生活が一変するというのは、なかなか労力がいるものだ。
 あたしが引っ越しをしたのはこれで二度目だけど、最初の引っ越しは小学生の頃だったので、あたしがやったことは自分の部屋の荷物を整理することだけだった。それに引っ越し先も、賃貸マンションから分譲マンションに変わっただけで、大きく生活圏が変わったわけではなかったし。
 でも今回は違う。色々と自分から動かなくてはならないのだ。
 すでに終わったけれど、ガスや電気水道の手続きとか、そうそう関わりになることもないとは思うが困った時に必要な場所、病院とか警察とかの場所を把握しておくとか、もっとも重要な、生活必需品をどこで調達するか、とか。
 昨日は一日かけて、カイトの服とキッチンとバス用品などを購入してきた。午前中にちょっとしたアクシンデントがあったせいで、家に帰り着いたのは九時を過ぎてしまった。当然、夕食は外で食べてきたのだが、これもカイトにとっては初めての経験だったので、肩肘の張らないところにしてみた。まあ、簡単にいえば、ただのファミレスなのだが。あたしも疲れていたから、おいしいお店を探すのが面倒だったということもあったし。
 そして帰宅後、あたしはシャワーを浴びてそのまま就寝。荷物の整理は起きたらやろうと思っていたけれど、目が覚めた翌朝、すでにカイトが終わらせていた。人間のような睡眠は彼には必要ないらしい。休まなくても眠いという感覚は起きないそうだ。なので、暇つぶしにやってしまったということだ。余計なことをしたかもしれないという不安げな顔で報告されたが、片づけをしてもらえて不快になるわけもない。そう答えると、カイトは安心したような笑みを浮かべた。
 片づけをしたあとは、その残骸が出てくるものである。要するに、ゴミだ。
 引っ越しそのものに関するゴミは多分少ない方ではないかと思うが――荷物は段ボールではなく、引っ越し屋さんが用意した反復資材を使ったからだ――それでもそれなりに出てきてしまうもので、ちょうど回収日だからとそれを捨てに行きがてら、朝食を買いにコンビニへ出かける。
 食後の一休みをしてからすることは、掃除だ。昨日はなにもしないで買い物に行ったし、引っ越しのごたごたもあったから、結構埃が溜まってる。
 あたしとしては掃除は、床みたいな広さのあるところとお風呂以外は毎日やらなくてもいいとは思っているのだけど、カイトがいるのだからその他の細かいところも任せてしまうつもりでいた。一通り、掃除の手順を教えながら同時にやってみせる。実家にいた頃にも二度ほど掃除機を使わせたことがあるので、特に問題はなかった。
 だがお風呂場とトイレだけは掃除をしなかったのでカイトは疑問に思ったらしく、どうしてそっちはやらないのかと尋ねてきた。
「まだ洗剤買ってないもの。スーパーに行った時についでに買うつもりだったから」
「そうでしたか。では後でやり方を教えてくださいね」
 掃除機を片づけながら、にこやかにカイトは言う。
「うん、まあ、別に難しいものでもないし、それはいいんだけど……。えーと、とりあえず、お風呂はともかく、トイレの掃除はあたしがやるから、カイトはやらなくていいよ」
「どうしてそこだけ?」
 カイトはきょとんとする。
「……だって、そこ使うの、あたしだけだし」
 あたしは思わず口ごもった。カイトは排泄行為をしないようだから――トイレに行かないなんて、一昔前のアイドル都市伝説のようだ――気が引ける。
 あたしの答えにカイトはさわやかな笑顔で答えた。
「そんなの、気にしなくていいのに。俺、やりますよ。大丈夫、ちゃんと綺麗にしますから」
「カイトが気にしなくてもあたしが気になるから、いい」
 頬をひくつかせながら答えるも、カイトは釈然としない様子で軽く首を傾ける。
「そう、ですか? マスターはよくわからないところで繊細ですねぇ」
