キーを叩く音が静かな部屋に響く。
 マスターは真剣にモニタを見つめていた。そして俺はそんなマスターを見つめる。邪魔はしない。
 二ヶ月ぶりに新しい歌を教えてもらえることになったので、俺は朝からずっと楽しみにしていたのだ。選曲をして、カラオケ用のデータを探して、それから俺の声の調整。高めとか低めとか、曲に合わせて毎回変えている。
 それからようやく音符の入力だ。歌詞入力もほぼ同時に行う。前回教えてもらった卑怯の歌に続き、今回も俺が読み込めるボーカル用のデータはなく、いわゆる耳コピーというものをしないといけなくなったので、マスターは四苦八苦していた。こっちのやり方ではデータありの歌に比べて何倍も時間がかかる。
 さっきからマスターは少し入力しては俺に歌わせて訂正するという作業を繰り返していた。一小節にも満たないぶつ切り状態だけど、俺は平気だ。どんなに途中からだって、タイミングを外したり、声が嗄れるなんてこともない。
 だって、俺はVOCALOIDなんだもの。
「んじゃ、もう一度」
「はーい」
 マスターは保存をかけて別の画面を表示する。それはマスターのパソコンに元々入っていたマルチメディア再生ソフトだった。そっちから音楽をを再生すると、中途半端なところから始まった。しかし俺はすぐに曲に合わせて歌い始める。そしてさっき訂正したところに差しかかると、マスターはじっと俺の口元を見つめた。
「よし、OK。次いくよ」
 すぐにモニタに目を戻し、また俺のエディタを表示させる。
「やっぱりいちいち切り替えしないといけないって、面倒よね」
 マスターが肘をついてぼやく。
「……すみません。でも、俺はどうしてもこっちの《俺》で歌いたいんです」
 俺は肩を縮こませた。
 KAITOは音楽制作ソフトの一つだ。音楽制作ソフトというものは、様々なソフトを使用、あるいは組み合わせて一つの曲を作る。マスターはカバー曲しかやらないから曲自体は作らずに、どこかで買うかもらうか手持ちのものを使うかしているので、俺以外のソフトはあまり持っていないけれど。というよりも、必要性自体がほとんどないのだけど。
 だが一つだけ、なくてはならないものがある。それは曲と俺の歌とを同時に再生するためのツールだ。なにしろ曲のスピードと俺の歌う速度が違ったら、音が外れていなくても歌として成り立たなくなってしまうのだから、これだけは必須なのだ。
 そのツールを使えるようにするためには俺の中身にちょっと手を加える必要があったので、マスターと相談の上、俺もそれを入れることに同意したのだ。どうやら多くの俺の同類たちも使っているようだったから、危険なものじゃないと思って。
 それが入ってすぐは、ちょっと身体がもぞもぞしたけれど、もう慣れた。しかしこれを入れたのは、実はあんまり意味がないのだということにも、すぐ気づいたのだ。
 それというのも、その歌と曲を同時に再生するには俺のエディタの再生ボタンを押さないといけないのだが、そうすると曲だけではなく俺の口とパソコンのスピーカーからも歌が出てしまう。その二種類の歌声は、マスター曰く「相当違う」そうで、あちらが立てばこちらが立たず状態になる上に、二種類の声が聞こえるのは紛らわしいので、どちらかをミュートにしなければ調整のしようがないのだそうだ。
 で、俺としては身体を持っている俺の方で歌いたいのだ。だって、こっちに合わせてもらわないと、カラオケしに行くときに困るでしょう? スピーカーから声を出しているのだって俺だけど、まさかパソコン持ってカラオケ屋さんに行くわけにはいかないじゃないか。マスターのパソコンはデスクトップ型なんだもの。
 歌が入力されているトラックだけミュートすることもできるけど、その場合はこっちの身体を持ってる俺の方も声が出なくなってしまう。なにしろこの場合、曲だけ流れるようにしても、俺のエディタで操作されているんだから、パソコンの中の俺だけ黙るなんてことは、無理なのだ。
