ピピっと電子音が鳴ったので、あたしは体温計を取り出した。
「えーと……。三十七度八分か」
 結構高いなぁ。
「あー……。だる……」
 ため息を一つ吐きながら、あたしは身体を起こした。立ち上がると血が下がった感じがして一瞬くらりとなる。ベッドに手をついてそれをやりすごすと、机の上に体温計を置いた。
 あたしのベッドの近くにはものを置けるような台などはないし、床に放り投げるわけにもいかない。枕元とかに置いて寝返り打ったときにうっかり巻き込んで身体の下に敷いても困るし。トイレにも行きたいし、寝てばっかりで身体が痛いし。
 しかし、具合が悪い。ここまで体調崩したのも久しぶりだ。よりにもよって推薦入試前日に発症しなくてもいいじゃないかとも思うが、世の中は無常なものである。
「もう、マスター、何起きてるんですか。寝てなくちゃ駄目ですよ!」
「カイト」
 部屋の入り口にはお盆を抱えたカイトが頬を膨らませて立っていた。お盆には水の入ったコップとスープカップ、スプーンとウェットティッシュを載せている。
 朝にカイトと顔を合わせることは意外に少ないので変な感じがする。彼は両親が出勤するのを待ってさっさと外に出てきていたというのだ。しかし高熱で頭がぐるぐる回っていたときならともかく、そこそこ素面に戻っている時に寝顔をのぞきこまれていることに気がつくのはさすがに落ち着かなかった。思わず悲鳴をあげるところだったぞ。
「それで、何度でした?」
「さんじゅーななどはちぶ」
 聞かれたので素直に答えると、カイトは渋面になった。
「昨夜より上がってるじゃないですかー!」
「あがってるねー」
 あははと笑うと、何笑ってるんですかとカイトが怒った。なによ、カイトのくせに生意気な。
「やっぱりきっと、夕方に起きてたのがまずかったんですよ。もう、だから言ったのに」
「あーうるさい」
「マスター! 真面目に聞いてください」
「やめてよ。頭に響くんだから」
 あたしは耳に手を当ててしかめ面をしてみせた。カイトのしゃべり声は高音寄りなので、叫ばれると結構耳に痛いのだ。
 カイトはすねたように唇を尖らせたが、すぐに表情を改める。
「熱があってもそれだけ元気なら、ご飯食べられますよね。昨日の野菜スープの残りを温めてきましたから、食べてください。それから薬も飲んでくださいね」
 ずい、とお盆をこっちに突き出す。
「はいはい。寝てるの飽きたから、リビングに行くわ。だからそれ持ってきてよ」
「マスター。寝ててくださいって……」
「寝ながらご飯が食べられるわけないでしょ。起き上がれないほどの重病人でもないんだし」
「もう!」
 話の途中で割り込んだので、カイトは気を悪くしたように眉を寄せた。それでもちゃんとついてくるのだから、可愛いものである。
 BGM代わりにテレビをつけ、あたしはリビングのソファに座った。同じ部屋の中にダイニングテーブルもあるのだが、硬い椅子は背中とお尻が痛くなるので避けた。ソファも身体が沈むから座り心地が良いとはいえないけれど。
「マスター、お行儀が悪いです」
 ソファの上で膝を立てて座ったので、カイトが母親よろしくお小言を食らわせてくる。
「座りにくいんだもん」
 あたしはスープを一口すすってから返した。
「そんなこと、今まで言った事ないじゃないですか」
「あんたも一度熱出したらわかるよ。感覚が全然違うんだから」
 このスープの味だって、いつもと全然違っている。母が味付けに失敗したわけではなくて、あたしの舌が馬鹿になっているのだ。水を飲んでもまずく感じるんだもの、どうしようもない。
 カイトは一瞬沈黙すると、いやに真面目な顔であたしを見つめた。
「なによ」
「俺が熱暴走するにはよっぽどパソコンを酷使しないといけないと思うんですけど、何をしたらそこまで熱があがると思います?」
「……さあ」
 熱暴走というのは聞いた事はあるけれど、実際のところ、あたしのパソコンはこれまで何らかの不具合を起こしたことはないのだ。ネットとメールと動画見るのと音楽聞くくらいだけだからかもしれないけど。