 いや、どっちかと言うと、カイトがデリカシーというものを理解していないだけだと思うのだが……。あたしも、どうにかしてたたき込もうとはしているのだけど、生憎とそれは、いまだしっかりとした実をつけてはいないのだった。
 掃除が終わると今度は買い物だ。歩いていける範囲には大小含め三軒ほどのスーパーがある。どこを中心に使うのかはそれぞれに行ってから決めるけど、最初はとりあえず、一番規模が大きそうなところに向かうことにした。
 いつもの白と青のロングコートから外出着に着替えたカイトと一緒にでかける。
 スーパーは小次郎の散歩コースに組み込まれた公園を突っ切るのが近道だったので、そこを通った。その公園は子供向けの遊具がちょっと置いているようなものではなく、なかなか規模が大きいものだった。芝が敷き詰められているところもあり、焦げ茶色のベンチがところどころにおいてあった。小さな噴水とそこからつながる池もあって、池では鯉らしき魚が泳いでいる。
 近隣住民の憩いの場であるらしきこの公園では、朝夕にはジョギングやウォーキングをする老若男女や、あたしたちみたいに犬の散歩をする人でなかなかにぎわっている。なお、今はまた買い物の荷物が結構な量になるだろうからと、小次郎は連れてきていない。散歩には夕方になったら行くつもりだ。
 十五分ほどでスーパーへ到着。
 平日の午前中ということもあって、規模の割にはお客さんの数は少なく感じた。入り口近くに靴やバッグを修理したり鍵の複製ができる店があったので、せっかくだからと家の鍵を作ってもらうことにする。
 カートを押して中へ入る。
「えっと、まず、どこから行くんですか?」
 自分が押したいと立候補してきたカイトにカートを預けると、あたしは買いものメモを取り出す。
「んー、じゃあ、雑貨関係から行こうか」
 あたしたちは洗剤やなんかが並ぶ棚に向かう。
 トイレ用、お風呂用、台所用、洗濯用の洗剤に、ラップやアルミホイル、クッキングシートなどを次々放り込んだ。それから歯ブラシやコップ、歯磨き粉なども。今朝までは旅行用の小さい奴を使ってたけど、やっぱりちゃんとしたものがないとね。
「ねえ、マ…… 。俺も歯磨きした方がいいのかな」
 ざらざらと並んでいる衛生用品を眺めながらカイトは呟く。
「アイスばっか食べて虫歯になられても困るしね。でもカイトって虫歯にならないんじゃない?」
 カイトは怪我してもPCに戻ればすぐに傷は消えてしまう。昨年の盆時期、両親が祖父母の家に帰省したのをいいことにあたしはカイトに簡単な料理を教えたわけだが、包丁未経験のカイトは案の定というか、指先を切ったのだ。切ったといっても小さなものだけど、その切り口からは人間と同じ、赤い液体が滲んできた。あたしの目算では数日は跡が残るだろうと思ったのだが、夜にPCに戻り、翌朝出てきたら、もうその傷はなくなっていた。
 ということから考えると、カイトはPCに戻れば外部で受けた不具合を解消できるのではないかと思うのだ。すごく大きな傷とかなら、わかんないけど。
「うーん、でもなるかもしれないし、なってからだと遅いですよね」
 白と青のグリップがついた歯ブラシをいじりながら、カイトはうなった。
「まあ、やって悪いということもないんだから、欲しかったら買うよ」
「えっと、じゃあ買います」
 カイトは歯ブラシと近くにあったプラスチックのコップをカゴに入れる。この分では歯磨き粉は兼用か。まあいいけど……いいけど、なんというか、一気に同棲色が強くなったような気がする。
(いやいや、同棲じゃなくてルームシェア、同居だってば)
「どうかしましたか、 ?」
 心の中で何度も言い聞かせていると、カイトが背をかがめて覗き込んでくる。
「……なんでもない」
「でも、お顔が怖いです」
「なんでもないって言ってるでしょ!」
「す、すみません!」
 カイトはびくりと肩を振るわせた。これは八つ当たりだ、わかってる。でも顔が怖くて悪かったね!