 卑怯の歌をする前はボーカル用データもある曲しかやったことがないということもあって、勘に頼ってどうにかしていたのだけど、それができないとなったマスターがあんまり困っているようだったから、俺は足りない頭を振り絞って打開策を見つけたのだ。
 それは思いついてしまえば簡単なことで、つまりは音楽再生は別のものを使えばいい、というものだった。
 外にでている時の俺は、KAITOが読める形式で保存されているデータならばいつでも再生可能なのだ。一曲できあがるまでにバックアップ用以外にも少しだけ表現方法を変えたものなど、枝分かれしたデータがいくつもできることがある。そういった未完成データなども未完成の状態のまま、いつでも歌うことができるのだ。もっとも完成データがある曲を歌おうと思ったら、まず完成したものを俺は使うのだけど。
 俺のエディタですべて一緒にやろうとするから無理が出てくるのであって、別のものも併用すれば俺の動きに制約を与えることはない。曲が流れればタイミングに合わせてデータを再現する。それだけのことだ。曲の速さに対応した音符を入力する間だけは、カラオケ音源と二つの俺の声が出てしまうのは防げないけど、細かい調整をする時にはどっちみちカラオケ音源の方も流さないわけだから、とりあえずこの方法でなんとかなる。
「わかってるよ。しょうがないけど、他に方法は思いつかないし。耳コピするのにオケに合わせられないんじゃ、無謀すぎるし」
「やっぱり、難しいですか?」
 問うとマスターは少し考え込むように顎に指をあてた。
「結局、自然に歌っていると、楽譜通りの一定速度にならないってことなのよね。たぶんこれはこの長さの音符なんだろうってものでも、微妙に短くなってるとか長くなってるってことが頻出してるのよ。どっかの誰かが作ったデータを使ってた時はその辺の細かい調整はすでに終わっていたからあんまり気にしたことなかったけど。とにかく、思った以上に手間がかかるものだってことは前回と今回とでよーくわかった。正直、挫けそう。途中だけど、やめていい?」
 マスターは真顔で言う。
「ちょ……! くじけないでください。マスターならできます、頑張ってください!」
 まだAメロも終わってないのに、と焦ってマスターにしがみつくとマスターは、
「冗談よ」
 とやはり真顔で言うのだった。
「マスター……」
 へなへなと俺はその場にしゃがみこむ。マスターは肩をすくめてまたモニタに向き合った。
 まったくマスターは心臓に悪いことを簡単に言うんだから。でも今回のレッスンはマスターが自分のことを『わたし』って言えるようになるためのペナルティの消化なのだ。やりたくてやってるわけじゃない。だというのに手間がかかるとわかっていた耳コピーをしようなんて……。
 これはきっと、愛ですね。うん。

 それから一時間以上かかってようやくAメロ部分ができあがった。マスターは両腕をあげて気勢をあげる。
「よっし、できたー!」
「お疲れさまです、マスター。休憩しますか?」
「その前に通しでやろう。ここまでやったんだもの、成果が聴きたい」
 こきこきと首を鳴らしながらも、マスターは清清しい様子で俺を見上げる。
「あ、はい!」
 俺は姿勢を正して歌う体勢をとった。マスターの手がマウスに伸びる。音楽の再生ボタンがクリックされて、曲が流れ出した。
 口を、開く。マスターの指示通りに強弱をつけ、喉を震わせ、空間いっぱいに音を響かせる。上手いか下手かなんて関係ない。マスターに求められることがただひたすらに嬉しい。
 Aパートが終わったので、曲の途中だったがマスターは再生をストップした。マスターは足を組んでPCデスクに肘をつき、ふとしたように呟く。
「雲ひとつない青空だよね」
 俺は窓の方に目を向けた。マスターったら、頑張りすぎて目がどうかしてしまったのだろうか。
「曇りですよ、今日」
 だから俺は真実を教えてあげた。
