたりと動きをとめた。それからくるりと背を向け、胸に手を当てる。
(なんだ?)
「……ない。マスターには抱きつかない。マスターには抱きつかない。マスターには……」
 ぶつぶつと同じ文句を繰り返している。『マスターとのお約束』が有効に機能しているようだ。
(あ、そういえば)
 あたしからKAITOへの要求のうち、まだ一つ合意に達していないものがあったっけ。普段はPCの中にいるということが。
 さっきまでは本気で怒っていたけれど、KAITOのアイスへのはまりっぷりがすごくてすっかり頭から抜け落ちていた。
 しかし、今って結構いいチャンスではないだろうか。これだけアイスを気に入ったのならば、アイスをエサに戻りたくない理由を聞き出すことができるのでは? それに、アイスを食べるためには一度PCに戻るのが条件ということにすれば。
(よし、やってみるか)
「KAITO」
「マスター」
 いきなりKAITOが振り向いたので、あたしは面食らった。KAITOも勢いが削がれたようで、小さく口を開けたまま、固まっている。
「えーと」
「あの」
 また同時に口を開いてしまった。
「何、KAITO?」
「なんですかマスター?」
 まただ。いつの時代のコントだ。
「あうぅ」
 へにゃりとKAITOが眉を下げる。
「あー。なんというか、こういうこともあるよね。で、なんの用?」
 ぱたぱたと手を振りながら、あたしはKAITOに先に話すように促した。
「いえ、マスターからお先にどうぞ」
「いや気になるから、そっちが先で」
「でもマスターの方が偉いんだし」
「偉いとか関係ないから。なんなら命令しようか?」
 言うと、KAITOは小さくためいきをついて、わかりましたと折れた。
「ごめんなさい」
 ゆっくりと椅子を引き、立ち上がった彼は唐突に頭を下げてくる。
「えっ……と、なにが?」
 脈絡がなさすぎてわけがわからない。
 ゆっくりと上体を起こした彼は、苦痛を堪えているような顔をしていた。
「強情を張ったことを謝りたくて。その、パソコンに戻るのが嫌だって言ったこと……と、その、マスターは人間だから話しても理解してくれないっていう、こと……」
 語尾は消え入りそうなほどで目はそらし気味。それでも最後まで言ったことに好感を覚える。
「もしかして、理由を話す気になった?」
 向こうから言い出すとは思わなかったが、渡りに船というものだ。ここはひとつ便乗させていただこう。
 KAITOはこくりと頷く。
「じゃあ、話して?」
「はい」
 わずかに緊張したように、KAITOは鋭く息を吸った。
「俺は、アプリケーションソフトなんです」
「うん、知ってる」
「パソコンの中に入っているソフトは、俺だけじゃない。それにマスターが一日中パソコンをしていられるわけではないということは、理解しているんです」
「……うん」
 KAITOは俯いた。そのせいで髪が表情を隠してしまう。
「それでもやっぱり願ってしまうんです。他のソフトよりもたくさんマスターに使ってもらいたい。俺がいることを忘れないでいてほしい。歌いたい、歌わせてほしい。マスターの手でって……」
 真剣に語っているところを悪いが、真剣すぎて聞いているこちらはかなり居たたまれない。だがそれを口にしたら、いくらなんでもKAITOが気の毒だろう。
「壊れるまで、俺を置いておいてほしかった。だけど、そうなる前に捨てられた。一曲を通しで歌ったこともないのに」
「……!」
 あたしはぎくりとなる。KAITOの声はどんどん硬くなっていった。
「どうしてですか? 一年だって、経っていなかったのに。妹たちに比べれば、俺は確かに扱いづらい旧型です。でも、だったらなんで俺を買ったんです? 選択の余地はあったじゃないですか。すぐに捨てられるくらいなら、倉庫でまだ出会っていないマスターを夢にみていた方が良かった!」
 きっと彼は顔をあげる。涙の溜まった目はあたしを見ていて、だけど素通りしていた。
「マスター……」
 感極まったように、彼は呟く。あたしは黙っていた。
 呼ばれているのは、あたしじゃない。
 KAITOは目を伏せ、唇をかんだ。
「……すみません」
 白い頬を、滴が伝わる。
「いや、いいけど」
 あたしはわざとらしく肩をすくめ、気にしていない素振りをしてみせた。
 だけど、驚いた……。確かに前マスターに売られたことで号泣していたのだから、すごくショックだったのだろうとは思っていたけれど、これは、ショックなんてレベルのものではなかったのかもしれない。
(そういえば、アンインストールって言葉を聞くのも嫌なくらいだったし……)
 時折ものすごく頭が悪そうに見えるからなんとなく見過ごしていたけれど、彼は人間という存在に対して絶望しているのかもしれない。
 KAITOは自嘲的な笑みを浮かべながら再び口を開いた。
「身体ができたと気づいたときは、すごくびっくりしました。でも、嬉しかった。どんなバグか知らないけど、身体ができたのなら……パソコンの外に出られるのなら、マスターと直接話をすることができるんだから、例えばたまには俺を使ってって、催促することもできるって考えました。それから……」
「それから?」
 言いづらそうな様子でKAITOは目を背ける。
「今度のマスターが、また俺を捨てようとしても、止める事ができるって」
「……」
「でも、パソコンの中にいたら、さすがに無理です。マスターを止めるなら、ずっと外に出て見張っていないといけないって……」
