やっと、というかとうとう、というか、ついに、というか。
 言い方は何でも良い。カイトの存在を両親に隠し通せたまま、あたしはとうとう、ついに、やっと、家を出ることができた。
 ……なんとかなるとかカイトには大口叩いていたけど、なにしろ同じ屋根の下に住んでいるわけだから、どこかでバレるんじゃないかと冷や冷やしてたんだよね、実は。
 だがもう、その綱渡りのような日々ともお別れだ。カイトに対しても、親に内緒で育てているペットのような扱いをしなくてすむ。事情が事情だから仕方ないとは思っていたけど、情が移るにつれて、なんだか本当にひどいことをしているような気になっていたんだよね。同じ家の中に住んでいて、あたしにとってはカイトはもう家族なのに、父も母もカイトのことなんていないように振る舞うということに……。いや、両親にとってはカイト? 誰それ? なんだから当然なんだけど。
 そういうこともあって、引っ越し先ではカイトが自由に動けるようにしてやりたいというのがまずあった。かといって、そのためにあたしがカイトに遠慮するというのも嫌だったので、あたしはあたしでプライベートを確保する必要があったわけだ。着替えるところと寝る場所、これだけは小さくてもいいから普段過ごす場所とは別に欲しかった。
 なので最初は2Kの物件を探していたのだけど、さすがに予算が足りず、1LDKのこの部屋になった。それだって、月々の仕送りからするとギリギリの妥協だ。学校まで歩いて三〇分以上かかるし―― 一人暮らしするからには歩きか、せめて自転車で通える範囲でないと、なんのために一人暮らしをしているのだかわからなくなるからね――駅までの接続も悪い。部屋はリフォーム済みだけど、建物は古いし。しかしこういう物件でなければ、とてもではないが、借りられたものではなかったのだ。まあ、建物なんて食べるわけじゃないんだから、古かろうがなんだろうが、ちゃんとしているのなら別にいいや、と開き直ったのは案外早かったけれど。
 引っ越し作業が終わり、引っ越し屋さんと両親が帰るのを見送ってから、あたしはすぐにカイトを呼び出した。新しい部屋をきょろきょろと珍しそうに見て回るカイトを微笑ましく思いながらも、さて今日はこの後どうしようかとあたしは考えた。
 一応、部屋は片付いているには片付いているのだけど、本棚の本とかCDラックのCDとか、棚の中のちょっとした色々なものは引っ越し屋さんが手早く詰めていっただけなので、あたしとしては使いやすいように並べ換えるつもりでいた。けれどさすがに今日は朝からバタバタしていたので結構疲れている。それでもまだ外は明るいからもうひと頑張りするか、明日はキッチン用品などを色々とまとめて買いに行きたいので体力を温存するべきか……。
 その前にちょっとお茶でも飲んでひと息つくか、と電気ポットでお湯を沸かすべく、水を入れてコンセントを挿した。
「カイトー」
「はーい、マスター」
 トイレやお風呂がある方に行っていたカイトが興奮から頬を紅潮させながら戻ってくる。
「あたし、コンビニ行ってくるから、留守番お願いね。あ、なんか欲しいものある? 今日の晩ご飯とおやつとかを買ってくるつもりなんだけど」
 なにしろ家にはまだ鍋も包丁もないので、インスタントかレンジで温めるものしか食べられないのだ。あたしが実家で使っていた箸や茶碗も持ってきていない。あれは帰省した時に使うからと、すべて置いてきた。それくらいお客さん用があるのだから持っていけばいいのに、と母はあまり良い顔はしなかったけれど、日常的に使うものを全て自分でコーディネートするというのは憧れていたのだ。
「おでかけ、ですか?」
 ぱちくりと瞬きながら、カイトは聞き返した。
「うん」
 あ、ついでに小次郎の散歩コース探しでもするかな。地図によると公園が割と近くにあるらしいんだよね。
「今日だけはダッツもOKだよ。引っ越し記念ってとこ?」
