幸せって、長くは続かないものなのだと理解した。
 ひどい。マスターひどい。
 せっかく受験が終わったのに。
 俺、六ヶ月以上待ったのに。
 ようやく歌わせてもらえるって思ったのに。
 アルバイトするから当分無理って、どういうこと?
 マスターのうそつき!

 パソコンの中、膝を抱えてうずくまる。リビングからはお父さんとお母さんとマスターが話をしている声が聞こえる。普段よりも大きな声を出しているせいで、会話の一つ一つがはっきりわかった。
 マスターの受験の結果発表があったのは昨日で、その時には和気藹々として本当に楽しそうだった。俺も混ざりたいと思ったくらい。
 でも、たった一日しか経っていないのに、今日の雰囲気はトゲトゲ殺伐としている。マスターが友達と卒業旅行に行きたいから、その旅費を貯めるために短期のアルバイトをしたいと言い出したからだ。
 そしてお父さんがそれに大反対してる。お母さんは、最初は駄目って言っていたけど、お父さんがあんまり頑固に反対するものだから、今では逆にやってみたらって言うようになった。
 こうなっちゃうと、お父さんって弱いんだよね。二対一なんだもん。
 ああ、俺、今すぐここを飛び出して、俺はお父さんの味方ですって言いたい。お父さんには警察を呼ばれちゃったことがあるけど、俺は今回のマスターの所業には本気で怒っているんだから、ちょっとくらい何か言われても全然平気だ。
 大体、お父さんもお母さんも、旅行自体は行っていいし、旅費も出してくれるって言ってるじゃないですか。どうしてわざわざ、働かないといけないんですか。
 マスターの馬鹿、マスターの馬鹿、マスターのいじわる。昨日はすごく幸せだったのに。この人のところへ来たのは運命で、俺が前のマスターに捨てられたのは、そのために必要な試練だったんだって、思ったのに。
 ……いきなりこんなことするなんて、マスターは本当はやっぱり、俺を使うのが嫌になっているんじゃないだろうか。俺に実体があるものだから、飽きたって言うに言えなくて、遠まわしに早く気づけって……。うわぁ、こんなこと考えるんじゃなかった。もう、そうとしか思えなくなってしまう。マスターって、はっきりものを言うようで、言わないんだもん。わかりづらいったらないよ。
 あ……。
 あーあ。お父さん、とうとう折れちゃった。
 うん、そうですね。お父さんの言うことももっともです。俺もそれに賭けます。申し込んでも採用されなかったら、働こうとしたって無理なんだから。そうなっちゃえばいいんだ。
 俺がこんな風に考えているだなんてマスターにバレたら怒られるのは確実で、最悪蹴っ飛ばされるので絶対に言わないけど。
 と、思ったのに、マスターは運が良いというかなんというか、三日後には最初に応募したお店のスタッフとして本当に採用されてしまった。俺は再度の放置プレイが決定したので、もう涙目になるしかない。
 神様、こんな目にあうのは、俺が悪い子だからですか? マスターが頑張りたいということを素直に応援できない駄目ロイドだからですか? しくしくしく……。

 それからさらに数日経ち、マスターのアルバイト初日になった。この日は土曜日で、お父さんとお母さんは家にいた。
 もともと土曜日と日曜日、祝日には俺はパソコンの外には出られないから、前と同じだと思えば辛いことなんてないはずなんだけど……。思い切り期待を裏切られて、俺はとっても落ち込んでいる。だからといって、俺にマスターの行動をどうにかできるとも思えないけれど。
 ため息をついて、外の音に耳を澄ます。今日はネットをする気にはなれなかった。
 マスターの部屋のドアが閉まっていると、リビングの音はくぐもってしまうのでよく聞こえない。でもテレビがついていて、お父さんもお母さんもそこにいるらしいことはわかった。二人でお話をしているようだったから。