(あ、不具合はあったか)
 この目の前の青いのが出てきたのが最大にして最高の不具合だと思うが、そんなことを言ったら泣きそうな気がするので言わないでおこう。
「まー、とにかくあれよね。あんたには人間の病気は移りそうにないから、看護人にはうってつけよね」
「そうですね。マスターはコンピューターウイルスには感染しないでしょうから、俺たちに何かあったらマスターがなんとかしてくれるでしょうし」
「まあねー」
 軽く返すとうんうん、とカイトは頷いた。よし、話はそらせた。カイトの斜め上思考にいちいちつきあってなどいられない。大声出したら余計に熱があがってしまう。
 時間的にテレビは奥様向けの番組ばかりで、あたしにはさほど面白くはない。DVDでもつけようかと思ったが、スープを飲んだら部屋に戻るのだからと思いとどまった。
 窓の外に目を転じると、憎たらしいほどの快晴。雲ひとつない青空が広がっている。
 ちらり、とあたしはカイトを見やった。カイトは床に直に座って心配そうにこちらを見上げている。その目の色は空と同じ色だ。
(……夢だったら良かったのに)
 唐突に昨日のことを思い出して、あたしは穴があったら埋まりたい衝動にかられた。すごく恥ずかしい。なんであんなに必死になってカイトのことを呼んだんだろう。おまけに自分でもよくわからない八つ当たりをして。
 病院からの帰り道、あたしはインフルエンザの症状とは別の意味で頭の痛い思いをしていた。これまでのカイトの行動からして、あたしが病気になったとわかったら、鬱陶しいほどひっついてくるだろうなって。ますたー死なないでー、とか言いながら。
 それで面倒なことになったなと滅入った。なにしろこっちは具合が悪いので、今まで通りにすっ飛んでこられても押さえきれないだろうから。
 帰宅してからしばらくはほぼ予想通り。昼頃に目が覚めるとカイトが半分泣きそうな顔でのぞきこんでいた。さすがに騒いではいけないと察しているようで、声は抑えがちだったけれど。だからやっぱり『そう』なんだと思っていた。いつだって、起きたらカイトがいるんだろうって。少なくとも両親のどちらかが帰ってくるまでは。
 なのに、次に目を覚ましたらいないんだから。部屋にもリビングにも電気はついてないし――リビングに電気がついていたら、ドアの隙間から少し漏れてくるのでわかるのだ――やたらと静かだし。
 急に自分が一人で取り残されたような感じがして、一気に心細くなった……、というのはあるけれど、あそこまで滅茶苦茶になるなんて、本当に自分が信じられない。多分カイトは色々と誤解しただろう。今もなんだか強気だし。
 ……やばいな。弱みを握られた気がする。
 スープを飲み終わったのでカップをテーブルに置くと、中を確認するようにカイトがのぞきこんだ。
「食欲が戻ったようなら、もう少しお腹にいれませんか? これだけだと栄養、足りないと思うんですよ」
 おかゆも温めてきますか、と小首をかしげる。
「食べられなくはないけど……」
「じゃあ持ってきますね」
 最後まで聞かずにカイトが立ち上がりかけたので、あたしはコートの裾を握って阻止した。
「おかゆはいらない。食べる気にならない」
「じゃあ何で買ってきたんですか、あれ」
 呆れたようにカイトは腰に手を当てる。
「いや、病気の時にはとりあえずお粥だろうと思ったからだけど……。気が乗らない」
 味覚がおかしい時に食べるお粥って、すごくまずいと思うんだ。口の中が粘つくし。
「じゃあ、何だったら食べられます? お母さん、うどん買ってきていましたよ。煮ればいいんですよね、やりましょうか?」
 ずいぶんと積極的だ。しかし生憎だが今のあたしにはカイトに料理指導をしている体力的な余裕はない。たしかにお盆期間中にはそれなりに料理をさせたけど、まだ一人でさせるには怖いレベルなのだ。
「うどんもいらない」
「じゃあ何だったら食べられるんですか?」
 うーん、とあたしは首をひねった。結局のところ、昨日はほぼ絶食していたようなものなので――母がスープを作ってくれたものの、あたしはほとんど食べられなかったのだ――早く回復するためにももうちょっと食べた方がいいだろうとは思う。吐き気も治まったことだし。
