マスターと出会って半月ほどが経った。最初は右も左も上も下もわからなかったけれど、人間の世界にも少しは慣れてきたと思う。
 今ではマスターのご両親とマスターが仕事や学校に行った後、パソコンから抜け出して、マスターから出された課題をやるのが日課になった。最初はひらがなを書くところからはじめて、次はカタカナ、それから漢字と進んでいる。
 俺、字は書けると思っていたんだよなぁ。ほら、パソコンだと対応文字を打てばそれが表示されるから。形は知っているんだし、簡単だろうって。でも初めてシャープペンシルというものを握って、実際に字を書いてみようとしたら、全然違うものになってしまった。マスター曰く、「ミミズがのたくっているような字」だって。しかもマスターに握り方が違うと何度も注意を受けてしまって散々だった。頭ではわかっているのに、どうしてできないんだろう?
 それでもシャーペンの持ち方を教えられて、プリントアウトしたひらがなとカタカナの五十音表を見ながら毎日書き取りをしていたら、それなりにちゃんとした字になってきた。そして今は小学校三年生レベルの漢字の書き取りをやっているところ。他にもやらなくちゃいけないことがいっぱいある。こんなに覚えることがいっぱいあるなんて、人間って、大変ですね。
 自宅学習は一人でやらないといけないので寂しいし、つまらないけれど、先週マスターが俺にって、グリップのところが青いシャーペンを買ってきてくれた。長時間握っていても疲れにくいものなんだって。マスターからの贈り物なんて嬉しいです。これを使ってもりもり勉強しますよ、俺。
 他にも余っていた消しゴムと買いだめしていたノートをわけてくれたし、それらを入れておくためにと、マスターは引き出しを一つ整理して俺用にしてくれた。その中には俺が読むための本が何冊か入っている。その本は図書館というところに行ってマスターが借りてきたもの。なんでも俺のじょーそーきょーいく? とかのために、とりあえず読んどけと渡されたんだけど、薄くて大きくて、絵がいっぱいでひらがなだけの本だったので、IMEパッドの力を借りなくても全部一人で読むことができた。
 借りたものだからいつかは返さないといけなくて、だからその本はずっと引き出しの中に入っているわけじゃないんだけど、俺が知らないことがいっぱい書いてあって面白かったなぁ。
 でも人間って、人間からしか生まれないと思っていたんだけど、桃とか竹からも生まれてきたりするんですね。じゃあパソコンから生まれた俺でも人間って言っていいのかな。

「はふ……」
 俺は今日の課題の計算ドリルを解く手を止めた。
 もうお昼の時間だ。といっても、別に食事をするわけじゃない。マスターが言っていた『お腹がすく』という感覚は、俺にはわからないのだ。だけど切りがよいし、小次郎さんが部屋の外で遊んでほしそうに鳴いているので、今日はこれで終わりにすることにした。
 勉強道具を片付けて、俺はマスターの部屋を出る。すると音を聞きつけて小次郎さんが素っ飛んで来た。そして俺の足元をぐるぐる回るので、動く事ができなくなってしまう。下手すると小次郎さんを踏んでしまいそう……。小次郎さん、ちょっと落ち着いて!