 しばらくして、お母さんがマスターの部屋に入ってきた。畳んだ洗濯物をクローゼットに入れるためらしい。
「いつまで文句を言っているの。いいじゃない、アルバイトくらい。受験は終わったんだし、学校ももう行かなくて良くなったのよ。家に篭ってゲームばっかりやられるよりは、ましだと思わないの?」
 大き目の声でお母さんは早口にまくしたてながらごそごそしてた。リビングからはお父さんも負けじと大きな声で反論する。
「そういうことじゃないだろう。まだ高校生なんだから、アルバイトなんてする必要はないと言ってるんだ。何をそんなに急ぐことがあるんだ? 大学に入学して、学校に慣れてからでも十分じゃないか」
「私は の言うことも一理あると思いましたけどね。社会に出るって、学生の時にはわからない色々な約束事がありますし。働ける年齢にはなっているんだから、バイトでもなんでも、経験を積むのはいいことだと思うわ。あなたも前に愚痴っていたじゃない。今時の若い者はまともな履歴書の書き方も知らないのかって。 がそれと同じことをやっても、まだそんな事、言える?」
「履歴書なんて常識があれば誰にでも書けるんだ! それができないのは親の教育がなっていないからで……」
「でもあの子、私に聞いてきたわよ、履歴書の書き方。あと応募のための電話のかけ方も」
 お父さんは返答しなかった。
「まあ、聞くって言っても、まるでやり方がわからないというよりも、これでいいのか確認するって感じでしたけどね。大丈夫、あの子はちゃんとしてましたよ」
「……そりゃ、そうだろう」
 お父さんはふてくされたように答えた。
「だが、何も今じゃなくたって」
「もう、うるさいわね。いい加減にしてよ!」
 うわ、お母さん、近くにいる! 机の前? な、何してるんだろう。俺がうるさいと言われたみたいで、びっくりした。
「まったく、また漫画を積みっぱなしにして……。人形もほこりだらけだし……」
 お母さんは呟いた。なんだか片づけをしているような音が聞こえるけど、あのー、お母さん、マスターは自分のものを動かされるの、嫌がるんですよ。お母さんがそれをやると、捨てられたものはないかって、いつも焦って確認するんですよ。散らかしてるといっても寝る前には床とかには物はない状態にはしているから、できればそっとしておいてもらえない、かな。……無理ですよね。
「あなたもね、あんまり にうるさく言わないことですよ。小学生じゃないんだから、ある程度のことは自分で考えられないようだと困ります。今からそんなでどうするの、あの子これから一人暮らしをするのよ」
「だ、だからこそだな、こういう機会に色々と話し合うことが必要じゃないのか。僕たちの経験を伝えたり、とかな……」
 お父さんの口調は歯切れが悪い。
「就職活動をする時期になったら言おうとは思っていましたよ。でも実体験に勝るものはないですし。アルバイトであっても働くことの大変さは少しはわかるでしょう。大体、 には自立した女性になってほしいって、あなたも言っていたじゃないですか。なのにどうしてそれを邪魔するようなことをするの。そんなに外に出すのが嫌なら、会社の若い子を連れてきてお見合いさせて、さっさと結婚させたら?」
 一方お母さんは鋭かった。こういうところはマスターにそっくりだ。違った。マスターがお母さんに似ているんだ。
「そんなことができるわけないだろう!」
 だん、と何かを強く叩くような音がした。
(お父さん、お母さん、喧嘩しないでください……)
 俺がお二人にも存在を知られているのなら、飛び出していって落ち着いてくださいって、言えるのに。それにしてもお母さんの言葉にはショックを受けてしまった。マスターが結婚だなんて。
 結婚がどういうものかは俺だって知ってる。好きな人同士がいつまでも一緒にいようねって約束することだ。結婚したら子供だってできる。家族が増えるということだ。マスターもお父さんとお母さんが結婚したから存在しているわけだし。だから、結婚するということは多分良いことなんだろう。
