もうじき学祭近い十月。作品展示のための作品を仕上げるために普段より少々遅く帰宅したわたしを、カイトは喜び勇んで出迎えてきた。
「おかえりなさい、マスター。あのあの、聞いてください!」
「ただいま……。どうしたの、ずいぶんご機嫌じゃない」
 遅く帰って不満がられたことはあるが、その逆はない。昼間によほどの楽しいことでもあったのだろうが、一体なにが起きたというのだろう。
 靴を脱いで鞄を置きに寝室へと向かう。カイトは親鳥のあとをついていく雛鳥よろしくわたしの後ろをついてきて、抗議するように叫んだ。
「マスター待って、話を聞いてください!」
「まさか玄関で立ったまま聞けっていうわけ? こっちは帰ってきたばかりなんだから、ちゃんと聞いてほしかったら少し待ちなさいよ。でなければこっちのことはいいからとにかく話せばいいじゃない。別に聞こえないわけじゃないんだし」
 少しは落ち着けということをわからせるよう、わたしは眉をひそめた。
 カイトは足をとめると少し唇を尖らせたがやがて――。
「すぐご飯にしますか? それともお茶でも飲んで一休みしますか?」
 と主夫モードに切り替わる。
「おなかすいたからご飯にする」
 わたしが答えると、カイトはこっくりと頷いてキッチンへ行った。
 ……本当に、何があったんだ?
 今更引き留めるのも間抜けな気がしたのでそのまま行かせたが、わたしの頭の中は疑問符でいっぱいになった。

 ほかほかごはんに豚肉の生姜焼きとたっぷりキャベツ、それから酢の物に味噌汁という夕食がテーブルに並ぶ。
 向かい合って座り、いただきますの挨拶をするとわたしは味噌汁を一口飲んだ。
 カイトは酢の物を口に入れると、ちらちらとこちらを伺ってきたので、よほど話したくて仕方がないのだろう、とわたしは促すことにした。
「それで、何があったの?」
 カイトはぱっと顔をあげるときらきらと表情を輝かせて高らかに告げた。
「マスター、俺、小次郎さんのパパになったんですよ!」
「……はぁ?」
 意味がさっぱりわからず、わたしは思い切り語尾上がりの声をあげる。
「小次郎って、うちの小次郎のこと? それしかいないだろうけど」
「そうです。小次郎さんのことです。ねー、小次郎さん、俺、小次郎さんのパパになったんだよね。そしてマルちゃんとケンタくんとそのママさんたちとお友達になったんだよね」
 カイトはテレビの前で骨の形をしたおもちゃをくわえて遊んでいる小次郎に全開の笑顔を向けた。しかし小次郎はおもちゃに夢中でカイトのことなど一別もしない。
「……えっと、それって」
 マルちゃんとケンタくんとやらはいい。だがママさんというのはなんだ!?
