暗い気持ちで電車に揺られていた。
 いや、暗いというのはちょっと違う。困惑、あるいは不安、だろうか。
 有り体にいえば「どうしよう」という言葉がぴったり合う。
 そうこうしている間にもアパートに一番近い駅に電車は到着した。しかしここから三十分近く歩かねばならない。つくづく不便なところに物件を借りてしまったとため息をついた。早いところお金を貯めて自転車でも買おう。もっと余裕できたらスクーターとかもいいかもしれない。免許を取るのは難しいのだろうか、などと考えながら電車を降りた。
ー、こっち、こっち」
 降車客に混ざって駅の出口に向かうと、カイトがにっこり笑いながら手を振ってきた。来なくてもいいと言ってるのに、帰宅が午後八時を過ぎるならと、わざわざ迎えにきているのである。
「大声出さないでよ、恥ずかしい」
 周りの目が気になってそう注意するが、相手は「だって気がつかれなかったら困るでしょう」とさらりと受け流す。
「見逃すはずないでしょ、そんな目立つ頭。いいからもう叫ぶのはやめてよね」
「えー、わかりやすくていいと思うのに」
 カイトは不満そうに唇をとがらせた。しかしこの注意も三回目なのだから、いい加減理解してほしい。そうでなくても目立つのに、わざわざ注目を集めるような真似はしないでほしいものだ。
 まあ、そう心配するのはカイトがどんな存在なのかをわかっているからであって、おそらく周囲の人たちは、きっとただのカップルが痴話喧嘩している、くらいにしか認識していないのだろうとは思うが。……そしてもしかすると、その『カップル』という言葉の前に『バ』という文字もついているのかもしれないが。
「もう、いいから帰るよ」
「はーい」
 さっさと歩きだすと、カイトもついてくる。しかし数歩先に進んでいたのに、カイトはひょいひょいとものの一、二歩で隣に並ぶのだった。彼は基本的にこちらの歩くペースに合わせてくれるので普段はあまり気にしたことはないのだが、こういうときには歴然としたコンパスの差があることを意識してしまう。身長差があるのだから当然だけど、カイトはその辺の男と比較してもずっと足が長いのだ。
 駅を出ると、心地良い風が吹き抜けていった。帰宅ラッシュを過ぎたとはいえ、乗客全員が座れるほど空いてもいない車内にいたせいか、体内の空気が淀んでしまったような気がするのだ。
「今日の仕事はどうでした?」
 歩きながらカイトが尋ねてくる。
「ん? ……うーん」
 せっかく気分が良くなってきていたのに、思わずうめき声に近いものが漏れてしまう。自分でもきっと情けない顔をしていたのだろう、カイトが心配そうに眉根を寄せてこちらを覗き込むように身をかがめた。
「怒られたりとか、したんですか?」
「いや、怒られたというか……注意された、かな。でもああいうことを言われるとは思わなかったから戸惑ったというか、困ったというか。とにかくあたし……じゃなくて、あたしは駄目なんだって」
 わたしは自分で自分の額を拳で叩いた。
 やっぱり混乱する。会話するのにいちいち気を張らないといけないなんて……!