 財布を寝室ということにした小さい方の部屋――ちなみに窓が小さいので薄暗い――に取りに行く。パーカーを着て、携帯電話と財布をポケットにねじ込むと、リビングに戻った。するとそこにはカイトが両手をもじもじさせており、小犬の訴えるまなざしでこっちを見てきた。
「……カイト君、言いたいことがあるならちゃんと言いなさい」
 お前の口はなんのためについているんだ。
「あ、あのー……」
 言いながらも、やはりカイトは手をもじもじとさせる。
「俺もついていって……いいですか?」
 あたしは腰に手を当てて、ふっと息を吐く。
「キャリーケースの中にあんたの服が入ってるから着替えてきなさいよ。鍵はあたしのいつものバッグの内ポケットの中よ」
 あたしはひょいと寝室を指さした。
「あ、はい!」
 ぱあぁっと顔を明るくさせて、今度はカイトが寝室に駆け込んで行った。
「あんまり待たないからねー。早くしてよー」
「え? ……あ、はいぃ」
 寝室から焦ったような返事が返ってくる。
 キャリーケースは鍵がかかるので、ごちゃまぜにしたくない貴重品なんかをまとめて入れて運んだのだ。そこにカイトの服を紛れ込ませた。こうしておけば鍵はあたしが持っているから、うっかり男物の服を親に見られる危険もない。
「お待たせしました」
 五分ほどして、カイトが出てきた。コートで足が隠れていないので、大分雰囲気が違う。しかし、こうして見ると腹が立つほど顔とスタイルはいい男だよなぁ。頭の中身が中身なだけに、残念だ。
 それにしても、量販店で買った可もなく不可もないという白いシャツ――ボタンホールとボタンは黒い――にブラックデニム――本人を連れていけなかったので裾上げなどはしていないのだが、買ってきた日に試しにはかせてみたらする必要がないことが判明した――という当たり障りのない格好だが、なんというか全体的に、
「もさい、よねぇ」
「そうですか? 俺はマスターが選んだものなので満足してますけど」
 釈然としないあたしに対し、カイトはけろりと答える。
 ……そういうセリフを真顔で言うな。
 しかしカイトがなんと言おうと、やはりなんとなく似合っていないのだ。
 着る本人を連れていけなかったという事情はあるにしても、モノトーンなら誰でもとりあえず似合っているように見えるだろうに、なにが悪いのだろうか。
 デザインか? 素材か? 頭が青いせいか?
 とにかく明日はキッチン用品を買う前にカイトを服屋と靴屋に連れて行こう。
「まあ、いいか。とにかく行こう。あ、鍵持たないと」
 カイトに留守番させるつもりだったから、寝室に置いてきてしまっていた。あたしはまた部屋に戻って鍵を取ってくる。それから小次郎をケージから出してリードにつないだ。先にあたしが玄関から出て、カイトがスニーカーを履くのを待つ。ちなみにそれは、多少サイズが合わなくても大丈夫そうな、スリッポンタイプのものを選んだ。
 このアパートにはオートロックはついていない。その点では母とあたしの希望の一つは叶わなかったことになる。だけどカイトもいることだし、とあたしはその条件を割合早いうちに外していた。
 まあ、条件というなら、もっと学校に近いところにも家賃が手頃な物件はいくつもあった。ただしそれはどれも1Kだったのであたしとしては却下せざるをえなかったのだが。とはいえあたしの選択は両親をいぶかしがらせるには十分だったので、それについては尤もなツッコミは受けた。それを「学校に近すぎるとたまり場にされるかもしれない」とか「寝る部屋と勉強する部屋は別々にしたい」と真面目な生活をしたいアピールをしてなんとか誤魔化した。別に不真面目な生活を最初からするつもりもないのでまんざら嘘でもないのだけど。でもできるなら、せめてもうちょっと学校い近いところだったらいいのになぁ、とは思っている。お金に余裕がでたら、自転車を買わないと。
 カイトが出てきたので鍵をかける。これもスペアを作らないといけないなぁとか思いながらしまうと、カイトは足下を確かめるように靴の先で床を叩いた。コンクリートだし、フローリングとは感触は違うからだろう。
「んじゃ、行くよ」
「はい、マスター」