「天気の話じゃないっての、このボケ」
「ひどい!」
 青空っていったら、天気の話だと思うのが普通じゃないですか。なのにボケって……。
「あのね、カイト」
 マスターは椅子の背もたれに深々と身を預けて、俺を見上げる。
「今回の曲はスローテンポで歌詞内容だってなんというかこう、切ない感じじゃない。なのにあんたってば悩み事一つありませんって顔でずっとにこにこしたまま歌ってるんだもん。イメージぶち壊しなのよ」
「え?」
 俺はとっさに顔を押さえた。マスターはふてくされるように続ける。
「まあね、どんな表情で歌ってても、どうせ観客はわたし一人がせいぜいだもん、関係ないといえば関係ないよ。だからってここまで内容とかけ離れた顔されると馬鹿にされてる気になってくる」
「マ、マスター」
 どうしよう、今まで教えてもらった曲、どれも明るい感じのものばかりだから、どんな表情で歌うかなんて考えたこともなかった。
「も、もう一度、もう一度やらせてください! 今度はちゃんと雰囲気だして歌います。久々にいっぱい歌えて嬉しかっただけなんです。マスターのことを馬鹿にしてるとかじゃないです!」
「どうせそんなところだと思ってたよ」
 言いながらマスターは立ち上がった。そのままキッチンに向かう。どうしよう、マスターを苛立たせてしまった。もうこの曲、やめちゃうのかな……。
「マスター、あの……」
「何しょぼくれた顔してるのよ。別に途中で放棄したりしないって。通しで聞いたら、手直ししないといけないところがかなりあったの。Bメロもまだだし、完成するまで嫌ってほど繰り返すことになるんだから、表情はそのときにつけてよ。とにかくわたしは疲れたから、休憩をするよ。待てないんだったら、自分で曲再生して練習してて」
 冷蔵庫を開けて紙パックのオレンジジュースを取り出す。
「あ、いいえ。待ちます」
 怒ってないんだ、良かった。ほっとして俺は胸をなで下ろした。
 マスターはジュースをグラスに二つ注いで、片方を俺に渡してくれた。こういうことは俺がやらないといけないのに、と思いながらも受け取る。
 一気に中身を半分飲み干したマスターは、やおら俺をじっと見つめた。
「その格好見るのも、久しぶりよね。なんか新鮮。あんたって本当にKAITOなのねえ」
「マスターが起きる頃には着替えていますからね。でも、本当にKAITOなのねって……」
 俺はちゃんとKAITOですよ。
 歌う時には公式の衣装でないと声がこもる場合があるので、今朝は着替えないで待っていたのだ。
 しかしマスターのこの発言、誉められているのだろうか、貶されているのだろうか。よくわからないでいると、マスターは苦笑した。
「ごめん、けちつけてるわけじゃないのよ。ただ……最近、忘れることがあるのよね」
「マスター」
 忘れるって……それって、俺が人間でないことを意識しなくなってきているということだろうか。マスターと一緒に暮らしている、ただのカイトだと思っているということ? それなら俺は、マスターに少しは近づけているのだろうか。
 ……だったらいいな。

 なんてこともあったけれど、それでも俺はやっぱり人間ではなくて、マスターのことをよく知っている人たちからは隠さなくてはいけない存在であり続けるのだ。
 八月も半ばに近づいたある日、電車に揺られて、より大きな駅へ俺たちは向かった。マスターは小次郎さんを入れたキャリーケースを持ち、俺はマスターの荷物を持つ。
 それから新幹線のホームへ。大勢の人にもまれながら俺たちは新幹線が到着するのを待っていた。でもそれに乗るのはマスターと小次郎さんだけ。俺は一人でお留守番だ。
「本当に大丈夫?」
 数日前からもう何度目なのかもわからなくなった質問をマスターはまたした。
は心配性なんだから。平気ですって。それよりも久しぶりにお父さんたちに会えるんでしょう。いっぱい甘えくるといいと思いますよ」
「いやー、甘えるとかそれは……」
