今日はマスターの入学式。彼女は昨日までとは打って変わって早起きして、もうご飯も食べ終わり、洗面所にこもっている。
 入学式にはお母さんも来るのだそうだ。だけど仕事の関係でここに寄る時間はないそうで、現地で合流する手はずになっているのだそうで。だけど帰りに休憩しにここに来るかもしれないから、メールのチェックはしておくようにマスターに言われている。
 俺はパソコンの電源が落ちている状態でも、検索かけたりメールを書いたりするくらいならできるんだよね。できないのは出入りすることと、負荷の高い作業をすることくらいだ。
 お母さんが来ると確定したら、とりあえず、目に付く俺の私物を隠しておくよう言われている。でもどこに隠そう。マスターのクローゼットはもう一杯だし……。うーん、俺の衣装ケースかな。そんなに大きいものでもないからあんまり余裕もないんだけど。だけどぱっと見てマスターのものじゃないとわかるのなんて、実はそんなにないんじゃないかと思うんだ。共有しているものが多いから、使う頻度が俺の方が高いものでも、知らない人なら俺のだってわからないと思うし。けどやっぱり、衣装ケースも隠さないといけないのかなぁ。見た目はただの衣装ケースだし、中身が透けて見えるということもないけど、中に入っているのは全部俺の服だから開けられたら一発でアウトだ。リビングじゃなくてマスターの部屋に移動させたら、マスターのものだと思ってくれるだろうか。どうなんだろう。
(それにしても、今日は随分長いなぁ)
 朝ご飯の片づけが終わっても、マスターは出てこない。何しているんだろう。何か困ったことが起きて出てこれないのかな、と思っていると、洗面所のドアが開いた。
 細身の黒いパンツスーツに身を包んだマスターが出てくる。俺はそれをぽかんと見つめた。
「マスター、お顔が変わっています」
 マスターは俺と目が合うや、頬をひくりと強張らせる。ピンクがかった赤い唇は、笑みではない感情で半開きになった。
「……それは化粧が濃いって意味?」
「ち、違います、違います! なんか別人みたいだったからびっくりして!」
「だから、それが塗りたくりすぎてるってことなんでしょ」
 マスターはいつもより長いまつげをやや伏せて半目になる。まぶたの縁もやっぱりいつもより黒いので、なんというかちょっと、怖い。いや、でも塗りすぎとかそういうことじゃなくて! 俺だって女の人が化粧することくらい知ってるし!
「初めて見たからちょっと驚いただけですって。でも本当にどうしたんですか? 今まで全然してなかったのに」
「今までだって紫外線対策とかでクリームくらいは塗ってたもん。まあ、これはお母さんから入学祝いを兼ねてそろそろ必要でしょって、一式もらってたものだけど。せっかく入学式だしね。気合い入れようかと」
「そうだったんですか。もしかして、お母さんの会社の商品なんですか?」
 お母さんは化粧品とかを作ってる会社の研究部門に勤めているのだ。
「うん、そう。さすがに立場上、自社製品押し退けて他社製を勧めるものでもないだろうしね。肌に合わないとかがあれば別だろうけど、そういうこともなかったし。にしても慣れないから時間がかかって仕方ないよ。一応、買いに行ったときに一通り使い方を教わってきたけど……」
 それでなかなかでてこなかったんですね。
 それにしても、女の人は化粧で別人になるって本当なんだなぁ。元々顔立ちが悪いなんてことは全然ない人だけど、瞼とか唇とかに普段にはない色がついてて、華やかな感じになってるし。目元とかきりっとしてて格好いい。髪の毛も普段よりつやつやしているみたいだ。なんだか良い匂いもしてるし……。あれ、なんかドキドキしてきた。
「ちょっと、びっくりしましたけど」
「気に入らないのはよーくわかったから、連呼しないで」
 むっとしたようにマスターは腕を組む。
「気に入らないなんてことはありません。似合ってます!」
 俺は慌てて否定した。
「お世辞はいいから」
「お世辞じゃないです。本当に綺麗です。本当です、本当なんですー!」
 もっとうまい言い方が思いつけばいいのに、生憎と俺の経験値不足の頭はマスターを褒めるための言葉を見つけてはくれなかった。
「あーはいはい。わかったわかった」