 雑貨売り場を出たところには時期が時期だからか、特設売場が設けられていた。並んでいるのは新生活向けの商品だ。皿やお茶碗などの食器類や小さめの鍋やフライパン。でもこのあたりは昨日買ったのであたしには必要はないのだ。あ、でもお弁当箱かあ。あった方がいいのかな。でも、作ってる時間などあるだろうか。まあ、いいや。欲しくなったらその時に買えば。
 それから食品売り場に行き、基本的な調味料関係、醤油に塩に砂糖などをかごに入れる。味噌は、あたしはあんまり味噌汁は飲まないので小さいものにした。ケチャップにソース、マヨネーズにめんつゆ。この辺はすぐに使うかどうかわからないけれど、最初にまとめて買った方がいざ使うというときに困らないだろうということでもう買っておくことにした。
 それからようやく食材だ。外食とコンビニ食が続いたあたしは、今とても野菜が食べたい。サラダとかじゃなく、煮たのでも炒めたのでもいいから、熱を加えたものをたっぷりとね。
 野菜をいくつかと、卵やハム、食パンなんかをカゴにいれ、続けて進んだ先にあったのは冷凍食品売り場。隣を歩くカイトの足が、ふいにぴたりを止まる。
「カイト?」
「あ、あれは……」
 カイトの目線の先にあるものは、アイスケース。
「アイスは一日一個までよ」
 先手を打って、あたしはぴしゃりと告げた。
「わ、わかってます。でもアイスがあんなにあるなんて……! マスター、今日の分と明日の分と明後日の分がほしいです! だって、コンビニにはないのもあるんだもん!」
 あるんだもんって……。口調がすっかりお子さまと化しているぞ。そして外ではあたしをマスター呼ばわりするな。
 しかしすっかりアイスに気を取られているカイトは、小声によるあたしの注意も耳に入っていないらしく、うきうきとカートを押してケースの前まで行ってしまった。ああ、顔がはげしくにやけている。見た目は二十を越えている男が――それも髪が青なんていう若干ビジュアル系要素が入っているような男が――アイスの売り場前でにへにへしているなんて……ひどく残念な構図だった。
 アイス三つをかごに入れ、最後に米を一袋。これで買い物は終わりだ。
 それにしてもすごい量。お米と調味料関係はカイトに任せるにしても、あたしも相当重い思いをしないといけないようだ。
 帰り際、できあがった鍵のコピーを受け取ってスーパーをあとにする。
……。お米が重いです」
 カイトは早々に弱音を吐く。
「あたしも重い……。まあ、次からはお米はネットスーパー使おうか」
 あたしも食材と雑貨でパンパンのビニール袋を両手に持ちながらそう答えた。
「そうしてください」
 カイトは力なく返した。

 帰宅後、買ってきた諸々を片づける。
 ろくに物が入っていなかった冷蔵庫やキッチンの引き出しはにわかに生活臭を帯びていった。だんだんと、新しい生活が整いつつあると実感する。
 簡単な野菜料理とトーストという昼食を取る。久々のたっぷり野菜が嬉しい。かさはあるけど食べごたえのないサラダとかしか食べてなかったんだもん。
「カイト、片づけ、お願いね」
 食後のウーロン茶を飲みながら、あたしはゆったりした気持ちでカイトに『お願い』をする。あたしが食事をしている間じゅう、向かいでにこにこしながら眺めていたカイトはいいですよ、と従順に答えた。
 面倒なことはカイトに任せて、あたしはあたしの用を済ませてしまおう。ちゃっちゃとやれば、すぐ終わるんだからと、あたしはよしっと立ち上がる。
 部屋に戻って昨日と一昨日の服を持ってくる。ついでに昨日買ったカイトの服も持ってきた。今のところ、衣類を収納できるのは、あたしの寝室にある元押入といった感じのクローゼットだけ。それはいいんだけど、カイトは早起き、というか寝る必要がないのでカイトの服はリビングに置くようにしたい。だけど、とにかくそれは後回しだ。
 お風呂の脱衣所兼洗濯機置き場であたしは洗濯の準備をする。真新しい乾燥もできる洗濯機は新しく買った家電の中では一番値の張ったものだ。大事に使わないと。
「マスター、洗濯するんですか?」
 キッチンで洗い物をしていたはずのカイトは、なぜか慌てた様子で走ってくる。
