事前告知なんてするんじゃなかった。なんて大後悔しまくりながら、あたしは朝食を終えた。
 カイトはものすごく期待に満ちた顔でなにかというとあたしの方を凝視してくる。落ち着こうとはしているようだけれど、押さえきれずにそわそわしているし、目はきらきらしていて頬は紅潮している。口はとにかくずっと笑ったままで、しまりがなかった。
(周囲に擬音が見えるようだな……)
 ワクワク、とかドキドキ、とかワクテカ、とか。なんかそんな感じだ。
 これが女の子や小さい子だったら可愛いと思えたかもしれないが、はっきり言ってカイトでは鬱陶しいとしか思えない。なんというか、こう、イラっとくる。
 しかし約束は約束だ。あたしは食後の紅茶をぐいっと飲み干すと、正面の椅子に座っているカイトを見やった。
「じゃあ、やろっか」
「はい!!」
 ……期待が重い。

 カイトが出てきた時にスタンバイ状態になっていたPCを起動させる。エディタのショートカットアイコンをクリックすると、半年以上ぶりに見るカイト本来の姿がモニタに表示された。
(それこそ、カイトをインストールしたときにちょっと見たくらいだったもんね)
 確か、買った時には少しいじってみようとは思っていたのだ。ただ、カイトが外に飛び出してきたものだから、それどころではなくなったわけで。
 その後だって、もしこのカイトが普通の、ただのアプリケーションソフトとして存在してくれていたら、今までにもちょこちょこと受験勉強の息抜きに使っていたかもしれない。
 しかし、しかしだ。
 カイトに実体があると思うとそうすることもできなかったのだ。なにしろカイトはKAITOなのだから、あたしが外に出ているカイトをリビングに追いやったところで、エディタをクリックした瞬間に気づかれることは必至だ。隠れて練習するなど不可能だろう。
 あたしはDTMなどやったことがない。初めからカイトを上手に歌わせるなんて、無理だ。だけど思い余って外に出てきてしまうくらい歌に執着しているカイトを失望させるのはさすがに可哀想で……。だからと言って技術力ゼロのあたしが急に名人になれるはずもなく。
 だから、心置きなくKAITOに慣れるための時間を作るためにも、後回しにせざるを得なかったのだ。半年以上も待たせたのはさすがに悪いとは思ったけれど、勉強も調教も中途半端だとあとで後悔しそうだったから、カイトに涙を飲んでもらう事になったけれど。
「マスター?」
 椅子に座るあたしの顔を心持ち不安げな表情を浮かべてカイトがのぞきこんできた。やっぱりやめたと言われないか心配しているのだろう。
「あ、ごめん。んで、まずどうしたらいいの?」
 あたしはマニュアルを開いてパラパラとめくった。しかしやはり意味がわからない。ほっとしたように胸をなで下ろしながら、カイトは笑みを浮かべる。
「何の曲を使うのかは決めているんですか? それともまず機能を中心に使い方を覚えますか?」
「あー、そうだった」
 やってみようと思っていた曲はある。あたしは立ち上がってCDを取ると、それをカイトに見せた。
「これ」
 しかし普段音階など意識せずに音楽を聴いているので、耳コピーにどれだけ時間がかかるのかわかったものではない。なので最初は無難に童謡がいいのではないだろうかとも思っていた。『チューリップ』とか『ちょうちょ』とか。
 そうカイトに言うとカイトはマスターのお好きなように、と答える。あたしは改めて考えてみた。
「童謡の方が簡単よね。ちょうちょとかならさすがにあたしでも音階はわかるし……。でも子供の歌だからなぁ」
 あたしもいい年だし、カイトも見た目はお兄さんなわけで、格好悪い感じがする。しかしカイトはきょとんとして、
「それの何がいけないのか、わかりませんが」
 と言った。こいつは本当に歌えればなんでもいいんだな。
 カイトがそういう性質であるのなら、あたしが無駄な気を回すこともないだろう。
「じゃあ、とにかくまずは簡単なものにする」
 ちょうちょにしようかチューリップにしようか、迷っているとカイトがすっと屈みこんできた。座るあたしと同じ目線になる。