 マスターは呆れたようにひらひらと手を振ると、俺を押し退けてリビングに向かおうとする。でもせっかくの記念の日にマスターを不快な気分にさせたまま送り出すなんてしたくなかったので、とっさに二の腕をつかんだ。
「あの、マスター、すみません。うまく言えなくて……。でも俺、化粧してるマスターもしてないマスターも好きですから」
「あっそう」
 マスターはどうでも良さそうな顔でどうでも良さそうに返事をする。
「化粧してないときは可愛いし、今はすっごく綺麗で格好いいです。五歳くらい年上に見えますね。頼りがいがありそうで心強いです!」
「老けて見えて悪かったね!」
「痛っー!」
 げし、とマスターは俺のすねを蹴っとばすとぷんぷん怒りながらリビングに行ってしまった。 
 うう、何が悪かったんだろう……。

 それから三週間が過ぎた。
 マスターが学校に通うようになって、俺の日々の生活サイクルも変わった。朝は早めにパソコンから出てきて朝食を作り、マスターを送り出したあとは掃除だ。一人で外に出るのはまだちょっと不安だけど、五十メートルくらいしか離れていないので、ゴミを出しに行くのも俺の役目。
 小次郎さんのお世話は基本的にマスターがするので、俺は小次郎さんが俺と遊びたがっている時にお相手することと、お散歩につきそうくらいだ。たまーに、粗相するときもあって、それの片づけもするけど、でも本当にたまにだからね。大変ということはない。
 買い物に行くのはマスターが帰ってきてから。でも毎日行くわけじゃない。なので、夕ご飯作りをするまでの時間は結構ある。
 これまでの俺だったら、マスター早く帰ってこないかなぁと思いながら退屈な時間を過ごしていただろう。課題はあったし、覚えないとマスターのお役に立てないのだからとちゃんとやっていたけれど、特に面白いわけじゃなかったし。
 でも今の俺は、自分でこれは俺も覚えた方がいいなと思うものを探して実行するということをしているのだ。お父さんやお母さんという、見つかってはいけない人たちがいないということももちろんあるけど、俺が自分から覚えたことをマスターが気がついてくれて――自分から言うなんてことはあんまりしません。褒めてって、ねだってるみたいだもの。そりゃあ褒められるのは嬉しいけど――すごいねって言ってもらえることが、最近の密かな楽しみだったりするから。
 そして俺が今一番力を入れているのが料理だ。
 考えるまでもなく、俺が任されている役目の中で一番重要なもの。マスターの健康が俺の手に託されていると言っても過言じゃない。マスターが病気になってしまったら、マスターは苦しい思いをしてしまうし、俺もすっごく心配になるし、歌を教えてもらえないしで悪いことにしかならない。だからそんなことになっては困るのだ。
 俺はまだあまりレシピも知らないし、要領も良くないので、日々レシピサイトで簡単でおいしくて栄養があるレシピを探したり、料理動画を見て技術の向上に努めている。先日は微塵切りをマスターした。これと千切りについては、実はもう俺の方がマスターよりも上手だったりする。なにしろ前のお家ではフードプロセッサーを使っていたので、マスターは自力でやるということがほとんどなかったから……。でもこのお家にはフードプロセッサーがないので、包丁使ってやるしかないんですよね。今度は桂向きに挑戦してみようかな、なんて思ってる。
 そんな、順調ともいえる生活が続いた、四月の下旬のこと。メニューの相談をしようとマスターに話しかけたら、何か思い出したような顔になった。
「そういえば明後日に新歓コンパがあるのよ。帰りが遅くなるから夕飯はいらないわ」
「しんかんこんぱ?」
 俺は首をかしげる。
「歓迎会ってとこ? サークルの先輩たちとご飯食べたりするの」
「へえ……」
 いよいよ大学での人間関係もできてきたんだなぁ。ちょっと寂しいけど、たまのことなんだから、我慢しないといけない。それはわかっているけど……。
 それよりも、えーと、”しんかんこんぱ”か。どういうのだろう。検索かけてみよっと。
「……マスター」
 そこで出てきた結果はとんでもないものだった。俺の声は思わず硬くなる。
「なに?」
「どこでやるんですか?」
「どこって、なんで? まさかと思うけどついてくる気?」