 でももしマスターが結婚しちゃったら、お父さんとお母さんの前には出られないように、マスターの旦那さんの前にも俺は出られないだろう。ううん、それどころか俺はもういらない、ってことになるかもしれない。結婚するってことは、一番大事な、好きな人ができるってことだもの。
「今時の子が見合いなんてするわけないだろうが。結婚しないのも増えているんだし。うちの部署でもなぁ……」
「まったく、あなたは……」
 ぶちぶちと言うお父さんに、お母さんはため息をついた。
「それであの子がいつまでも結婚しなかったら、やきもきするんでしょうに。まあ、まだ は十代だから、今はそれでもいいでしょうけど、あなたもそろそろ覚悟をしておいた方がいいんじゃないの。娘可愛さに娘の幸せをぶち壊すような父親にはなりたくないでしょ」
「お、お前がそんな風に に甘いから、僕は頑固親父を演じなくっちゃいけないんだ!」
「あなたがあんまりにも過保護だから、私がしっかりしないといけないんじゃないの。とにかく私はね、中学の時のような失敗はごめんなのよ!」
 きつく言い放つと、お母さんはマスターの部屋から出て行った。まだリビングで言い争いをしていたけれど、俺はお母さんの言ったことが気になって仕方がなかった。
 中学の時に、何があったんだろう。なんだかちょっと、深刻っぽくない?

 月曜日。お父さんとお母さんが出勤して行ったのを音で確認した俺は、電源を入れてパソコンを起動させた。
 立ち上がるまでの時間も惜しい。なにしろ二日もマスターと口をきいていないんだもの。週末はいつお父さんやお母さんが部屋に入ってくるかわからないから、マスターがパソコンを使っていても話しかけないようにしているのだ。
 外への道標が見え、俺は一気に飛び出す。部屋にマスターはいなかった。
 そっとドアを開けて顔を出すと、小次郎さんが俺に気がついて尻尾を振った。
「おはよう、小次郎さん」
「カイト?」
 洗面所の方からマスターの声がした。顔を洗っているのかな。水音がする。
「そうです。おはようございます、マスター」
「おはよー。もう出てきたの、早いね」
「邪魔、でした?」
 水の音が止まる。少しの間をおいて、パタパタと足音をさせながらマスターがリビングに来た。
「別にそんなことないけど? バイトはお昼過ぎからだし」
 マスターはまだ着替えていなかった。パジャマの上にロングカーディガンを羽織って、足は裸足。スリッパははいてるけど。そして前髪をヘアバンドであげているので、おでこが全部見えていた。
「どうでしたか、お仕事」
 まずは二日間の成果をたずねてみると、マスターは苦笑いした。
「結構きつかったよ。立ちっぱなしだし、どこに何があるんだかわかんないし、なのにお客さんはどんどん来るしー。忙しいのに手間のかかる注文してくる人はいるし。まあ、難しいことは店長さんとかに回してるから、あたしのすることなんて商品出すのと整理するのと袋詰めくらいなんだけどね」
 マスターの仕事は、今度改装するために一時的に閉店することになった輸入食品と雑貨の店の臨時スタッフだということだ。閉店セールの手伝いと改装作業の補助をするのだそうだけど、どれだけ大変なのかは家から外に出たことのないの俺にはよくわからない。
「あ、昨日、仕事の帰りにアイス買ってきたから。なくなりかかっていたもんね」
「ありがとうございます……」
 嬉しいけど、なんだかアイスで機嫌をとられているようで、素直に喜べない。キッチンに行きかけていたマスターは、足を止めて俺の方に近づいてきた。
「どうかした? 元気ないみたいね。珍しい」
「そんなことないですけど」
 マスターは腰に手をあてて俺を見上げた。
「もしかして、まだ拗ねてるの? 歌ならちゃんと歌わせるよって、言ってるじゃない」
