学校が終わり、ちょっとした寄り道をしてからあたしは家に帰った。出迎えてくる小次郎をなでてから自室に向かう。
 ――静かだ。
 けれど、昨日と一昨日のことを考えれば、この静けさも嵐の前触れと同じだと、あたしはややげんなりした。はあ、と一つため息をついて、あたしは制服から私服に着替え始める。と、PCの電源が入った。
(……あいつ)
 思わず顔が強張る。
 あたしはブラウスを急いで脱ぐと、頭からTシャツをかぶった。スカートを脱がずにデニムをはく。その間に完全に立ち上がったモニタはお気に入りの壁紙を背景に、いくつかのショートカットアイコンやフォルダを表示した。そこからひょっこりとカイトが顔をのぞかせる。
「おかえりなさい、マスター」
 どこか緊張したような笑みを唇に、期待と喜びを目に宿して。
「ああ、うん。ただいま」
 ごそごそとスカートの布越しにボタンをはめ、ファスナーをあげると、おもむろにスカートを脱いだ。それらを片づけるには後回しにして、あたしはカイトに向き直る。
「あのさぁ」
「はい?」
「あんた、少しは遠慮しなさいよ。一応あたし、女なんだからね?」
「はい。マスターは女の人ですね」
 それがどうかしたのかというように、カイトは首をかしげる。羞恥心というものを叩き込むには一体どうすればよいのだろうか……。
「女には見られたくない場面ってものがあるの。着替えとかお風呂とか寝てるとことか。そういうのは見ないようにするのが常識というか良識というか紳士的というか……とにかくそうして」
「えっと、はい、わかりました。でも俺、パソコンに電源が入っていない状態だと音しか聞こえなくて、出てもいいのかどうか、わからないんですけど……」
 困ったように眉を下げる。
「とりあえずあたしは学校から帰ってきたらまず着替えるから、部屋に入ったら十分間は出ないようにすれば大丈夫だと思うけど……。電源は、つけてもいい。でもいきなり顔を出すんじゃなくて、先に声をかけて確認するようにすればいいんじゃない? そしたらあたしだって準備できるんだし」
「あ、そうか。はい」
「……モニタから顔を出さないと、外は見えないんだよね?」
 あたしは念を押した。
「み、見えません」
 カイトはどもって答える。そこでそういう態度を取られると、こっちも不安になるんだが……。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
「絶対?」
「……あい」
 しつこく繰り返したのが怖かったのだろうか。カイトは半泣きで何度も頷く。心持ち後ろに下がっているようだ。
 これってあたしがいじめていることになるのだろうか。しかしデリカシーというものを覚えさせないと、あとであたしがとても困ることになりかねない。
「わかった。じゃ、出てきていいよ」
 言うと、カイトは一瞬ぽかんとしたが、すぐに喜色満面となった。モニタが光り、カイトが現れる。輝く粒をまといながら。
「今日も出ていいなんて、嬉しいです。お願いしようと思っていたんですよ」
 にこにことカイトは近づいてくる。たかだが三日しか経っていないけど、案外慣れるものなのだなと思いながら、あたしはカイトを見上げた。
「今日からはやってもらいたいことがあるからね。あ、歌じゃないよ?」
 ぱあっと顔を輝かせたので、勘違いするんじゃないとあたしは先手を打つ。カイトはしゅんとなった。
「先にリビングへ行ってて。こっちだとちょっと狭いし」
「あ、はい」
 残念そうにしながらも、カイトは素直に従った。あたしは制服をクローゼットにしまうと、筆記具及びルーズリーフを持って出る。
 リビングではカイトが床に座って小次郎とたわむれていた。小型犬と大型犬がじゃれあっているようで、大変微笑ましい。
「カイト、こっちきて」
「はあーい。じゃ、コジローさん、またね」
 あたしはダイニングテーブルの向かいに座るようにカイトに指示した。妙に行儀良く、膝の上に手を置いてカイトは座る。あたしはそんな彼の前に筆記具とルーズリーフを並べた。
「マスター?」
 不思議そうにカイトは首をかしげる。
「昨日言ったとおり、カイトにはこれから人間の世界のことをいろいろ覚えてもらおうと思ってるの。とりあえず今のカイトにどれだけのことができるか、テストするね」
「テスト、ですか」
 不安そうにカイトは筆記具とルーズリーフを眺める。その顔があんまり情けないので、あたしは苦笑した。