「必要ならそうします。新歓コンパって、お酒いっぱい飲まされるんですよね? マスターはまだ二十歳過ぎてないですよ。お酒飲んじゃダメな年ですよ。こんなことお父さんが知ったらすごく心配しますよ」
「……あんたねぇ」
 マスターは深々とため息をついた。
「確かにそういうところもあるって聞くけど、あたしの入ったサークルは文化系で女子の方が多いの。雰囲気もゆるいし、そうそう一気飲みとかやらせるようなとこじゃないよ。先輩にも確認済み。ということで、そんな心配はない」
「そうなんですか?」
「そう。ま、つきあいもあるからコップ一杯くらいは飲むかもしれないけどね」
「だからお酒はー」
「うるさい。通過儀礼みたいなもんよ。やりたくなくても一応やっとかないといけないものが世の中にはあるの」
「やりたいわけじゃないんですか?」
 それなら、マスターも大変なんだから、俺も我慢できる……と思ったけど。
「いやそんなことないけど。楽しいって聞くし、あたしは期待してるよ」
 あっけらかんと答えられた。はぁ。
「わかりました。それで、遅くなるって、何時頃ですか?」
「うーん、とりあえず最初は九時頃には終わるらしいけど……」
「最初はって。二次会とかいうのにも出る気ですか?」
「それはその時のノリだな」
 マスターは気楽な調子でそう言った。
「あの、マスター。お父さんとの約束、覚えてます?」
「約束? なんかあったっけ?」
 これだもの。
 きょとんとするマスターに、頭が痛い思いがした。
「門限は八時だって、言っていたじゃないですか」
 するとマスターは顔をしかめる。
「やだ、あんたそれ本気にしてるわけ? 小学生じゃあるまいし……というか、小学生の頃なんて普通に八時過ぎに帰宅してたよ、あたしは。何を今更」
「でもそれは塾とかに通っていたからでしょう? 遊んで遅くなるのとは話が違いますよ」
「だからって、盛り上がってる途中に門限だからなんて理由で帰れるわけないじゃない。どこの箱入り娘だあたしは」
「わかってます。だから俺が迎えに行きます」
「は?」
 マスターはぱっちりと目を見開いた。
「終わるまでは仕方がないので待ちます。お邪魔はしません。でも二次会とかは、今回はやめてもらえませんか? お母さんだって、あんまり遅いと心配するでしょうし」
「お母さんがこの手のことで心配するとは思えないな。それに、こんなこといちいち報告なんてしないし」
「わかんないじゃないですか、そんなこと。どこかでバレるかもしれないですよ。とにかく、迎えに行きますから、場所を教えてください。時間は九時でいいんですか? はっきりしたことがまだわからないのなら、その近くに待機してますので、その新歓コンパをする場所についたらメールをしてくれれば……」
「やだ」
 マスターは本当に嫌そうに顔をしかめる。
「えーと……メール……」
 まさかこんなにさっくりとお断りされると思わなかった。勢いを失い、俺は思わず口ごもる。
「ヤダって言ってるでしょ! 恥ずかしいから絶対やめてよね!」
「何で恥ずかしいんですか!?」
「新歓コンパなんて、各自で集まって終わったら勝手に帰るもんよ! 親でも兄弟でも迎えが来るなんて、一人立ちできてないようで恥ずかしいじゃない」
「でも、もしマスターがお酒飲まされてお持ち帰りされたりしたらどうするんですかー!」
 俺が叫ぶと、マスターはうがぁ、と唸りながら頭をかきむしった。
「無駄な方向に心配し過ぎ! あんたがここまで過保護なんて思わなかったわ。とにかく迎えはいらない。というか、それ以前に持ち帰られる状態になるほど飲めるもんか!」
 でも、とか、だって、と俺は言い募るも、マスターはもう本気で相手をしてくれる気はないようで、何を言ってもスルーされる。何人くらいでやるのかとか、その中に男の人はどのくらいいるのかとか、詳しい情報は一切教えてくれなかった。
 俺は心配しすぎの過保護なんだろうか。でも新歓コンパって、色々事件にもなってるみたいだし……。ああ、どうしよう。俺はこのまま当日が過ぎるのを待つしかないのだろうか。でもそうやっていて、万が一マスターが事件に巻き込まれたら……! 俺はお父さんのようにマスターを守ると決めていたのに! どうしよう。どうしよう……!