 ないな、とマスターは言い切る。
ったら」
 俺は苦笑した。
 国民的大移動であるお盆時期なので、マスターも帰省することになった。だけど行き先はマスターの実家ではなく、お父さんの実家だ。去年は行かなかったので、今年は行かないわけにはいかないらしい。そして小次郎さんをつれて帰らないわけにもいかないのだそうだ。なにしろ友達に預けるという言い訳をしようにも、学生でペット可のところに住んでいる人なんてそうそういないし、ペットホテルに預けるにしても四泊となるとかなりの出費になってしまう。実際には俺が世話をすればいいだけのことだから、なんの問題もないのだけど、とにかくお父さんたちに怪しまれる要素は排除しようということなのだそうだ。
 で、初めて一人で何日もお留守番をしなければいけない俺を心配して、マスターは何度も何度も大丈夫かって聞いてくるというわけだ。
 そりゃあ、寂しくないと言ったら嘘になる。今までだって一人で留守番をしていたことは何度もあるけど、でも夜にはマスターは必ず帰ってきたのだもの、今回のこととは訳が違う。実家にいたときにも旅行で何日か家を空けたこともあるけど、小次郎さんがいたし、俺は直接会って話をしたりすることはできなかったけど、お父さんお母さんがいたから、本当に一人っきりだったことは、ないのだ。
 でも寂しいから行かないで、なんて言えない。それはただマスターを困らせるだけのことだから。
がいない間に、普段あんまりしないところの掃除をしておくよ。換気扇とか窓とか。帰ってきたらピカピカになってまた気持ちよく暮らせるように」
 俺は本当に全然平気だという感じに見えるような笑顔を浮かべた。一生懸命鏡に向かって練習したけど、成果が出ているだろうか。
 マスターは苦笑して、俺の背中をぽんと叩く。
「今でも十分だよ。頑張るのもいいけど、根はつめなくていいんだからね」
 そんなことを話している間に新幹線がホームに入ってきた。乗客が次々に乗り込む。俺たちもその人たちの後ろに並んでついていった。
 小次郎さんを連れているマスターは、小次郎さんが騒いだ時にすぐにデッキに移動できるよう、出入り口に近い席を予約していた。俺は荷物を上にあげて、小次郎さんにしばらくのお別れを言う。
「じゃあ、行ってらっしゃい。帰りの新幹線が到着する頃には迎えにくるよ」
 マスターが帰ってくる日はバイトがある日で、夕方からだから、アパートに戻らずに俺に小次郎さんと荷物を預けて直行するつもりなのだ。
「うん。それとメールくれたらなるべく早く返事はするから。でも、あんまりしょっちゅう送らないでよ。ほどほどでね」
「わかってる」
 これだけ心配されるのは信用されていないから……なんて風には考えないようにする。逆に俺と離れるのが嫌だからだと思いこもう。そうすればマスターの前で泣かずに済む。
 もうじき出発することを知らせるメロディが鳴ったので、俺は名残惜しい気持ちを隠して新幹線を降りた。ゆっくりと動き出す新幹線。窓からマスターが小さく手を振るのが見えたので、俺も振り返した。
 そして俺は一人になった。

「……静かだなぁ」
 帰宅した俺は玄関口で立ち尽くす。
 正確にいえば冷蔵庫のモーター音だの時計の針の音だの、外から聞こえる自動車の音だのなんだの、様々な音がしていたけれど。
 だがこれは俺にとっては嫌な静けさなのだ。まるで深夜のよう。マスターも小次郎さんも眠ってしまって、普段は意識しない音が大きく聞こえてくる、そんな時間帯。
 どうしてマスターたちはあんなに眠っている時間が長いのだろうかといつも思う。眠くなる、ということが俺にはわからない。俺も眠れたらいいのに。そうしたら、マスターたちが起きてくるのをひたすら待たないといけないなんてことはなくなるのに。
 でも今夜は、ううん、明日になっても、マスターには会えない。声も聞けない。五日後になるまで俺は一人でずっと待って待って待って待たなくてはいけなくて――ああ!