「そんな堅くならなくても大丈夫。テストって言ったって、学校のテストじゃないんだから。で、えーと、カイトはひらがなとカタカナは読めるんだったよね?」
「はい」
「じゃあ書けるかどうか、やってみよう。ひらがなとカタカナ、五十音ずつ書いてみて」
「ごじゅーおん……。なぁんだ、そんな簡単なことでいいんですか」
 カイトはほっとしたように力を抜く。どんな高レベル課題を出されると思っていたんだ。『美しい』すら読めないような奴相手に、漢字検定三級の問題とか出したってしょうがないだろうに。
 カイトは意気揚々とシャーペンを握ると、紙に書き出す。
「あれ?」
 何も書かさらない。
「……シャーペンは上の方を押さないと芯は出ないから」
「そうだったんですか」
 顔を赤くして、カイトはシャーペンの芯を出す。こういう、あたしにとってはありふれた物の使い方なんかも、ちょくちょく教えないといけないのだろうなぁ。
 カイトは勢いよく『あ』と書いた。……のだろうが、かなりいびつで『あ』とは読めない。
「あれ?」
 カイトは首をかしげる。次に『い』だ。こっちはまだ読める。次の『う』もなんとかなった。だけど『え』と『お』は字と認識できるものではなかった。
「ど、どうしてぇ!?」
 納得できないというようにカイトは叫ぶ。
「ミミズがのたくってるみたい。これは相当練習しないとダメっぽいね」
 しかし読むことができるだけマシだろう。そこから教えるとなるとかなり大変そうだし。ということは、まずはひらがなとカタカナがちゃんと書けるようになる練習からだな。漢字はその後でいいか。とカイトにやらせる課題の順番を考えていると、カイトは焦ったように中腰になった。
「マスター、違うんです。違うんですよ!」
「違うって何が?」
「俺は字が書けるはずなんです。だってあんなの、難しくないじゃないですか。できるはずなのに……!」
 そう思っていた時期があたしにもあったなぁ。幼稚園の頃だけど。頭の中でわかっている字と手の動きが一致しないんだよね。
「でも、できてないじゃない」
 あっさり指摘するとカイトは悔しそうに唸る。
「別に恥ずかしいことでもないんだからいいじゃない。練習してもできないとかならちょっと問題だけど。それともできる『はず』だから練習する気はないの?」
「いえ、そういうわけでは」
 すとんとカイトは椅子に座った。
「じゃあ、まずひらがなとカタカナを書く練習からね。えーっと、それじゃあ」
 こういうのはお手本見ながらやるのが一番だよね。あたしが書いてもいいけど、どうせならちゃんとした楷書のを覚えさせるか。
「ちょっと待ってて」
 あたしは部屋に戻ってスタンバイ状態になっていたPCを立ち上げる。文書作成ソフトを機動させ、ひらがなとカタカナの五十音表を作った。
 作業にはさほど時間はかからないけれど、待っているだけのカイトにはそれでも十分過ぎる待ち時間だったようで、途中で様子をのぞきにきた。……待てといったら待つように躾けるべきだろうか。しかしこんなの、ケースバイケースだからなぁ。
 プリントアウトした紙を持って再びリビングへ。
「それじゃあ、はい、これ」
 紙をカイトに渡す。
「それを見ながらでも、上に紙を敷いてなぞるのでもいいから、とにかくスムーズに書けるようになるまで練習ね」
「は、はい」
 緊張した面もちでカイトは紙を受け取る。ちなみにこのお手本はなぞりやすいように、字はやや大きめにしておいた。
「あ、一応言っておくけど、字っていうのは他の人が読んだ時にちゃんと読めればそれでいいんだから、そのお手本とそっくりそのまま同じように書けるようになれってことじゃないからね。それと今日中にできるようになれってことでもないからね」
 最初から根をつめてその後が続かないと面倒だし、とハードルをやや下げてやる。するとカイトがあからさまにほっとしたように肩から力を抜いて頷いた。
「まず一時間、しっかりやろう。そしたら休憩ね。……今日のおやつもアイスでいいの?」
「アイス! はい、アイス食べたいです!」
 緊張だの安堵だのはどこへやら。カイトは一気に表情を明るくさせた。そのままシャーペンを握ると、アイスアイスと呟きながら字の練習を始める。こういうところはカイトはとても簡単だと思う。
 さて、と。
 あたしは椅子に深く腰掛け直すと、カイトが練習している間、どうしていようかと考えた。あたし自身は帰宅してからまだ休憩をとっていないけど、だからってカイトが頑張っている最中になにか食べたり飲んだりするのも気が引ける。いくらカイトでも気が散るだろう。しょうがない、あたしもこっちに課題を持ってきて、一緒にやるか。