「逆ナンでもされたの?」
 変な女に引っかかったんじゃないでしょうねと不安に思って聞き返すとカイトはあっけらかんと答えた。
「マルちゃんはマルチーズで、ケンタくんは柴犬だそうです」
「いや、そっちじゃなくてね……」
 脱力するも、とりあえず逆ナンパとかではなさそうな感じがしたので思わずほっとする。
 小次郎を散歩させている時に、犬の飼い主つながりということで知り合った人ができたのだろう。犬つながりで顔見知りになった人は本人の名前よりも犬の名前で覚えることがよくあるから、その流れでカイトが小次郎パパなのだと思う。女の飼い主という意味でママ、同じく男の飼い主という意味でパパと呼んだりするのは、そこまで珍しいことではない。しかしカイトは実際には小次郎よりも年下だからパパ呼びはなんだか複雑な気分だ。
 それよりもその知り合った人たちはきっとご近所の人なのだろう。おかしな対応をしていないかと不安になったわたしは、もっと詳しく話すようカイトに言うと、カイトはにこにことしながら説明した。
 カイトは午前中の仕事(主に朝食の後かたづけや掃除だ)が終わると小次郎を連れて散歩に出かける。これは別にわたしが小次郎の散歩をカイトに押しつけているというわけではない。カイトは家事をするといっても、二人と一匹の生活ではどうしたって時間が余ってしまう。そして小次郎は散歩がとても好きな犬だった。もともと休みの日には朝と夕方に散歩に連れていくこともあったのだが、その時の喜びようといったら普段の比ではないのだ。
 こうして一人と一匹の利害が一致して午前中の散歩時間というものが生まれた。
 そして日課となった散歩は近くの公園まで行って、一周するというもの。結構大きい公園なので、ゆっくり歩けば往復で一時間くらい時間をつぶせる。その公園で事件は起こった。
 カイトがいつものように公園を歩いているとふいに背後から大きなベルの音が鳴った。びっくりして反射的に振り返ったところを、自転車がすごい早さで通り過ぎていく。小次郎も驚いたのだろう、いきなり走りだそうとしたためにリードが引っ張られてしまった。ただでさえ振り向いている途中という不安定な体勢をしていたカイトはバランスを崩して尻餅をついてしまう。その拍子にリードを握る手が緩んでしまい、再度しっかりとつかむ前に小次郎が逃走してしまった、ということだった。
「で、逃げた小次郎を押さえてくれたのがそのマルちゃんとケンタくんの飼い主さんたちだと……」
「はい。ちょうど小次郎さんが逃げた方向にいたんですよ。すごかったです。素早かったんですよ。マルちゃんママさんがケンタくんママさんに自分の持ってたリードを渡して、小次郎さんがすっとんできたところを捕まえようとしたんです。でも小次郎さん、よけちゃって。そうしたらマルちゃんママさんはそのまま小次郎さんのことを走って追いかけて捕まえてくれたんですよ」
 その間カイトは犬と人間の追いかけっこをぼーっと眺めていたそうだ。そういう時はあんたも走りなさいよと言うと、カイトは展開の素早さについていけなかったと情けなさそうに答えた。
 それでもようやく我に返り、小次郎を受け取りにいくと飼い主さんたちは笑いをかみ殺したような顔でカイトに小次郎を返してくれたそうだ。きっと色々と残念なイケメンだと思われたのだろう。
 小次郎に逃げられた経緯はばっちり見られていたそうで、公園内を自転車であんなスピードで走るなんて危険だと憤慨していたというが、しかしカイトの鈍くささもあってこそ起きた喜劇だろうとわたしは思う。
「話はとりあえずわかった。それでその人、小次郎を捕まえた時に服汚したりとかはしなかった?」
 そうであるなら、お礼とお詫びをしないといけないだろう。小次郎が逃げたことなんて今までなかったから、帰巣本能がどの程度あるかわたしは知らないのだが、自力で帰ってこれなかった可能性もあったのだ。このあたりは住宅地で細い路地も多い。探そうとしても探しきれるかどうか。だからマルチーズの飼い主さんには本当に感謝だ。
「それは大丈夫でした。怪我もしていません。でも俺はリードをもっとしっかり握っているのよと注意されてしまいました」