「掃除、しよう」
 俺は頬を叩いて活を入れると、キッチンに向かった。何でもいい、手を動かすのだ。余計なことは何も考えないように。これはただのお留守番。いつもよりちょっと待機時間が長いだけだ。マスターはちゃんと帰ってくるのだし、俺のことを嫌って俺を置いていったわけじゃない。逆に俺を守ろうとしてくれているのだ。
 そう言い聞かせる。でないと寂しさに飲み込まれてしまいそうだったから。
 そして俺は家中の掃除を始めた。どこもかしこもピカピカになるように磨きあげる。さすがに日が落ちたあとはあんまりごそごそすると近隣の部屋の人たちの迷惑になりそうになったのでやめたけど。
 しかし1LDKの部屋の掃除は三日もすれば終わってしまい、あとの二日をどうしようと俺は途方に暮れた。
「はぁ……」
 昨晩からずっと、俺はマスターのベッドに寄りかかってもらった歌を口ずさんでいた。完成データだけじゃなく、まだあまり上手じゃなかった頃のものも全部。
 マスターのベッドはマスターの匂いが少し残っているから、他のところにいるより安心できるのだ。でも俺はやっぱり馬鹿なんだと思った。シーツは洗ってしまったし、マットレスを日に当ててしまったから、匂いが薄れてしまっている。どうせなら、明日やれば良かったんだ。
「マスター。早く帰ってきて……」
 俺は膝をかかえて頭を埋める。メールはほどほどにと言われているから、朝昼晩にそれぞれ一度ずつだけ送るようにしていた。あまり送るとマスターに心配かけてしまうだろうから。でもどれだけメールのやりとりをしても、この寂しさは埋まらないと気づいている。メールがマスターの代わりになることはない。声も聞こえないし、温度もないのだから。
 誰もいないぴかぴかの部屋は、よそよそしい感じがして、一層切なさに拍車をかける。かすかに外の音が聞こえるだけの静かな部屋にいることがたまらなく嫌になった。
(なんだかこのまま寂しさのあまり消えてしまいそうだ……)
 ぼんやりとそんな思いが頭をよぎった。そこではっとして、俺はぶんぶんと頭を振る。
 消えてしまったら、もうマスターと話したり出かけたりすることができなくなってしまうじゃないか。せっかく卑怯の歌も教えてもらったのに、まだカラオケに行ってないからマスターとデュエットするという願いも叶っていない。それに、この間みたいに抱きしめてもらうこともなくなってしまう。そういえば、マスターの胸は柔らかかったな。ただ柔らかいだけじゃなくて、なんというかぐにっていう不思議な感じがした。人間の男性が女の人のおっぱいが好きだってのはよく聞くけど、俺もその気持ちはよくわかった。直接言ったら蹴り飛ばされそうだけど、いつか機会を窺ってもっとしっかり触ってやるんだ。
 うん、よし! ちょっと浮上した!
 俺はすっくと立ち上がると、部屋の中をうろうろする。
 マスターが帰省することなんて今後もあることだ。その度に寂しさで消えそうな気分になっていたら、俺の身がもたない。無理矢理にでも気分を盛り上げて、マスターが帰ってくる時に元気に迎えを行かないと!