 でも、きっと小次郎さんもマスターたちがいない間、ずっとひとりでいるから退屈だったんだろうな。俺は小次郎さんがいるし、やることがたくさんあるから、そこまでじゃないけど。
 しばらくゴムボールを投げて遊んでいると、ふいに小次郎さんが動きを止めた。ぴくぴくと耳を震わせると、だだだっと走ってリビングを出て行ってしまう。トイレかなと思いながら俺は部屋の隅に転がっていったゴムボールを取りに行った。
 ところが小次郎さんの様子が変だった。どうやらトイレではなくて、玄関の方に行ったみたいなのだ。それになんだかそわそわしているみたい。
 この動作はおうちの人が帰ってきたときにする行動だ。小次郎さんはとても耳がよいから、鍵を開ける前に気づいてしまうのだ。すごいって、いつも思う。普段より早いけど、きっとマスターが帰ってきたんだろう。
 うわぁい、俺もお出迎えしようっと! 時間があるなら、今日こそは歌を教えてくれないかな。マスターってば、たまに息抜きとか言ってマンガ読んだりゲームしたりするんだけど、そんな時間があるなら、俺のこともっと構ってくれたらいいのに。忙しいって言ってるくせに、何なんですか、それは。
 ……なんて、口に出すと怒られるから言えないけど。
 ボールを小次郎さんのおもちゃ箱に戻していたら、玄関が開く音がした。小次郎さんははしゃいでいるみたい。飛びついたのかな。なんだかそんな感じの音が聞こえた。
 ……マスターとのお約束がなければ、俺もそれ、やりたいんだけどね。マスターは絶対嫌だって言うんだ。つれない人だなぁ。
 ふう、とため息をつきながら俺は玄関に向かった。玄関はリビングを出て少し行ったあと、ちょっと曲がらなくてはいけない。その曲がり角に差し掛かった途端、俺の頭は真っ白になってしまった。小次郎さんをなでているその人は、マスターじゃなかったからだ。
 灰色の服を着た、髪の短い男性。
 ばっと俺は思わず身を隠した。
 ……初めて姿をみたけど、多分、あの人、マスターのお父さん、だ……。
「誰か、いるのか?」
 お父さんは不審そうに声を潜めて呼びかけてくる。
 うわぁ、気づかれてる。なんで!?
か? 母さんか? 早く帰ってこれたのか?」
 ど、どうしよう。
 逃げないと。
 逃げないと……。
(見つかったら、マスターに怒られるぅ〜〜!)
 俺はとっさに回れ右をしてマスターの部屋に駆け込んだ。スタンバイ状態を解除したパソコンに、無理やりもぐりこむ。完全に立ち上がっていなかったので、いつもより狭い感じがしたけれど、構っていられなかった。
 モニターから見えないように身を潜める。そして再びスタンバイ状態にしようとした時に、大きな音を立ててマスターの部屋のドアが開かれた。
「誰だ!?」
(ひゃうっ……!)
 怒鳴り声に、俺は頭を抱えてぶるぶる震えた。
「誰かいるのはわかっているんだぞ、でてこい!」
(無理です!)
 俺は声には出さずに絶叫した。
 だって出て行ったら俺がマスターのパソコンにこっそり住んでいることがバレてしまう。それで、マスターのそばに俺みたいなのがいるのは駄目だってことになったら、アから始まる怖いことをされてしまう! そんなの、ヤダぁ。
 震えながらも耳をそばだてていると、お父さんがマウスを動かしだした。うう……マスターがいないのに、パソコンがついているって、やっぱり変だよね。でもでも、間に合わなかったものはどうしようもない。どうか、マスターが電源つけっぱなしにして出かけたのだと思ってくれますように……。
 お父さんはすぐにパソコンを使うのを止めて、部屋の中を動き回った。クロゼットや窓を開けているようだ。普通の人間はパソコンの中に入れないので、ここから出なければ俺が見つかることはないだろう。誰もいないとわかれば、気のせいだったと思ってくれるかもしれない。というより、そうなってほしい。
 お父さんはしばらくマスターの部屋にいたけれど、しばらくして出て行った。ほっとしたものの、お家の中には俺とお父さんと小次郎さんしかいないことには変わりないので、俺はそのまま様子を窺う。お父さんはマスターの部屋のドアを閉めていないようで、外の音が結構聞こえてきた。
 俺のことを探しているのだろう、やっぱりあっちこっち開けたり閉めたりする音がしてくる。
 お、お父さーん。中には誰もいませんよー。
 だから、もう探すの、やめてください〜〜。
 そうこうしている間に、マスターのパソコンはスタンバイ状態になる時間がきて、モニターは真っ暗になってしまった。まだかな、早く終わってくれないかな。そう思いながらも、相変わらず耳を澄ましていると、ふいに音がやんだ。
 終わったのかな、そう思ったとき、お父さんはしゃべりだす。
「……事件です。泥棒が入ったみたいで。……ええ」
 誰と話しているんだろう。お父さん以外、誰も帰ってきていないはずなのに。
「いえ、確認しましたが、いないようです。でも確かに誰かいたんですよ。足音がして……。え、家族ですか? 家内は仕事で、娘は学校です。この時間には、普段はいません」
 あああ、足音! そういえば、お出迎えの時、普通に歩いて行ったんだっけ。それで気づかれたんだ。それに、逃げる時にはとにかく逃げなくちゃって思っていたから、走っちゃったし。
「ざっと確認しましたが、盗られたものはないようです。ただ、私だとわからないところもあるので、全くないのかどうかはわかりません。……はい、わかりました。すぐには戻れないでしょうが、連絡しておきます」
 なんだかよくわからないけど、すっごくまずいことになってる……? どうしよう。……マスター、早く帰ってきてー!!