 カイトは肩を縮こませる。
「それは確かにその通りかもね。たしか適切なリードの持ち方とかあったと思う。あとで調べておこうか」
 小次郎を逃がしかけたとはいえ、事情が事情だ。カイトを責めるのは筋違いだろう。悪いのは暴走自転車だ。
「はい、マスター」
 怒られると思っていたのか、ほっとした様子を見せながらも、また小次郎さんが逃げてしまったら大変ですからねとカイトは真剣な顔で頷く。
「で、その飼い主さんたちと友達になったって?」
「そうなんです。なんだか自分たちの連れている犬の紹介とかしているうちに、うちのグループに入らないかって話になってしまって」
「それで、ほいほい受け入れちゃったの?」
 カイトがおばさま集団のグループに入ってどうするんだ。あ、いや、おばさまかどうかはわからないか。犬を口実にカイトに近づこうとしている若い女かもしれない。うわ、なんだかもやもやする。
「マルちゃんやケンタくんの飼い主さんって年いくつくらい?」
「二人ともマスターのお母さんと同じくらいですよ」
 ということはやはりおばさまの部類に入るか。だからといって油断をしていいわけではないだろうけど。
「それで、二人ともこのあたりに住んでいる犬の飼い主さんとたまに集まって遊ぶっていうグループに入っているんだそうです。ほら、日曜日に公園で時々見かけるじゃないですか」
「ああ……あの人たちなの」
 それならわかる。大型犬から小型犬まで、十頭前後の犬とその飼い主たちが集まっているのを何度か見かけたことがあった。あそこの公園の芝生はペットの立ち入り禁止になっているので、集まったとしてもなにかできるものでもないはずなのだが、あんなに集まってなにしているんだろうとは思っていたのだ。
「みんなでドッグランに行ったり犬も入れるカフェに行ってランチをしたりするんだそうです。あとは情報交換したりとかしているそうですよ。動物病院や美容院の評判とか、小犬のもらい手はいないかとかお見合い相手の相談だとか……」
「へえ……」
 動物病院か。近くにある場所は把握しているけど、腕前が良いか悪いかはそういえば考えたことがなかった。そういうのを教えてもらえるのはいいかもしれない。けれど……。
「カイト、そのグループに入るって、もう返事したの?」
 あのグループは若い人がいないような感じだったから、そういうところに入るのは、色々しがらみが多くて面倒そうな気がする。そうでなくても挨拶以上の近所付き合いなんてするつもりはないのだ。
 やっかいなことになるのはごめんだと、軽く眉をしかめるとカイトは首をかしげた。
「入ったことになるのかなぁ。よくわからないです。気が向いたら集まりに参加してね、って言われただけなので」
「ふうん」
 つまり、スルーしたければすればいいってことなのだろうか。
「でもその人たちは俺たちのこと、前から知っていたそうなんですよ。俺のこれのせいで」
 とカイトは髪を一房つまみ上げた。
「ああ、なるほど……」
 カイトは公園によく行っているのだ。これだけ目立つ特徴があれば、覚えられもするだろう。
 それからふと思い出したようにカイトは続けた。
「そういえば、たまに一緒に散歩している女の子もこの近くに住んでいるのかって聞かれました。彼女だと思われていたので、彼女じゃなくて従姉妹で、一緒に住んでいるんですよと答えました。小次郎さんは、その人の犬ですとも言いました」
「わたしのことも覚えられているわけ?」
「俺とマスターと小次郎さんの三人組で覚えられていましたよ」
「うわぁ、どうしよう。それなら知らん顔なんてできないじゃない」
 わたしは頭を抱えようとして、食事中であることを思い出した。いけない、ぜんぜん食べてない。せっかくの料理が冷めてしまう。
 生姜焼きを咀嚼しながら、今後の対応を考える。
 まずは小次郎を捕まえてくれたことに対してのお礼は言った方がいいだろう。カイトもしたとはいえ、正式な飼い主はわたしなのだから。
 かといって、わざわざ相手に連絡して家を訪ねるというのは大げさすぎる。向こうも犬を飼っているというのだから、向こうが散歩する時間あたりを狙ってわたしが公園に行く、というのがベストかな。