 とはいえマスターが戻ってくるまではマスター成分の補給はできない。しかし俺にはマスターと歌の他にもう一つ大好きなものがあるので、そっちを自力で補給して明日まで凌ぐのだ。それしかない。
 俺は財布の中身を確認すると、家を飛び出した。いつも行くコンビニを通り過ぎる。百円前後のアイスだって好きだけど、今日みたいな日は普段は食べられないようなアイスを食べるに限る。時間をつぶすのも兼ねて、店舗に行かないとならないアイスにするのだ。電車もバスも使わない。歩いて往復すればそれだけ気が紛れて、夜がくるのが早くなる。そしてもう一晩だけ越せれば、マスターに会えるんだ。
 二時間近く歩いて、俺は目的のアイス屋に行った。そこでキングサイズのトリプルを頼む。こんなに値の張るアイスを食べたのは初めてだ。しかしこれを買うのは俺のアイス代から出しているので何も問題はない。
 ゆっくりとお店でアイスを堪能したので、俺は家に帰ることにした。お店にいた時には真っ青な空にギラギラと輝く太陽が照っていたけれど、家まであと半分というところでふいに雲がすごい早さで空を覆いだす。朝は晴れているのに、いきなりものすごい量の雨が短い時間に降るということが最近多いのだけど、きっと今日もそうなるのだろう。
 でも別に雨が降っても濡れるだけだし、濡れたからって俺は病気になったりしない。PCソフトとしては濡れたら壊れてもおかしくはないだろうけど、こっちの俺は濡れても平気だ。濡れて壊れるならとっくに壊れているだろう。なにしろ俺は炊事や掃除をしているんだから。
 思っていた通り、粒の大きな雨がいきなりぼたぼたと落ちてくる。行き交う人たちが焦ったように近くの店の中に逃げ込んだり、傘をさしたりしていた。
 雨の勢いは強く、あっと言う間にずぶ濡れになる。冷たくはないけれど、服が肌に張り付いて気持ちが悪い。それにスニーカーが水を含んで、足をつくたびにぐしょっという音がした。
 帰ったら洗濯だな、なんてことを考えながら俺はまっすぐ家を目指す。アパートが見えてくる頃になると雨は小降りになり、雲の隙間から光が見え始める。今回の雨もやっぱりすぐにあがってしまった。どうせなら俺が到着してから降れば良かったのに、なんて思いながら鍵を開ける。中に入ると、きゃんという声が聞こえた。
「え?」
 下を向く。と、小次郎さんが尻尾を振ってちょこちょこと近づいてきた。
「あれ……? 小次郎さん……?」
 なぜここにいるのだろう。帰ってくるの、明日じゃなかったっけ?
「カイト、帰ってきたの……って、ずぶ濡れじゃない!」
 部屋から顔をのぞかせたマスターが、大きく目を見開く。
「毎日のように夕立降ってるのに、傘も持たずに出かけたわけ!?」
 バカじゃないの、と言いながらマスターは洗面所に駆け込む。タオル持ってくるからそこから動くな、と付け加えて。
 待っている間にも、髪や服からぼたぼたと水滴は落ちる。足元には水たまりが出来ていた。でも俺はそれどころではなくて混乱していた。
 マスターが帰ってくるの、明日だったと思っていたけど……俺、聞き間違えていたんだろうか。それともこれは幻か。マスター恋しさのあまり、どっかおかしくなってしまったのだろうか。
「ほら」
 バスタオルを放り投げられる。受け損なったそれが俺の顔に覆いかぶさった。もふっという感覚がする。幻覚のタオルならこんなにリアルな感触はしないだろう。ということはこれは現実か。
「帰ってくるの、明日だったと思ってたんですけど……今日でした?」
 とりあえず顔の水気を拭いながら聞くと、マスターは呆れたように腰に手をあてた。
「迎えがこなかった時点でメール読んでないの確定だと思っていたけど……やっぱりそうだったのね」
「え? メール?」
 メールチェックを朝にした時点ではマスターからの朝の挨拶しかきていなかったけど……。でもマスターがそう言うってことは、そのあと送ったってことだよね。