 しかし何を食べてもまずく感じるので、特に食べたいと思うものは……。
「あ」
 果物だったら大丈夫かも。甘いだけのものじゃなくて、ちょっと酸味もある……。
「リンゴ」
「え?」
「リンゴなら食べる。うちにあったっけ?」
 言うとカイトはこくこくと頷いた。
「はい、ありますよ。お母さんが買ってきていました。リンゴだけじゃなくてバナナとみかんの缶詰と桃の缶詰もですけど。それと、アイスも!」
「リンゴだけでいい」
 あたしより冷蔵庫の中身に詳しい居候というのもどんなものだろうと思いながらも返すと、カイトはいそいそと立ち上がった。
「わかりました。用意しますね」
「いいよ、それくらい」
 皮を剥いている間に立っているくらいの体力はあたしにもある。しかしカイトはきゅっと眉を寄せて見下ろしてきた。
「駄目です。マスターは座っていてください。倒れたらどうするんですか」
「この程度で倒れるわけないでしょ。皮剥かなきゃならないんだし、片付けるのを考えたらキッチンでやった方がいいじゃない」
「だから俺がやりますってば」
「……リンゴの皮が剥けるの、あんた?」
「見くびらないでください。それくらいのこと、できないわけがないでしょう」
 カイトは胸をそらせて言い返す。そうだったのか。てっきりできないと思っていたんだ。なにしろあたしは、包丁で皮をむくということをさせたことがなかったので。
 しかしできるというならやってもらおう。本人もやる気になっていることだし。
「それじゃあ、お願い」
「はい」
 元気よく返事をすると、カイトはキッチンへと消えて行った。待つこと、数分。
「マスター、お待たせしました」
 ガラスの器に盛られたリンゴが届けられた。八等分にしているらしく、小ぶりに切り分けられたその一つにフォークが刺さってある。カイトの料理能力を考えれば、身はある程度削られていることを覚悟していたのだが、全くそんなことはなく、ほどほどに薄く剥かれた表面は無駄にデコボコしてはいない。
「いつの間にこんなに上達したの?」
 包丁使うの、怖がっていたのに。
「そんなに上手でした? 嬉しいです」
 質問すると上気した顔で照れられる。まあいいか、とフォークを取ると。
「……」
 前言撤回。やっぱりカイトはカイトだった。まだまだ経験値が足りない。
 皮は綺麗に剥けているのに、内側は種のあるところだけを抉っただけだったのだ。丁度ジャガイモの芽を抉るような、そんな感じだ。芯を取る、ということがわかっていないのだろう。そしてよく見てみると、この皮も包丁や果物ナイフを使って剥いたのではないのだろうと気がついた。
「ねえ、カイト。もしかしてピーラー使って皮剥いた?」
「はい、そうですけど」
 それがどうかしたのかというように、カイトはきょとんとする。やっぱりな。はは……。
「でもちょっとリンゴには使いにくいですね。丸いから芯に近いところは剥きづらくて。しょうがないのでその部分は切ってから削ったんですけど」
 削ったのか。そうか……。
 しかしリンゴをピーラーで剥くという発想があたしにはなかった。でも考えてみればそうよね。にんじんやジャガイモの皮が剥けるんだもん、リンゴだって剥けるよね。期待したあたしが馬鹿だった。いや、結果オーライなんだからここは突っ込まないでおくべきか。
 あたしは目をつぶって逡巡し、そして。
「よくできました。……ありがと」
 褒めて伸ばすことにした。
「はうっ」
 衝撃を受けたようにカイトはよろめく。
「カイト?」
「マ、マスターにお礼を言われるなんて思わなかった……。こんな日が来るなんて……」
 おい。
 あたしは頬がひきつるのを感じた。にへら、と笑ったカイトの背後に、尻尾をぶん回しているような幻影が見える。
「マスター。リンゴ、どんどん食べてくださいね。あ、もっと剥いてきましょうか。剥いてきますね」
 うきうきとまたキッチンに行きかけた。
「いい。いらない。一個食べるのも無理だし!」