「あの……?」
 カイトは奇行をしだしたわたしに怪訝そうな顔になる。わたしはカイトを見上げた。
「あたしって言っちゃ駄目だって言われたの。わたしにしろって」
「どういうことですか?」
 カイトはますます不可解そうな表情になった。

 七月に入ってようやく採用されたアルバイト先は、イタリアンレストランだった。元々その店でバイトをしてた先輩がやめるので新規募集となったわけだが、わたしがバイト先を探しているということを知って紹介してくれたというわけだ。
 紹介といっても、別に先輩はそこの店のオーナーの親戚や友人というわけでもないので、単にそこで募集をしているということをわたしに教えてくれ、後輩が応募したということをオーナーに伝えたというだけのことだが。この程度のことなので、採用が有利になったというわけでもないだろうが、それでも採用されてしまったのだ。知らせの電話を受けた時には、嬉しいよりも驚きの方が先にきたのをまざまざと思い出せる。
 担当場所はホール。そして働き初めて今日で三日目だ。短期で働いた雑貨店とは当然ながらやることは違っていて、覚えなければいけないことがずいぶん多かった。そしてまだ完全に慣れたとは言えない。
 初日にしたことは休憩室や嵐の過ぎ去った厨房の片隅で仕事内容を覚えさせられるというものだった。実際に現場に出るのはそれからということで、雑貨店よりも接客が大変そうだと思っていただけに、少し気が楽になったものだった。
 それらを教えてくれたのはホール担当のサブチーフだという先輩で――もしかしたら先輩後輩関係なので、教育をしやすいと思われて採用されたのかもしれない。こちらとしても知っている人になら些細な質問でもしやすいので助かったのだが――たまに手の空いたホールチーフも加わってみっちりしごかれたのだった。
 というのも、ここの店は価格帯としては少々高め。わたしなら外食で利用するにはためらってしまうようなところなのだ。味や内装だけでなく、店員の雰囲気も重要。それについては初日にしっかりと言われていたのだけど、まさかこんな細かいところまでつつかれるとは思っていなかった。
 事件は精算時に起きた。常連だというお客様と二言三言会話をしたのだ。といっても、内容はたいしたことではない。わたしが新人だということで名前を教えたりしたとか、先輩がやめることになることとかだ。そしてお客様も気さくな感じの人で、特に気を悪くした感じもなかった。
 しかしその会話を聞いていたらしいオーナーに終業後、少し残るように言われ、そして注意を受けたのだ。
 この店は落ち着いた雰囲気が売りでもあるので、仕事中は『わたし』にしてほしい、ということだった。『あたし』は若々しさや元気な印象はあるけれど、落ち着きのなさや子供っぽい印象も与えてしまうから、ということだそうだ。
 付け加えて、電話を受ける時などはちゃんと『わたし』と言っているのだから、できないわけではないだろう、しばらく様子を見るから、普段から『わたし』に慣れるようにしてほしい、と言われた。
 確かに電話の時はそう言っている。相手が家族や友人でない場合限定だけど。それに受験にしろバイトにしろ、面接その他で改まった場面では、ちゃんと『わたし』と言っていた。特に誰に言われたわけでもない、TPOをわきまえる、というやつだ。仕事の場も改まった場であると考えれば、特に無茶な要求だとも思わない。が、自分にとっては想定外なことだったのも事実だった。同じ飲食店であっても多分ファミレスやファストフード店ではこんなことは言われないだろうし。
 納得していないわけではない。だから直します、という返答はした。直さなければ最悪、クビになりそうだったし。しかし、すぐに直せるかというと……。
「ぽろっと出そうなのよね」
 習慣というのはそうそう簡単に変更できるものではない。重いため息をつくと、カイトは深刻そうに眉を寄せて見下ろしてきた。
「大丈夫……ですか?」
「どうだろう、自信がないかな。今は意識して話しているからわたしって言えてるけどね。でも注意された以上はやらないと。カイトも手伝ってね」
「俺に手伝えることがあるんですか?」
 ぱちくりとカイトは瞬きをする。
「わたしがあたし、って言ってたら注意してほしいの。自分でも気づかずに言ってしまうことがあると思うから」
「それって普段からわたしって言うようにするってことですか?」
 カイトは聞き返してきた。