「カイト、その人たちっていつもあんたたちが散歩に行く時間に公園にいる?」
「いつもというわけではないですけど、結構よく見かけていました。話をしたのは今日が初めてでしたけど」
「そっか、なら、明日はわたしも行くわ」
「どうしてですか?」
 心底不思議そうにカイトは目を丸くする。
「飼い主としての礼儀でしょう。それにそのグループっていうのがどういうものか、確かめておきたいし」
 そして関わるのはやばそうだったら全力で逃げないといけない。カイトに任せているとどこでどう話がこじれるかわからないし。
「でも、学校は?」
「午前中は休むわ。明日の授業は出席よりレポートの出来の方が重視されるものが多いし、一回くらい平気でしょ」
 カイトはもごもごと口の中で何かを言っていたが聞き取れなかった。たぶんサボるのはよくないとかなんとかだろうけれど、わたしが先手を打ったので強くでられないのだろう。

 次の日、カイトがいつも出かける時間まで待ってからわたしたちは家を出た。
 まだ暑いと感じる日はあるけれど、夏とは明らかに違うからりと明るい日差しを浴びて、公園までの道のりを歩く。
 小次郎の散歩に一緒に行くのは珍しいことじゃない。なのにカイトは妙に浮かれた様子だった。個人の知り合いというものができたのがそんなに嬉しいのだろうか。それまでわたし以外の人間といったら、お店の店員というものくらいしか接点がなかったからな。
 だけどその人たちとカイトがつき合うことを認めてもいいのだろうか。カイトが人ではないことは、彼がPCに出入りしている様子でも見られなければ、気づかれることはないだろうとは思う。カイトがどれだけとんちんかんな言動をしたとしても、それはカイトの頭が残念なだけだと思われるだけであって、よもや人間ではないから、とは思うまい。どっちかというと、そういう発想が先にでてきたとしたらそっちのが異常だと思う。
 とはいえ、変な奴だと思われてひどいことを言われたりしたらカイトは傷つくだろう。彼を守るためにはあまり他人と交流させない方がいいのではないかと思うが、それはやはり過保護だろうか。その飼い主さんたちやそのグループが良い人たちであれば、カイトの世界も少しは広がる。カイトのためにはその方がいいように思えるけれど、やはり心配なのは正体がばれた時のこと。それを回避しようとするならやはりカイトは余所の人間とは接点をなるべく持たせないようにするしかないだろうが……。これでは堂々巡りだ。いったい何が最善なのだろう。ああ、頭が痛くなってきた。
 公園は平日の午前中ということもあって、小さな子供を連れた母親が多かった。わたしたちのように犬の散歩をさせて人もちらほら見かける。
 何度か犬連れの女の人とすれ違ったが、いずれもカイトが言っていた人たちとは連れていた犬の種類が違うので別人だとすぐにわかった。しかし犬連れの人を見かけるたびに心臓が飛び出すのではないかと思うほどどきっとしてしまう。自分の小心ぶりが憎い。だけどしゃんとしなくては。わたしはマスターなんだから。
「あ!」
 カイトはふいに立ち止まると大きく片手をふりあげた。結構離れているけれど、向こう側から犬連れの二人組がやってくるのが見える。犬種はちょっと遠いのではっきりとわからないけど、マルチーズと柴犬のような感じがする。あれが昨日の人たちか。
 二人組はカイトの声にこちらに顔を向けた。なにやら顔を合わせて二言三言言葉を交わしたあと、小さく手を振り返してくる。
 お互いの距離が数メートルまで縮まったところでカイトが小走りで二人の前に駆け寄った。小次郎もマルチーズと柴犬が気になるようだが、カイトよりは落ち着いていて、わたしの横でまだおとなしくしている。
「おはようございます、マルちゃんママさんケンタくんママさん」
 結構な大声で挨拶するカイトに、二人はちょっと驚いたような顔をしたが、にこやかに返してくれた。
「おはよう、小次郎くんパパくん。おはよう小次郎くん」
