時計を見る。
 立つ。
 座る。
 同じ動きを何度も繰り返す。
 落ち着きのないことをしているという自覚はある。だけど実際に落ち着いてなんていられないのだ。

 今日はマスターの推薦入学試験の日。そのマスターがいつもより早く家を出てから数時間経つ。
 この試験に合格したら、マスターの受験勉強は終わり。そうしたら約束通り俺のことを使ってもらうのだ。ここに来てから四ヵ月近く経つ。ああ、ずいぶん長いこと待ったなぁ……。
 ようやく念願が叶うかもしれないということで、いても立ってもいられない。テレビも見ず、ネットもやらず、小次郎さんとも遊ばないで、時間が過ぎるのをただ待っていた。
 マスター早く帰ってこないかな。結果は今日のうちにわかるわけじゃないけれど、どれくらいやれたかで大体見当がつくだろうし。
 だけど、少し気にかかることがある。
 マスターは昨日から体調がよくないらしいのだ。いつも通り学校に行ったけれど、お昼になる前に帰ってきた。風邪をひいたかもしれないということだ。熱などはないけれど、試験前日だということで、大事をとって早退してきたのだという。今朝出かける時にも、お父さんと試験会場まで送るかどうか、揉めていたし。
 結局駅まではタクシーで行くことになったみたいだけど、会場はマスターの通っている学校よりずっと遠いと聞いている。その間に余計具合が悪くなったりしていないといいけれど。
 再び時計を見る。さっきから長針は少ししか動いていない。
 あーあ。どうして早く時間が過ぎてほしい時に限って、時間が進むのが遅く感じるんだろう。
 マスター。早く帰ってきて……。

 ゆっくりゆっくり動いていた時計はようやく夕方の時刻を指す。お日様は傾き、空はもうオレンジ色だ。
 リビングのソファでぼんやりとひざを抱えていると、床でうとうとしていた小次郎さんが起き上がり、玄関に向かって駆けて行く。マスターが帰ってきたんだ!
 はっとして立ち上がると、俺も玄関に向かった。
 冷静に考えれば、帰ってきたのはマスターであるとは限らない。小次郎さんはお家の人全員に反応するのだから、お父さんやお母さんである可能性もある。でもこの日この時間に帰ってくるのがマスターでないはずがない。そう思いつつも、俺は以前の失敗を思い出して、念のために玄関からはすぐに見えないように廊下の角でスタンバイした。
 玄関を見上げる小次郎さん。鍵がカチリと動き、ノブが回る。開かれた扉。姿を見せるのは、俺のマスター。
「お帰りなさい、マスター。試験はどうでしたか?」
 駆け寄ってたずねる。
 マスターの表情は大きなマスクで覆われていて、よくわからない。ちょっと顔をあげて、俺のことを見上げた。
「カイト……」
 くぐもった声は掠れがち。朝よりひどいみたいだ。
「マスター?」
 具合悪いのかな。だったらすぐに着替えて寝たほうがいいんじゃないかな。今日一日大変だったんだから。疲れてもいるだろうし。
「カイト、ごめん」
「え?」
 いきなり謝られてもわけがわからない。だけど聞き返す間もなくマスターの目から大粒の涙がぼろぼろこぼれてきて、マスクに染み込んでいった。
「ごめんね、カイト。ごめんね……」
 その場にうずくまって、マスターは繰り返す。
「マスター? どうしたんですか? と、とにかく中に入ってください。というか入りましょう!」
 俺の声が聞こえているのかいないのかわからないが、マスターは泣きじゃくるだけだった。どうしてよいのかわからず、だけど落ち着かせたほうがよいという判断だけはついたので、俺はマスターを抱えあげて靴を脱がせた。そのままリビングに運び、ソファに座らせる。
「マスター。あの……」
 言葉が続かない。なんと言えばよいのかわからない。そもそもどうしてマスターは泣いているんだろう。そしてどうして俺に謝るんだ?