「そういうこと。オーナーは仕事している間はとにかく『わたし』にしてほしいっていうのよ。まあ、プライベートのことまで口出しされるいわれなんてないから当然だけど。でも使い分けできるかって聞かれると、自信はないのよね。だからいっそのこと『わたし』に変えてしまおうと思って。元々わたしがあたしって言っていたのは、特別な理由なんてないんだもの。子供の時からの癖って、それだけなんだし。社会に出れば、それこそ『わたし』を使う頻度だって増えるだろうから、今のうちに矯正してしまえば後々楽なんじゃないかなって」
「なるほど」
 カイトは納得したように頷いた。
「じゃあ、そういうことで、よろしく」
 わたしはカイトの腕をぽん、と叩いた。

 その日の晩は話をするときには意識をしていたので、一度もあたしと言うことなく済んだ。とはいえ、意識しすぎていつもよりしゃべる速度が遅くなっていたけれど。
 だが次の日になると、もう気が緩んだのか、さっそくやらかしてしまった。それも続けて二度も。
「まったく、マスターったら。一晩寝たら忘れちゃったんですか?」
 フライパンを片手に、カイトは呆れたように言う。
「う、うるさいな、ついうっかりしただけだって。忘れてないよ」
 フライパンから取り出されるタコさんウインナーを横目に、わたしは言い訳をした。
 学校に行ってからも、特に親しくしてる何人かには一人称変更の協力を頼んだのだが、長年染み着いたものはやはり一朝一夕には変わらないようで、ふいに話しかけられたりするともうあたしになってしまったりする。
 面白がった友人たちが、一度あたしと言うごとに何かおごるようにしたらいいんじゃないか、と提案してきたが、そんなことをしたらあっという間にお小遣いがなくなるのが目に見えていたので却下した。ま、最終的にはお礼ってことでお茶代くらいは持つつもりだけど。
 しかし間違う度に、というのはさすがに勘弁だけど、ある程度のペナルティは課さないとどうにもならないのではないか、と思うようになってきた。
 バイトは週末を中心に週に四回ほど。今日は休みなのでできれば今日明日中にある程度慣れてしまいたい。そうカイトにぼやくと、夕食の片づけが済んだあとのアイスタイムを楽しんでいた彼は、名案を思いついたというように目を輝かせる。
「じゃあ、一度あたしと言ったら、俺のことを十分間構うというのはどうでしょうか!」
 両拳をぐっと握りながら言った。
「構い方はどんなのでもいいですよ。頭なでてくれるのでもいいし、抱き締めてくれるのでもいいし、キスしてくれるのでもいいです。あ、キスしてくれるなら、十分でなくてもいいです」
「……あんたね」
 ウキウキとしゃべるカイトに、わたしは突っ込む気力がわいてこなかった。が、カイトは構わずしゃべり倒す。
「支払いはその時その時でなくていいですよ。お休みの日にまとめて構い倒してくれるとかでも。そうしたら六回分で一時間になりますから、調教もできますよね。ここのところご無沙汰だったから……。一ヶ月くらい俺のこと放置してることに気がついてましたか、マスター。俺、切ないですよぅ」
 最後の方は捨てられた子犬の目でうるうるとわたしを見つめる。カイトはよく泣くけれど、そのうちの大半は泣き落としなんじゃないかと最近わたしは疑うようになってきていた。あざとすぎるだろう、これは。たしかに放置してるのはこっちの落ち度かもしれないが。
「一回十分はきつい。一分ならいいけど」
 が、そんなことは口にはせず、わたしは値切りに走った。カイトは断固として首を振る。
「一分じゃペナルティにならないでしょう。こういうことをするのがイヤだって思わないと本気になれないんじゃないですか?」
「それはそうだけど。……でもカイト、そう言うってことは、わたしがあんたのことを長時間構い倒すのが嫌だってことを理解してるってことだよね」
 改めて口にすると、なんだかカイトが不憫に思えてきた。いや、もちろんカイトのことは嫌いじゃない。だけどふいにこっちに飛びついてきそうな、そんなスキンシップ好きな面があるので困ってしまうのだ。カイトに飛びついてこられたら、支えきれずにひっくり返るのは目に見えてるのだから。
 カイトはわたしの感想になぜか強気の笑みを浮かべた。
「当然ですよ。もうマスターとのつき合いも年単位になりましたからね。いい加減覚えてしまいますよ」
 さらには両手を腰に当てて胸まで張った。しかしなぜだろう。なぜだか無性に哀れに思えてきた。わたし、カイトとのつき合い方を根本から間違えたような気がする。
「カイト……わかった」
 ふ、とわたしは息をはいた。カイトの頬がぴくりと震える。