 歩きだしたあたしは、その言葉にぴたりと足を止める。
 ああ、今まで気にしていなかったけど、これはまずいや。
「カイト、外ではあたしのこと、マスターって呼んじゃダメよ」
 あたしはカイトの肩を押さえ、声を潜めて忠告した。
「どうしてですか?」
 つられて少し背をかがめたカイトが、ひそひそと聞き返してくる。
「変だから」
「どこが変なんですか? マスターは俺のマスターですよ。そのマスターをどうしてマスターと呼んじゃいけないんですか?」
 だから、マスターと連呼するんじゃない。幸い外廊下には誰もいないからいいものの、聞かれたらどういう関係かと怪しまれることは必至だ。
「とにかく、あんたがあたしをマスターって呼ぶと周りから変な目で見られかねないのよ。今はまだこっちには知り合いもいないけど、そのうち友達もできるだろうし……。あ、そうなったらあたしはカイトのことをルームシェアしてる従兄ってことで紹介するから。わかった?」
「うー……。わかりました。じゃあマスターのことをマスターと呼んじゃいけないなら、なんて呼べばいいんですか?」
 へにゃりと眉を下げ、情けない表情でカイトはたずねる。
「普通に名前で呼べばいいじゃない」
「名前って…… さん?」
「さん、はいらなくない?」
 見た目はカイトの方が年上だし。
「いらないって、えっと、そうなると、その…… ?」
「うん」
 よしよし、それでいいのよ。
 カイトは真っ赤になってうーとかあーとか言っていたけど、最初はこんなものだろうとあたしは放置してさっさと歩き出した。
「カイト、行くよ。こないなら置いてくよ」
「うあ、待ってくださいマス…… !」
 慌ててカイトが追いかけてきた。
 階段を下りて道路に出る。この辺は住宅街なので、車の通りはそれほど多くないみたいだ。
 小次郎は見慣れない風景に落ち着かな気にあたりを見回している。それからどっちに行くのと問うようにあたしを見上げてきた。
 角から自転車が出てきたのでやりすごそうと、塀のある側に寄った。買い物袋を籠にいれた主婦だった。カイトの青い頭に少し目を向けてきたが、そのまま通り過ぎる。と、隣から大きく息を吐く気配がした。
「なにしてるの?」
「いえ、なんとなく……緊張しちゃって」
「だからって、息を止めてもなにも起きないと思うよ」
 苦しいだけじゃないか。
「そうですけど、本当に何となくそうしちゃったんですよ。だけどさっきの人、俺のことを見ても別に驚いたりもしませんでしたね」
「そりゃ、知らない人なら、カイトはただ髪を青く染めているだけの人としか思わないだろうし」
 こっちはあたしが以前住んでいたところよりもずっと人口が多いのだから、もっと奇抜な色に染めている人だっているだろう。だから堂々としていれば、そうそう怪しまれるようなことはないはずだ。
 そう言うとカイトは納得したように頷いた。
「適当にぐるっと歩くよ」
 歩きながら振り返ると、カイトはすたすたとものの数歩で追いついてきた。
 並んで歩き出す。
「あのさぁ、カイト」
 また気がついたことがあったので、あたしはカイトを見上げた
「はい?」
 カイトは微笑を浮かべて見下ろしてきた。初めての外出だからものすごく興奮するんじゃないかと思ったけれど、意外に落ち着いている。やればできるじゃないか。……それはともかく。
「外歩く時は敬語もやめない? 不自然だよ」
「ええー。そんな、急に色々言われても」
 心底困ったように、カイトは眉を下げた。
「もちろん、すぐでなくてもいいから」
 言うと、あからさまにほっとしたようにカイトは肩を下ろした。
「頑張ってみます」
「今のせりふをタメ口っぽく」
 ふとイタズラ心が起きたので、カイトを試してみる。案の定目を白黒させて、ええ? という顔になった。にまにましながら観察すると、カイトは大きく息を吸い、大げさなほど決然とした表情になった。そして……。
「頑張ってみるよ。……
「ちっ」
「ちょ……。なんで舌打ちするんですかぁ!?」
「さあねー」
 涙目になるカイトをよそに、あたしはへっとやさぐれてみせた。