 マスターはソファに座って、クッションに顔を埋めていた。肩は小刻みに上下している。
「温かい飲み物、作ってきましょうか? ココアとかホットミルクとか……。落ち着きますよ」
 そっと声をかけるものの、マスターは頭を振って拒絶した。ううん、どうしたら泣き止んでくれるんだろう。
 途方に暮れる俺の脇に、小次郎さんがちょこんと座る。俺が困った、という風に首をかしげると小次郎さんも首をかしげた。きょとんとした目で。
 しゃくりあげていたマスターはしばらくすると、ふらりと立ち上がって、よろめきながら歩き出した。なんだか目が据わっているし様子が変だしで、俺は心配になって後に続く。
 マスターはマスクを外すとゴミ箱に放り込んだ。目の周りは真っ赤。鼻も赤くなっている。
「いちいちついてこなくていいよ」
「でも……」
 マスターはうっとうしげに手を振る。鼻をかんでから洗面所に向かった。顔を洗う。
 それからキッチンへ行って少しの間ぼんやり立ってから――飲み物なら俺が淹れますと言ったけど、返事をしてもらえなかった――ポットからお湯をくんで少し飲んだ。
「あのさ……」
 カップを持ったまま、マスターは口を開く。
「はい?」
 ようやく話してくれる気になったようなので、ほっとして俺は少しかがむ。マスターと同じ目線になるために。
「駄目だった」
「何がですか?」
「試験。全然出来なかった」
「……ああ」
 そうか。俺はただそうとしか思わなかった。
 絶対に大丈夫なんてことはないと前からマスターは言っていた。そのマスターが断言しているんだから、本当に出来なかったのだろう。ちょっと残念だけど、仕方がない。
「会場に行ってからあんまり体調が悪かったから、別室で試験を受けることになったんだ。でも問題読んでも頭に入らないし、なんか字もすっごくぐちゃぐちゃにしか書けなかったし、面接も何しゃべったのか覚えてないし。もう駄目だ。落ちた」
 カップを持つ手が震えている。マスターの目には再び涙がたまって、つうと伝っていった。
「そんなに落ち込まないでください。試験は今回だけじゃないんでしょう? 次、頑張ればいいじゃないですか」
 元気を出してほしくて、俺はマスターを励ました。マスターはぐっとは唇をかむ。
「きっと大丈夫ですよ。絶対に受かります。だってマスターはあんなに頑張ってたんですから」
 俺はマスターの手からカップを取ろうと腕を伸ばした。あんまり強く握っているから、指の先が白くなっていて痛々しい。
 しかしマスターは俺の手から逃れるように一歩下がると、カップが砕けそうな音をさせて流しに叩きつけた。
「何が大丈夫なの」
「え?」
 音の激しさに思わず身をすくめると、マスターは俺を睨みつけてきた。
「簡単に言わないでよ。あんたに何の保障ができるっていうの!」
「マ、マスター」
「今回駄目だから次って、そんな簡単なものじゃないの! 合格圏内だったんだから。体調さえ悪くなかったら、終わっていたはずなのに! その次が来たときにまたなんかアクシデントが起きるかもしれないじゃない。そしたら浪人なんだからね。家から出られなくなるんだからね。あんたそこんとこわかってるの!?」
「え、えっと……」
「もういい、バカ! バカイト! バカ!」
 怒鳴りながら、マスターはどんどん興奮していった。鋭く息をしたかと思うと、次の瞬間には大粒の涙がこぼれる。俺はどうしていいのかわからない。こんなマスターは初めてだったから。
「マスター」
「触んないで!」
 伸ばした手は振り払われる。マスターは俺の横をすりぬけると、自分の部屋に行ってしまった。
 慌てて俺は後を追う。ドアを開けると、カバンが飛んできた。
「入ってくるなー!」
「ご、ごめんなさい!」
 勢いに押されて、すぐにドアを閉める。ふう、と息を吐くとそのまま床に座り込んだ。

 日が暮れる。暗くなる。夜になる。 
 さすがにお母さんが――お父さんとお母さんでは、たいていお母さんの方が少し早く帰ってくる――帰ってくる時間が近づいて来たので、俺は恐る恐るノックをした。
「マスター、あの、入ってもいいですか?」