(しかし、カイトのシャーペンの持ち方が気になるなぁ)
 カイトはシャーペンを文字通り握っているのだ。ちょうどクレヨンなどの使い方を覚えた小さい子供がやるような感じに。
(最初はみんなこんなものだろうから、ある程度字を書き慣れるまで待ってから直せばいいかな。でも、そうしたらもう癖になっているかもしれないし……)
 じっと眺めていると、ふとカイトが目を上げた。それまでもゆっくり慎重にお手本をなぞっていても、心許なくふらふらしていた字が途端に乱れ出す。……あたしが見てると緊張するのか。
 いいや、とりあえず一時間はほっとこう。
 それから一時間が経過し、カイトにはご褒美のアイスをあげた。
 あたしもコーヒーにクッキーなぞをつまみながら、カイトの練習成果を拝見する。ひらがなとカタカナを最初から最後まで書いた物がそれぞれ二枚ずつ、計四枚だ。
 何度も変に力が入ったようで、シャーペンの芯が折れた跡がいくつもある。始めたばかりなのだから仕方がないが、文字もふらふらしていた。見た感じ、ひらがなよりはカタカナの方がまだ綺麗だけど。
 しかし一時間、紙を取り替える時以外は真面目に取り組んでいたので集中力はかなりあるようだ。向上心も同様に、あると言えるだろうし。
 うん、むしろそういうところこそ、あたしは評価したい。やったことがないことができないなんて普通だろう。いつまでもお荷物のままでいられても、あたしは抱えていられない。でもカイトが人間世界の常識とか行動とか、たいていの人なら普通にやれることを覚えてくれたら、それなりにつきあっていけるんじゃないだろうか。
 なんてね、お気楽すぎかな。

         ♪ ♪ ♪

 俺がマスターのところに来て四日目。
 今日、はじめて俺はマスターが学校に出かけている間にパソコンの外に出るという冒険をした。
 といっても勝手にやっているわけじゃない。マスターがそうしていいと言ったのだ。お父さんもお母さんもマスターも出かけてしまえば、夕方頃にマスターが帰ってくるまでお家にいるのはコジローさんだけ。だから出ても大丈夫だって。
 でも、マスターもいないのに俺が外に出ているのって、変な感じだ。お話できる人がいないんだもの。コジローさんの言葉は俺にはわからないし……。
(いやいや、そんなことより、今日の練習を始めないと)
 俺は昨日もらったお手本とコピー用紙――お手本の上をなぞるのに、ルーズリーフだと線が邪魔だったので途中からこれにしたのだ。もともとお手本も同じ紙に印刷されたものだからサイズもちょうどよいし――、消しゴムとシャーペンも持ってリビングに行った。
「コジローさん、おはよう」
 俺が出ていくと、コジローさんは喜んで尻尾を振ってくれた。ひとしきりなでたり抱っこしたりしてから、さあ俺は勉強をしないと、とダイニングテーブルのところへ行こうとしたのだけど、コジローさんはズボンの裾をかんで離してくれなかった。
「ダメですコジローさん。俺は字の練習をしないといけないんだから。マスターと約束しているんです。一時間したら休憩するから、そしたら遊びましょうね」
 小さな頭を押さえるようにしてそっとズボンから離す。コジローさんはちょっと俺を見上げるようにすると、ふいと走り去ってしまった。
「ふう……」
 良かった、わかってくれたんだ。
 俺はテーブルに道具を置いて椅子に座る。さて始めよう、と時刻を確認すると、足下を何かがかすめた。
「ひゃう!?」
 びっくりして下を見ると、コジローさんがボールを咥えていた。ああ、俺の言ったこと、わかったわけじゃないんだとちょっとがっかりした。
「ダメですったら」
 コジローさんはボールを床に置いてきらきらした黒い目で俺を見上げている。俺がボールを投げてくれると信じているようだ。
「だから……ダメですって」
 コジローさんはコートの裾を咥えてくいくいと引っ張る。どうして俺が立たないのか、わからないみたい。
「う、うう……」
 もう、しょうがないなぁ。先にコジローさんと遊ぼう。気がすんだら離してもらえるだろうし。

「……はっ」
 コジローさんにつきあっていたら、いつの間にか一時間以上経っていた。これじゃいけないと、俺は道具を持ってリビングから撤退する。
 うう、コジローさん、ごめん。だけど俺にはやらないといけないことがあるんだ!