「マ、マスター」
 カイトの声が期待に揺れる。
「ところで、一回につき50円貯金するとかにしない? まあ、わたしがもらってもしょうがないから貯まった分はカイトにあげるよ。高くておいしいアイスの一つや二つや三つは買えると思うけど、どう?」
「高いアイスはたまに食べるからおいしいんです。そして普段のアイスはアイス代で買えるので別にいりません」
 きっぱりとカイトに拒絶され、買収はあえなく失敗してしまった。
「ああ、もう。わかったわよ。じゃあ一回五分ね。これ以上は譲れないから」
「勝手に半分にしないでください。ペナルティの意味がなくなるじゃありませんか」
 カイトはすぐに抗議の声をあげた。
「一回五分でもどうせトータルすれば一曲教えてもお釣りがでるくらいになりそうなんだからいいじゃない。これから試験期間に入るのに、そんなに時間は割けないよ」
「この際だから夏休みに入ってからでもいいです! 待ちます! だから十分! 十分! 十分!」
「無理ー。五分、五分、五分。じゃなきゃ、あんたの協力なんてもういらないよ」
 言うと、カイトの動きがぴたりと止まる。
「俺、いりません?」
 その表情は笑顔。だが目にはうっすらと水の幕が張りつつあった。
「あ、いや、別に一人称変更の協力をしてくれなくていいってことであって、カイト自身をいらないって言ったわけじゃないよ?」
 地雷を踏んづけたことに気がついたときにはすでに遅かった。慌てて否定するも、カイトは奇妙な笑顔のままかくりとうな垂れた。
「……わかってます。それから、構う時間は五分でいいです」
「わかってるなら泣く必要ないじゃない。納得してないんでしょ?」
 他に値切りに応じる理由があるとは思えない。だがカイトは貼り付けた笑顔を浮かべてぎくしゃくと頭を振る。
「ちゃんとわかってます。だから大丈夫です。目から出てるこれはただの冷却液です。栓が緩んでいるみたいですね」
 わざとらしい笑い声をあげながらカイトは手の甲で目元を拭う。ひくっと肩が大きく揺れた。
「いつの間に冷却液が流れるようになったのよ」
 気まずくなってそんなふうに混ぜ返すも、重たくなった空気はまるで軽くならなかった。
 カイトは一生懸命笑いながら、
「じゃあ、心の汗がにじみ出ているということで」
 と半分しゃくりあげながら続けた。こんなことするくらいなら素直に泣けばいいのに。あくまで意地を張るつもりのようだ。しかしこっちが泣かせたとはいえ、鬱陶しくてしかたがない。
 わたしは頭を抱えたい衝動にかられながらも、カイトをなだめにかかる。
「あのさ、今の状況であんたを捨てるってのはないから。家事をしてもらうためだけにあんたと同居するんて手間もお金もかかること、わざわざする気はないよ。それはあんたもちゃんと理解してくれていると思っていたけど」
 カイトは馬鹿だが良い奴だ。わたしと同じく進学のために引っ越しをして一人暮らしをしている友人知人はずいぶんいる。程度の差はあれホームシックにかかった人はいた。一人暮らしを心の底から楽しんでいる人も。わたしは自分が一人で暮らした場合、どっちになったかはわからない。だけど今ほど毎日が楽しいと思うことはなかったのではないかと思う。気が置けない相手がすぐ近くにいるというのは、それだけで安心できるものだ。長年鍵っ子な一人っ子だったので、特にそう思うのかもしれないけれど。
 カイトはぐしぐしと心の汗という名前の涙をぬぐう。
「だからわかってます。心配しないでください。でももうこの話は終わりにしましょう。あ、そうだ、俺お風呂の準備するの、忘れてました。すぐ支度しますね」
「ちょっとカイト」
 だん、とわたしはテーブルを叩く。立ち去りかけていたカイトはびくりとして足を止めた。
「座んなさい」
「えっと、でも、お風呂の準備……」
「いいから座りなさい」
 わたしはテーブルの向かいを指差す。カイトはさっきまで座っていたそこにまた居心地悪そうに座り直すと、肩を縮こませた。
「いらないって言ったのは、カイト自身のことじゃない。そのことはわかってるんだね」
 声に怒気を含ませて、わたしはカイトを睨みつけた。
「わ、わかってますよ。だからその話は……」
 目を反らしながらカイトは答える。
「じゃ、なんで泣くの?」
「えっと……」
「なんで怯えるの? 逃げるの? 誤魔化すの?」
「……」
 立て続けの問いに、カイトはただ目に涙を浮かべ、小刻みに首を振るだけだった。
 カイトは答えない。答えようがないのかもしれない。だけどもう、こういうのはうんざりなのだ。
