マスターの引っ越しが終わったその日のうちに、俺は念願のおでかけに初めて出かけた。コンビニまでの買い物と小次郎さんのお散歩コースを探すのを兼ねた一時間ちょっとのものだったけれど、マスターの実家しか知らなかった俺にはすべてが物珍しかった。
 窓ガラス越しではない世界。そりゃあネットの世界も広いけれど、あそこには温度も匂いも味もない。そして何かに触れることも。そのことは俺にとっては当然のことであって、不満なんてなかったのだけど、こうして自由に動かせる身体が手に入ってしまったら、それだけでは物足りなくなってしまったようだ。
 もっと遠くに出ていきたい。マスターの行くところに俺も行きたい。あのひとが見るものを見たい。することを、俺も一緒にやりたい。
 でも、これってきっと、ワガママなんだろうな。俺がずっとマスターにくっついていたら、マスターきっと怒るだろうし。……うざい、なんて今まで何度言われたことか。はぁ。
 でもこんなことでくよくよしてなどいられない。少なくとも今までと違って、夕方過ぎになったらパソコンの中に戻らないといけない、なんてことはなくなったのだ。それに土曜日や日曜日やそれ以外の日なんかに、お父さんかお母さんが家にいるから出ちゃいけない、ということも。うん、それだけでもずいぶんな違いだ。それにまだ大学は始まっていないし、こっちにはマスターの友達もまだいない。ということは、俺がマスターを独り占めしているも同じこと。今のうちにいっぱいお手伝いをして、俺がいて良かったと思ってもらえるようにするんだ!

 そんなこんなで、引っ越しして二日目。今日はきっと特別な日になるだろう。なにしろ俺の服と生活道具を買うためという本格的なおでかけをするのだから。
 でも小次郎さんにとってはつまらない一日になるんじゃないだろうか。荷物がいっぱいになるだろうからと、彼はひとりでお留守番をさせられるのだ。来たばかりのところに一人だなんて、俺だったら寂しくてしょうがなくなっていると思う。小次郎さん可哀想。でも両手に荷物抱えながらケージを持ち歩くのは無理だってマスターが言うから、今日だけは我慢してね。
 外に出ると、人間と自転車と自動車に何度もすれ違った。だけど外を歩く時にどうすればいいのか、有り余る時間を使って予習していた俺にとっては何も難しいことはなかった。……実物と映像の違いに戸惑ったりは、しちゃったけれど。
 自動車がびゅんびゅん行き交っている道路を渡るときには、信号という俺とめーちゃんとレン君の色のついたものを見るということも覚えている。青は進めで、黄色は注意、赤は止まれだ。でも青信号って、青っていうけど、どっちかというと緑っぽいよね。俺というよりもミクの色だ。
 そして信号が青になったら横断歩道という白いしま模様のところを歩く。ほらね、ちゃんとできてるでしょう? そして実際にそれらがあるところでやってみたら、よく知ってたね、とマスターに褒められた。嬉しい。
 どんどん歩いていくと、景色はだんだん変わってゆく。人の数は増えて、道路も広くなっていった。俺はそれをちらちら眺めながら、マスターに遅れないように一生懸命ついていく。本当はもっとじっくり見たいのだけど、マスターがどこに向かっているのかまでは知らないので、うっかり置いて行かれたりしないよう、彼女から目を離さないようにしないと。
 駅に到着し、電車に乗る。自動改札というところに切符を入れるのは、ちょっとドキドキした。
 そして初めての電車はすごいスピードで俺たちを運んでく。反射的に窓にへばりつくと、恥ずかしいからやめろとマスターにひっぺがされた。ちえっ。
 降りる駅に到着すると、そこは家から近い駅よりももっと広い道にたくさんの人たちがいることがわかった。それに首が痛くなるほど見上げなければ天辺の見えない建物が建っている。こんなにたくさんの人が本当にいるなんて信じられない。どこから集まっているんだろう。それともあの大きな高い建物に住んでいるのかな。すごいなぁ。
「ぽかんと口開けて突っ立ってないでちゃんと歩いてよ。迷子になっても知らないからね」
 足を止めて周囲を眺めていると、数歩先に行っていたマスターが振り返る。
「うわ、はい」
 慌ててその後を追ったけれど、周囲にあるもの全てが珍しくて、俺はとても後ろ髪を引かれた。マスターを見失わないように歩くも、その速度はちょっと遅れがちになってしまう。あそこにあるのは何だろう? 何を売っているお店なのかな? あ、あのポスターの人、テレビで見たことがある。うわぁ、あのひと、俺の髪より派手な色してる!