「明日だと駅まで送れる人がどうやらいないってことがわかったから一日早く戻ることにしたの。あっちって交通の便が良くないから、車がないとどうしようもないんだもの。昼前に到着時間書いたメール送ったけど、その時からいなかったわけ? 一体どこ行ってたのよ」
 昼前なら出かけたあとだ。だけど俺は携帯電話を持っていないから、外出先でメールをチェックすることはできないのだ。なんて間が悪い。小次郎さんのケースと荷物を持ってアパートまで戻るのは大変だっただろう。重いだけじゃなくてかさばるし。
「マスターがいなくて暇だったので、歩いてアイス屋さんにアイスを食べに行っていました」
 俺は済まなく思いながらも正直に答えた。するとマスターはふう、とため息をつく。
「……それなりに楽しく過ごしていたようで安心したわ。とりあえずそのびしょぬれの服は洗濯機に入れておいて。こっちも洗濯物があるから洗っておくわ」
 ひらひらと手を振るとマスターは踵を返しかけたので、俺は手首をつかんで引き止めた。
「あの、マスター!」
「なに?」
 マスターは振り返る。
「お帰りなさい。楽しかったですか?」
 お出迎えができなかったのは不覚だ。おまけにお帰りなさいも言い損ねていた。なので遅ればせながらそう言うと、マスターは一瞬きょとんとしたが、苦笑を浮かべる。
「うん、楽しかったよ。あ、そうだ」
 マスターは携帯を取り出すと、なにやら操作して俺に画面を見せてきた。
「見て見て、かわいいでしょ」
 そこには小次郎さんと同じ色の子犬が四匹写っていた。マスターは次々と切り替えて他の写真を見せてくれるけど、どれもこれも犬の写真だった。たまに人間の手足が写っているけど、これじゃあお父さんやお母さんの一部だとしても、一部すぎて俺には見分けがつかない。
「この子犬は?」
「小町の子供だよ。小町は小次郎の……姉なのか妹なのか知らないけど、同じ時に生まれた姉妹なの」
「小次郎さんの姉妹の子……」
 マスターはにこにこしながら説明する。
「小次郎はお祖父ちゃんのとこからもらってきた子なのよ。だから小次郎も久しぶりに身内に会えたってわけ。あんまり覚えていないようだったけどね」
 そっか。小次郎さんを無理をしてでも連れ帰ったのは、そういう理由もあったんだ。小次郎さんにもちゃんと血のつながった家族がいるんだ。
「小次郎さんはお父さんにはならないんですか」
 もこもこした子犬たちを眩しい思いで見ながらたずねた。小次郎さんの姉妹がお母さんになれるのなら、小次郎さんだってお父さんになれる年なんだろうと思って。
 するとマスターは難しい表情で唸る。
「生まれた子の引き取り先にあてがあるんならお見合いもさせてみたいんだけど……。わたしだって小次郎の子、見てみたいもの。でも正直難しいかなって。一度に数匹生まれるみたいだし、費用もかかるし、もし生まれた子全部の面倒を見るのなら責任も今以上に大きくなるしね。そうでなくてもまだまだ手のかかる大型犬が増えたものだから、余裕がないだろうな」
「マスター。もしかしてその大型犬って、俺のことですか?」
「うん」
 あっさりとマスターは頷いた。
「お、俺は犬じゃありませんよ、マスター!」
 抗議をするも、マスターはあははと笑って部屋に戻ってしまった。
「もう、マスターったら」
 俺は頬を膨らませる。でも俺の心はさっきまでの雨模様とは打って変わって雲ひとつない青空になっていた。マスターの笑顔と楽しげな声が俺の気持ちを晴れ渡らせる。
 俺は軽い足取りで洗面所に向かった。濡れた服を脱いで、新しいタオルでもう一度頭を拭く。でも体と違って髪の毛はすぐに水気を飛ばすことはできないので、一度パソコンに戻ることにした。
 着替えがないので腰にタオルをまいてリビングに行く。パソコンに電源を入れ、起動が完了するのを待っているとマスターの部屋の扉が開いた。
「そうそうカイト、冷蔵庫におみやげの……って、あんた何してるのよー!」