「あ、母さんか? いや、それどころじゃないよ。泥棒だよ泥棒。……そう。……いや、通帳とかは無事みたいだが、他のがよくわからん。君のブランド品とかは、何があるか把握していないしな。 のパソコンもいじられていたみたいだし……。ああ、警察には連絡した。これから来てくれるそうだ。それで、できれば立会いしている時に被害状況をはっきりさせたいから、戻ってきてほしいんだが、早退できるか?」
 警察。
 それ、マスターの持っているマンガで読んだから知ってる。あと、警察のひとが出てるドラマも見たんだ。
 そっか、お父さん警察に電話していたんだ。そういえばマスターも携帯電話っていうのを使ってお友達としゃべっていることあったっけ。お父さん、変な独り言を話していたわけじゃなかったんだ。
 で、警察って、確か、悪い事をしたひとを捕まえるひとたちのことだったよね。
 ……。
 いやあ〜〜〜。
 捕まるの、いやぁ〜〜〜!
 マスター。マスター。たーすーけーてー!!
 お父さんはそれからまた別の所に電話をかけだしたみたいで、ぼうはんかめらがどうのこうの、というのが聞こえたけれど、俺はもう怖くて怖くて、早くマスターが来てくれることだけを願って震えていた。
 どれくらい時間が経っただろうか、玄関のインターホンが鳴る。やってきたのは、男の人たち、だろう。声が低かったから。人数は、二人、かな。この人たちが警察のひとなのだろうか。
 どうかどうかどうか、俺のことに気がつきませんように……! 両手を組んで祈った。
 やっぱり来たのは警察の人みたいだった。
 お父さんがマスターのパソコンを動かして――当然、スタンバイ状態は解除された――電源がついていたことを説明する。
 警察の人はお父さんに断って、少し操作をした。確認したのはコントロールパネルの電源オプションのところ。ここの設定をお父さんが直していないかどうかを確認し、いじっていないとお父さんが断言する。そうしたら警察の人は、だったら不審者が侵入した可能性が高いと判断した。
 最初、俺は意味がわからなかったけれど、聞いているうちに理解した。
 つまり、マスターはパソコンをいじらないでいる状態が三十分続いたら自動的にスタンバイになるように設定してあるのだ。だから午前中に学校に行ったマスターのパソコンは、お昼過ぎにスタンバイ状態になっていることはあっても、モニターがついていることは通常、ありえない。故障していたら別だろうけど。
 だから誰かがマスターのパソコンを使ったのだし、それが家族の誰でもないとなると、不審者が侵入したということになる。使用者が学生で重要なデータなどがあるわけではないのなら、狙われたのはパスワードやID、クレジット番号などだろう、ということだけど……。
 俺、マスターの使っているパス、いくつか知ってるけど、それはマスターが俺に教えてくれたものだから、盗んだわけじゃない。でもそういうことも、警察のひとがパソコンを調べたら、わかってしまうのだろうか。どうしよう……。

「何? 何があったの?」
 マスターの部屋を調べ終えた警察のひとたちが――幸い、俺は見つからなかった――リビングに移動する。そっちの捜査をしているところに、マスターが帰ってきた。
 ああ良かったと俺は安心する余り、涙が一筋零れ落ちる。
 うわああぁぁ。マスター、怖かったよぉ。
「泥棒なんて……見間違えたんじゃないの、お父さん」
 少しして、とたとたとマスターが部屋に入ってきた。
「そんなことはない、確かに足音を聞いたんだ。絶対に泥棒がいた!」
 部屋にはお父さんと警察のひとたちも入ってきたみたいだ。複数の気配がする。
「それが本当だとしても、あたしの部屋には金目のものなんてないよ」
 言いながら、マスターはパソコンを起動させた。マイドキュメントを開いたり、ブラウザを起動させたりする。
「あたしはクレジットカードを使っていないからお金絡みはないだろうなぁ。IDとかも、せいぜいフリーメールや動画サイト用のものだし……」
 警察のひとの指示で、マスターは色々な画面を確認する。そして不審なことは見つからないと言った。
「だいたいここ、九階じゃない。犯人があたしの部屋に逃げ込んだとして……どこに逃げるっていうのよ」
 そ、そうです。逃げ場なんてないんです。消えたひとなんていないんですよ!