「あんたはあたしのこと好きだとかなんとか言うけど、結局あたしのことなんてこれっぽっちも信用してないってことじゃない。いつ捨てられてもおかしくないって、そう思ってるんでしょう? だからそんな態度になるんでしょう? なのにこっちはあんたのことを家族だって思ってただなんて。……馬鹿馬鹿しい。別の、心の広いマスターがほしかったらそう言ってくれればよかったのよ。なにもあたしが飽きるのを待つことなんてない。あんたがいなくなっても、こっちは新品を買えばいいだけの話だもん。そうしたら構って攻勢に頭抱えることだってなくなるんだから気楽ってもんだわ」
 吐き捨てると、カイトの肩がぴくりと震える。
「あの、マスター」
 おずおずとカイトはあたしを見上げた。
「なによ、言い訳でもする気?」
 腕を組んで、ふん、とあたしはそっぽを向く。
「その、言い訳はぜひさせてほしいんですけど、そうじゃなくて。さっきあたしって三回言いました、けど……」
「え?」
 冷静に指摘され、勢いを削がれたあたしは思わず頭の中でさっき言ったことを反芻した。あ、確かに言ってる。
「……話の腰を折らないでよ」
 ばたりとわたしは床に倒れ込む。真面目な話し合いをしているつもりだったのにこの体たらくだ。恥ずかしいやら情けないやらで、先ほどのものとは違う意味で顔に血が登った。
「ご、ごめんなさい」
 上からカイトの声が振ってくる。こっちは顔を伏せているので表情はわからないが、焦ったような声をしていた。
「マ、マスターにとって今大事なのは『わたし』って言うことに慣れることだと思ったので、つい……」
 まあね。指摘してほしいと言ったのはこっちだからね。ここでカイトを怒るのは筋違いだ。と思うものの、できればさっきのは聞かなかったふりをしてほしかった。
 わたしが床に転がって文字通りに頭を抱えていると、やがてカイトが言い訳をしだす。
「信用するということがどういうことなのか、本当は俺、よくわからないんです。俺が人間ではないからかもしれないですけど……。でもはっきりわかっていることだってあります。俺はマスターに嫌われたくない。できれば世界で一番大好きだって思ってもらいたい。でも……」
 その声はどこか寂しげだった。わたしは頭を抱えるのはやめ、しかし床に伏せたまま黙って聞いた。
「いらないとか、お別れを連想する言葉を聞くと、身体が凍り付いてしまいそうな感じがするんです。前のことがぶわっと頭に浮かんでしまって、自分で自分を制御できない。もちろん、こんなことではいけないって、わかっています。こういう風になってしまうからマスターを不快にさせてしまうことも……」
 前半は妙に恥ずかしいことを言っていたが、要するにカイトの人間不信は少しも好転していないということだろう。わたしにも責任がないとは言えないかもしれないが、だからといってどうしたらいいのかなんて見当もつかない。
「で、でも、直すようにします。頑張ります。だから見捨てないでください。俺……新しいマスターなんてほしくないです」
 ううう、とテーブルに伏せたらしい、籠もった泣き声がしだす。もうどうフォローしたら良いやらさっぱりだ。とりあえず今日はPCに引き取らせてしまおうか。明日になったら今晩のことはなかったことにして、お互いいつも通りに振る舞うことを期待して……。
(でもなあ……)
 ここまでこじれたことはこれまでなかったにしろ、こういうことは今までに何度かあった。自分の存在価値を認めてもらいたがるように、己の立ち位置を確保しようとするかのように、カイトはマスター《わたし》に執着する。
 外に出ている時のカイトはずいぶん余裕のある感じに振る舞っていて、その流れでさらりと言われるのならこっちもまた調子のいいこと言ってと思うにしろ、嫌な感じは特にしない。
 なのに家にいるときのこの余裕のなさはなんだろう。もちろんこっちが素なのだろうが、どうせ演技をするのなら、自分に有利になる演技をすればいいと思うのだが。
 まあ、猫を被り続けるのは疲れるということはわからないでもないし、そもそも、カイトが甘えられる相手はわたししかいないということもある。だから外では気張ってる分、家では気を抜いているということがあってもおかしくはない。わたしだって、いや、誰にでもそういう部分はあるだろう。
 だけど家でも心から安らぐこともなく、肯定の言葉も受け入れることができないというのであれば、わたしの手には余ることだ。自分の無力さを自覚するのはつらい。でも認めよう。わたしは無力だ。