「うん。二日やってないしね。あ、カイトのも洗うから。お店にあったものって、折り皺ついてたりするからね。誰が試着したかもわかんないんだし」
「はあ。いいですけど……。お洗濯するならするで、俺のこと呼んでくださいよ。そりゃあ、説明書は読んだので使い方はわかりますけど、色々とマスターのやりたいやり方とかがあったりするんでしょう?」
 近くにあったタオルで手を拭きながら文句を言った。
 あたしはそっとカイトから顔をそらす。やはり、言わなくてはだめか。
「洗濯もあたしがするから、カイトはやらなくていいのよ」
「なんでですか?」
 当然のようにカイトは聞き返してくる。
「……下着をあんたにいじられるのは、イヤ」
 はっきり言わないとカイトは勝手に気を回すだろうと、あたしは直球で答える。するとカイトは一瞬あっけにとられた顔になったかと思うと、気分を害したように鼻の頭にしわをよせた。
「マスターは俺をそんな風に思っていたんですか! ひどいです。いくら俺でもマスターの下着をかぶったりなんてしませんよ!」
「そこまでの心配をしてたわけじゃないけど、今のせりふを聞いて余計に不安になったわ」
 なにされるかわかったものじゃないから、金輪際、カイトは洗濯機と洗濯物には近づくんじゃない。
 そう告げるとカイトは慌てて弁明しだす。
「冗談です。本気にしないでください。ちょっとふざけてみただけなんです〜。マスター、怒らないでぇ〜〜」
「あんたの冗談は笑えないのよ」
 あたしは一語一語に力を込めて言った。
「ごめんなさいごめんなさい許してください。何度でも謝りますから『お父さんとあたしの下着を一緒に洗わないで』とか言わないでください〜」
「あんたはあたしのお父さんじゃないでしょーが!」
 この期に及んでフザケるんじゃない!
「もう、いいからあっちに行ってよ!」
「マスター!」
 半泣きでひっついてこようとするカイトをあたしは振り払う。
「食器の後かたづけ、ちゃんとやっておいてよね!」
 それから脱衣所から追い出すと、鼻先でドアを閉めた。
「もー。あのバカはー」
 ぶつぶついいながら洗濯物を放り込み、洗剤と柔軟材を入れてスイッチオン。終わったら手洗いしないといけないものを洗面所にぬるま湯をためて洗う。
 下着は乾燥機にかけられないので、お風呂場で干す。場所が場所だ、カイトに見られる可能性はかなり高い……というか確実に見られるだろう。しかし、他に場所はない。外に干すよりはマシだと思おう。それに……多分実家にいた頃にすでに見られていると思うのよね。カイトはずっとうちにいたんだもの。……はぁ。

 午後はまどろみのうちに過ぎてゆく。あたしはのんびりと洗濯が終わるのを待っていた。
 この部屋にはベランダはなく、窓の外にちょっとした張り出しがあるだけなのだ。洗濯物を干すにはちょっと力不足な印象。そういうこともあって、乾燥機付きの洗濯機を買ってもらえたのだけどね。
 前日の疲れと午前中の慌ただしさから解放されて、あたしはソファでうとうととしていた。
 窓からは春の日差しが優しく降り注いでいる。小次郎がちょこまかと歩き、時折あたしにひやりとした鼻を押しつけてきた。半分目を閉じたまま、あたしは小さな頭をなでる。
 ふと重たい瞼をあげると、目に入るのは広い背中。カイトがPCを使っているのだ。明日明後日の献立を決めておいてねと頼んだので何にするか考えているのだろう。人と違ってカイトはPCを操作するためにキーボードやマウスを使う必要はない。両手はぶらりとおろされたままだ。しかしその姿勢は以前よりずっとくつろいだもので。
(前は膝の上に手を乗せておぎょーぎよく固まってたもんねぇ)
 ふいに思い出したらおかしくなり、あたしは声に出して笑ってしまった。でも半分寝ぼけていたようなものなので、その声は変に押し殺したようなものになる。
「マスター?」
 カイトがひょいと振り返ってくる。
「んー?」
 あたしは薄目を開けたまま返事ともいえない返事をした。
「なんだ、起きてたんですか。また寝言を言ってるのかと思いましたよ」
 ふふっとカイトは笑う。
「え、あたしって、寝言言うの?」