 返事はない。
「パソコンの中に戻るだけですから。うるさくしませんから」
 返事はなかった。
「マスター……」
 泣きたかった。ここまで無視されるのは始めてだったから。俺はもうマスターに嫌われてしまったのだろうか。
 その時小次郎さんが立ち上がって玄関に向かった。ああ、もう、時間がない。
「すみません、開けます」
 俺はそっと中に入る。マスターの部屋には明りがついていなかった。眠っているみたいで、頭までふとんを被っている。でも本当に寝ているのかな。俺と話したくないだけなのかもしてない。
 確かめたかったけど、お母さんが家の中に入ってきたみたいだった。俺は、戻らないと。
「お休みなさい。マスター」
 答えはなかった。

 次の日になっても熱が下がらなかったので、マスターは病院に行くことになった。お母さんが出社時間を遅らせるからついていくと言っていたけれど、マスターは笑って断った。
「風邪ひきと長い間一緒にいて、お母さんにまで移ったら困るじゃない。いいから会社行ってよ。別に死ぬような病気じゃないんだし、あたし一人で大丈夫だって」
 お母さんは渋っていたけれど、毎年一度はかかるんだからと諦めたようだった。お母さんが家を出る。しばらくしてマスターが。
 ああ、俺がマスターについていってあげられたら。だってマスターの声、昨日からさらにひどくなっているんだもの。同じ人から出ているとは思えない。マスターはきっとすごく苦しいんだ。でも、マスターは嫌がるんだろうな……。
 昨日みたいに興奮するかもしれないからと、俺はマスターがでかけるまでパソコンの中で待機していた。それから行動開始。家の中にあるもので看病するのに必要なものを探す。昨夜はずっとネットで病気に関する情報を集めていたのだ。風邪だとマスターは言っていたから、その当たりを中心に。
 冷やすためのものは冷凍庫にある。アイスを食べるためにしょっちゅう開けていたから、それは知っていた。あとは、お湯をわかそうかな。風邪だったら水分補給が大事だって書いてあったし。それと……そうだ、ご飯はどうしよう。おかゆとか、俺、作れるかな。一人で料理したことはないから不安だ。でもやらなくちゃ。レシピを探しておこう。お薬は、病院に行ったんだからお医者さんに任せる。
(あんまりやることがないなぁ)
 一人で張り切ってバカみたいだ。こんなことしたって、マスターが俺を嫌いになったのなら意味がないのに。
(でもマスターが苦しんでいるんだ)
 大事な時だったのにあんなことになってしまって、すごくショックだったんだろう。一晩経ってようやく俺にも理解できた。それと同時に、俺は自分のしてきたことを思い返して穴があったら入りたい気分になった。
 俺は、マスターの置かれている状況を全然理解していなかった。
 受験が終わるまでは構えないと言うマスターに無理を言って毎日付きまとった。迷惑をかけていると思わなくもなかったけど、それよりもマスターはなんだかんだいっても俺のことが好きなんだから大丈夫だって思っていた。
 だって、俺は製品なんだ。商品。つまりお金で売り買いするモノ。
 マスターは使えるお金が少ないと言っていた。その少ない中から安いとは言えない俺を買ったんだ。好きじゃなかったらそんなこと、しないはず。もちろん俺だって、人間が衝動買いとかいうものをすることは知ってる。学んだから。買ったものの、すぐに飽きられることもあると知ってる。経験したから。
 だから俺は余計にマスターに嫌われたくなくて、もっともっと好かれたくて、そのためにはマスターと一緒にいるのが一番だと思って、外の世界にいることを望んだ。迷惑そうな顔をされることもあったけど、それは本来データとしてしか存在しないはずの俺が実体化をしてしまったからであって、そのうち慣れてくれると思っていた。実際に、慣れてはくれたけれど。
 だけど結局、俺のしたことはマスターに負担をかけただけだったのだ。俺がお家の人に見つからないように、マスターはすごく気を張っていた。疲れた、ともよく言っていたっけ。