 マスターは眉をつりあげて叫ぶ。
「パソコンに戻ろうかと」
「バカー! 濡れたまま入ってPC壊れたらどうするのよ!」
 マスターは顔色を青くした。
「壊れ……ますかね」
「壊れないとでも思うの!?」
「でも、本来俺に属さないものはパソコンの中には入り込まないようですし、だから水分はこのまま残って……あ」
「で、まとまった水分がその辺に溜まって、キーボード一帯を水浸しにするわけ? 本体の方にだってかからないとは限らないし」
 その通りですね。
「乾くまで待ちます」
「あのねカイト、うちにはドライヤーというものもあるんだけどね」
 マスターは額を押さえる。そういえばそうだった。自分では使ったことがないので、忘れていた。
「使わせて……いただきます」
「どうぞ。それより、シャワー浴びて着替えて髪乾かした方がいいんじゃないの? 雨水ってけっして綺麗なものじゃないのよ」
「そうなんですか、透明なのに?」
「そうよ。特に都会じゃ排ガスだのなんだのが混ざってるんだし、風邪引くことはないにしても、そのままっていうのもね……」
 マスターの心配げな表情に俺も心配になった。
「じゃあ、シャワーやってみます」
 俺は洗面所に逆戻りする。浴室に足を踏み入れると数日使っていないこともあってからりと乾いていた。腰に巻いていたタオルを浴槽の縁に置き、シャワーヘッドを手に取る。掃除をするために使っているのでシャワーの使い方はわかるけれど、身体を洗うのは初めてのことだった。
 どんな感じなんだろうと少し緊張しつつ、それから俺は洗い場にしゃがみこんだ。このシャンプー、コンディショナー、ボディソープという似たような形のボトルはどんな順序で使えばいいんだろうか。マスターはお風呂に入るとき、これ全部使っているみたいなんだよね。
 容器を一つ手にとって匂いをかいでみる。ふんわりとした甘い香りがした。この匂い、マスターからもしているな。
「カイト、着替えは置いておくからね」
 すりガラスになっているドアの向こうから、マスターが呼びかけてくる。
「あ、マスター、これってどういう順番で使えばいいんですか?」
 出ていく前にと、ボトルを片手に咄嗟にドアを開ける。マスターは俺の着替えを抱えるように持ったまま、動きを止めた。みる間にその顔は赤くなる。
「この……アホー! 前くらい隠せ、バカ!!」
「え? あああっ」
 あわてて俺はタオルを取った。でも俺が隠すより先にマスターがばしんとドアを閉める。
「マスター、ごめんなさーい!」
 謝るも、マスターは洗面所を出てしまったので聞いていたのかもわからなかった。どうして俺ってこう考えなしなのだろう。いやでも、俺は見られても全然恥ずかしくはないんだ。だって俺のすべてはマスターのものなんだから。ただマスターは俺の全裸は見たくないみたいなので、そういう見たくないものを見せてしまったことについては悪いなとは思う。
 しかしご機嫌を損ねてしまったのは確実なので、早急に回復させなければならない。どうしようかと考え込んでいると、かすかに洗面所のドアが開く音がした。うん、と思って顔を上げると、すりガラスの向こうにマスターの陰が映る。
「シャンプーは頭を洗うものでコンディショナーはその後に使うの、で、ボディソープは身体専用! わかった!?」
 早口で言うだけ言うと、またすぐに引っ込む。
 あんまり早口だったのであっけに取られた俺だったけれれど、すぐにマスターの意図に気づく。あんな状況だったのに、ちゃんと俺の疑問に答えてくれたんですね。
 すりガラスの向こうだったので表情なんて見えなかったけれど、きっと、顔、赤かったんだろうな。
 思い浮かべるだけでおかしくて笑いがこみあげてしまう。
 ああ、俺のマスターはなんて可愛い人なんだろう。





これは、お題「うっかり開けたドア」をマスター視点で書かねばなるまいな(笑)



Episode 12へ   目次   Episode 14へ