 それから俺は練習して休んで練習して休んでを繰り返し、昨日よりはずっと上手にひらがなとカタカナが書けるようになった。
 どんなもんだい! マスターが帰ってきたら見せよう。きっと褒めてくれるはずだ。頭もなでてくれたら嬉しいなぁ。
 そしてマスターが帰ってくるのをドキドキわくわくしながら、リビングでコジローさんと一緒に待つ。そろそろ帰ってくる頃だよなと思っていると、急にコジローさんが走り出した。
 どうしたんだろうと思っていると、玄関から鍵を開ける音がする。あ、誰か帰ってきた。コジローさんはこのことに気づいていたのかな。すごい。それにしても誰が帰ってきたんだろう。マスターかな。……マスターだよね。
 帰ってきたのはやっぱりマスターで、俺がコジローさんと一緒におでむかえするとびっくりしたような顔になった。
 マスターが着替えてくるのを待ってから――そういえばマスターはいつも外から帰ってくる時は同じ格好をしていることに気がついた。外用の服なんだろうか――俺は練習の成果を見せた。そうしたらずいぶん頑張ったんだねって言われて、偉いねって笑ってくれた。でも頭はなでてくれなかった。
 またリビングに道具を用意して、今度はどんなことをするのだろうと待っていると、マスターは、
「じゃあおさらいをしよう。お手本を見ないでカタカナとひらがなの五十音を書いてみて」
「はい」
 そんなことは簡単だ。俺はすらすらすらっと昨日よりはずっと早いスピードで文字を書いてゆく。それが終わるとマスターはOKと満足そうに頷いた。
「合格ですか?」
「うん。一日でここまでできたらたいしたものだよ。あとは慣れの問題だろうから、意識して字を書く回数を増やせばもっとよくなると思う。カイトの場合は字を書かないといけない用事なんてそうそうないだろうから難しいかもしれないけど、当面は毎日課題を出すようにするから、それでなんとかするしかないかな」
「わかりました。それで、今日は何をするんですか。漢字ですか?」
 ひらがな、カタカナときたら、やっぱりそれじゃない? そう思ってマスターを見ると、
「あーうん、漢字もやりたいけど、その前に……」
 マスターは笑顔を引っ込めて困ったように俺を見た。
「やる気削ぐようで悪いんだけど、ペンの持ち方の練習をしよう」
 ペンの……持ち方?