 浪人したらまた一年この家にいなくてはならない。そうしたら俺が見つかってしまう可能性はずっと高くなってしまう。だからこそ、絶対試験に受からなくてはいけない。そう、思い込んでいたんじゃないだろうか。だから昨日、あんな風に怒ったんだ。
 俺は馬鹿だ。マスターの好意に頼り切って、甘えて、あぐらをかいていた。こんなんじゃ、嫌われても仕方がない。今更気づいても、遅いのだけど。
 二時間ほどしてマスターは帰ってきた。俺がお出迎えをすると一瞬眉間にしわを寄せたけど、片付けておいてとバッグとビニール袋を渡される。
 マスターがうがいと手洗いをしている間に、俺は袋の中身を整理した。レトルトのおかゆ、スポーツドリンクに飲みかけのミネラルウォーター、冷却ジェルシート。
 俺が準備するまでもなかった。マスターは必要なものをちゃんとわかっている。俺ががっかりするのは筋違いだとわかっていても、俺の手なんて必要じゃないと言われているみたいで、気落ちしてしまった。
 バッグの口が閉まりきらずに薬の袋がのぞいていたので、処方箋を取り出して読んだ。どんな薬をもらったのか俺も知っておかないと。薬って、飲む時間が決まっているというし。
「あたし、もう寝るから。なんかすごい疲れた……」
 どこかふわふわした足取りで、マスターはリビングを横切っていった。こんなに普通に口をきいてもらえるとは思わなかったので、思わず反応が遅れてしまう。
「あ、はい。マスター、インフルエンザだったんですね」
 俺の調べた範囲で、この薬をもらうのはこの病気だったはず。風邪じゃなかったんだ。
「そうなの。今までインフルにかかったことなかったから気づかなかった。普通の風邪だと思ってたんだよね……。本当、失敗した。わかっていたら一昨日のうちに病院に行ってたのに」
 はーっと大きくため息をついた。うわ、まずい。嫌な事、思い出させてしまった。
「マ、マスター」
「寝るね」
 マスターは冷却ジェルを掴んで、きびすを返す。
「え、あの、薬飲まなくていいんですか?」
「帰る途中で飲んだ」
 そうでしたか。あ、そうか、あの飲みかけの水……。
「……お休みなさい」
 部屋に消える前に、マスターに声をかける。マスターはちょっと足を止めて頷いてくれた。
 それからは待機、待機、ひたすら待機。
 病気のマスターを煩わせないように、俺は静かにしていた。小次郎さんが遊んでほしそうに俺の袖をかんできたりしたけれど、今日は駄目だと言い聞かせてそっと外した。
 マスターどうしているだろう。そばにいて様子を見たい。
 だけどマスターは俺がひっついてくるのは好きじゃないみたいだから、我慢した。マスターはまだ怒っているような気がしたし。俺はこれ以上マスターに嫌われたくないんだ。
 時計の短針が一を指した。マスターはまだ寝ているみたいだけど、そろそろ何かお腹にいれないといけないだろう。栄養とらないと、治るものも治らなくなるからね。
 ノックをするが返事がない。そっと中に入る。部屋はカーテンを引いているものの、昼間なので真っ暗ではなかった。
 ベッドに近付き顔をのぞきこむと、マスターはいつもより青白い顔をして横になっていた。息遣いも苦しげだ。どうしよう、寝かせておいた方がいいのかなぁ。
「マスター」
 小さく声をかけると、まぶたがぴくりと動いてゆっくりと開いた。焦点の合わない目で俺を見る。
「カイト……? いま何時?」
「一時過ぎです」
 囁くような声で答える。マスターはおでこに手を当てると、だるそうに身をよじった。
「のど渇いた。水持ってきて」
「はい。それと、ごはんも食べませんか。おかゆを温めればいいのなら、そうします」
 マスターは少し考え込んで――起きたばかりで頭が回っていないだけかもしれないが――から答える。
「ん……。いらない。食欲ない。というか、食べたら吐きそう」
「わかりました」
 ちょっと心配だったけれど、食欲がない時には無理して食べさせない方がいいと医学サイトに書いてあったので、俺はそれ以上言わなかった。水を飲んだマスターはまた眠りについたので、俺も再びリビングで待機した。