 全力でマスターの発言に相槌を打った。もうマスターだけが頼りなんです。なんとかしてください、お願いします!
「いや、お嬢さん。最近では高層マンションでの盗難被害も結構あるんです。壁を伝って窓やベランダから侵入する奴もいましてね」
「そうなんですか」
 マスターはびっくりしたように言った。
「ええ。ですから、高層階であるからと油断せずに、窓や玄関などは施錠することをお勧めしますよ。それから、今はとくに盗まれたものがないと思っているようですが、ちょっと状況が状況ですからね、後になってなくなったものがあると気がつくかもしれません。ないに越した事はないですけど」
「はあ……」
「その時にはこちらに連絡をしてください。今回はまだ盗まれたものが具体的にないので被害届は作成することはできませんが、こちらのお宅から通報があったことは把握しておりますので」
「はい、わかりました。……ありがとうございます」
「いいえ。では私たちはこれで」
「あ、はい」
「じゃあ、父さんたち、ちょっと出かけてくるから、留守番を頼む。母さんが戻ってきたら、何かなくなったものはないか、調べてくれと伝えてくれ」
「え? お父さんたち、どっか行くの?」
 良かった。どこかに行ってくれるんだ。俺はほっとしてずっと詰めていた息を吐き出した。
「ああ、マンションの管理会社にな。防犯カメラの映像を見せてもらうんだ。警察の立会いがないと駄目だというから……」
「ああ、そうなんだ……。行ってらっしゃい」
「おー」
 ばたばたと三人分の足音が遠ざかってゆく。そして玄関を出たらしい物音がしたあと、静かになった。
 しばらくしてきい、と小さく軋んだ音がした。きっとマスターの椅子だろう。続いてぼす、という鈍い音。これは多分ベッドに勢いよく座ったか寝転んだ音だ。
「で、何があったわけ?」
 機嫌の良くない声で、マスターは言った。
 これは、俺に聞いているんだよね……? もう出ても大丈夫なんだよね、お父さんたち、戻ってこないよね?
「お父さんたちなら行ったから。さっさと顔を出しなさいよ、カイト」
 俺の心を読んだように、マスターは命令した。
「ま、ますた〜〜」
「ちょ……うわ……。顔ぐしゃぐしゃじゃない」
 制服のまま、足を組んでベッドに座るマスターの表情は、ひきつっていた。だけど今の俺は安心した気持ちの方が強かったので、そんなことはどうでもよかった。マスターの顔を見た途端、涙が噴き出してしまう。
「マスター。どうしよう、俺、捕まっちゃう?」
「その前に、何があったのか話して。まだ状況がよくわかんないんだから」
「状況っていってもぉ」
 マスターはびっと人差し指を立てる。
「まずは肝心なことだけ。あんた、お父さんに見られたの?」
 ちょっと考えてから、俺は首を振った。
「いいえ。見られてはいないと思います。お父さんに気づかれる前に、俺、逃げましたから」
「というか、なんでこんなことになったわけ?」
 問われたので、俺は最初から説明した。話している途中でマスターの頬はぴくぴくしてきて、最後には頭をかかえてベッドに仰向けになった。
「あ〜〜、もう〜〜。誤魔化しきかないじゃない、そんなの」
「ごめんなさいぃ」
「いつか親に見つかるかもしれないとは思っていたよ。その時には怒られるだろうって、覚悟はしてた。でもいきなり警察沙汰になるとまでは思ってなかったよ、まったく」
「あうぅ」
 マスターの声はとても不機嫌だ。ああ、俺、マスターに見放されてしまったかもしれない。こんな騒ぎを起こしちゃったんだもの……。
 マスターはむくりと起き上がると、ぐしゃぐしゃと髪をかきまぜた。