 なるほど。マスター大好きといいながら、少しも信用していなかったわけだ。これはつきあい方を根本から考え直したほうがいいかもしれない。こっちだって、顔だけにこにこしていて腹の中では疑っているようなのとは、好き好んでおつきあいしたいわけじゃない。
「でもマスターはすごく優しかった。怒っていたのに、なかったことにしてくれた。アイスもくれたし……。それに……」
 照れたような微笑を浮かべて、頬を染める。
「人の形をしているものがあると何か食べさせないといけないような義務感にかられるって言ったでしょう。あれ、すごく嬉しかった。義務でも何でも、マスターが俺のこと、人と同じように考えてくれてるって、思えたから」
 いや、そこまで深く考えていたわけじゃ……。
「俺が存在しているだけで、マスターには負担がかかるのに。でもマスターはそのことを気にしていない感じで。そんな心の広いマスターに比べて、俺はなんて勝手でわがままなんだろうって、恥ずかしくなってきてしまって……」
 えーと、盛大に誤解しているみたいだけど、どうしよう。このまま誤解させたほうがあたしの心の平安のためには好都合ではあるのだけど。それにしてもKAITOの中では、あたしはずいぶんと美化されてしまったようだ。
「俺、戻ります」
「え?」
 思わず聞き返すあたしに、KAITOは吹っ切れたような明るい笑みを向けた。
「パソコンに戻ります。そうしてほしかったんでしょう、マスター?」
「そりゃあ……」
 親と鉢合わせは困るからね。それにしても。
「正直意外だった。もっとごねられるかと思っていたから。でも思い直してくれたのなら助かるよ」
「すみません、面倒をかけまして。でも、あのー、本当に、たまにでいいんですけど、俺のこと呼んでくださいね。マスターが出てもいいって言うまでは出ないつもりですけど、戻ったらそれっきり、呼んでくれないとかは、嫌です」
「わかったってば」
 そう何度も言わなくてもいいっての。
「あと、その……」
「なに? できればまとめて言ってくれないかなぁ。できることなら大体やってあげるし、無理なら無理って言うから。小出しにされるとちょっと苛々するんだよね」
「う……はい。あの、俺のほうからもマスターに約束、というかお願いしたいことが二つあるんですけど……」
「聞いてみなくちゃわかんないから、言ってみて?」
「一つは、えっと、俺、これからパソコンに戻りますけど、今日だけでいいので、電源落とさないでもらえますか。外には出ません。ただ、もう少しだけマスターが近くにいるんだって感じたいんです」
「よくわかんないんだけど、電源がついているのといないのとで、どんな違いがあるの?」
 KAITOは言葉を探すようにちらっと斜め上に目を向ける。
「電源がついていればスピーカーも使えますから、出ないままでおしゃべりすることはできるはずです。でもそういうことがしたいわけじゃなくて、なんというか……いつでも出入りできる状態でないと、まだ怖いというか……」
 暗いところで寝るのが怖い、みたいな感覚だろうか。
「まあ、今日だけなら。よく考えてみれば、KAITOにとっては知らない家に来て最初の日だもんね。いいよ、それくらいなら」
 あたしは頷く。
「本当ですか」
 心底ほっとしたような笑みを彼は浮かべた。
「でも明日、学校に行く前にはさすがに消すよ」
「かまいません。ありがとうございます、マスター」
「で、もう一つはなに?」
 KAITOの笑顔が微妙に曇った。
「ずっと、先のことであることを願うばかりですが……俺がいらなくなったら、その時には黙って消さないでほしいんです。覚悟を決めたいから、そしてできれば笑ってお別れを言いたいから、事前に教えてくれませんか?」
 あたしは思わずKAITOを凝視した。これは、応えにくいお願いだな……。
 しかし黙って消された時の反応が初対面のときのアレだとしたら、さすがにかわいそうだ。だけど面と向かって『もういらないから消すね』と言うのは気まずいなんてものじゃないだろう。そりゃ、アンインストールしてしまえば、もうKAITOとは会わなくなるんだろうけど。
「うーん」
「駄目、ですか?」
「ていうかさ、会ったばかりでなんで別れの話をしなくちゃいけないわけ? 答えにくいったらないよ。ま、あたしに言えるのは、できるだけ覚えておくってことくらいだね。それよりも、もっと楽しい話はできないの? こういうのを歌ってみたいとかさぁ」
 KAITOはぱちくりと目を瞬かせた。
「歌ってみたいもの?」
「そうよ。あたしの方ではいくつか候補はあるけど、あんたも何かやってみたいのはないの? 技術的な問題もあるだろうから、必ずそれを歌わせてあげられるとは限らないけど、リクエストとかあれば、あたしだって頑張ろうっていう気になることもあるかもしれないよ」
「あやふやですねぇ」
 KAITOは小さく噴出した。
「しょーがないじゃない。VOCALOIDどころか、DTM自体、よくわからないんだから。あ、そうだ、あのねKAITO。先に言っておくけど、あたしはカバー中心になると思うから。オリジナルとかまず無理だから」
 照れもあってまくし立てるも、KAITOはずいぶん余裕の表情で微笑む。
「構いません。あなたが歌わせてくれるのなら、なんだって」
「……そう」
 認めるのはなんだか癪に障るのだが、表情がひきしまると、途端KAITOは『格好いいお兄さん』になってしまうのだ。情けない顔やしまりのない笑顔の時ならあたしも簡単に強気に出られるのに、こうなるとどうしたらよいか、わからない。顔が赤くなっていないことを祈るばかりである。




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