 むくりとわたしは身を起こした。カイトはぐずぐずと鼻を鳴らしている。
「カイト」
「……はい」
「とりあえず、鼻かんで涙ふいて」
「あい」
 そそくさとティッシュボックスを取りに行き、カイトはその場にしゃがんで鼻をかむ。その姿はちょっと間抜けだ。
 わたしはやや毒気が抜かれた感じがして、少し気が楽になった。振り返ったカイトに手招きをする。
「こっちきて」
「……はい」
 広くもないリビングだ。ほんの数歩でカイトはわたしの前に来て、おずおずと膝がつきあうほどの距離のところで正座した。目の周りと鼻の頭が赤い。その顔はやはり間抜けだった。
「よっ……と」
 わたしはカイトの首の後ろに手を回すと、その頭を自分の左肩に引き寄せた。
「マ、マスター!?」
 声を裏がえらせ、カイトは腕を振り回す。
「暴れるんじゃないの。ペナルティの支払いをしなくてもいいの?」
「え? ……ああ、はい。ペナルティですね」
 理解したのか、カイトは腕をおろす。
「でもやっぱ、一回十分はきついわ。下手すると夏休みの暇な時間全部使っても消化しきれないかも。でも五分だったらどうにかできると思うし……」
 言いながら頭をなでる。滑らかな青髪は触る分にはすこぶる気持ちのいいものなのだ。
「はい。五分でいいです」
 カイトが目を閉じる気配をさせて答えた。
「じゃあ、まず三回分だから十五分ね」
 わたしは時計を確認する。無言でカイトは頷いた。頬に髪がかすめてちょっとくすぐったい。
 首を曲げる体勢がきついのか、三分も経たないうちにカイトはごそごそと動き出す。わたしを少し押しやりソファに背中を預けるようにさせ、その分自分は背中を伸ばす。こっちが仰け反るような体勢になったのを支えるつもりなのか、わたしの背中に腕が回された。姿勢が変わってしまったので、肩に額を預ける形から、左側の胸元あたりにカイトの鼻が当たるようになる。
 身内と思っていなかったら、こんなことは絶対にさせない。カイトだから、許す。大型犬にじゃれつかれているものだと思えば腹も立たないし、ペナルティの消化にかこつけたものの、マスターに構ってもらえればカイトの機嫌がよくなることはわかっているから。
「マスター……。好き」
 ずっと黙っていたカイトが、不意にこぼれたというように眠たげな声で呟く。
 はいはい、と答えるかわりに、軽く頭を二度、つついた。と、顔をあげないまま声を出さずにカイトが笑った気配をさせる。
「なによ」
「マスターは自分が言うことを俺が信じないって言いますけど、マスターも俺が言うことを信じてないですよね」
「ええ?」
 思いがけないことを言われ、わたしは戸惑った。
「俺がボーカロイドだから……商業製品だから、マスターのことを好意的に思うのが当然だって思ってません? そんなことないんですよ。優しくされたら嬉しいんですよ。手荒にされたら悲しいんですよ。……ひどいことをされたら、嫌いになることだって、あるんです。そしてきっとそれは、俺ばかりじゃない」
 怖いこと言うんじゃない。わたしの周囲にある家具家電もそうだとしたら、生活するのにとてつもなく支障が出るじゃないか。
「だから……俺がマスターを好きなのは、俺の意志です。だって俺、最初の頃はこんなにマスターのことが好きだったわけじゃないですもん。そりゃあ、仲良くできたらいいなとは思ってましたけど」
 そうだったのか、しかし。
「だったらなおのこと、あんたがわたしを好きだなんて信じられない。優しいマスターにはほど遠いでしょう、わたしは」
 もそりとカイトが顔をあげる。至近距離で目があった。その真っ青な瞳に、わたしが映っている。
「マスターはたまにひどいことを言うけど、でも俺のことを大事に思ってくれてるって、態度で伝わってきてますから。本当に優しくないマスターだったら、俺の事情なんて考えてくれないでしょう。こんな規格外のボーカロイドなんて、速攻で見限られてもおかしくない。二度とパソコンから出てこないように命令したりとか、やっぱり気持ち悪いからって市場に再放流するとか……CDを割るとか、それくらいはするんじゃないですか」
 自分で言ってて怖くなったのか、カイトは瞳を曇らせ、また顔を伏せた。まったくカイトはどこまでいってもカイトなんだから。
 そんなことをする気はない――今のところは、だけど――、という気持ちをこめて強めに頭をなでると、腕の中でほう、とカイトは息を吐いた。生温かい吐息が胸元に広がる感触に背中がぞわりとする。
「こんな風に抱きしめてくれることだって、きっとないでしょうね。だから俺はあなたが好きなんです」