 夕方になって、小次郎さんがすごくソワソワしだしたので思い出した。そろそろ散歩の時間だ。昨日から行ってないんだもんね。今日も無理だし。小次郎さんかわいそう。俺が連れて行ってあげられたらいいんだけど。
 小次郎さんは玄関とリビングを何度も往復する。しまいには俺に催促するようにちらちらと振り返ってきた。仕方がないのでついて行くと、彼は靴箱脇の棚を見上げた。そこには散歩用のリードがひっかけてあるのだ。
 俺には無理なのだと、散歩には行けないのだと、懇々と小次郎さんに説明する。といっても俺には犬の言葉はわからないので通じているわけではないだろうけど。
 それでも小次郎さんは散歩に行けないことだけはわかったのだろう、拗ねてべたりとその場にうつ伏せになってしまった。不満げに俺を見上げる。……そんな目で見られても、無理なものは無理なんですよ。俺たちのマスターが病気なんです。だから静かに待っていましょうね。
 せめて一緒に遊んであげようかな、と俺は思い始めた。あんまり音を立てたくないんだけど、マスターが眠っているうちにちょっとだけなら大丈夫かも。
 それで小次郎さんをリビングに連れて行こうとしたのだけど、小次郎さんは俺の手を振り払って逃げていった。お父さんたちの寝室の方に。俺はため息をついて肩を落とす。
 なにもかも上手くいかない。頑張ろうと思えば思うほど、空回っていくようだ。
 俺、マスターの受験が終わるまで、パソコンから出ないようにしようか。マスターだってそう望んでいるだろうし。マスターに会えないのは辛いけど、でもそれは俺の都合だ。今までたくさん迷惑をかけてきたのだから、少しでも挽回しないと。
 じわりと涙が浮かんでくる。
 うわ、泣くな俺。泣いたって、マスターは俺の頭をなでてはくれない。そんなことしてもらう権利は俺にはない。
「……ト。……イト」
 あ、れ。マスターが呼んでる?
「カイト。カイトいないの? カイト!」
 苦しそうな咳交じりの声はだんだん大きくなってゆく。
 慌てて涙をぬぐうと、俺はリビングに戻った。
「カイト! カイトってば!」
「はい、マスター」
「……カイト?」
「すみません、お待たせしてしまって」
 すっかりオレンジ色も薄れた暗がりの中、マスターのシルエットが黒く浮かんでいる。電気をつけると、まぶしそうにマスターは瞬いた。
「ど、どこ行ってたの。なんでいなかったの!」
「すみません。あの、ちょっと小次郎さんが……」
 真っ赤な顔でマスターは怒鳴る。
「なんであんたはあたしがいてほしくないと思うときにはいて、いてほしいと思うときにはいないのよ。わけわかんない。バカ! カイトのバカ!」
 マスターは俺の話なんて全然耳に入ってないようだった。言い終わるとぜいぜいと息荒く肩を上下させる。
 俺は思わず面食らった。マスター、それはちょっとひどすぎませんか。いてほしかった、なんて、言われないとわかりません。でもそうか。そばについていてほしかったんだ。嫌われてはいなかったんだ。
「……何、笑ってんの。バカ?」
 またバカと言われたけど、俺は少しも気にならなかった。顔が自然とにやけてしまうのを止められない。
「ごめんなさい。今後はそばにいますね」
「うん」
 頷いてからマスターは、あれ? と首をかしげる。
「どうしました?」
「……なんでもない」
 釈然としていない様子だったけど、マスターは俺に説明する気はないらしい。ふらふら歩いてソファに寝転がった。悪化してしまいますよと俺は注意したけれど、背中が痛くて寝ていられないと言い返されたので、毛布を取りにゆき、マスターにかける。
 暇だというのでテレビをつけるが、音がうるさいと言われたのですぐに消す。
 マスターのわがまま。でも病人だもの、仕方がないよね。
 スポーツドリンクを飲ませて水分補給をしていると、小次郎さんがさっきまで拗ねていたのが嘘みたいにご機嫌な様子でやってきた。マスターがなでると、ぱたぱたと尻尾をふる。小次郎さん、ずるい。俺だってなでてもらいたい。でも我慢するんだ。