「マスター、MIDIはわかりますか?」
「ミディー? ああ、MIDIね。音楽素材とかで配布しているやつでしょ」
 ホームページを訪れたらいきなり音が鳴ったりすることがある。その時に使われているものがMIDIという名前のものだとは知っていた。いきなり音が鳴るのは驚くから勘弁してほしいところだけど。
「とにかく簡単に、と言うのであれば、フリー配布をしているMIDIをダウンロードするのが一番だと思います。よそのKAITOマスターが作った歌とかならもっと簡単だろうな。下準備も必要ないでしょうし」
「あー、課題曲ね」
 たしかにそれなら簡単そうだ。童謡よりは格好良かったり可愛かったりする曲ばかりだから、あたしとしてもやりがいはあるし。
「それにするわ。さっそくダウンロードしてこようっと。あ、もしかしてカイト、もうもらってきてたりする?」
「いいえ。そこまで先回りするのもどうかと思いましたから。それに課題曲は一曲というわけじゃないので、歌うにしてもマスターが選んだものが良かったんです」
「はいはい」
 真剣なまなざしで見つめてくるカイトから目をそむける。いじらしいというか融通が利かないというかなんというか。こういうところは嫌いではないのだが、見ているこちらが恥ずかしくなる。どうにかならないものだろうか。
「KAITOの課題曲で難易度低いのってやっぱ……『マイマスター』?」
「と、聞きますね」
 テンポはそれほど早くはないし、長さもそれほどでもない。何人ものマスターが歌わせていたのを聞いたことがあるので、あたしでも歌詞をほとんど覚えていた。
(あれ、でもそういえばあの歌の歌詞って……)
 あたしが動きを止めたので、カイトは勝手にエディタ画面を最小にすると、ネットに接続した。アドレスを覚えているらしく、検索窓ではなく直にURLを入力する。瞬く間にダウンンロード画面が目の前に表示されていった。ちなみにこの間、カイトはマウスもキーボードも触っていない。あたしの目から見れば完全にPCが勝手に動いている状態だった。
「……っ、ちょっと待った!」
 保存か開くかの選択画面が現れ、ポインタが保存に向かって動く。しかしクリックする前にあたしが大声を出したもので、すぐ脇にいるカイトがびくりと身体を振るわせた。同時にポインタも動きを止める。
「マ、マスター?」
「やっぱり童謡にする。ちょうちょかチューリップのMIDIがあるところは知ってる?」
「え? はい、知ってますけど、あの……」
 面食らったようにカイトは目を瞬かせた。
「なら、そこ行って」
「……はい」
 素直に返事をしたものの、わけがわからないというように首をかしげるカイトに、あたしは無言を貫いた。
(マイマスターは、いい歌よね。あの中のKAITOは可愛いいし一途だし文句などない。文句はないけれど……)
 隣で歌われるのは恥ずかしすぎる。しかもカイトの目の前で調教しなくちゃいけないわけでしょ? つまり、何度も何度も歌わせなくてはいけないわけで。それを自分でも聞かなくてはいけないとか、なんの罰ゲームかと思うわけで。とてもではないが、やっていられない。童謡の方がまだましだ。
 そんなあたしの葛藤になど気づいていないようで、カイトはダウンロードし終わったMIDIファイルを今度はエディタで開くための手順を口頭で説明する。別にファイルを開くくらい自分でやってもいいだろうにとは思うのだが、カイトは本当に自分のエディタを少しでも自分で操作したくないようだった。そしてその拘りはあたしにはやはりわからないのだった。

「ちょっと休憩ー」
 格闘すること二時間近く。あたしはPCをスタンバイ状態にすると、ひっくり返りそうなほど背を反らして伸びをした。
「お疲れさまでした、マスター。お茶入れましょうか?」
 上機嫌のカイトがにこにこしながらたずねてくる。
「お願いー。あーもう、肩凝ったー」
 ベッドにダイブし、ごろりと横になる。慣れないことをしていたので、疲労が半端ではない。しかし夢中になっていたこともあって、二時間が本当にあっという間だった。