 慌ててあたしは制止する。イチゴやなんかとは違うんだ。普段でもせいぜい半分しか食べられないぞ、あたしは。
「えー」
「えー、じゃない」
「せっかくマスターのデレの部分が見られたと思ったのに」
 ぼそぼそとカイトは呟く。
 デレって……。また変な知識をネットから仕入れてきたな。
 それにしても、ちょっと痛いところを突かれてしまった。自分では気がついていなかったけれど、あたしは今までカイトにお礼を言った事がなかったんだって。
 カイトのやることなすこと、どれも突拍子もなくて、あたしはそれに振り回されてばかり。まともに評価するということにまで考えが至っていなかった。いや大半は評価に値しないとは思うのだけど、カイトなりに頑張っていることは確か、なんだよね。
 そういうことはちゃんと見てるよ、わかってるよって伝えないと、すごくへこむ、よね。自分のこととして考えれば、ちゃんと想像がつく。うーん、これはどうにかしないと。
 ぶうぶうとむくれるカイトを横目に、あたしはリンゴを齧った。
 やっぱりいつもより味はわからない。だけど咀嚼されたそれが喉を通ると滞っている熱がほんの少し和らぐような気がした。
(受験が終わったら、これまでのこと、まとめてお礼を言おう。八つ当たりをいっぱいしたことも、謝ろう)
 どっちかというと、後者の比重のほうが高い気がするけれど。
 今言わないのは、どうせこの後も何かあるとカイトのことを怒鳴ったりする自分が容易に想像できるからだ。謝ってすぐにまた怒るとかはできれば避けたい。説得力というものがまるでないもの。
 四切れ目のリンゴを食べ終わると、器をカイトのほうに押しやった。
「もうお腹いっぱいだから、残りは食べてね。時間が経つと色が変わっておいしそうに見えなくなるから」
「はーい」
 拗ねているように返事をするカイトに、あたしは笑いかけた。
 ごめんね。ありがと。
 まだ言えないから、心の中だけで。
 それから数日経って体調の戻ったあたしは、再び受験勉強の日々に戻る。
 案の定、推薦は落ちた。だけどもはやそれはどうでもよい。終わったことだもの。悔やんでもあがいても、どうにもならない。
 十一月、十二月は瞬く間に過ぎ、年明けを祝うのもそこそこにしているうちに二月になった。
 幸いなことにインフルエンザ後には普通の風邪すら引くこともなかったあたしは、体調万全で滑り止めを含めて幾つか試験を受け、そしていよいよ本命の第一志望校の受験日になる。
 全力を出せたと思う。これで駄目だということなんてないと、自分でも思う出来だった。だけど評価するのはあたしじゃない。結果を待つ間ももしもの時のために勉強は続けていたが、はっきりいって、あまり集中できたとはいえなかった。

 学校からの帰り道。いつもより早足になっていたあたしは、息を切らしつつ玄関に飛び込んだ。
「マスター。お帰りなさい!」
 にこにことカイトが出迎えてくる。ちなみに誰か来たと思ったらPCの中に戻れという命令は解除していない。だが今日は許そう。とても良い気分だから。
「ただいま、カイト。……もしかして、見た?」
「はい、見ました。おめでとうございます。受かってましたね!」
 言い終わってからはっとしたようにカイトは硬直した。
「す、すみません。もしかして自分で結果発表見たかったですか? どうしよう」
 慌てるカイトに、あたしはくすりと笑った。
「大丈夫。あたしも気になってしょうがなかったから、帰る途中に携帯で見たから」
「そうでしたか」
 カイトはほうっと胸をなでおろす。あたしも大きく息を吐いた。
「安心した。多分大丈夫だとは思っていたけど、やっぱり結果を見るまでは気は抜けないから」
 靴を脱いで部屋に向かう。PCは点きっぱなしでモニタには合否結果が映し出されていた。改めてそれを眺める。クリアファイルに挟んである受験票とつき合わせて、間違いないことを確認した。
 カバンを投げ捨て、ベッドに勢いよく腰掛ける。
 身体が軽い。重荷がすっかりなくなったみたいだ。ふつふつと喜びがわきあがってくる。