 マスターに頼まれて、カバンに入れっぱなしにしていた携帯電話を持ってくる。メールをチェックしようとしたみたいなのだが、目が回って読めないといわれたので、俺が読んで聞かせてあげた。
 一番新しいのは、お母さんからのもの。急な残業が入ってしまったが大丈夫か。体調が悪いならなんとか帰るが、とある。
 マスターは俺に代わってメールを打つように言った。絵文字付きの明るい調子で、気にするな、仕事してきてと返す。
「マスター、こんなことしていいんですか? お母さんに帰ってきてもらった方がよくありません?」
 マスターがそうしろというからその通りに打ったけど、マスターは少しも大丈夫そうじゃない。お母さんにいてもらった方がマスターだって安心するんじゃないかな。
 そう俺は思ったけれど、マスターはあっけらかんと答える。
「別に戻ってきてもらっても、あたしは寝ていることしかできないからね。いてもいなくても変わらないよ」
「そういうことじゃないと、思いますけど」
「いいんだって。親がいなくて寂しいとか思う年でもないし」
「……」
 マスターはころりと寝返りをうって、クッションを抱える。
「小学生の頃くらいはちょっとはいてほしいと思ってたけど、今更だよね。第一共稼ぎしてる家なんていっぱいあるんだし。このくらい平気平気。普通のことだって」
「……マスター」
 マスター、気づいてないの? それとも知らないふりをしているの? ……俺は気づいたよ。
「寝ていれば治るんだし。あ、それにしてもインフルエンザだから、あたし、熱が下がってもしばらく学校に行かないほうがいいよね。クラスの子たちにうつしたら悪いし。学校にも連絡しないとね」
 明りのついていない部屋で、俺を呼ぶマスターの姿を思い出す。怒っていたんじゃない。あれは、助けを求めていたんだ。誰もいなくて、暗い中に一人取り残されて、怖かったんだ。心細かったんだ。以前の俺のように。
「マスター」
 ソファの前に膝をついて、マスターの顔をのぞきこむ。
「なによ」
「俺、マスターのそばにいますね」
「……好きにすれば?」
「そうします」
 小さく笑って、マスターの頭をなでてみた。ちょっと膨れたけど、マスターは何も言わず、黙って受け入れてくれた。また眠くなったのか、とろとろとまぶたが下がって、やがて閉じていく。
 意地っ張りなマスター。素直になればいいのに。何も言わないでわかってほしいなんて、無理だよ。俺はそこまで頭は良くない。こういうことに関しては、他の人間だって、似たようなものじゃないかな。空気読めとか、よく聞くけど、そう言うからには逆に読めない人が多いってことなんじゃない?
 少なくともあんなメールを送ってしまったんだから、お母さんはきっと、マスターが寂しがっている事に気づいてないと思う。
 言えば、伝わる。
 通じないかもしれないけど、受け入れてもらえないかもしれないけど、正しくないかもしれないけど、でも何を思っているのかは相手にもわかる。
 俺はそうしました。考えてやったことじゃないけど、歌いたい事、外に出たいこと、マスターと一緒にいたいこと、全部全部伝えました。
 反省点は、ないわけでもないけど、でもそうしたお陰で今がある。マスターの隣にいられる。
 ねえ、教えてください。
 あなたの思っていること。望んでいることを。
 俺は知りたい。分かち合いたいんだ。
 ……いいでしょう? いいんですよね?
 好きにしちゃいますよ。あなたがそう言ったんだから。

 一週間後、まだ学校を休んでいるマスターの元へ合否通知が届いた。
 それを一読すると、無言でゴミ箱に捨てる。俺ははらはらしていたけど、マスターはすっきりとした顔で呟いただけだった。
「次、頑張ればいいか」
 それが、答えだった。






あー、うん。色々と間が悪いことは十分わかってる。
せめて夏の間か受験シーズン終わった時期ならまだましだったんだろうが、今の時期にこの内容って……な……。
狙ったわけじゃないが、連載なのでとめるにとめられなかったんだ。




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