「マッサージもしますか、マスター?」
 部屋から出て行きかけていたカイトが足を止めて振り返った。
「後でね。とにかく今日はこれ絶対完成させてやるんだ……」
「そんな微妙に死亡フラグっぽいこと言わないでくださいよ。でも、頑張りましょうねぇ」
 ちょっとだけ苦笑いを浮かべると、カイトはキッチンへと去っていった。
 あたしはしばらくごろごろしていたが、お湯がわく頃合いを見計らってリビングに行く。窓際でうたた寝をしている小次郎をぼんやり眺めていると、カイトがあたし愛用のカップをはいと差し出してきた。
「サンキュ。あんたは飲まないの?」
「胸がいっぱいで、何も入りそうにありません」
 幸せそうにカイトは微笑む。
「……あ、そう」
 まあ、確かに歌っている間中、カイトはとても嬉しそうに楽しそうに、幸せそうにしていた。といってもその歌ははっきりいって上手といえるほどのものではなかったけれど。
 自然に歌わせるのは本当に難しい。どのパラメータを動かせば目的とした歌い方になるのか、カイトは色々教えてくれたけれど、それでも実際にやってみないとわからないことだらけだったのだ。それにカイトも頑張っているのは本当によくわかるのだけど、音楽という抽象的なことを言葉で説明するのは難しいようで、そもそものカイトの説明が意味不明なところも多々あったのだ。「ここを上げればほわーっとなります」とかじゃわけがわからない。
 あたしがカップを持ってソファに移動すると、いそいそとカイトも隣に座ってくる。……いや、いいんだけどね。もう慣れたし。
「あの、マスター」
 熱い紅茶をゆっくりと飲んでいると、緊張した面もちでカイトがこちらを見つめてきた。
「何?」
「俺は、どうでしたか?」
「どうって、何がどうってこと?」
「お気に召しましたか? 俺のこと使ってみて、どう思いました? ……買って良かったと、思いますか?」
「ああ、うん……」
 また答えにくい質問をしてきたな。あたしはカップをテーブルに置くと、立ち上がってカイトの頭をわしゃわしゃとこねくり回した。
「わ、ちょ……マ、マスター?」
「馬鹿ね。そんなこと今更気にするんじゃないの」
「でも」
「先は長そうよね。ちょうちょでこれだけ苦労しているんだもん。他の曲だったらどれだけ時間がかかるんだか。確かにあんたって使いづらいかも」
「そう、ですか……」
 泣きそうな顔でカイトは俯く。あたしはさっきよりは優しく、頭をなでた。
「でもなんとかなるでしょ。やっぱり慣れの問題が大きいって、感じたし。気長にやろう。それしかないよ」
 カイトは顔を上げた。目の際にうっすらと光るものがにじんでいる。
「ま、あんたとしてはさっさとまともに歌わせろーってところだろうけど?」
 嫌みったらしく言うと、カイトはぶんぶんと頭を振った。
「そんなことないです。ありがとうございます、マスター」
 言いながらもカイトの目からはどんどん滴がこぼれる。
「もー、すぐ泣くんだからー」
「ずみばぜんー」
 あたしはやれやれと肩をすくめると、ティッシュボックスをカイトに渡した。それからカイトが落ち着くのを待っている間、あたしは紅茶を飲みつつマニュアルを再読する。実際にKAITOを使ってみたことで少しは意味がわかる部分もでてきていた。
 そしてあたしが痛感したことのひとつに、このマニュアルに書かれてある意味不明部分は、DTMを趣味としている人なら普通にわかっていることなのだということがある。VOCALOIDを使うために必要な知識ではなく、そのさらに前提として押さえていなくてはならないところ。
 KAITOはものとしてはDTM用のボーカル音源である。とはいえ楽器なら、自分で弾けないものの音源を買って打ち込むというのはありだろうけど、歌ならよほど音痴でない限り自分で歌うという選択がまずでてくるだろう。どうやら聞く限りではDTMというものを趣味とするのは男性が多いという。KAITOが発売された当初、あまりにも売れなくて失敗作呼ばわりされたのは、エディタの使用感だの声質だのという問題ではなくて、ただ単に男の声だったからだという気がしないでもない。