 鼻歌でも歌いたい気分で足をぶらぶらさせていると、小次郎を抱えたカイトが入ってきた。
「マスター。お母さんたちに連絡しないと。きっとお祝いのごちそうを作ってくれますよ」
「そうだねー」
 小次郎をあたしに渡せと両手を広げると、はい、とカイトは両腕を伸ばす。
「終わったよー。ようやく終わったよー。長かったよ、小次郎ー」
 わしゃわしゃと小さな頭をぐりぐりし、ついでにキスすると小次郎はちょっと迷惑そうに身をよじった。
 うんもう、この。あたしと一緒に喜びなさいよ。って、犬に言ってもしょうがないんだけどね。でも嬉しいから小次郎にも今日は奮発したおやつをあげようっと。カイトにもダッツ、買ってこようかな。
 もみくちゃにされたのが嫌だったようで、あたしが腕の力を緩めると、小次郎はリビングに逃げてしまった。残念がるあたしに、カイトは笑いを含んだ声で、
「そんなに力いっぱい抱きしめたら小次郎さん、潰れちゃいますよ」
 と言った。続けて、
「俺だったら全然平気なので、マスターの喜びは俺に向かって発散するといいですよ」
 と自分を指さす。
 いつものあたしだったら、この野郎と蹴りの一つもくれていたところだが、生憎今日はそんな気にはならなかった。
「カイト……」
「すみません調子に乗りました」
 何も言わないうちに謝られる。……うん。あたしはカイトにとってあんまりいいマスターじゃないんだ。それはわかっている。わかっているがなんかこういうことされると……ちょっと腹立つな。
 いやいや、今日は怒らないって決めたんだから。頑張れあたしの表情筋、どうか笑顔を崩さないでいて。ほら、カイトが脅えてるじゃないの。
「そうね、そうさせてもらおうかな」
 こいこい、とあたしは手招きをする。
「……へ?」
 目も口も丸くさせて、カイトはでくの坊のように立ち尽くした。
「早く来てよ」
「来てよと言われたように聞こえましたけど、これって幻聴?」
 棒読みしているような口調でカイトは呟く。
「違うから」
 先ほどの決意もどこかに吹き飛びそうな勢いでイラっとしてきた。
 いや、しかし我慢我慢。あたしにはやらなくてはいけないことがある。受験が終わったらするんだと決意していたんだから。
 おずおずと近付いてきたカイトにしゃがむように手を動かすと、カイトは膝で立つような状態になった。ベッドに座るあたしと視線が合う。青いまなざしが困惑に揺れていた。一気に恥ずかしくなってきたが、お腹に力を込めてなんとか顔に出さないようにする。本当に出ていないのかは、鏡を見ていないのでわからないけれど。
「……」
「……」
 う、ううむ。改めて言うとなると、なんと言えばいいのかわからない。あたしの顔はひきつり、冷や汗が流れた。
「ますたー?」
 そんな泣きそうな目で見るんじゃない。これじゃあ、あたしがいじめているみたいではないか。ええい、ままよ。
 あたしはカイトの両肩に手を伸ばして、そのまま引き寄せた。
「わ、わわ……」
 驚いた奴が悲鳴に似た声を出す。だがあたしは構わずに、一方の肩に額を乗せた。
「カイト」
「は、はい」
 緊張している感触が伝わってくる。あたしもすごくどきどきしていた。目を見て言うのがたまらなく恥ずかしい。だからこうやってみたけれど、この体勢も十分に恥ずかしかった。失敗した。
「言いたいことが、あるの」
「……はい」
 ごくりと、喉の鳴る音が聞こえた。
「えっとね……。あのね……」
 あたしはなんでこうまでしてセルフ羞恥プレイをしているのだろうか。思わず自問自答してしまう。でも言わないと。あたしはきっと何度もカイトのことを傷つけてきているのだろうから、ちゃんと謝らないと。
「マスター。俺、覚悟していますから」
「え?」
 目をあげると、青いマフラーの上にある白い顎がためらうように震えた。
「何を言われても受け入れますから。大丈夫ですから……」
 誤解させた、ととっさに思った。
「違うって、もう。あんたはすぐ悪い方に考えるんだから」
 顔を上げる。しまった、目が合ってしまった。……ええい、もういいや!