 あっちをきょろり、こっちをきょろりとしているうちに、なんだか目の焦点が合わなくなってきて、周りの景色がぼやけてくる。がやがやした周囲の音がそれに拍車をかけ。俺は気分が悪くなってしまった。
 思わず足を止める。動くのをやめたはずなのに、ふらふらした。なにこれ。俺、壊れたの?
 マスター、と呼ぼうとしたけれど、からからに乾いた喉に声が張り付いてしまったようで、音が出ない。
 気持ち悪い。怖い。マスター助けて。
 でもマスターは気がつかずに人ごみを縫ってどんどん先に行ってしまった。俺があんまり遅いので、きっと怒ってしまったんだ。
 いやだ、マスター、置いていかないで。
 だけどついには足からも力が抜けてしまい、俺は立っていることができなくなってしまった。しゃがみこんで、膝に頭を埋める。このまま放っておかれたらどうしよう。住所はわかってるけど、俺はお金を持っていないから電車に乗れない。歩いて帰れるだろうか。それよりも、もう帰ってくるな、なんて思われていたら……と心細くて涙が出そうになった。
 その時――。
「カイト!?」
 頭の上からマスターの声がする。ああ良かった。見捨てられていなかったのだ、と俺は安堵した。
「どうしたのよ」
 ぐいっと顔をあげさせられ、マスターの顔が目に入った。困ったように、心配しているように、眉がひそめられている。
 いつだって、マスターに触れてもらえるのは嬉しい。身体がなければできないことなのだから。だけど今は嬉しさよりも体調の悪さの方が勝って、とてもではないけれど喜べる状況ではなかった。
 とりあえず道のど真ん中でしゃがむのは通行の邪魔だからと、俺は立ち上がらせられた。数歩歩いて、道の端に移動する。と、立ち上がった拍子に一気に景色が歪んで見えた。さっきまでは左右に揺れているという感じだったのに、今度は渦を巻いているよう。目を開けていられなくなり、俺は再びしゃがみこむ。
 マスターは俺がどんな風に具合が悪いのか色々聞いてきたけれど、俺はそれをうまく説明できなかった。声を出すのがきつい、ということもあるけれど、自分の身体に何が起きているのか全くわからなかったのだ。
 声を潜めてマスターが実体化をしていられなくなったのか、と聞いてきたときにはどきりとして慌てて自分の感覚を探ってみたけど、気分が悪いということ以外にこれといって変化はなし。だから大丈夫だとは思ったけれど、もし自覚がないまま消えてしまうようなことになったら困る。俺が、というよりもマスターの方が。荷物持ちをするどころか、俺が荷物になってしまっている。情けなくて申し訳なくて、俺は泣きたい気分になった。
 とにかく休めるところに行こうとマスターに立つよう促された。だけど目を開けると途端に世界がぐるぐる回ってしまうので、とても歩けない。
 そう泣き言を言うと、マスターは足だけ動かせと肩を貸してくれた。だけどマスターは女の子で、俺は男。それもすれ違った男の人たちを見る限り、俺は男の中でも割と背が高い方に分類されるようで、肩を借りるというよりは背中に覆い被さるという方が正しいような格好になってしまった。
 俺はきっと重たかっただろう。だけどマスターは何も言わずに俺を休憩できるところまで運んでくれた。大勢の人がいるところで文句を言うのが嫌だっただけかもしれないけれど、マスターに大事にされているように思えて、俺はその小さな背中にとても安心したのだった。
 連れて行かれた先は、カラオケ屋さん。歌を歌うためのお店だということを知らされて具合の悪いのなんてどこかへ吹き飛んでしまった。アイスたっぷりのパフェを食べて、歌を歌って、そのうえ次に調教してもらう曲も決まった。しかもその曲は男女パートに別れているから女性パートはマスターが歌ってくれることになった! まさかこんなことになるなんて、具合が悪くなったのはむしろラッキーだった、なんてマスターに言ったらまたバカって言われちゃうかな。でもいいや、本当に本当に、嬉しかったんだもの。
 午前中はカラオケ屋で過ごして終わり、今度こそ服を買うぞと行動再開した。
 十分も歩いただろうか、到着したのはやっぱり見上げるほど大きな建物で、そこは見た目俺やマスターと同じ年くらいの人たちがどんどん中に入っていった。俺たちもその中に混じる。
「とりあえず、順に見ていこうか。あたし男物の服ってよくわかんないから、気になるものを見つけたら気にせず見に行っていいよ」
 ちょっと顔をあげてマスターは言う。
「はい」
 しかし返事をしたものの、俺だってどんなものがいいのかさっぱりわからない。マスターが選んでくれれば何でもいい、と言ったらやっぱり嫌な顔をされるだろう。何しろ今着ている服だって何でもいいと言ってマスターが選んだものの、なんだか納得していないようなんだもの。もさいって。もさい、がどういう感じなのかはイマイチわからないけれど、あんまり似合っていないということなのはわかった。あ、ということは、自分に似合うものを探せばいいんだ。……でも、俺ってどういうのが似合うんだろう?