(それが今ではあたしみたいなど素人まで手を出し始めているんだからね……。それがKAITOにとっていいことなのかどうか、わからないけれど)
 少なくともこのカイトにとって良かったと言い切れるほど、あたしは脳天気じゃない。もしも音楽が好きで、自分で歌を、曲を作ってみたいと心から思っている人が彼を買っていたら……。実体化したこともさほど問題にならないだけではなく、逆に喜ばれていたのではないだろうか。こんなことを言ってもきっとカイトは否定するだろうが、それでもあたしは考えてしまう。あたしはカイトから最善の環境を奪ってしまったんじゃないかと。
「マスター、あの、まだ休憩してます?」
 袖口をつんつんと引っ張りつつ、カイトがたずねてきた。
「ん? ああ」
 気がついたらもう三十分以上過ぎてる。そろそろ再開しようか。
「そういえば、カイト」
「はい」
「この『トラックの追加』ってのをすると、同時にコーラスとかも作れたりするんだよね」
 あたしはマニュアルを指さす。
「はい。一つのトラックだといわゆる和音入力というのができません。だからコーラスとか、あと発音がはっきりしない部分の補佐をするような感じでトラックを増やすという使い方をする場合が多いと思います。入れてみますか、コーラス」
「入れてもいいけどあたしが気になっているのは、コーラスでも何でもいいけど、三つも四つも音を重ねた場合、あんたがそれを発声できるかどうかということなんだけど。あと、すごい早口の場合とか」
 KAITOOを初めて使って何に驚き、頭を抱えることになったかというと、KAITOとカイトが同時に歌うということだった。入力された音に歌詞を入れて再生したら、スピーカーを通してKAITOの声が流れるのはいいのだが――それが普通のはずだ――隣でカイトも歌い出したのだ。トラックは一つしかないのにいきなりの合唱状態。それにスピーカーを通したものとカイトの口から聞こえるものでは微妙に音質が異なって聞こえるものだから、どっちに合わせればよいのかわからない。ただでさえどこをどう調整すればいいのか、集中して聞かなくてはいけないのに。
 思わずカイトに向かって黙っててというと、自分が歌わないでどうするのかとものすごく嫌がられた。PCの中で歌っているのも確かに自分であるが、せっかく身体があるのだからこっちで歌いたいらしい。しょうがないのでPCをミュート状態にしているが、これだと同時に流している伴奏が聞こえなくなるので、便利なんだか不便なんだかよくわからないことになっている。
 そしてその身体のあるカイトだが、歌う時には普通に口を開け閉めして歌っている。でもそうであるのなら人の口を持ってしては不可能な表現をする時にはどうなるのだろうか、というのがあたしの疑問なのだ。一トラックずつ再生しろとかなんだろうか。しかしそれだとコーラスも同時に、とかならともかく、早口には対応できないよね。
 しかしカイトは余裕綽々と笑いながら胸を叩く。
「大丈夫ですよ。俺はVOCALOID KAITOです。ソフトの俺にできることはこっちの俺にもできます」
「そうなの?」
 あんまり自信満々なので、思わず聞き返した。
「そうです。説明することもできますけど、実際にやってみた方が早いと思います。というわけで休憩は終わりにしましょうね。さー、行きましょう!」
「あ、コラ!」
 カイトはあたしの手首を掴むと、立ち上がらせる。あまり力は入っていないが、勢いがあるのであたしは前につんのめりかけた。カイトは片腕を差しだし、そんなあたしを抱きとめる。
「大丈夫ですか?」
「急に引っ張るんじゃないの!」
「すみません」
 あまり悪いと思っていなさそうな口調で謝ってくる。まったくこいつは……。しかしヘタレでも泣き虫でも、やっぱりカイトは男なんだなぁ。手が大きいや。
 再びPCを立ち上げると、作ったばかりのちょうちょのトラックを複数コピーする。これだけだとただ声が大きくなるだけなので、それぞれのトラックの声音を適当に変えた。