 自分の知らない自分のことを告げられて、思わず目が覚める。がばっと起きあがると、カイトは驚いたように目をぱちぱちとさせた。
「にしても、何でそんなこと知ってるのよ」
「電源を落としていても、外の音は聞こえますから」
 カイトは何を当たり前のことを聞くのだというように答える。
 そういえばそうだった。
「えー。でもそうかー。あたし、寝言言うんだ。どういうこと言ってた?」
 変なことのたまってたら嫌だなぁ。
「そんなにしょっちゅうってわけではないですし、ほとんど何を言ってるかわからないようなことばかりですから。あ、でも一度だけすごくはっきりしゃべってたことがありましたよ。結構前でしたけど。確か、『でんしんばしらがもげら』って」
 もげらって何だ。そして『でんしんばしら』って電信柱のことなのだろうか。意味がわからない。
「……どんな夢を見てたんだろう、あたし」
 いつの話だ? まるで記憶にないぞ。
 カイトは肩を揺すって笑う。
「あんまりはっきり言ってるので、マスター、起きてるのかと思ったんですよ。でも電信柱なんて家の中にはないでしょう? 何が起きたのかってすごくドキドキしてしまいました。その後ずっと静かだったから、寝言なのかなって思ったんですけどね」
 ひとしきり笑い終わると、カイトはあーあ、とため息をつきながら肩を落とす。
「でもあのラブラブな日々はもう帰ってこないんですね……。毎日同じ部屋で寝起きを共にしていたのに、うう……」
「別にラブラブだったから同じ部屋にいたわけじゃないでしょうが」
 あっさりとカイトの戯言を受け流すと、カイトはううう〜とわざとらしく泣き出した。
 PCをリビングに配置したことで、ようやくあたしは自分のプライベート空間を確保できたわけなのだが、それがカイトにとっては不本意なようなのだ。一応、部屋を別々にした意図は理解しているようではあるのだが、理性と感情は別だとでも言いたげに、とても不満そうであった。
 カイトは恨めしげに目をあげ、あたしを見つめる。
「ああ、これから数時間もしたらまた長い長い夜が来るんですね。マスターも小次郎さんも寝ちゃってるし、ずっとテレビとかネット見てても飽きるし。前だって退屈だったけど、マスターの寝息が聞こえるから、ああ俺は一人じゃないんだって思えたのに。一人で過ごす夜がどれだけ寂しいかわかりますか? 一度経験してみるといいんですよ。そしたら俺の気持ちがわかるでしょうから」
「そんな風に言ったって、あたしの部屋にいれるつもりはないからね」
 それじゃあなんのために部屋を分けたのか、わからないじゃないか。カイトはぶう、と膨れる。
「マスターの意地悪」
「カイトのアホ」
 ざっくり切り返すと、カイトは乙女チックに拳を口元にあて、マスターひどい! と叫んだ。
 ちょうどその時、乾燥が終わったというアラームが鳴ったので、目が覚めたのも幸いとあたしは脱衣所へ向かう。
(カイトのあれって、どこまで天然なのかなぁ)
 会話の内容が微妙に怪しげな方向へ向かっていたことに、あいつは気づいていたのだろうか。
 ラブラブだの、一緒の部屋だの、パンツかぶるのかぶらないの、小学生が好きな女の子にちょっかいだしているようじゃないか。そういや、キスされたこともあったっけ。びっくりして、思わず殴っちゃったけど。
(いや、でも、違うか)
 好かれて嫌な気はしないが、カイトのあれは、女子としてあたしが好きだということじゃなくて、マスターに構ってもらいたくてバカをやってという感じだろう。最近ではあたしもすっかり忘れがちになっているけれど、カイトはあたしが好きで、あたしに会いたくて出てきたわけじゃない。最初のマスターに見捨てられたと思っていたところに、あたしがたまたまインストールしたものだから、また最初のマスターに使ってもらえるものだと勘違いして出てきてしまったのだ。
 カイトが会いたかったのは最初のマスター。
 あたしじゃない。
 あの笑顔も優しさも、本当はあたしに向けられていたものではないんだ。
 だから、勘違いしちゃ、いけない。

 高校生でも大学生でもない、宙ぶらりんな時期は瞬く間に過ぎ、いよいよ明日は入学式だ。
 とはいえ、式に着ていくスーツなどはとっくに準備は終わっているので、特にすることはない。