 小次郎はちょっと声の方を見あげたが、人間の方にはあまり興味ないらしく、すぐに犬たちの方に近づいていった。マルちゃんやケンタくんも小次郎に興味があるらしい。喧嘩にはならなそうだと判断して、わたしはリードを少したるませた。これなら周りに迷惑を掛けない程度にじゃれあうことができるだろう。
 そんなことをしていると、にこにこしながらケンタくんの飼い主さんが声をかけてきた。
「今日はママちゃんも一緒なのね」
 ……カイトがパパだからわたしがママなのか……。思わず顔がひきつる。
 わたしは小次郎は家族だと思っていても子供だとは思っていないからママ呼ばわりはすごくもやっとする。そしてパパくんとママちゃんって呼び方はどうよ。
 けれど相手はわたしより年上の人たちだ。そして今後も何度も顔を合わせる可能性が高い。そういう人たちにママちゃん呼びはやめてほしい、というのは、ちょっと言いにくい。
 わたしはなんとか平静を装い、手前まできた二人に軽く頭を下げる。
「は、初めまして です。昨日は小次郎がお世話かけてしまったようで……すみませんでした。それから捕まえてくれてありがとうございます」
「あらいいのよー。あの自転車、本当にマナーが悪かったんだもの。小次郎くんがびっくりしてもしょうがないわ」
 マルちゃんの飼い主さんがなかなか豪快な笑いかたをして手を振った。
「小次郎くんママちゃんは学生さんなんでしょ。今日は休みなの?」
 ケンタくんの飼い主さんはサボりだったらちょっと感心しないなという感じの表情で聞いてきた。あー……、そういう反応がきたか。これなら土曜か日曜まで待ってもよかったのかもしれない。焦りすぎたかな。
「単位なら大丈夫です。普段はサボったりしていませんから。午前中の散歩はカイトがやってますけど、小次郎の飼い主はわたしですから、わたしもちゃんとお礼を言うのが筋じゃないかと思いまして……」
 言い訳がましく聞こえるかなとひやひやしていると、マルちゃんの飼い主さんがケンタくんの飼い主さんを小突く。ケンタくんの飼い主さんはばつが悪そうな顔になった。
「あ、責めたんじゃないのよ。ただ、仲がいいんだなあって思ってね」
「え?」
 仲がいい……。いや確かに悪くはないけれど。なんだこの反応は。
 と思っていたらカイトがぐいとわたしの腕を引っ張る。そしてその腕に抱きつくようにして満面の笑みを浮かべた。
「はい、俺たち仲良しですよ。俺は が世界で一番大好きです」
「そういうことを大声で言うなぁ!」
 二人は黄色い歓声をあげながら若いっていいわねだとか、あー暑い暑いだとか、言っていたが、カイトの発言にすっかり調子を狂わされたわたしは、その後どんな話をしたのかあまり覚えていなかった。ただ別れ際、二人に何かあったら相談するようにと、力説されてしまった。今はいろいろな相談機関もあるのだから、どうすることもできないのだと抱え込まない方がいいとかなんとか。とりあえず今のところ小次郎に関して相談したいことはないのだけれど、世話好きな人たちなのだという強い印象が残った。

 数日後、帰宅したわたしを、カイトは機嫌よく出迎えてくる。
「お帰りなさい、マスター。今日の夕ご飯はキーマカレーですよ。思い切ってナンも焼いてみました!」
「カイト、あんたマルちゃんたちの飼い主さんたちに何言ったの?」
 勢い良く靴を脱ぐと、その勢いのまま突進する。出てきたカイトとちょうど鉢合わせる格好になったので、ぐいとシャツの胸元をつかんだ。
「え?」
 きょとんとカイトは目を大きくする。
「なんか、うちのお父さんたちがあんたのことを虐待していたような風に思われてるんだけど!」
「へ!?」
 呆気にとられたようにカイトはしばし動きをとめる。だがすぐに回復してわけがわからないという顔になった。
「どういうことですか?」
「こっちが知りたいわよ。さっき帰りの途中でマルちゃんの飼い主さんと会ったんだけど――」
 買い物帰りらしいエコバッグを片手に下げたマルちゃんの飼い主さんに呼び止められ、わたしは世間話というものにしばしつき合わされた。そこでわたしは驚愕の事実を知らされる。