 早速男性向けの衣料のショップが見つかったので覗いてみる。どう? という感じにマスターは振り向いてきたので、手近にあったTシャツを手に取ってみた。それが気になったというわけではない。とにかく何か選んでるふりでもしないと、マスターががっかりするんじゃないかと思っただけなのだ。こんなにたくさんある中から選ぶなんて俺には無理だ。
 マスターはお店の中と俺を見比べて、俺のイメージとはちょっと合わないねと言って、出ようかと聞いてきた。ほっとして、俺は頷く。次の店も同じだった。
「なんかピンとこないねー」
 俺と同じくらいにはマスターも困っているようだった。このままじゃ時間ばかり過ぎて生活用品を買うこともできないんじゃないだろうか。そっちの方が大事だろうに。
 だから俺は思いきってマスターに聞いてみた。
「マスターはどういう系統が好きですか? 俺、本当に自分の好みとかないから、マスターが好きな服が着たいです」
 マスターは眉間にしわを寄せて、俺のシャツの袖を引っ張る。
「名前」
「え?」
 小声で答えられたので、俺は聞き返す。マスターは俺の腕を引っ張って耳を近づけさせると口を寄せた。
「外ではマスターって言わないでって、言ったでしょ?」
「あ」
 そうだった。すっかり忘れていた。それと敬語もできるだけ使わないようにしないといけないんだった。
「気をつけま……じゃなくて、る」
 意識した途端、どうしゃべっていいのか一瞬わからなくなったのをなんとか立て直す。
「それで、マ、 はどういう系統の服が好みなんで……なの?」
 つっかえながらも話を続ける。慣れないといつまでも覚えられないからね。だけどマスターのことを名前で呼ぶのもため口するのも、なんだかとっても恥ずかしい。
 マスターは少し苦笑しながらも、満足そうに頷いた。それからちょっと考えながら答える。
「好みっていうか、とにかくだらしないのと不潔なのは嫌いかな。それとホストみたいなのも嫌。それ以外ならスポーティなのでもシンプルなのでも、かっちり系でも多少派手なのでも大丈夫だと思う」
「そうで……そう。あ、じゃあ、あそことかどう、かな」
 通りかかったお店を指さす。白い内装に明るい雰囲気で店員さんの声も元気な感じ。それにシンプルっぽい服が多そうだった。
「ん、いいよ」
 並んでお店に入る。
 どういうのがいいんだろう。あの動かない人の形をしたもの――マネキンというのだとマスターがこっそり教えてくれた――みたいなのにすればいいのかな。
「これからもっと暖かくなるから、半袖の方がいいのかな。長袖は一応、これがあるし」
 着ているシャツを示す。このシャツ、マスターはあんまり気に入っていないようだけど、新しいのにもう着ないなんて勿体ないから今後も着るつもりだ。
「そうだね。でも着回しすること考えたら半袖と長袖が一枚ずつってのもね。別に今日中にそろえないといけないことはないけど、それぞれ二枚か三枚くらいはあったほうがいいね。それとパンツ……ズボンの方よ、それももう一本か二本はあった方がいいだろうし。あとは靴ね」
 マスターは指を折って数える。
「え、そんなに?」
 それって全部でいくらかかるの? ただでさえ一人暮らしを始めてお金がかかるっていうのに、俺の服なんかのためにそんなに使うなんて。
 俺の考えを読んだのか、マスターはわき腹を小突き、
「遠慮はなしよ。初期費用だって、こっちは割り切ってるんだから」
「でも」
「そりゃ、有名ブランド物で全身固められたらさすがにお金は足らないだろうけどね。大丈夫だって、バイト代が残ってるんだから」
 ばしんとマスターは背中を叩く。痛かったけれどそれが照れ隠しだと俺は気がついたので、思わず口元がゆるんでしまう。