「うー……」
 それもあるので、俺は思わず唸ってしまう。
「まあなんでもいいけど。あたし、ご飯食べるから。用があるなら後にしてね」
「俺もアイス食べます」
 マスターの帰りを待っていたら、落ち着いて食べてる時間がないし。だってお母さんが帰ってくるのと大体同じ時間みたいなんだもの。
 気を取り直すとマスターに頼んで、目玉焼きを作る役目を譲ってもらった。マスターは黄身が柔らかめなのが好きなんだよね。ちょっと目を離すと固くなっちゃうから、気をつけないと。
 ダイニングテーブルにマスターの朝食一式を用意していると、着替えたマスターがてけてけとやってきた。向かい合って、いただきますをする。俺の今日のアイスはカップ入りのバニラだ。
「マスター。お仕事行くまで何するんですか?」
 トーストを食べていたマスターはしばらく口を動かしていたが、それを飲み込むと。
「んー……。部屋探ししようかなーって思ってる。まだお父さんたち何にも言わないから、予算とかどうなっているんだかよくわからないんだけどね。後で確認しとかないとね」
「部屋探し? 出かけるんですか?」
 それって、一人暮らし用の部屋ってことだよね。一人暮らしだけど俺も一緒なんだよね。うわぁ、ちょっとワクワクしてきた。
「まさか。気軽に出かけられる距離じゃないもん。検索かけるだけよ。直接見た方がいいとは思うけどね。とりあえず探すだけ探していいところがあったら押さえておかないと。できれば二部屋は欲しいんだよね。難しいと思うけど。家賃、高そうだし」
「そうなんですか?」
「そりゃそうよ。学生ならワンルームぐらいが相場なんじゃない?」
「じゃあそれでいいんじゃないですか?」
 何の気なしに返すと、マスターはじっとりとした目で俺を睨みつけた。
「……よくないから二部屋って言ってるんじゃない」
「……え?」
 なんかマスター、ムカついてる? 聞こうかと思ったけれど、マスターは肘をついてため息を吐き、またトーストを齧り始めた。
「うん、まあ、わかんないならいいわ」
「わ、わかりません」
 本当にわからない。まさかマスターの部屋と俺の部屋ってこと? でも俺は別に専用の部屋なんていらないんだけど……。
「ところでさぁ、昨日とか、お父さんたち、どうだった?」
「どうって……?」
 質問の意味がわからなくて、俺は首をかしげた。
「いやだから、あたしがバイト始めたこと。まだ納得してないみたいなんだよね」
 ああ、そのことか。マスター、鋭いなぁ。
「土曜日にお母さんとちょっと喧嘩してました」
「やっぱり? そうじゃないかと思ったんだよね。あたしの前では普通にしてるつもりみたいだけど、なんかちょっと……違うから」
 マスターは困ったように眉を下げる。
「お父さんはマスターのこと、すごく心配してました。でもお母さんはお父さんのことを過保護だって言っていました」
 俺がそう言うと、マスターは苦笑する。
「お父さんの中ではあたしはまだ小学生でいるみたいなんだよね。だから色々と的外れなんだ」
「あ、それ、お母さんも同じようなことを言ってましたよ」
 するとマスターはいきなり噴き出した。げほげほとむせるので、俺は慌てて立ち上がり、背中をさする。
「ごめ……っ。大丈夫、もういいよ」
 ジュースを飲んで落ち着いたらしく、はふーと大きく息を吐いた。
「どうしたんです、急に」
「いや、なんでもない。ただ、意見が合うなーって思っただけ。さすがわが母」
 へらりと笑いながら、マスターは卵を食べだした。うーん、何なんだろう。でも、この流れなら聞いても大丈夫、かな。
「マスターのことで意見が割れると、大体お母さんがマスターの味方になりますよね」
「そうだね。やっぱ女同士だし、共感っていうの? そういうのはあると思うよ。あたしもお父さんよりはお母さんの方が話しやすいし」