 普通に格好良くって、つまらない。カイトはへたれてるくらいの方が良い、などと本人が聞いたら泣いて抗議しそうなことをあたしは考えていた。

 翌日。またコンビニでご飯を買ってきて――ついでに小次郎の散歩にも行った――朝ごはんを済ませる。
 親元を離れて実質まだ半日しか経っていないにも関わらず、あたしはすでの不自由さの片鱗を味わっていた。出来合いの御飯が続くのに飽きてきた。野菜も少ないし、胃もたれもしそうだ。
 一人暮らしをするようになると外食やジャンクフードを食べる機会が増えるので食生活が乱れやすいという話はよく聞くが、どうもあたしはそういうのには向いていないようだ。できるだけ早急に自炊ができる体制を整えないと。
「じゃ、でかけるよ!」
 しゅたっとあたしは片手をあげる。
「はい、行きましょう!」
 やる気満々というようにカイトは胸のあたりで拳をぐっと握った。
 今日はきっとたくさん歩いて荷物もいっぱい持つだろうと、あたしは七分袖のカットソーに薄手のジャケット、それから下はショートパンツにニーハイソックス、スニーカーという動きやすさを重視したコーディネートでまとめる。カイトは昨日と同じだ。
 リビングに置いてあるケージでは、小次郎が早く出してと訴えるかのように、前足でがしゃがしゃとやっている。しかし今日は小次郎は留守番だ。すまんと頭をなでてから家を出る。
 霞がかっているものの、穏やかに空は晴れており、ほどよく暖かい。春だねえ、などとのんきな会話を交わしながらのんびりと駅に向かった。
 途中、信号や横断歩道に差し掛かった時にはどうすればいいのかも教えたりする。カイトもなにかしらの形ですでに知っていたらしく、青い時には進んでいいんですよね、などといっぱしの口を利いた。
 駅についたら切符を買う。ICカードがあった方がいいかなとも思ったけれど、それはまた後日にした。
 電車に乗る。目的の駅についたら降りる。また歩き出す。
 先にカイトの服を買うということは伝えてあるので、まずは色々なショップが入っているビルを目指した。
 移動が進むにつれ、すれちがう人の数がどんどん増えてゆく。でもカイトに注目する人は特にいない。髪色が目立つからチラ見くらいはされているようだけど、それ以上のことはなかった。やっぱり頭が青いだけじゃ、たいして珍しいものでもないのだろう。それともあれか、都会は冷たい、というやつだろうか。面倒そうなのには関わらないようにするという心理か。ま、なんでもいいや。放っておいてもらえる方が今のあたしたちには好都合なんだから。
 一〇分ほど歩いただろうか。ふと気がつくと、やや後ろをついてきていたカイトがいなくなっていた。迷子か!? と振り返ると数メートル後ろでカイトがしゃがみ込んでいる。
 慌てて元来た道を戻り、上向かせた。こんなところで何をやっているのだろう。まさかもう疲れたんじゃないだろうな。
「どうしたのよ」
「いえ、その、なんだか……」
 カイトは辛そうに目を閉じた。その顔がなんだか青ざめているように見えたので、あたしはカイトを道の端につれていった。さすがに道のど真ん中はまずい。しかしカイトは立っているのがやっとという風にふらふらと揺れる。
「具合悪いの?」
「なんだか目の前がぐらぐらするんですぅ……」
 そのままカイトはまたしゃがみこんだ。
「ちょ……」
 その辺の地べたに座り込むな、みっともない。けど、ぐらぐらする、ねぇ。めまいがするってことだろうか。
「ぐらぐらするだけ? 頭が痛いとかお腹が痛いとかもある?」
「いえ、どこかが痛いとかはありません」
 我ながら間抜けなことを聞いたような気がする。カイトは普通の人間のような体調の崩し方はしないだろう。となると……。
 嫌な予感がして、あたしはカイトの耳に口を寄せた。
「実体化していられない、とか?」
 もしかしたらインストールしているPCからある程度離れたら身体を保っていられないということがあるかもしれない。そうだとしたら、大変だ。こんな人の多いところで消失されたら騒ぎになる。