 バイト代が残っているというのは、実際はちょっと違うのだ。卒業旅行代は結局お父さんが出してくれたので、マスターは一円も出していない。アルバイト代は不意の出費があるだろうから、その時に使いなさいってことになったからだけど、いかにも余った分を使うだけだ、なんて風に言うんだもの。マスターったら、可愛い。うん、俺のマスターはツンデレ属性持ちなんだよね、最近気がついたんだけど。……デレの部分がもうちょっと増えてくれると、もっといいんだけど。
「何にやにやしてるの? 真面目に考えてる?」
 マスターはちょっと睨むような目で俺を見上げた。
「考えてますよ」
 あ、口調が元にもどっちゃった。慌てて口を押さえる。
「まったく」
 うろんげな目付きでマスターはため息をつく。
「とりあえずそのシャツとパンツも、別の服と合わせれば似合わないってこともないかもだし、まず適当に試着とかしてみたら?」
 近くにあった大きな柄のある半袖Tシャツを取って、マスターは渡してくる。
「ほら、同じ柄の色違いのを着比べてみたら、この色が似合うとか似合わないとか、わかるじゃない。似合わなくても好きなものを着たいなら、それはそれでありだろうし」
「俺は と並んでてお似合いって言われるようなのがいいなぁ。でも、似合う色とかがあるんで……あるんだね。じゃ、それ、試着してくる」
 俺はマスターからTシャツを受け取ると、色違いのものも数枚手に取った。
「あんたって……」
 マスターが呟く。俺に話しかけたんだと思ってマスターを振り返るとなんだか顔を強ばらせていた。
「どうかしまし、じゃなくて、したの、
 俺、変なこと言っちゃったのかな。びくびくしながらマスターの出方を伺っていると、やがて大きく息を吐いて手をひらひらさせた。
「あー、何でもない何でもない。いいから、それ持って鏡のとこに行きなさいよ」
「はあ」
 何でもなくはないように見えるけど、何でもないって言ってるんだから何でもないんだろう。よくわかんないけど。
 俺は首を傾げながら鏡のあるところへ行く。ここで着替えていいのかな、ときょろきょろすると、マスターはTシャツを身体の前に当てて、似合いそうなものを最初に絞り込むのだ、と教えてくれた。
 焦げ茶色と水色と灰色あたりが良さそうだとそれを持って試着室へ。マスターが外で待っているし、店員さんもいてどうですか、とか聞いてくるから、焦ってしまう。
「中のお客様、すごい綺麗な髪をしていますねー。染めるとやっぱり痛みやすくなるものですけど、そんなことなさそうですし」
 マスターと店員さんが俺待ちの間に話し始める。カーテンで仕切られただけの試着室は、会話が筒抜けになるようだ。
「まあ、手触りはいいですねー。ただあの色でしょ、どういう服が似合うのか、わからないんですよ。あたしは男物には詳しくないし、本人も髪の色ほど服には拘らないから……。着てたのも、ちょっと変だったでしょ?」
 最後の方は自信なさそうな口調だった。
 店員さんはいえいえ、なんて言っていたけど困ったような調子に聞こえたので、やっぱり変だったのだろう。
「中の方はかなりお顔の色が白いので、そこに真っ白いシャツだと、なんというんですか、のっぺりするといいますか、ちょっとぼやけたような感じになってしまったんだと思いますよ。白なら真っ白じゃなくて、生成り系とか、ちょっと茶色が混じっているくらいのものだといいと思います」
「のっぺり……。ああ、確かにそんな感じ」
「真っ白のものでしたら、中に色柄もののTシャツですとか、タンクトップなんかを着まして、前のボタンを開けると気にならなくなると思いますよ」
「そっかぁ」