「そういうのもあるかもしれないですけど、それだけじゃなくて、あのー中学の時の失敗を繰り返したくないからどうのって言ってましたけど……」
 それってどういう意味ですかと聞こうとする前に、マスターはいきなり奇声を発した。
「その話が出たかぁーー!」
「マ、マスター?」
「勘弁してよ、もう〜〜。ただの反抗期をいつまでも引きずらないで〜〜。忘れて〜〜!」
 マスターは頭をかきむしり、足をばたばたさせる。そんなマスターがちょっと面白いと思いながらも、俺は反抗期というキーワードからこれまで得た情報を引き出し、息をのんだ。
「反抗期って……まさか、マスター」
「なによぉ」
「盗んだバイクで走り出しちゃったりしたんですか?」
 それで警察のお世話になったりしたとか。そんな、俺のマスターが悪い人だったなんて。
 俺が青くなっていると、マスターはすーっと真顔になる。
「あんたって時々、わかりにくいボケかましてるんだか素で言ってるんだかわからない返しをするよね」
「俺はボケてなんていませんよ。いつでも真面目です」
「それって余計に始末におえない気がする……」
 遠くを見るような目つきで、マスターは呟いた。
「ま、いいや」
 ため息をつくと、再び食事をはじめた。俺も席に戻ってアイスを食べる。早くしないと溶けてしまうからね。
「うちの親って、いわゆる教育パパママなんだよね。二人ともかなりいい大学を卒業しているし、就職したところも大手に含まれていて、お給料もずいぶんもらっているみたいだし」
 マスターは淡々と話しだす。まさか詳しく聞かせてもらえるとは思わなかったので、俺はお行儀よく相槌をうった。
「だからあたしにつぎ込むお金には困っていなかったわけ。幼稚園、小学校中学校って、ずっと私立だったんだよ。私立だと入学試験があるから、お受験用の塾とかにも行かされたし」
「それは……大変だったんですね」
 マスターが大学受験に打ち込む姿を見ていたので、心の底からそう思った。
「どうだろう。小学校受験の時まではそれが普通だと思っていたから、大変なことも大変だと認識していなかったところがあるからなぁ。あたし、公立の中学までは入学するのに試験はいらないって、結構大きくなるまで知らなかったくらいある意味アホだったりしたし。私立の小学校だとバスと電車を乗り継がなくちゃいけなかったんだけど、バス停に行く途中にある小学校がどういうところかわかっていなかったんだもん。あたし、私立の学校に行ってなかったら、そこに通っていたはずだったんだよねぇ」
「行きたかったんですか?」
 寂しげに笑ったのが気になって、俺はたずねた。マスターは小刻みに頭を振る。
「家の近所に友達がいるっていいなぁって思ったことはあるな。いくら家が近くても、学校が違うと、どうにも仲間に入れてって、言いにくくて。でも入れてもらえても習い事と塾があったから、そんなに遊んでる時間はなかっただろうけどね」
「習い事?」
「そう。幼稚園の頃から、習字と水泳、英会話をやっていたんだ。あと小学校に入ったら学習塾ね。平日は学校が終わったあとの予定、全部それで埋まってたよ」
「でも今は何もしてないですよね」
 マスターは家でごろごろするのが好きだから、昔からそうだと思っていたけれど。
「だから、それが反抗期につながるわけよ」
 トーストの最後の一口を飲み込むと、手を払った。
「学校が終わった後、一度家に帰って、おやつ兼軽めの夕食くらいのものを食べてまた家を出るの。それでまた帰ってくるのは九時過ぎ。お父さんたちよりも遅かったんだよ」
「えーっ! 今と違いすぎるじゃないですか!」
 びっくりしてしまって、俺は思わず叫ぶ。マスターは他人事みたいな顔をして話し続けた。
「それからちゃんとした夕飯食べて、お風呂に入って次の日の授業の予習して。寝るのは十一時過ぎ。あの時はそれが当たり前だと思っていたけど、今ならわかるんだよね、あの頃のあたし、疲れすぎていたわ。なんかいっつも眠かったもん」