 しかしカイトは力なく頭を振った。
「いえ、そういう感じはしません」
「そう」
 なら、まだいい。でもどうして具合が悪くなっているんだろう。長い間あたし以外の人間とは接したことがないから、人の多さに酔ったのだろうか。いきなり行動範囲を広げすぎたかなぁ。
 前髪をかきわけて、額にふれてみる。体調の善し悪しで体温が変わるのかはわからないのだが、いつもと違った感じはなかった。
 とりあえずどこかで休ませよう。自力で歩けないのなら帰るのも難しいもの。
 どこか座れそうな店はないだろうかとあたしは周囲を見渡した。コーヒーショップやファストフード店は結構あるけど、騒がしいだろう。もうちょっと静かな方がいい。
「んー……」
 あたしはとあるビルに目を向けた。
 カイトを休ませるためだけという目的にはいささか多い出費だが、救急車を呼ぶわけにもいかない。しかたがない、あそこにしよう。でもあそこって、静かなのかなぁ。店によってまちまちだから入ってみないとわからないな。
「カイト、移動するよ。歩ける? すぐそこだから」
「無理ですぅ。目を開けていられません」
「なら、目は閉じてていいから。あたしの肩につかまって、足だけ動かして」
 よいしょ、とカイトの腕を取る。ずしっとした重みがのしかかってきた。
 距離にすれば二〇メートルあるかどうか、というところだが、中途半端な体勢で体重をかけられたものだから、建物の入り口についた時には疲労こんばいになった。データならもっと軽くてもいいのに、見かけ通りにしっかりありやがるんだから、もう!
 中に入ると、開店したばかりのようで、受付付近にあたしたちの他にお客の姿はなかった。
「あの、あちらの方、具合が悪そうですけど、大丈夫ですか?」
 入店手続きをしていると、さすがに気になったようで、店員が声をかけてくる。特に椅子などもなかったので、カイトは壁によりかからせていたのだ。
「あ、大丈夫です。長い間引きこもりだったのが外に出たので人酔いしたみたいで。休めば治りますから」
 あたしは適当なことをのたまう。
 この手の店は最近、本来の目的以外でも部屋を使わせてくれるところが増えたのでカイトを連れてきたのだけど、駄目だったかな。ソファならあるだろうから、そこに寝かせようと思ってたんだけど、とびくびくしながらも愛想笑いを浮かべると、店員はそうでしたか、とあっさり引き下がった。大丈夫なようだ。
 それでも必要ならタクシーを呼ぶのでその時にはカウンターに連絡をくれといわれた。一瞬親切な店だと思ったが、面倒なことになる前に自力で帰ってくれということなのだろうということに思い当たった。まあ、それはあたしもそのつもりだからいいけどね。
 割り当てられた部屋に向かう。またカイトをかついでいかなくてはならなかった。ああもう、重いったら!
 背後に店員さんの視線を感じながら、あたしはカイトを引きずってゆく。ドアを開けて電気をつけると、そこは白っぽい壁と蛍光灯が明るい、清潔感のある部屋だった。
「カイト、そこにソファがあるから。手、離すよ」
「あい……」
 どさりと荷物を下ろすように、カイトを下ろした。ああ重かった、と肩をまわしながらバッグとカウンターで渡された道具一式をテーブルに置く。
 備え付けのモニタからは流行の音楽が流れている。音量を絞ってから、あたしはソファの空いているところに座った。
 カイトはうつ伏せになったままごそごそと楽な体勢を探すように動き、ややあって静かになる。
「音うるさい? 全部消す?」
「マスターが消したいのなら……。俺は大丈夫です」
 もごもごとカイトは答える。ならしーんとしているよりはマシだからこのままにさせてもらおう。
「それと、ここ使うのに一品ずつ何か食べ物頼まないといけないんだけど、食べられそう? 一応アイス……というかパフェとかならあるけど」
「ア、アイスぅー」
 砂漠で水を求める人のように、カイトはわなわなと腕を伸ばす。
 それはアイスを食べたいという意味か? 単にアイスという単語に反応しただけか?