 盛り上がってるなぁ、なんてことを思いながら着替え終わった俺はカーテンを開けた。
 店員さんは――茶色の髪の男性だ。見た目は俺より何歳か上っぽい――よくお似合いですよ、と言ったけれど、マスターは微妙な顔で首を傾げている。
「カイト、シャツ羽織ってみて」
「はぁい」
 さっきの話は丸聞こえだったので、俺はのそのそと脱いだばかりのシャツを羽織った。
「あーなるほど。……ふうん。じゃあ、次」
 似合っているんだか似合っていないんだか、わかりませんマスター。とりあえず全部着てみればどれがいいか決めてくれるだろうと、俺は再びカーテンを閉めた。
「今気づきましたけど、目にカラコン入れてるんですね。青が好きなんですか? 気合い入ってますね」
 店員さんはちょっと驚いた口調になった。
「はは……。首から上しか気合いは入ってないですけどね」
 衣装だって気合入ってますよ。でもその格好では外に出ちゃ駄目だとマスターが言うからこうして苦労しているんじゃないですか。なんて文句は、もちろん言えるはずもない。
「当分あのままな感じですか?」
「多分そうかと」
「でしたらあの髪色に合わせた方がいいと思いますよ。黒に戻したりですとか、他の色に変えますと、やっぱり雰囲気は変わってきますからね」
「でしょうねぇ。なんか無難な格好しか思いつかないんですけど、ちょっとおしゃれな感じにするのはどうしたらいいですか?」
「そうですね、どういった系統のものがお好みかにもよりますけどジャケットが一枚あれば大分着回しができますよ。ちょっとおしゃれ、と言いましてもファーマルな感じですとか、カジュアルな感じですとか、色々ありますし。そういう場合でも中に着る物を変えますと色々変化がつけられますので」
「あ、ジャケットはいいな。探してみようかな」
「よろしければお勧めのものをお持ちしますけれど。せっかくですので、試着されてみては」
「じゃあ、お願いします」
 マスター、流されてません? と思いつつ再度カーテンを開ける。ジャケットを探しに行ったので店員さんはいなかった。色はさっきの方がいいかなとか呟きながら、マスターは俺をくるりと回らせた。そしてまた着替える。
「お待たせいたしましたー。こちらなんですけど、お色の好みがあると思いましたので、ちょっと色々持ってきてしまいましたけど……」
「どうもー。カイト、着替え終わった?」
「あと少しー」
 そしてカーテンを開ける。と、ジャケットを渡された。濃い青と黒に近い灰色と明るい灰色の三種類。
 それを順繰りに羽織って、マスターと店員さんが決めるのを待つ。
「うーん……。この黒っぽいのが一番いいかな。ネイビーって、意外にカイトには似合わないんだね。高校生に見える」
 この青色、ネイビーって言うんだ。青がイメージカラーの俺に青が似合わないとか、ちょっとショックかもしれない。でも高校生かぁ……。マスターとおそろい、と一瞬思ったけど、マスターはもう高校生じゃないからおそろいにはならないや。
「髪が黒や茶色ならお似合いになると思いますよ。ただ、今は青いですからね。全身赤や黄色が悪目立ちするように、青も、まあ、さわやかな色ではあるんですが、使いすぎると変に目についてしまう、ということはあると思います。差し色で使うくらいがまとまりもでて良いんじゃないかと」
 マスターの批評に店員さんはすかさずフォロー(?)を入れてくる。マスターはそれに頷きながらも俺の方に手を伸ばしてきた。
「にしてもカイト、頭ばさばさじゃない。少しくらい整えなよ」
 頭を強引に下げさせ、何度も脱ぎ着したせいで乱れた髪をわしわししてくる。うわ、うわ、なにコレ。見せ付けてるの? けしからんです、もっとやってください!