「持ち方なんてあるんですか?」
「うん。そしてカイトの持ち方はあんまり良くない持ち方なの。だからちゃんとしたやり方を覚えてもらいたいんだ」
「だったらどうして昨日言ってくれなかったんですかぁ」
 そしたら俺、今日ずっと間違った持ち方で練習なんてしなかったのに。
 マスターの答えは簡単だった。
「だってあたしに見られていると緊張するみたいだったし」
「うう……」
 そりゃあ確かに昨日はすっごく緊張しちゃいましたけど。ぐにゃぐにゃした字を見られるの、恥ずかしかったんだもの。
 でもマスターは力づけるように俺の手をとんとんと叩く。
「最初はそんなものだから。少しずつやれるようになればいいんだから。てことで、練習しようね」
「はい……」
 マスターの指先が当たったところがぽかぽかする。もっと触ってくれないかな。
「まず、正しい持ち方はこう。はい、やってみて」
 マスターは見本を見せるとシャーペンを俺に渡す。えっと、親指と人指し指で押さえて中指が……ええと、どうだっけ。
「もう一本持ってくるか」
 俺がもたもたしているので、マスターはもう一本シャーペンを持ってくると、わかりやすくするためだろう、俺の隣に座った。
「こう」
「えっと……。こう、ですか?」
「そうそう。そのまま書いてみて」
「はい。……マスター、すごく書きづらいですぅ」
「まあ最初はそう感じるかも。慣れれば平気よ」
「う、うう……」
 マスターは俺の手元をじっと見つめる。せっかく上達した文字だったけど、昨日と同じくらい下手になってしまったようだ。
「肩に力が入りすぎ。あと肘も。そんなに腕あげなくていいんだから」
「そ、そんなこと言っても!」
 気を抜くとシャーペンを落としそうになるんですよ。
「指の形、気をつけて。崩れてきてるよ」
「え、うわわ……」
 あっちもこっちも気をつけないといけなくて慌てるあまりつい力がこもる。ぽきっと芯が折れてどこかに飛んでいった。
「ああ……」
「カイト、焦りすぎ」
「……すみません」
 情けなくて項垂れると、マスターは俺の顔をのぞきこんできた。
「謝らなくていいから。んじゃあ、ちょっと」
「うえ?」
 マスターは立ち上がって俺の後ろに立った。と、マスターは俺の右手の上に右手を、肩に左手を乗せた。
「マ、マスター?」
 手のひらが、腕が密着する。驚いて振り返るとマスターはメガネの奥の目をすがめた。
「カイト、ちゃんと前を見て」
「えっ、はい」
 返事はしたものの、俺は頭が真っ白になってしまって、何も考えられなくなってしまった。
「とりあえず力抜いて、あたしが動かすのについてきてね。あ、紙はそっちで押さえてね」
「は、はい」
 なんとか頷いたけれど、マスターがあんまり近くにいるので頭の中が真っ白になってしまいそう。それにしても俺からマスターに近づくのは駄目だって言われているけど、マスターから俺に近づくのはありなんだ。
 マスターは俺の右手に手を添えながら五十音を書いてゆく。彼女の手は俺より小さいのでやりづらいのか、時折力を込め直したりした。
 これ、いい。すごくいい。マスターに触れられているところが気持ち良くて安心する。温かい。ずっとこうしていたい……。
 だけど幸せな時間は短く、半分までいったところでもういいだろうとマスターは手を離してしまった。
「感覚つかめた? 続きは一人でやってみなよ」
 さらっと言い放ってマスターは身体を離す。あーあ、残念。もっとああしていたかったのに。俺が字、上手にならなかったら、マスターずっとこうしてくれるかなぁ。
(……怒られる方が先かな、やっぱり)
 マスターは怒ると本当に怖いんだもの。それに俺がいつまでもダメダメだったら、俺のことなんて嫌いになっていらないって言うかもしれない。そんなのヤだ。
 俺はシャーペンを持ち直し、ゆっくりと字を書く。手に腕に、マスターの感覚を思い出しながら。
(俺はこのひととずっと一緒にいるんだ……)
 ただのモノの分際でこんな風に考えるのは思い上がりというものかもしれない。だけどせっかく想いを伝える手段ができたんだ。好かれたり飽きられたりするのをただ待っている必要なんてないんじゃないだろうか。
「うん、良くなってる。その調子その調子」