 マスター可哀想。今より小さいマスターが今より忙しかったなんて信じられない。どうしてそこまでしないといけないんだろう。
「で、それなりに大きくなると、自分の置かれてる状況もだんだんわかってくるようになるのよ。学校も習い事も、別に嫌いじゃなかった。でも特に好きでもなかったんだ。それである日ふと気づいたの。その特に好きでもないことを、なんだってあたしは続けないといけないのかって……」
 ジュースの最後の一口も飲み終わる。
「中学一年の夏休み前くらいだったけど、いきなり全部どうでもよくなっちゃったんだよね。まあ、今にして思えば、中学になってクラブ活動もやらなくちゃいけなくなったから、余計忙しくなって、疲れが最大限までたまったからだと思うんだけど」
 俺は同情を込めながら黙ってマスターの話を聞いていた。
「部活さぼって、塾も習い事も行くのを勝手にやめたんだ。学校ばかりは、あたしも行かない勇気は出なかったから、通ってたけど。別にいじめられたりとかしていたわけでもないし。というよりも、学校サボるのはまずいっていう打算はあったんだよねー。ガキのくせして小賢しいったら」
 あはは、とマスターは笑うも、俺は笑えなかった。マスターは笑いを引っ込めると、ふっと疲れたような表情になる。
「そんなのが気づかれないわけはなくて、すぐにお母さんにバレて説教されて。お父さんも加わって。あの時は本当に大変だった」
「それで、どうなったんですか?」
「どうもなにも。何で部活をしないんだとか、塾行かないんだとかから始まって、何で行きたくないのかって言われて。あたしはただ行きたくない嫌だを繰り返して……。話にならなかったんだよ」
 あれ……。なんだか覚えのある会話内容だな……。あ、そうだ。俺とマスターが出会った日だ。マスターにもそんな時があったなんて、なんだか親近感がわくなぁ。
「理由もなくやめるなんて駄目だからとにかく行きなさいって言われたけど、しょせんお父さんもお母さんも、夜まで戻ってこないわけだから、あたしはそのままサボり続けたの。あたしが行かなくても月謝はかかるわけだから、ちょっと悪いなぁとは思ったけど、こっちも意地になっていたからね。別にあたしが頼んだわけじゃないって開き直って」
 卵も食べ終わったけれど、マスターはまだ立ち上がらなかった。マスターは何もなくなった皿の前で肘をつく。
「学校しか行かなくていいとなると、夕方以降の時間が結構あるもんなんだよね。新鮮だったけど、やることがないから暇で暇で。学校の友達は部活出たり塾行ってる子も多かったから、遊ぶこともできないし。第一、みんな家の方向ばらばらだからね。行くに行けないっていうのもあったし」
 まだかかりそうだったのでお茶を入れようかと聞くと、いらないと首を振られた。なので大人しく続きを聞く。
「んで、仕方ないからテレビ見てたら、アニメがやっててさ、結構面白かったのよ。原作があることを知ってマンガも買うようになって」
「え? まさかマスターがマンガを読むようになったのって、その時からなんですか?」
「あたしがオタク化したのは反抗期のせいよ。それまでマンガ雑誌は買ったことなかった。どう、真面目でしょ?」
 胸をそらしてマスターは断言する。そうだったのか、てっきり以前からの趣味だと……。
「さらに夏休みにお父さんの実家に行ったら、毎年のことだけどいとこたちも集まってたんだよね。ちょっと年の離れたお兄ちゃんがいるんだけど、ゲーム機持って来てて。やらせてもらったら面白くって、あたしも買ったんだ。ソフトはそのお兄ちゃんからいくつかもらったりしたから困らなかったし。それで、そういうことしていたら、一年の終わりになるころには成績もだけど視力も落ちたんだよね」
 マスターは言いながら眼鏡のフレームに手を当てた。