 それは多分に情に流されている部分があると思うのだが。しかしカイトの言い分も理解できた。こうもカイトに好意を向けられていても、それを本気で受け取ることのできない自分がいることに気がついたのだ。
 そもそもカイトのいう「好き」とはどの「好き」なのだろう。家族的なものであればいい。でも違ったら? もしも恋愛感情的なものだったら、それを受け入れるのは問題が多そうだ。倫理的な意味でも、将来性という意味でも。
 それでも義務や同情ではなく、わたしがカイトを本気で好きになってしまったらそういうこともどうでもよいと思えてしまうのだろうか。それは怖い。自分の気持ちをいちいち分析したりすることなんてないけれど、つまりこの、明るい未来が見えそうにないということがわたしの感情にブレーキをかけているようではある。自分から幸せになる道を放棄するなんて、普通はしないだろう。でも、幸せになる道を歩んでいたと思ったら、実はその道は奈落へ通じていた、なーんてこともきっと、珍しくないほどにはあるだろうけれど。
 そしてわたしは、奈落に落ちる気はない。こんなにもはっきりと、この先は危険だって、見えているんだから。
「カイト、そろそろ終わっていい? 重たいんだけど」
 自分の思考のたどり着いた先の冷やかさに後ろめたく思いながら、それを振り払おうとわたしはわざと大きめの声をあげた。カイトが顔をあげると、その表情は不満げで、きゅっと眉が寄っている。
「まだ四分くらい残ってますよ。重たいのなら、体勢を逆にしますけど」
「それは嫌」
 反射的に拒絶する。こんな心境でそんな無茶ができるものか。頭が爆発するわ!
「マスターは照れ屋さんですよね」
 やれやれという感じでカイトがこぼす。
「あんたは無駄に前向きよね」
 というよりも、ポジティブな時はとことん前向きなのに、ネガティブな方面にスイッチにが入ると滅茶苦茶なくらい悲観的になる。要するに差が激しすぎるのだ。
 しかしスキンシップの甲斐があってか、カイトは十分に落ち着いたようだった。
「マスターに鍛えられましたから」
「鍛えた覚えなんてないよ」
 否定するも、カイトはただ軽やかに笑うのだった。

 それから一週間。
「ちょっとカイト、あたしのヨーグルト食べたでしょ!」
 冷蔵庫を開けたまま、あたしは怒鳴る。お弁当を包んでいたカイトは作業の手を止めてこちらを見やった。
「だってそれ、昨日で賞味期限が切れてましたよ。だからもう食べたくないと思ったので処分しないといけないって思って。あ、捨てたんじゃなくて、俺のお腹に入れたということですが。あと、またあたしって言ってましたよ。書いておきますね」
 カイトはいそいそとカレンダーの隅に正の字を構成する棒を一本書き足す。手書きにするのは不正ができないように、というこいつの余計な配慮のせいだ。その正の字は完成されたものが五つ、まだ棒が二本しかないものが一つある。つまり現在のところ、二時間十五分ものペナルティがあるということだ。まだたったの一週間なのに!
「あー、もう。せっかく最近は順調だったのに!」
 食べようと思っていたヨーグルトがなくなっていたことも相まって、わたしはさらにむしゃくしゃした。乱暴に冷蔵庫を閉めると、カイトが済まなそうに小首をかしげた。
「ごめんなさい、一言声をかけるべきでしたね。昨夜はバイトだったから、帰宅後には何も食べないだろうと……」
 バイトの時間は夕方から閉店まで。だから時間的に休憩時間に夕食を食べることになる。食べるものは持参する必要はない。福利厚生の一環として、費用は店持ちで賄いを食べさせてもらえるのだ。もちろん、勤めている店が店だから味のクオリティは高い。おいしいご飯をありがとうございます、といつも思っている。
「そうよ、勝手に食べないでよ。ちょっとタイミング逃しただけだってのに……。ないと思ったら余計食べたくなったから、学校から帰ってくるまでに買っておいてね」
「わかりました。同じものでいいんですよね」
「……ブルーベリー味がいい」
 なくなったのはストロベリー味だったけど。
 カイトはくすりと微笑むと、今日の分のお弁当を手渡してきた。
「了解です、マスター」
 
 七月も半ば。
 試験期間まであと少し。
 『あたし』が『わたし』に慣れるのも、もうちょっとかかるだろう。
 そして、カイトを構い倒さなければいけない夏休みまでも、そう長くはない。







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