 こうして俺とマスターの新歓コンパを巡る攻防は、マスターのガン無視という心に痛い防御によって、なんら解決しないまま当日を迎えた。
「マスター、俺、メールするので返事してくださいね」
 でかけるマスターを玄関先で捕まえて、最後のお願いをする。
「必要な用件にだったらするよ。じゃあね」
 マスターはそっけなく言うと、ちょっと手を振って出ていってしまった。
「……行ってらっしゃい」
 ぼそりと、自分でも暗いと思う声で呟く。
 ドアが閉まり、俺は一人、家の中に取り残された。いや、足下には小次郎さんがいて、尻尾を振り振り、日課のお見送りをしていたんだけど。
「……小次郎さん、どうしよう」
 他に話しかける相手がいないので、俺は小次郎さんに向かってぼやいた。小次郎さんはもちろん、お返事なんてしてくれない。ただきらきらした黒い目を見上げて俺にも尻尾を振っただけだ。
「はーぁ」
 こうしていても仕方がないので、俺は朝ご飯の片づけをするためにキッチンに戻る。ひやりとした水は指先の熱を奪っていくけれど、俺の考えごとをしすぎたせいでオーバーヒートしかけている頭までは冷やしてくれなかった。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
 このまま、マスターが帰ってくるのを待つべきか。
 うざがられて怒られても、お迎えに行くべきか。
 きっと、待っているのが正しい判断というものなのだろう。マスターはずっと人間をやっているんだもの、人間世界で暮らし初めて一年も経たない俺の判断なんて、重視する理由はない。事件なんて、そうそう起こらない。だからこそ、たまに起きたときに報道されるんだ。だから俺の不安は無駄なもの。するだけ疲れるだけだ。
 でも、万が一があったら?
 急性アルコール中毒で倒れたり、どこかの嫌な感じの男の人にマスターが連れて行かれちゃったり、ううん、そこまで悪いことじゃなくても、大人じゃないのにお酒を飲んだことで警察に捕まって怒られるかもしれない。夜になるとガラの悪い人も多くなるっていうし、不安の種はたくさんある。
 それでも、追いかける手段がないのならどうしようもない。不安を抱えたまま、マスターを待つしかないのだ。
 でも――俺は気がついているのだ。マスターがどこにいるのか確認する方法を。
 それを実行したら、俺は間違いなくマスターに盛大に説教される。いや、最悪本気でアから始まる怖いことをされてしまうかもしれない。こういうことはやっちゃいけないということを、俺はすでに学んでしまっている。
 でも、でも……。
 
 夕方まで悩んだ。
 その間にも、午前中とお昼に一度ずつ、メールを送った。だけど返事はこない。
 だからもう一度だけメールして、それでも返事がこなかったら実行する。そう決めた。
 怒られても、消されてもいい。何もしないでいて、万が一本当にマスターが何か困ったことに巻き込まれてしまったら、もう怒ってもらうことすらしてもらえなくなるかもしれないのだから。
 時計の針が七時を指す。さすがに会場に着いているだろうと、俺はメールを送った。俺が使っているメールはパソコン用ポータルサイトが提供している無料のもの。携帯電話は俺は持っていないからね。
 今どこにいますか? 何時頃に終わりそうですか? 俺は迎えに行きたいです。
 簡潔に、それだけを書いて送る。
 それから返事を待って十分、二十分、そして三十分が過ぎた。
 マスターは俺が知る限り、メールがきたと気づいたら即返信する人だ。だからこれだけ待って返事がこないということは、する気がないということだ。
 ……仕方がない、やろう。
 俺は待ち受ける未来の暗さを吹き飛ばすように、四番目に教えてもらった歌を口ずさみながら、必要な手続きをしていった。心の中に卑怯という文字を思い浮かべながら。

(この辺のはず……)
 俺は記憶していた地図と住所を再度検証し、情報が一致していることを確認すると、途方に暮れてしまった。
 マスターがいるお店はどうやらこの辺りなのは間違いない。そして新歓コンパというのはお酒を飲みつつ食事をするような感じらしいので、前もってこの辺りの飲食店情報は検索しておいた。