「眼鏡になったのも反抗期のせいだったんですね……」
 なんという芋づる式だ。
「成績が落ちたのは、やっぱり自分でもショックでね。なまじレベルの高い学校だったものだから、劣等感が半端なくって。お母さんからもう習い事も部活動もやらなくていいから、せめて成績だけは維持してくれって、泣きながら言われてあたしも折れたんだ。自分でもまずいと思ってたし……」
「それで仲直り、したんですか?」
 マスターは苦笑交じりで否定した。
「そうできたら良かったんだろうけどねー。あの頃は本当に必要最小限の会話しかしてなくて、家の雰囲気、すっごく悪かったよ。まあ、あたしのせいなんだけどね」
「でも、それはお父さんとお母さんがマスターに無理させすぎたからでしょう。だったらそうなったのはマスターのせいじゃ」
「かもね。でも、あたしはあたしのせいだって思ってた。あたしが出来の悪い子だからって……。放っておいてくれって、思ってた。お父さんもお母さんも嫌いだった。口うるさく言うくせに、あたしのことなんて見てないじゃないって……」
 マスターは急にテーブルの上に突っ伏した。
「なんだこれ、すっごく恥ずかしい。黒歴史って、こういうことか……?」
 頭を抱えてテーブルの下で足をばたばたさせる。なんだかマスター、可愛い。
 思わず頭をなでると、ああもう、とか言いながら俺の手を振り払った。その顔は赤い。照れてるんですね。
「それからどうやって仲直りしたんですか?」
 今はバイトのことがあるからちょっとこじれているけど、それまでは仲が良い親子だと俺は感じていた。だから仲直りはしているはずだよね。そう思って聞いてみると、マスターはむう、と唇を尖らせた。
「中ニの時の授業がきっかけ、だね」
「授業?」
 まだ突っ伏したまま、もごもごとマスターは答える。
「大人になったらどういう仕事をしたいか、どういう仕事があるのか調べましょうっていうのがあったのよ。授業の最後には職場見学して学んだことをまとめるっていうのがあって」
「へぇ」
「職場見学っていってもクラス全員で同じところに行くんじゃなくて、五、六人で班を作ってその中の誰かの親が勤めている会社とかに行くってもので……。それで、うちの班ではお母さんのところに行くことになったんだ」
「お母さん、何の会社に勤めてましたっけ?」
 そういえば、知らなかったな。
 マスターはむくりと起き上がる。落ち着いたのか、顔の赤みはなくなっていた。
「化粧品とか作ってるメーカー。そこの開発研究部門にいるの。女子ばっかりの班だから、みんなすごく食いついてきて、親と仲悪いから、頼みたくないと言える雰囲気じゃなかったのよ」
「女の子はお化粧したがるっていいますからね。……あれ、でもマスターは全然しませんよね」
 マスターは重々しく答えた。
「それはね、中途半端な知識で化粧して、肌荒らしたりアレルギーになったり、若いうちから塗りたくって二十台にして肌が劣化しまくる事例が後をたたないから、化粧をするなとは言わないけどしたいなら相談しなさいって、実際に荒れまくった肌の画像見せられて力説されたことがあるからよ。ちなみに、小学校五年生の時だった」
 今更だけどあの写真関係って、会社から持ち出してよかったやつなのかなぁ、とマスターは呟いた。……お母さん、すごい。
「頼みごとするのは気が進まなかったけど、学校関係のことだからって我慢して頼んで。学校と会社とで調整もあったりなんかしたみたいで、指定された日に出かけていって……」
「どんなところだったんですか?」
 純粋に興味もあったので、俺は先を促した。
「工場や本社は別にあるのよ。だからあんまり大きい建物じゃないんだ。まあ、それを知ったのもその時だったんだけど……。中に入るのにもカードキーとか必要で、そういう会社があるっていうのはテレビとかで見たことあるから知ってたけど、お母さんのところもそうだと思っていなかったから、びっくりした」