 俺の手元を見つめるマスターの目は真剣だけど優しい。それに楽しそう、にも見える。
 俺はこのひとに好かれたい。でも俺はまだ、マスターに何かをしてあげられることなんてほとんどない。字を書くことすらままならないのだから。
 だけど少しずつだけどマスターの要望に応えられるようになっている。
 それがとても、誇らしい。

 一週間はあっという間だった。
 土曜と日曜はお父さんとお母さんが家にいたのでその間は練習できなかったりしたけれど、その日以外は毎日外に出てたくさん書き取りをした。
 次の週には漢字もやるようになった。最初は簡単なものからで、小学校一年生が覚えるレベルのもの。それだけでも結構な数があったんだけど、全部でいくつあるんだろうと思って検索をかけてみたら千以上あってびっくりした。
 マスターももちろん、これ全部覚えているんだよね。すごいなぁ。俺はどれくらい時間がかかるのだろうか。
 その日も帰宅したマスターが着替えるのを待ってからリビングで一緒にお勉強するつもりだった。
 俺はマスターが学校に行っている間にも色々やっているので、マスターから次の課題を出されてもそれを夕方にやる必要なんて本当はないのだ。だけど俺が勉強するとマスターもダイニングテーブルで一緒に勉強――マスターは受験勉強だけど――するので一時間はやるようにしている。でないとマスターはお部屋にこもって俺のこと放置するんだもの。でなければ休憩とか息抜きと称してマンガ読んだりゲームしたりするし。それくらいなら会話がなくても勉強していた方がましだ。
 マスターが来るまでの間、暇だった俺はなんとなくお家のひとたちの名前を紙に書いた。
 お父さん。
 お母さん。
 マスター。
 コジローさん。
 そこまで書いて首をかしげた。コジローさんは『コジロー』さんじゃなくて『こじろう』さんなのかな。
「はいお待たせ、カイト。んじゃやろっか」
 勉強道具を持ってマスターが来た。
「あの、マスター」
「ん?」
「コジローさんはコジローさんですか、こじろうさんですか?」
「は?」
 マスターはけげんそうな顔になったが、俺の手元に気がつき「ああ」と笑った。
「どっちも違うよ。小次郎はこう書くの」
 さらさらとマスターはコジローさんの名前を書いた。
「漢字だったんですか」
「そうだよ。知らなかったんだ。ま、会話だけだと字がどうかなんてわかんないものかもね」
「はい、わかりませんでした。小次郎さんって、難しい字なんですね」
「そんなに難しくもないと思うけど……」
「マスターに比べれば難しいですよ。だって『マスター』ってカタカナじゃないですか」
「いや、『マスター』の表記は本当は英語なんだけど。というか、あたしの名前はマスターじゃないし」
「……あ、そうでした」
 俺、マスターのことはマスターとしか呼ばないのですっかり忘れていた。
 マスターははっとしたように目を見開く。
「そういえばあたしカイトに名前言ってなかったかも!」
「あ、大丈夫です。知ってます! お父さんやお母さんがマスターのことを名前で呼んでいますし」
 さんっていうんですよね。
「あ、そういえばそうか。……にしてもうかつだったわ。ごめん」
 マスターは片手をあげて、ひょいと肩をすくめる。
「いえ。それよりもマスターの名前はどう書くんですか? やっぱり漢字なんですか?」
「そうだよ、あたしの名前はこう」
 と、小次郎と書いてある隣にマスターは名前を書いた。
「ついでに、お父さんとお母さんはこう。名字はこうね」
 紙の上にマスターのご家族が集合した格好になる。せっかくなので俺の名前も書こうっと。えっと、俺の名前は……。
「マスター、俺の名前だけ漢字じゃありません!」
「は?」
 俺だけアルファベットになっているのが不満だとマスターに言うと、マスターは呆れたような顔になる。
「しょうがないじゃない。メーカーがそう決めたんだから」
「そうですけどぉ」
「漢字の名前がほしかったら、自分で適当に好きな漢字を組み合わせたら? 別に誰に迷惑かかるわけじゃないもん、好きにしたらいいと思うよ」
「好きな漢字って言っても……」
「かいと、なら色々考えられるよね。ちょっと待ってて、辞書持ってくる」