 でも、数が多くてどこなのか、わからない。実際に現場近くに来ると、人の多さと建物の密集具合が半端なかったのだ。この中から本当にマスターを見つけることができるのかと不安になるほどだ。
 俺が得たマスターの位置情報によると、マスターがいるのはこの目の前にあるビルのどこかだ。地下から七階まで、結構な数の飲食店が入っている。さらに言えばその情報は多少誤差が出てしまうので、実際にはマスターはこのビルじゃなくて、このビルの隣とか後ろの建物の中にいるのかもしれないのだ。そういう状況でマスターと合流するなんて……。自分で行動しておいてなんだけど、かなり無謀だったんじゃないかと思う。
 だけどもう来ちゃったんだ。どうにかしてマスターを探そう。時間はまだ八時半を過ぎたところだから、多分終わってないと思う。とりあえずこのビルの入り口で待っていよう。九時半過ぎても会えなかったら、マスターの学校の人が来ていないか、一つ一つお店を回って聞いてみるんだ。こんなことするのはすっごく怖くて不安だけど、でも俺はマスターを守らないといけないんだもの。ここで逃げちゃ、駄目なんだ!
 やることもなくてぼーっとしていると、たまに声をかけられる。何してるの、とか。どっか行かない、とか。でも道でいきなり他人に声をかけてくる人は、たいていセールスとかで、まともに相手をするとひどい目に遭わされるから無視するか強気で断るものだ、とマスターが前に言っていたので――新聞のセールスなんて家に押し掛けてきますからね。あれはちょっと……怖かった――俺はマスターがそういう人たちにしていた対応を思い出しながら、手短に対処した。なぜかぽかんとした顔をされたり「何こいつ」とか言われたけど、すぐにいなくなってくれたので良かったです。
 俺が待っている間にも、マスターと同じくらいの年齢の人たちが大勢出てくることが何度かあった。顔が赤くて、大きな声で騒いでる人が多い。それに近くに寄られるとむわっとした、なんだかよくわからない臭いをまとっている人も。全然知らない人なのに、急に抱きついてきて耳元でわけのわからないことを喚きながら、背中をばっしんばっしん叩いていった人もいたし。これが酔っ払いというものなのかと、その無茶苦茶さぶりに圧倒される。いつかめーちゃんに会うことがあったら、お酒はほどほどにしたほうがいいよと言おう。
 そうしているうちに、向かいの建物についている時計は、九時を十分過ぎていると告げていた。終わるならそろそろ終わってもいい頃だと思うけど……。
 と、その時入り口の自動ドアが開いて、また大学生らしき集団がどやどやと出てきた。
 女の人が多いみたいだ。でもやっぱり、顔が赤い人が多いな。マスターも赤くなってるのだろうか。
「う、わ!」
「あー、すまん」
 マスターがいるかも、と思って女の人たちの集団――男の人たちもいるけど、女の人に比べれば多くない――を眺めていたら、後ろから誰かにぶつかられた。
 思わず振り返ると、その人と目線があった。ということは身長は同じくらい。でも肩幅とかは向こうのほうがある。顔も体型もがっしりしてて、ひげもあって、なんというか『武士』ってイメージだ。こういうのが頼りがいのある男の人というのだろう。
 その人はちょっと驚いたように目を大きくさせたが、すぐに「わり、大丈夫だったか?」と聞いてきた。
「はい、平気です」
 俺はちょっと頭を下げて数歩下がった。
 マスターを探しているうちに、ちょっとずつ移動してしまっていて、通行の邪魔をしていたようなのだ。
「じゃあ二次会行く人はこのままついてきてねー!」
 前の方で女の人が声を張り上げる。どこか笑っているような声だ。その声がかかると、前へ進もうとする人と立ち止まろうとする人とでちょっとした混雑ができてしまう。押されてしまったらしい人が、俺の方に来たりしたので、もう少し下がろうかと思いかけた時、俺の耳はマスターの声を捉えた。反射的に、その声が聞こえた方にぐりんと首が動く。ちょっと背の高い女の人が邪魔で陰になっていたけれど、間違いなくマスターだ。