 その時のことを思い出しているのか、マスターは楽しげな表情になる。
「外はそんなに新しい感じじゃなかったけど、中はもろに研究所ですって感じで全体的に白くって、実験するための機械が置いているところもあったし。面白かったよ。お母さんとそこの責任者みたいな人が一通り案内してくれて、どういう研究をしているのか説明してくれたりして……」
「白衣とか着ているんですか?」
 研究所というところにはそんなイメージがあることを告げると、マスターは手を叩いて笑った。
「着てた着てた。びしっとしてて、お母さん格好いいって思ったもん」
「へぇ。俺も見てみたいなぁ」
「写真ならあるよ、後で見せようか?」
「はい、ぜひ」
 マスターはにっこりと笑う。
「ま、それで、白衣もそうだけど、仕事してるお母さんを見て、口うるさいだけじゃないんだーって思うようになったのよ。なんていうの、言うだけのことはやっているんだなって。内緒だけど、お母さんみたいになりたいなって、思ったんだ」
「えっと、でも、マスターはお母さんじゃないんですから、同じにならなくてもいいと思いますけど」
 マスターは生意気、と俺のおでこを指ではじいた。
「わかってるよ。でもこのままじゃいけないって思ってたし、マンガもアニメもゲームも、楽しいんだけど、逃げの道具に使っているって気づいちゃって……。前みたいにすることはできないけど、出来る限りのことはするって決めて、お母さんにもちゃんと言った。で、反抗期はおしまい。それから四年、よ。あたしも大人になったものねー」
「自分で言いますかぁ、それ」
「うっさい!」
 げし、とテーブルの下で足を蹴っ飛ばされる。もー、マスターはすぐコレなんだから。大人だったらすぐに手や足を出すのはどうかと思いますけど。
「ところで、お父さんは何の会社にお勤めなんですか?」
 話の中にはほとんど出てこなかったので、聞いてみた。
「商社らしいけど、商社って何しているところなのか、よくわかんない」
 マスターはそっけなく答える。興味もあんまりなさそうだ。お母さんとはずいぶん違う反応ですね。
「マスター、今度はお父さんの会社に職場見学に行ったらどうですか?」
「何でそんなことしなくちゃいけないの?」
 心底意味がわからないという顔をされたので、俺はお父さんに同情した。この家の女の人たちはタッグ組んじゃってるので、なにかというとお父さんはのけ者にされるんですよね。お父さん、良かったら俺と組みません? 俺、お父さんの気持ち、とてもよくわかると思うんですけど。
 俺が心の中でお父さんに話しかけていると、マスターはわざとらしく咳払いをして。
「ま、そういうことで反抗期はだいたい誰にでもあるからこれはその一例ってことで。大げさに考えないでよ」
 念を押してくる。俺が頷くと、「朝からずいぶんしゃべったわー」とか言いながらマスターは立ち上がり、背伸びをした。
「ああ、そうだ、カイト」
「はい」
 カレンダーのある方を見ながら、マスターは俺を呼ぶ。
「明後日は休みなのよ。特に予定もないし、初調教でもしてみようかと思うんだけど……どう?」
 どうって、何が? え? 調教? 初調教? マスター、俺のこと使ってくれるの? ……聞き違いじゃないよね?
「ちょっと、なんか反応してよ。……具合でも悪いの?」
 マスターが俺の前で手をひらひらさせたので、俺は我に返った。勢いよく立ち上がり、両腕を伸ばす。
「悪くないです。いつでもOKです。明後日ですね。約束ですからね。待ってますからねぇ〜〜!」
「引っ付くな、バカー!」
 絶叫するマスターにびっくりしたのか、小次郎さんも吠え出す。しかし俺は離れなかった。この日をどんなに待ち望んでいたことか……!
 全裸で待機しちゃいたいくらい楽しみです。早く明後日になーれ!








Episode 7へ   目次  次へ