 マスターは部屋から漢字辞書を持ってきて俺に渡した。かいと、なら『か』と『いと』、『か』と『い』と『と』、『かい』と『と』に字を分けられるみたいだ。だけど……。
「マスター、いっぱいあって決められません!」
「まーそうだろうねー」
 マスターはぺらぺらとページをめくりながら気のない返事をする。
「もう、マスターも真面目に考えてくださいよ」
「別にあたしはカイトの名前が漢字でなくてもいいし。そもそも遊びみたいなものでしょ。日によって変えたら?」
「なんですか、それ。俺は真剣なのに」
 ぶーっと俺は頬を膨らませた。そしてふと思いつく。
「……マスターだったらどうします?」
「えー。あたし? まあ、やっぱ色的に『海』の……。いや、ありきたりすぎるか」
 マスターは辞書を自分の前に持っていく。
「かいと……。かい、と。か、い、と。うーん。あ、歌って『か』と読めるな……。でも『い』と『と』はどうしよう……」
 どうでもいい、みたいに言ってたのに考えはじめたマスターは本気を出したようで、数分ほど唸りながら辞書をめくっていたけれど、ようやく一つの名前を書いた。それは【歌純】というものだった。
 字の意味は「純粋な歌」だと聞かされて俺は感激した。マスター、どうでもいいという割にめちゃくちゃ俺のこと考えてくれているじゃないですか。
「ありがとうございます、マスター。俺、俺、すっごく嬉し」
「やっぱやめよ」
 ぐしゃぐしゃと名前の上をシャーペンで塗りつぶす。
「あああああっ、何するんですか!」
 せっかくの俺の名前が……っ。 
 マスターは目をそらしながらぼそぼそ言い訳をする。
「いやだって、この字だと仮に十人に見せても十人とも『かいと』とは読みそうにないし」
「そうなんですか? でも『かいと』って読めるんですよね?」
「辞書を読む限りはね。でもこう書いたらまず『かずみ』と呼ばれそうな気がする。それとも名前自体、かずみに変える?」
「俺はカイトですよ」
「うん、じゃ、そういうことでやめよう。読み方以前に字面がきらきらしてて恥ずかしいし。まだ海の人と書く方がまし」
「うみのひと?」
「そう、こうね。青のイメージだし、やっぱ最初に浮かぶのがこれなんだよね」
 マスターは海人、と書いた。青。うん、俺は髪もそうだしコートにも青い部分がある。青は俺のイメージカラーだ。
「マスターは青、好きですか?」
「わりとね」
「なら、これにします」
 海でも歌でも、マスターが俺のことを思ってつけてくれたのなら俺は嬉しい。そしてマスターが良いと思う方が俺にとっても良いものだ。
 俺は早速自分の名前を漢字で書いてみる。『人』はもう大丈夫だけど、『海』はバランス良く書くのがちょっと難しい。それからせっかくだから、名字も書こう。
「でーきた」
 海人。
「うわ、すごい普通っぽい」
 マスターが勢いよく噴出した。
「普通じゃいけませんか?」
「いや。いいんじゃない。普通なのは」
 そう言いながらもにやにやしているので、俺はきっとからかわれているのだと悲しくなった。変なこと、しちゃったのかな。
「マスターのお家の人になれたみたいなのに……」
 消してしまおう、と俺は消しゴムをとりあげようとした。と、マスターが俺の頭をくしゃくしゃとなでてくる。俺はびっくりして顔をあげた。マスターは困ったような笑みを浮かべている。
「そうだね。カイトももう、あたしの家族だよ」
「マ、マスター……」
 温かい手のひら。優しい言葉。
 家族。
 俺もマスターの家族。
「マスター!」
 嬉しくて嬉しくて、涙が出る。喜びの衝動に任せて両腕を広げた。
「抱きついてくるなって言ってるでしょーが!」
「あいたっ」
 捕まえた、と思ったら脇腹を殴られた。
「まったく、あんたは……」
 俺が脇腹を押さえてしゃがみこむと、怒りに震えるマスターの低い声が頭上から降ってきた。
 怒ったマスターは、やっぱり怖い。






この時点では小次郎はカイトのことを自分より下だと思っているようです。
(だから遊ぶには遊ぶけど、言うことは聞かない(笑)



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