「けどお父さんにしろお母さんにしろ、こんなに早く帰ってくるなんて滅多にないから、油断してあんたを自由にしていたあたしもうかつだった」
「それは俺もびっくりしました。なんで今日はこんなに早かったんですか?」
「なんか今日は会社の都合で半日で終わったんだって。そういやたまーにあったわ、こういうこと」
「そういうことは早く言ってください、マスター」
「そんなこと言われたって、あたしだってその時にならないとわかんないんだもん。今日だって、前もって教えてもらっていなかったし」
「じゃあ、またこういうことがあるかもしれないんですね」
「そうね」
 マスターは俺をじっと見ながら言った。その目は俺をどうするか考えているようで、背筋が冷える思いがした。
「マ、マスター」
「なに?」
 マスターの目が細くなる。うう……。
「すてないでぇ〜〜〜!」
「ちょ、ばか! 大きな声出さないでよ!」
 マスターは慌てて立ち上がると、音量をミュートにする。
「うえええ〜〜〜」
 泣いちゃいけないと思いつつも、涙がとまらない。音にならない声で、俺は号泣した。
「あーもう」
 マスターは大きくためいきをつくと、ふるふると頭を揺らす。
「出といで」
「あう?」
「お母さんがいつ帰ってくるかわかんないから、すぐ戻ってもらうけどね。いいから出てきなさい」
「……いいの?」
 俺は首をかしげる。ミュート状態だけど、マスターには通じたようだ。
「嫌なら別にいいのよ」
「嫌じゃありません!」
 さっきのことがあるからちょっと怖いけれど、でもマスターがいるなら平気だ。マスターのそばにいたい。たまにしてくれるように頭をなでてもらいたい。大丈夫だよって、言ってもらいたい。でも甘えるなって、怒られるかな。ううん、怒られてもいいや。だって、この気持ちはとても抑えられそうにないんだもの。
「マズダアァァ〜〜」
「うわ、うざっ!」
 飛びついた途端、マスターに避けられた。勢いあまって、俺はマスターのベッドにダイブしてしまう。
「マスター、ひどい……」
 それに『うざっ』って……。
「あ、ごめん。つい本音が」
 片手をあげてマスターは謝ってくる。
「ほ、本音って……」
 ということはマスター、俺のことうざいって思ってたんだ……。衝撃の事実に、俺はもう立ち上がる気力もなくなってしまった。そのままマスターのベッドに突っ伏しながらうぐうぐ泣いていると、マスターが近寄ってきて、座った。
「ほら、起きて起きて」
「うう〜〜」
 俺は嫌々と頭を振った。小さな子みたいで格好悪い。でも俺は今きっとひどい顔をしているだろうから、マスターに見られたくない。
「ったく、落ち着きなさいよ」
 マスターは俺を無理やり起こすと、肩のところに俺の顔を乗せた。首のところと背中に、マスターの手が回される。そしてその手はリズムをとるようにぽん、ぽん、と動いた。優しいその動きに、また涙腺が緩んできて、俺はマスターにしがみつく。
「ますたー」
「はいはい」
 よしよし、とマスターは俺の頭をなでてくれた。
 機嫌が悪いはずなのに、なんでこんなことをしてくれるんだろう。色々聞きたいことはあったけれど、言葉にならない。ただマスターが優しいことが嬉しくて、ずっとこのままでいたいと思った。

「よし、十分経った。終わり。離れて」
「ええっ!?」
 しばらくするとマスターは無情にも俺のことをぐいと押しのけた。時間制限付きだったの? だったら俺、もっとマスターにくっついておけばよかった。というか十分て、短かすぎやしませんか?
「カイト」
 マスターは真顔で俺のことをじっと見つめる。
「経緯はどうあれ、怖いのを我慢してじっとしてたのは、偉かったね」
「え?」
 あれ? 俺、褒められて……る?