 そしてその時にわかったのだが、声質のチェックをするために聴きたいトラックを除いてミュート状態にすると、カイトは非ミュートのトラック部分だけを歌うのだ。
 それはいいのだけど……なんというか、からかわれているような気がする。カイトのやっていることがすべて冗談にしか思えないのはさすがに勘ぐりすぎだろうか。
「じゃあ、再生するよー」
「はーい」
 再生ボタンをクリックする。前奏が流れる間の短い沈黙が過ぎると――といってもPCをミュートにしているので、前奏が聞こえているわけではない――、カイトは口を開いた。
「……ちょ、ええええーー!?」
 始まった途端、あたしは我知らず叫びだしていた。本当にカイトから複数の人の声がしている。適当に数値を動かしただけなので、ちょっと耳に痛い感じのキンキンした高い声と、かなりロボロボしている低い声。それにデフォルトのカイトの声が同時に発せられているのだ。
 部屋中に満ちる、カイトの声――。
「どこから声出してるの!?」
 本当に、カイトの中味はどうなっているのだろうか。
 呆然としている間に歌は終わる。カイトはどんなもんだと胸をそらした。
「あー……」
 まともにコメントができない。あたしは額を押さえて呻いた。これまではPCに出入りするという特殊な特技を持った、ちょっと情けない性格の弟、くらいにしか思っていなかったけど、カイトってやっぱり……。
(人間じゃ、ないんだな)
 人にはこんなことはできない。いや、世の中は広いからこういうことができる人がいるかもしれないけれど、絶対的に少数派なはずだ。それにカイトの様子からしてこれは本当に簡単なことのようだし。
「マスター? あの、変でしたか?」
 あたしが何も言わないので、カイトは心細そうにもじもじとしだした。
「……ちょっと待ってて」
 あたしはちょうちょのファイルを保存し、新規のファイルを開いた。
 一小節目に適当な音を全音符で入力。
 次、トラックを増やして、一番目のトラックから半音あげた音を一小節目の二拍目から、やはり全音符で入力。
 さらにトラックを追加してまた半音あげた音を三拍目から全音符で入力。
 これを繰り返してトラックを合計五つ作り、それぞれ声質も変える。さっきのちょうちょの時には全員――カイトは一人しかいないが、他に表現のしようがない――同じ音を出していたのでどこからどう声がでてきているのかわからなかったが、こうすれば判別がつくのではないかと思ったのだ。いや、声がどこから出ていても構わないといえば構わないのだろうが、やっぱり気になる。
「はいOK。カイト、座って」
 あたしは立ち上がり、椅子を譲る。カイトはえ? え? と言いながら目を白黒させていた。あ、そういえば何をするのか説明していなかった。
 手早く目的を告げると、カイトは首をかしげる。
「理由はわかりましたが……それでどうして座って歌わなくちゃいけないんですか?」
「座りながらは嫌? 声、出しづらいとか?」
「そんなことはないですけど。俺が座っているのにマスターが立っているというのがちょっと……」
「あんたが立ってるとあたし、耳が届かないんだもの。さっきのちょうちょ、かなり異様だったよ。なんか口以外のところからも音が出ているような感じだったし。だから確認したいの」
 カイトは途方に暮れたように眉を下げる。
「それ、気持ち悪いですか?」
「そういうこととは違うって。いいからやるよ。……気になるとは思うけど、気にしないでね」
 あたしは再生ボタンを押すと、カイトの口元に耳を寄せた。
 次々と重なる声。あたしは目を閉じて集中する。
「もう一回」
 すぐに終わった声出しを、あたしはまた繰り返す。今度は肩のあたりに耳を寄せて。
「もう一度」
 カイトの手を取って耳に当てる。人形のように、カイトはされるがままになっていた。
「うーん……」
 背中だとか腿のあたりにも耳を寄せ、実験は終了する。
 結論。
「あんたって、人型スピーカー状態になるんだね」
「みたいですね」
 こっくりとカイトは頷いた。