 突っ込もうとするより先に、カイトがむくりと肘を使って上半身だけ起きあがる。それからぐるりと周囲を見渡した。
「ここって……どういうところなんですか?」
 覇気のない口調で尋ねてくる。
「カラオケ屋だよ」
「カラオケ……? って、歌う、ところですよね」
「うん」
 さらに起きあがってちゃんとソファに座りなおした。その目はモニタへ移動し、カラオケの機械へと移る。それからテーブルに。テーブルにはマイクと入力機器が入った籠がある。受付で預かったやつだ。
「あ……」
「失礼します、ご注文を伺いに参りました」
 カイトが何かを言いかけた時、店員が入ってきた。あー、まだ何頼むか決めてないや。
「カイトはパフェでいいの?」
「あ、はい」
「種類、色々あるけど」
 定番のチョコやイチゴなどから季節限定フレーバーもある。
「えっと、じゃあこの一番人気って書いてるやつで」
「あたしはどうしようかなぁ」
 カイトがしばらくへばっているようなら、ここでお昼御飯を食べていこうかな。まだお昼には少し早いしそんなにおなかも減ってないから軽めにしよう。
 注文を繰り返すと、店員はいなくなった。
「なんの話してたっけ?」
 カイトが何か言いかけてたんだよね。
「あ、その、えっと……。ここって、歌うところなんですよね」
「そうだよ」
 さっき言ったじゃん。
「ボーカロイドの曲も入っているんですか」
「この部屋の機種はそうだよ」
 カイトを休ませるために入ったので、機種はどうでもいいと言えば良かったのだけど、とっさにボカロ曲がたくさん入っている機種を選んだのは、やっぱりボカロ好きの性というものだろう。
 あたしは入力機器を取り出すと、タッチペンで操作した。カイトが興味深そうに手元をのぞき込んでくる。
「ほら、あんたの名前で登録されてるでしょ」
 かいと、と入れると何件か表示された。その中からKAITOを選ぶとKAITOオリジナル曲がずらりとでてくる。
「うわぁ、すごーい。そういうのがあるっていうのは知ってたけど、実物を見れるなんて思わなかった。感激です!」
 目をきらきらさせてカイトは入力機器を見つめる。具合が悪いなんてことは忘れてしまったかのようだ。
 まあ元気になったのならいいかと、あたしは入力機器を渡した。カイトは喜々としてタッチペンを操る。自分以外のボカロの名前で調べているみたいだ。
「やっぱりミクは多いなぁ」
「ほかの子たちとは段違いだよねー」
「マスターはボカロ曲も歌ったりします?」
「知ってるものでキーが合うものならね」
「KAITOのも?」
「卑怯なエアアニメソングは定番と化しているな……」
 色んな意味でスカっとするんだよね、あの曲。
「あ、これですね」
 ぽちっとカイトは転送を押した。
 始まる前奏、固まるあたし。
「なぜ、押した……」
 歌えということか?