「PCに出入りするところを見られたら、さすがにどうしようもないからね。本当に良かった」
「で、でで、でも、俺、マスターに迷惑かけてしまったし、お父さんだって、泥棒が入ったって思って……」
「そうだね。だから褒めてるわけじゃないよ。最悪の事態は避けられて良かったね、ってことを言っているの」
「……はあ」
 褒められていなかったのか。なんだ。
 マスターはそっと腕を伸ばして、俺の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。くすぐったくって、でもマスターに触れられているのが嬉しくて、思わずぎゅっと目をつぶった。
「でもこんなことは二度とゴメンだわ。だからカイト、これからはあたしが帰ってくるまでは部屋から出ちゃ駄目よ。誰かが帰ってきたときにはPCにすぐ戻れるようにしていてね。うちで一番早く帰ってくるのはたいていあたしだけど、今日みたいにあたし以外の人が来るかもしれないんだから。ね?」
「えっと、でも……」
 もっと厳しく叱られるかと思っていたのに、そんな感じは全然しなかったので、俺はどうしたら良いのかわからなくなった。
「マスター、怒っていないの?」
 問うと、マスターは口元だけ笑みの形を作った。
「あんたのボディに拳めりこませたいと思う程度にしかムカついていないから大丈夫」
 ひいいいいっ……! 怒ってる。マスター滅茶苦茶怒ってる。こんな『大丈夫』はいらない。怖い! うわあ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!
 ああ、そうか。これが前に言っていた『わかっているなら聞くなボケ』ってやつですね。実感しました。二度としないように気をつけます。
 マスターはふうっと息を吐くと、遠くを見つめるようにして呟く。
「まあ、今回の事はとにかくお父さんの気のせい、でシラを切りとおしてみるから、あんたも協力しなさいよね」
「協力って、どんな……?」
 俺がお父さんの前に出て行って、『気のせいですから』と言えってこと? まさか、そんな。
「勘づかれないように行動しろってことよ。外に出るなと言いたいところだけど、あたしがそう言ったところで、あんたにその気がなければどうしようもないんだから。根本的にこの事態をどうにかしようと思ったら、それはもうあんたに消えてもらうしかないけど、嫌でしょ?」
「嫌です!」
 それだけは許してほしい。マスターとおしゃべりができなくなるなんて、頭なでてもらえなくなるなんて、アイスが食べられなくなるなんて、絶対に嫌だ。あと、小次郎さんと遊べなくなるのも。
 静かにしてます、うるさくしません、マスターを困らせないようにします。百回、ううん千回言えば、俺の本気をわかってもらえますか?
 そうマスターに伝えたら、うんざりした顔で「うっとおしいからパス」と答えられた。そんな。俺は真剣なのに……!
「マスターはつれないですね」
「いやそれ、本気でうざいし」
 またうざいって言った。俺、もしかしてマスターに嫌われているんだろうか。小次郎さんほど愛されているわけではないけど、俺がいてもいいと思う程度には好かれていると思っていたのに……。あーあ。俺、マスターのこと全然わからないや。
 ベッドから降りて、俺は膝を抱えた。
「そろそろPCに戻って。いい加減、お母さんが来るだろうし、また慌てるの、いやだから」
「はぁい」
 しぶしぶと俺は立ち上がると、パソコンに向かう。
「マスター」
 ふと、思いついて振り返る。何? という目でマスターは俺を見返した。
「俺、マスターのお父さんとお母さんに挨拶したほうがいいんじゃないでしょうか。気をつけるつもりだけど、今日みたいなことがまた起きないとも限らないし」
「……」
 マスターは腕を組んで俺を見上げる。
「俺は悪いソフトじゃありません。どうしてだか身体ができてしまったけど、元々はちゃんとした会社で作られたちゃんとした製品です。歌う事が本業だけど、お家に誰もいないときにはお留守番だってちゃんとやります。ほらさっき、警察の人も言っていたでしょう。ここみたいなお家にも泥棒が入ることはあるって。俺がいればは悪いひとも入ろうと思わなくなるんじゃないですか? それに、それに、えっと、お家のお手伝いだってやります。教えてもらえれば、ですけど……」