 この日、あたしたちはまた電車に乗っての買い物にでかけた。最初の買い物の日には思いつかなかったけれど、こういうものもあった方がいい、というものがちょこちょこあったからだ。
 一番大きな買い物は、カイトの服を入れるためのケースだ。やっぱりそれぞれが寝起きするところに保管しておいた方が便利であるという結論が出た。
 このころではカイトは、朝にPCから出てきたら例のコートから普通の服に着替えて待っているようになったのだ。あたしも早めに起きたら小次郎を散歩に連れていったりするので、いつ外に出ても、あるいは来客――これは今のところセールス関係しかないが――があってもいいようにするために。
 でも一番の問題は、あたしが寝ている時に着替えを取りにこられると、ごそごそとうるさいということだ。それに、あたしが着替えようとしていたところに、まだ寝ているものと思っていたカイトがノックもなしにそーっとドアを開けてきたということもあった。このままではいつか同居コメディマンガよろしく、あたしがほぼ裸の状態の時に開けらてしまう日が来るだろう、ということでカイトの服はリビングに置くことにしたのだ。そしてそれはカイトにとっても便利なことだと思っている。
 それというのもカイトは夜になればPCに戻るのだが――戻らないと体力が尽きるとかいうことではないようだが。カイトのこの行動はひとえに、誰も相手してくれるひとがいないのしょうがないから戻る、ということにすぎない――普通の服はPCに吸い込まれたりはしない。となるとカイトがPCに戻ると、戻ろうとした体勢そのままの形で服が放置される、という状態になるのだそうだ。カイトがPCに戻るのはあたしが自室に戻ったあとなので、実際に見たことはないのだが……。脱ぎ散らかしたままというのもみっともないので、二度目からは全部脱いで畳んでからPCに戻っているらしい。想像するだに、間抜けな光景である。
 そしてケースとその他もろもろの細かい買い物を済ませる。それから休憩をしたのだけど、あたしはまだカイトがアイスを食べている最中に化粧室に行くという口実で席を外した。しかしカイトと一緒に行動すると、この手の休憩場所は高確率でアイス屋になるのは考え物だと思う
 テナントのアイス店を出ると、あたしはエレベーターに飛び乗った。目的地は数階上にある食器店。あたしのものを一式購入したところだ。シンプルだけど可愛いものが多いそのお店で箸と茶碗を買う。
 カイトは食事も必要ないので、普段は一切ものを食べない。例外なのは、一日一度のアイスだけだ。
 だけど、エネルギー源としての食事が必要ないだけであって、ものを食べられるかどうかという点だけ見るなら、それは十分可能なのだ。なにしろ毎日アイスを食べてるわけだし。それに料理を作るときには味見もする。
 自分が食べているところをにこにこと見られるだけ、というのはとても落ち着かないものだ。アイスを食べていたって、食事に比べれば随分早く食べ終わっちゃうし。
 何度か一緒に食べないかと誘ってはみたものの、食事は必要ないのに食費をかけるなんて意味ないですよ、なんてすかした返事をされるだけ。
 食費がかかるなんてわかってる。でもあたしは納得いかないのだ。そこにいるならついでに食べなさいよ! なんて反発心が起きてしまう。それに、自分が食事をしているのに、その向かいにいる相手が何も食べないなんて気が引けるのだ。まるでネグレクトをしているみたいで。
 ここにカイトを連れてきたら、またする必要のない遠慮をするだろう。だからここはマスター権限で勝手に買うことにした。
 今日の夕飯は家で作れそうだし、そしたらこの茶碗にご飯をてんこ盛りにしてだしてやろう。その時のカイトの表情はきっと見物に違いない。
 あたしは買った物を鞄の底に隠し入れ、意気揚々とカイトの待つアイス屋へ戻ったのだった。





洗濯をめぐる口げんかの後は、なし崩し的に仲直りした模様です(いちいち怒りを持続させていられないから/笑)



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