「い、今までありがとう、カイト」
「……え」
「だから、ありがとうって言ってるのよ。色々、手伝ってもらったりとか助けてもらったりとか、したし……」
 穴があったら隠れたい。顔から火が出そうだ。
「それと、八つ当たりいっぱいしたことについては、謝る。ごめん。今後はできるだけ蹴ったり殴ったりしないように、する。……まあ、カイト次第だけど」
「マス、ター……」
 青い目が大きく見開き、あたしを見つめる。と、滴が溢れ、頬を伝った。
「ちょ……」
 なんで泣くんだ!?
 まごついているとカイトは鼻をすすって涙をぬぐった。
「そんなこと言ってもらえるなんて思っていませんでした。マスターが俺に謝る必要なんて全然ないのに。だってマスターが怒るのは、俺が馬鹿なせいなんだし」
 カイトが馬鹿なのは事実なので、あたしは『そんなことはないよ』とはどうしても言えなかった。代わりに別の言い方を探す。
「あんたがものを知らないのは仕方のないことでしょう。むしろ人間だったら何年もかかって覚えることをたった半年程度で色々覚えているじゃない。そりゃ、知識や技術に偏りはあるけど、これってすごいことだよ。あたしは気が短いから、あんたのできないところにばっかり目がいっちゃって、つい怒ったりしてしまうけど……。怒鳴るだけじゃなくて手も足も出してるけど、そのことについてはやっちゃった後に本当に悪いと思ってるんだよ」
 都合のいい懺悔でしかないけれど、できる限り正直に、あたしは自分の気持ちを告げた。
「そんなことしなくても、言い聞かせる方法はあるのにね。駄目だな、あたしって」
 全然人間ができていない。そんな素振りは少しも見せていないけど、元々人間不信の気があるカイトがもっと人間不信になっていたら、それは間違いなく、あたしのせいだ。元がデータの集合体であろうと関係はない。こうして身体があって言葉を発する存在をただ傷つけるだけの行為は正しくないと、あたしは思う。
「マスター」
 背中に、腕が回った。
(……あれ?)
 カイトはあたしの肩に額をわずかに預けて目を閉じる。
「自分を責めないでください。俺こそマスターに謝らないといけないのに。大事な時期に何度も邪魔をして、手を焼かせて、本当にごめんなさい。それなのに見捨てないでくれて、ありがとうございます。俺はあなたのところに来られて良かった。本当に、心の底からそう思います」
「カイト……」
 もともと素直なたちだけど、その性質を最大限に発揮されるとこちらは非常にこそばゆくなってしまう。突き飛ばして逃げたい。だけどせっかく感動的な和解(?)をしている最中にそれをやったら今までのあれやらそれやらが台無しだ。
 カイトはゆっくり頭を上げて、目を開ける。青い瞳の中にはあたしの姿が映っていた。柔らかに、幸せそうな微笑を浮かべ、
「好きです、マスター。前よりもずっと好きになりました。ああ、俺、外に出てきて本当に良かった。マスターに出会えて良かった」
 ぐっと顔がつきだされ、気づくと目の前にカイトのどアップがあった。
 あれ?
 避ける間もなく、唇に柔らかいものが触れる。
 何が起こったのかとっさに判断ができないでいると、身を起こしたカイトが恥じらいながら頬を染めた。
「これからも、俺をおそばに置いてくださいね、マス、痛ー!?」
 途中で我に返ったあたしの鉄拳が火を噴く。カイトは頭を押さえてもんどりうった。
「ひどい、マスター。どうして?」
「どうしてもこうしてもあるか、バカイト! 女の子の唇を何だと思ってるの!」
 握った拳がぶるぶると震える。
「えぇ? キスしちゃ駄目なんですか? だってマスター、さっきは小次郎さんにはちゅーってしたのに」
「駄目に決まってるでしょうが。小次郎と一緒にするんじゃない、図々しい」
「そんなー」
 涙目で抗議をしてくるカイトを余所に、あたしは唇を手の甲で拭う。なんだかさっきまでのやりとりなど、地平線の彼方まで吹っ飛ばす勢いでどうでもよくなってしまった。
 カイトの阿呆。初めてだったのに。





このカイトは行動力だけはあるよなぁ……。




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