 マスター、と呼びかけようとして、俺ははっと気づく。ダメダメ、マスターって呼んだら、マスターを困らせてしまう。ちゃんと名前で呼ばないと。それと俺とマスターの関係もおさらいしよう。
 俺は 海人。マスター、 さんの従兄だ。従兄なんだから「です」「ます」な口調で話しかけるのもおかしい。タメ口にしないと。よし。
 さりげなく深呼吸をして、マスターに近づく。結構密集している人の間を通り抜けるのは大変だ。あっちこっちでぶつかりそうになる。でも急がないと。マスターったら、二次会に参加する人たちについていってるんだもの。
、待ってたよ」
 ぽんと肩を叩いて声をかける。マスターは俺に気がつくとぽかんとした。続いて。
「な、なんであんたがいるのー!?」
 と叫んだ。
「なんでって、迎えに行くって言ったじゃない」
「そうだけど、どうやってここが……」
 と、マスターは俺の胸ぐらをつかんだ。するとお酒(だと思う)の匂いが漂ってくる。もう、駄目ですって言ったのに。
「まさか、本気で後つけてきてたの……?」
 押し殺した低い声で言う。
「まさかぁ」
 マスターの迫力に押されそうになったけれど、俺は頑張って明るく振る舞った。実際、後をつけてきたわけじゃないし。それにしても、マスター。どうせだったら話を合わせてくれないかな。マスターの周りにいる人たちが興味津々と俺たちのこと見てますよ。
「なになに、 さんのカレシ?」
「違ーう!」
 隣にいた女の人にからかうような口調で言われて、マスターは青くなって叫んだ。
「そうですよ、カレシじゃなくて従兄です」
 今度は別の人が甲高い声で言った。
「は、イトコ? 兄貴が迎えにきたとかならまだわかるけど、イトコ?  さん、イトコとつきあってるの?」
「つきあってないですって、先輩〜!」
 混乱しているのか、マスターは半泣き状態でぶんぶんと頭を振る。先輩さんは俺を見上げてきた。
さん、地元こっちじゃないよね。イトコんちに下宿してるとか?」
 あんまりほじくらないでほしいなぁ。でもマスターのこの様子じゃ、フォローは期待できそうにない。俺がどうにかしないと。
「いいえ、俺と の二人暮らしです。あと犬が一匹」
「状況がよくわからないんだけど、家庭の事情かなにか?」
 先輩さんは首を傾げる。
「そんな感じです。だからあんまり詳しく話すのはちょっと……」
 俺は言葉を濁した。先輩さんはすまなそうに眉を寄せる。
「そ、そうだよね。ごめんね、無神経で」
「いいえ、わかってくださればそれでいいです。ところで も二次会に参加しないといけないんでしょうか。お父さんに、あんまり夜遊びさせないように頼まれているんですけど」
「いつ、誰が頼んだって……」
 頬を引きつらせながらマスターは呟く。先輩さんはマスターを気にしながらも親切に答えてくれた。
「二次会は任意だから、参加したい人だけでいいのよ。 さん、参加希望だっけ? 新入生分はこっちで負担だから さんの分は会費は必要ないけど、イトコ君は部外者になるからね。そっちは費用負担になるけど、それでよければ参加はできると思うよ。一応部長に確認はとるけど……」
「……いえ、いいです」
 がっくりとうな垂れながら、マスターは答えた。
「そう? まあ、せっかく迎えに来てもらったんだしね。それがいいかもね」
 先輩さんは苦笑する。
「じゃあ、そういうことで。失礼します。 、帰ろう」
 俺は先輩さんに頭を下げるとマスターの手を取ってその場を離れようとした。
 人の数はさっきより減っているけど、ずっと俺たちのやりとりを見ていた人もいるので、なんだかこそばゆい。俺、おかしなことをしてないといいんだけど。マスターの関係者に不審に思われるのはやっぱりまずいし。
「あ、 、帰るのか?」
 野次馬の中には、さっきぶつかった武士っぽい男の人も混じっていたようだ。声をかけられて、マスターは足を止める。
「はい。呼んでもないのに迎えがきてしまったので、帰ります」
「さっきまでの元気はどうした。なんか黄昏てる感じだぞ」