 何度繰り返してもそうだった。カイトは一番目のトラックの音はちゃんと口から発していた。しかし二番目のトラックの音は口からは出てこなかった。ではどこからかというと、身体全体から。どこに耳を寄せても、声が聞こえるのよ! 手のひらとかからもなのだからもう驚くなんてもんじゃない。本当にカイトってどうなってるんだろう。三番目と四番目のトラックもそう。そして五番目のトラック、これは再び口から出てきた。五番目のトラックは丁度一番目のトラックが終了するのと入れ替わりで音が始まるよう入力されていたから、つまり……。
「トラックのナンバーの小さい順に口から発声する、ってことかな。で、口が塞がっている時にすでに再生されてしまったものは、途中から口で再生されることはない、みたいな感じ?」
「えっと、ちょっと違います。一番目のトラックを優先にして歌うことには変わりはないんですけど、早口などで口が回らないときには一番目のトラックの音であっても、口以外に振りわけている感じなんです。逆に発音の補助みたいな感じのものは別のトラックであっても同時に出せることもあるみたいで。意識してわけているというよりも、口が回るかどうかの問題だと思います」
「……はあ、なるほど。で、その口以外から声を出すって、カイトはどんな風に感じるの?」
 もし苦痛だったりするのなら、できるだけトラックを増やさないようにしないと。
「口から出すのと変わりませんよ。あ、でも、ちょっとは違うかな。なにしろ喉は使っていませんから。でも、大変ってことは、全然ないです」
 何でもないことのようにカイトは笑った。
「そっか。しっかし……」
 あたしは机に手をついて体重を預ける。
「マスター?」
「マフラーからも声が聞こえるとかって、ふざけてるとしか思えない。それともそう聞こえるだけで、実際には服の下から声が出てるの?」
 さすがにコートやインナーを剥くのはためらわれた。しかし服の下から音が出ているのなら多少くぐもって聞こえそうな気がするのだが、そういう感じもしなかったんだよね。不思議だ。
 カイトはコートの胸のあたりをさする。
「衣装も含めて俺ですから。……あ、でも、脱いだら脱いだでちゃんと声は出せるはずです。やってみせましょうか?」
 カイトはぐっと拳をにぎり、目をきらきらさせながら中腰になった。
「俺はマスターのためなら裸マフラーで歌っても」
「それやったら二度と日の目は見られないと思いなさいよ」
 あたしがみなまで言わせずに釘を刺すと、カイトは、
「……あい」
 とコートの前を開きかけた手を止め、座り直す。まったく、こいつは。すぐ調子に乗るんだから。





むちゃくちゃな早口の歌も歌えるのもボカロの特性だとは思うのですが、それが人の形を取った場合、まあ普通は声は口から出すよね、と思いまして。しかし人の口の形では不可能な動きをしなくてはならない歌を歌えと言われたらどうしたらいいのだろうか……ということを真面目に考えたらこうなりました。あと主旋律+コーラスとか。
このカイトはいうなればVOCALOID KAITOの精(笑)なので、ソフトのみでしか再現できない機能はあってはならないよなと思ってます。人型の状態でもパラメータの操作も実はできまして、マスターが口頭で明確な指示を出せば(例えば「一小節目、三拍目に4部音符でド」「五小節目、最初からHarmonicsを95で七小節目まで継続。そのあとは64に戻して」とか)カイトは自分でパラメータの変更をするのです。カイトが嫌なのは、あくまでもマスターの意思によらない(自分で自分を調教したら? がそれに当たる)、あるいは曖昧な指示による(「この辺もうちょっとやわらかい感じで」とかの指示。人によって柔らかくの解釈は異なるので、カイトにはそれを自分で決めることができない)自分の操作です。
が、口頭指示はぶっちゃけ面倒なので、例えエディタの操作に慣れてもマスターはやらないだろう。

……そして日々こんなことを考えている自分の頭がキモいです。



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