 しかし店員さんは華麗にスルーした。
「あ、このジャケットにでしたら、ムースやワックスを使って後ろに流しながら整えると、引き締まった印象になると思いますよ」
「あー、そういうのもいるかぁ。カイトって結構前髪長いもんね」
 わかるようなわからないな会話をして、いつの間にかこのジャケットも買うことが決定して、他にも半袖Tシャツ二枚と長袖のTシャツとストライプのボタンダウンシャツ、それとチノパンツをそれぞれ一枚ずつ買うことになったのだが、とっかえひっかえ、何度も着替えをしたので、終わった頃にはもう俺はへとへとだった。
 会計後、ジャケットと長袖シャツに着替えてほしいとマスターに言われたので、試着室に逆戻り。脱いだシャツは買ったものと一緒に袋に入れてもらった。
 だけどまだ終わりではない。続いて靴屋を探す。今履いているスニーカーは、マスター曰く「悪くはない」そうだけど、実はちょっと大きいのだ。だからサイズが合うものを選ぶのが目的だ。色々な靴を履いてはきつくはないか、つま先やかかとを押したりする。だけど問題はサイズよりも、紐の方だった。
 お店にあるのは紐がついているものが多い。試し履きをしたのもほとんどがそうだ。だけど俺はリボン結びができなかったのだ。元々履いていたスニーカーにも、今履いているものにも紐がついていなかったので、気がつかなかった。
 ということを申告すると、マスターは一瞬遠い目になったものの、苦笑して、すぐに慣れるよと言ってくれた。最終的に決まったのも、やっぱり紐のあるスニーカーで、会計後、これまたすぐ履き変えた。サイズの合わない靴を履いていたとはいえ、小さいのではなく大きかったのだから足が痛いということはなかったけれど、すっぽ抜けそうにならなくなったので大分歩きやすくなったと思う。
 服関係はこれくらいでいいだろう、と建物を出るべく出口に向かった。最初に入ったところに戻るよりも反対側の出口の方が近いからと、そっちへ行く。ここはあんまり生活用品は売っていないので、別のところへ行くのだ。洋服の入ったビニールバックをぶらぶらさせながら歩いていると、ふいにマスターが足を止める。と、小走りで脇のお店に入っていった。
「カイト、カイト」
 にこにこしながら手招きしてくるので、俺は買った服と脱いだ靴の入っている袋を抱えながらマスターのところへ向かう。
「なんか物足りないと思ってたのよね」
 手にしていたのは青いストールだ。それを俺の首の近くに当てる。
「うん、普段でも使えそうな感じだね。やっぱ首のところに何もないと、カイトって気がしないもん」
 自分では見えなかったので、鏡のあるところに移動する。いつもしているマフラーより柔らかくて薄いし、短いけれど今の格好になら合う、と思う。マスターがひょいと鏡を覗いてきた。朝とはちょっと違う格好になった俺とマスターが映る。その後ろをカップルらしき人たちが通りすぎていった。
 俺とマスターも恋人同士に見えるのかな。
 ふいにそんなことを考えてしまい、顔が赤くなってしまう。
「あ、これつけると暑い?」
 空調結構効いてるもんね、と言いながらマスターはストールを外そうと手を伸ばす。
「いえ、暑くはないです。それよりもこれ、俺に似合うと思いますか?」
「うん、思う。……口調が元に戻ってきてるけど、そろそろギブアップ?」
 頷きながら、マスターはにやにやした。
「急がなくっていいんでしょう? 何か言うにも気を張っちゃって、舌を噛みそうになるから、今日はもうやめます」
 意地悪を言われたように感じて膨れると、マスターはなだめるように背中を軽く叩く。叩くといっても優しい、愛情が感じられるものだった。怒りの蹴りや拳を何度も体験している俺だからこそ、その違いもちゃんとわかるのだ。
「はいはい。それでいいよ。でも名前呼びだけはそのままだからね」
「わかっています、
 
 建物を出る俺の首元には、ひらひらと揺らめく新しいストール。
 俺と の新しい生活、そのためのお買い物は、まだまだ終わらない。





マスターはツンデレとはちょっと違う……と思うのだが、カイトが勝手に思い込む分にはマスターも気づきようがないからな。
それにしても現代の男性服はよーわからん。19世紀の方が経済力とか身分とかである程度固定されるからまだなんとかなる、ということを嫌というほど思い知った。




前へ  目次  次へ