 マスターは俺がしゃべっているうちにどんどん表情を強張らせていった。唇がまっすぐになり、それがへの字になる。目が伏せられて、肩が震える。
 そして、
「駄目」
 と固い声で言った。
「駄目、ですか?」
 やっぱり俺の存在を知られるのは嫌なんだ。俺だって、マスターのお家の人の前に出るのは怖い。でも、もしも受け入れてもらえたら、こんなふうにびくびくする必要はなくなる。ご両親に迷惑をかけることも、なくなる。……お前なんか消えろ、と言われる可能性の方が大きそうだけどね。
 だからマスターにきっぱり駄目と言われて、実はちょっと安心したんだ。
「絶対に駄目。タイミング的に最悪だわ。お父さんは泥棒が入ったって思ってる。それなのに実は前から家にいたんです、なんて言ってごらん。腹立ち紛れに消されるかもしれないじゃない。まだあんたを買ったときに、驚いた勢いで紹介していた方がましだったと思う。今更よ。一度隠すと決たんだから、最後まで貫きましょう。……見つかったら、その時はその時よ」
 声を絞り出すように、マスターは言った。その顔はとても苦しそうで、マスターも辛いんだと俺は気づいた。
 床を見つめていたマスターは、ぎゅっと目を閉じると、大きく頭を振った。再び俺を見上げるときには、もう弱そうな感じはなくなっていて、いつものマスターに戻っていた。
「大丈夫よ、あと半年くらいじゃない。もうじき夏休みに入るし、そしたら家にいる時間はもっと長くなる。あたしがいれば大体のフォローはできるし。だから、そんなに難しいことじゃないと思うんだ」
「でも、それだとマスターが大変じゃないですか」
 言うと、マスターは小さく微笑んだ。
「だったら、せいぜいいっぱい勉強して、知恵と知識と常識身につけて、あたしの役に立ってよ。それでチャラにしてあげる」
「う……はい」
「期待しないで待ってる。さ、もう戻って」
 くすくす笑いながら、マスターは手を払った。
 パソコンに戻ってしばらくすると、お母さんが帰ってきたみたいで、それからまた一騒ぎが起こった。
 家の中をあっちこっちひっくり返しているようで、途中からマスターにも手伝えと呼び出しがかかる。それが終わって部屋に戻ってきたマスターは、顛末を話してくれた。なんでもお父さんに内緒のへそくりがあったんだって。それとやっぱり内緒で買ったバッグとか宝石とかも。
「別に内緒にしなくても、お母さんが働いたお金で買ったんだから、堂々としていればいいのにね」
 夫婦って、よくわかんないや、とマスターは笑った。そんなマスターを見ていて、俺はなんだか胸のあたりがもやもやとしてくる。
 今日の俺は情けないことこのうえなかった。パニックを起こしてお父さんに見つかりそうになるし。……警察、呼ばれちゃったし。いっぱい泣いて、マスターを困らせてしまったし。なのに、マスターはいつもどおりに笑うんだ。
 でも、今回のことがなかったら気がつけなかった。マスターは俺の存在を隠す事をすっごく負担に感じているってことに。
 俺がものしらずだってことで文句を言われるのはしょっちゅうだったし、俺に知らないことが多いのは本当のことだから、言われてもしょうがないと思っていたけど。
 でもご両親に知られないでいることは簡単なことだと思っていたから、気にもかけていなかった。それどころか、あのひとたちがいなければ、俺はもっとマスターと一緒にいられたのに、なんて考えていたんだ。
 俺は馬鹿な上にひどいボーカロイドだ。
 そんな俺を見捨てないマスターは、俺には計りきれないほど心が広いのだろう。
 マスター。ごめんなさい。
 俺、もっとしっかりした男になれるように頑張ります。
 あなたに頼られるような、あなたを守れるような、そんな風になりたい。
 すぐには無理かもしれないけど。でも、いつかは……。





このカイト、うざすぎるorz

ちなみにタイトルは海外ドラマから、ではなく
24→ツーフォー→つーほー→つうほう→通報
という意味です(笑)




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