 にこにこしながらカイトはマイクを手渡してくる。
 ……歌えということなんだな。
 あたしはマイクをカイトに押し返す。
「自分で歌いなさいよ」
 どうしてあたしがある意味本人の前でKAITO曲を歌わねばならんのだ。
「無理ですよ。俺はまだこの曲は調教してもらってないんですから」
 ぐい、とマイクを押し返される。
「前から釈然としなかったんだけど、あんた、耳で覚えるってできないの?」
「覚えるだけならできますよ。この曲だって知ってます。でも再現はできないんです」
「なにそれー」
「歌に関してはプログラムが優先されるみたいで……。俺も、耳で覚えたのを歌えたらいいなぁとは思って試してみたこともあるんですけど」
「できなかったの?」
「なんかー、そうしようとすると口が動かなくなるんですよねー」
 はぁ、とカイトは溜息をついた。
「……難儀だね」
 そうこうしているうちに曲が終わり、タイミングを見計らったかのように店員さんが注文の品を持ってきた。
 アイスの登場にカイトは目を輝かす。あたしも気が抜けたのでちょっと早い昼食タイムにすることにした。
 BGM代わりに、ボカロ曲をいくつか入力する。メロディに合わせてカイトは身体を揺すりだした。これで歌えないというのだからおかしな話だ。プログラムの威力というのはそんなに大きいものなのだろうか。
「次の曲、さっきのにする?」 
 あの卑怯な曲はCDが発売されていて、その中にはカラオケバージョンも収録されているのだ。だから教えるということなら比較的楽なはず。
 と思って何気なく聞いてみると、モニターを眺めていたカイトは首がねじまがりそうな勢いで振り返ってきた。
「本当ですか!? なら俺、またカラオケ屋さんに来て歌いたいです!」
「別にそれくらいいいけど……」
 やったーとカイトは万歳をする。
「もちろんその時はマスターがミクのパートを歌ってくれるんですよね、ね?」
「あー……。そうなるか」
 うちにはミクはいないし。いたとしても、そうそう実体化などしてくれないだろうし。
「ところであんた、具合悪いのは治ったの?」
 すいぶん元気だけど。
 問うとカイトははっとしたような顔になった。
「そういえば、いつの間にか治ったみたいです」
 歌とアイスの効能ってところか? まあ、カラオケ屋で時間をつぶす程度で済んだと思えば怒るほどでもないか。これでタクシーで家まで帰るなんてことになったら幾らかかるかわかったものじゃないし。
 それに、結構こういうのもいいかもしれない。
 カイトに歌を覚えさせるのなら、それなりの成果というものはやっぱりほしいのだ。その方法として動画サイトへアップ、というものを考えていたものの、歌を教える以上の手間がかかると予想されるので、今一つ気乗りしない部分もあった。
 だけど何も動画にしなくたって、いいんじゃないか? 音楽を仕事にしているわけでもない一般人が何かの歌をまるまる一曲歌うことなんて、それこそカラオケ屋に行った時くらいしかないだろう。
 ということを考えたので、本人にどう思うのか聞いてみた。カイトはにっこりと笑い。
「いいと思います。だって、それなら動画にする手間の分も歌に割けるってことでしょう?」
「そうだね」
「俺はたくさんの人に聞いてもらうよりも、マスターに構ってもらえる方が嬉しいです。それにマスターと一緒に歌うということもたくさんしてみたい。だから動画かカラオケかというなら、俺は断然カラオケがいいです」
 淀みのない目で、口調で、カイトは答えた。
 そこまで言うのなら、あたしも開き直ろうじゃないか。
「わかった。じゃあこれからはカラオケで歌うこと前提でやろう」
「はい!」
「これはこれでいいなぁ。懐メロでも流行ってるのでもなんでも、カラオケに入ってるのであればできるもんね」
 動画だとどうしてもウケを狙いたくなるから、選曲が偏りそうだし。
「そうですよ。なんでもできるんですよ」
 意味がわかって言っているのか、カイトはほのぼのした笑顔で繰り返した。
「マスター、今歌ってもいいですか。ちょうちょもチューリップも入ってますよ!」
 入力機器を抱きかかえるようにしながら、カイトは目を輝かせる。
「カラオケ屋で最初に歌うのがそれでいいのかあんたは……」
 しかしカイトは現在三曲しかレパートリーがない。その三曲目は課題曲だが、カラオケには入っていないのだ。
「えー? 駄目ですか?」
「別に駄目ってことはないけど。ここは歌うところなんだし、歌いたかったら歌えば?」
「はい!」
 いそいそとカイトは童謡を二曲、転送する。
「マスターは何か歌わないんですか?」
「んー。今日はいいわ」
「そうですか」
 イントロが始まる。カイトは立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。
 青年男子の口からこぼれるのは、妙に可愛らしい声質の歌声。
(そ、そうだった。童謡だったから、子供っぽい声でやったんだった……!)
 プログラムが優先されるというのだから、声質を変えることもできないのだろう。そうとわかってたら、普通な感じの声でやってたのに。
 自分でやっておいてなんだが、見かけと声のギャップの大きさに脱力し、あたしは思わずソファに倒れ込んでしまった。





なんだかんだ言って、この二人は仲が良いなぁ(家族的な意味で)と思った。




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