「黄昏もしますよ。せっかく楽しかったのに、まさかこんなオチが待ってたとは……」
 げんなりと言うマスターに、男の人――この人も先輩かな? マスターよりは年上っぽい――はわはは、と笑った。
「まあ、丁度いいや、 は電車だよな」
 武士先輩は駅の方を指さす。
「はい」
の従兄の方、ついでだから同じ駅に行く女子たちも連れてってくれ。今日はコンパやるとこが多いみたいで、この辺もう酔っぱらいだらけだし。行かないのは一年が多いからな。新入生の洗礼とは言っても、女子に何かあったらこっちも困るんだ」
「はあ……」
 駅まで一緒に行くだけ、なら別に構わないと思うけど、こういうのは俺が決めていいのだろうか。
 マスターの方をちらりと見ると、マスターは不機嫌そうにそっぽを向いた。
「あ、どっかに寄ってくのか? 無理にとは言わんけど」
「どっか寄るところがある、 ?」
「……ないけど」
 ぼそっとマスターは答える。武士先輩は苦笑した。
「拗ねてるなぁ。なあ従兄、帰ったら謝っとけよ。なにしたか知らないけど、ここ探すのにあんま褒められるようなことはやってないんだろ?」
「はあ、紛失した携帯電話を探すサービスなどを使ってみました」
 GPSというのは便利ですね。
「か、勝手に人の携帯、なくしたことにするなぁ!」
 マスターが叫んだ。そして、武士先輩は呆れたような顔になる。
「従兄、それ、普通に犯罪だと……。でもあれか、パソコン共有してるのか?」
 武士先輩はマスターの方を向く。
「してますね」
 そう答えたのは俺だ。
「なら にも問題があるな。ログインとかしっぱなしにしてるなら、勝手にいじられても仕方がないぞ」
「……う」
 マスターは口ごもった。最初にIDやパスを教えてきたのはマスターの方だから、言い返せないんだ。
「ま、いじる方はもっと悪いけどな」
「デスヨネー」
 同意して、俺は頷く。
「帰ったら死ぬほど文句言われるのは、覚悟してます」
「だそうだぞ、 。とりあえず、喧嘩するなら帰ってからにしとけよ。往来でやるのはみっともないぞ」
「わかってます。……帰ったら覚えときなさいよ、カイト」
 苦々しい顔でマスターは俺を睨んできた。
 武士先輩はちょっと眉を寄せたけど、何事もなかったかのように話を続けた。
 そして俺とマスターと同じ駅から電車に乗る女の人たち四人と一緒に、他の人たちとその場で別れる。
 マスターは帰る途中でも俺と二人になったら文句を言いたそうな感じだったけれど、一人の人とは降りる駅まで一緒だったし、その後も家に着くまですれ違う通行人はいたしで、結局帰宅するまでお預け状態にされた。そのせいだろうか、帰ってから、俺はもうひたすらバカバカと連呼された。拳も蹴りもでてこなかったし、俺を消そうとはしなかったけれど、途中からマスターは泣き出してしまった。それは怒られるよりもずっと罪悪感を覚えるもので、俺はそのとき初めて、申し訳ないと心の底から思ったのだった。覚悟だなんだと言ったところで、俺は頭のどこかでマスターなら許してくれると甘えていたんだ……。怒られるのは嬉しいことではないけど、慣れてしまったところもある。でも、泣かれるのは辛い。
 俺はもう二度としないことを誓い、ペナルティを素直に受けた。電車賃が必要だったので、何かあった時の予備費を勝手に使った上に携帯捜索サービスの使用料が発生したので、日々のアイス代からその金額分を差し引かれることになった。
 おかげで向こう半月はアイスを食べることができなくなった。アから始まる怖いことをされることを思えば、これだけで済んで良かったと思うべきなんだろうけど……アイスを食べられないのだって、やっぱり辛いものなのだ。





とりあえずこれは書いておくべきだろう。
【お酒は二十歳になってから】

入学式後、結局お母さんはマスターの家に寄ることはなく、外でマスターとお昼を食べて帰りました。
あと、カイトが4番目に教えてもらった歌は(大方の人は気づいていると思いますが)うろたんだーです。



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