「あんたが両親を早くに亡くして、親戚の家――つまりわたしの家に引き取られたけど、もともと病気かなんかががあってまともに働くことができなかったのに両親亡くしたのがきっかけで精神病んでよけい働けなくて、だから代わりに家事労働することになって――というか、やらされていると思ってるんだろうなあ、あれは。それに食事なんかはカイトだけみんなと別にさせられているとか、お父さんたちがいる間は家の中も自由に動けなくて、外出も禁止になっているとか。あ、外出禁止は病気のせいもあるけど、厄介者が家にいることを近所に知られたくなかったからだと思われてた。で、そこまでいったらそれは立派に虐待だから、できればちゃんとしたところに相談した方がいいって真顔で忠告されたのよ」
 相談、というのは小次郎のことではなかったのだ。カイトのことだったのだ。
「えええええっ!」
「あんたが驚かないでよ!」
 気の毒そうな顔でカイトから聞いたという『 家の事情』を話すマルちゃんの飼い主さんに、どれだけわたしが驚かされたか。ところどころ、カイトがどう説明したのか、なんとなく想像がつく部分もあるが……だからといって虐待家族だと思われていたなんて、いくらなんでもそれはない。
 しかもカイトは、親類に理不尽な扱いをされているにも関わらずその人たちをかばうけなげないい子だと思われていた。そしてわたしはというと、
「両親のカイトの扱いのひどさを見かねて、進学で一人暮らしをするところをあんたのことも連れていったんだと思われていた。だからいとこ同士なのに一緒に住んでいるなんて珍しいことをしているんだって」
 ということなので、カイトの味方だと判断されているのだろう。
「どうしてそうなったんですか!」
「だからこっちが聞いてるんだってば!」
 カイトが叫び、わたしも怒鳴った。
「カイト、できるだけ正確に、あの人たちとどういう話をしたのか話してちょうだい。できるだけ最初の頃の方から」
 カイトはあの日以降も、散歩のたびにあの人たちと会っているようなのだ。ほかにも散歩グループ数人とも顔見知りになっているらしい。まだグループに参加すると決めたわけではないけど、所属しているのはご近所と呼んで差し支えがない人たちばかりだ。無視するのも気が引けるので通りすがったときにちょっと挨拶するくらいならしてもいいとカイトには言っていたけど……。もうその人たちにまでこの話が広まってしまったのだろうか。想像するだけでめまいがする。
 カイトは目を泳がせながらも記憶をさぐるように呻き、
「えっと、最初は自己紹介からしました。あの人たちも名字は名乗ったんですけど、この辺の人たちは犬の名前にママかパパってつけて呼び合うのが普通だから、俺は小次郎くんパパくんだねって言われて。パパってお父さんのことですよね。俺がパパならマスターはママだってことですよね。前からマスターは俺のことを家族だっていってくれているけど、でも俺はマスターのお兄さんでも弟でもないし、家族といってもどういう関係だと思えばいいのかなぁって、思っていたんです。だからこの人たちの前ではパパとママと小次郎さんっていう形の三人家族になれるんだと思ったら嬉しくて。マスターのことも聞かれたから、俺、どれだけマスターのことが大好きかいっぱい話しました」
 ……おい。
 ああでもそうか、それで『仲がいいのね』なのか。
 それから聞かれるのを幸いと、カイトはわたしの実家と今の生活の違いをべらべらとしゃべったのだそうだ。
 だが人間ではなく、両親との面識がなかったことはふせなければならないので、結果的にわたしの両親がカイトを虐待していると受け取られてしまう描写になってしまったのだ。
 しかし外出禁止もカイトがわたしの両親から無視されることになったのも、元はといえば全部わたしのせいではないか。わたしが二人に知られないようにしたのだから、両親に責任は無い。だけどそれをどう弁明すればいいというのだろう。
 だが誤解を招いた最大の要因は、おそらくこれだろう。
 昼間から犬の散歩をしているカイトに、飼い主さんたちは仕事をしていないのかという当然の疑問を持った。そして問われたカイトはこう答えたのだ。
 カイトはその時の状況を再現してくれた。胸に手を当てて悲しげに眉を寄せる。その姿はまさに薄幸の美青年といった風情だった。
「問題があって働くことができないんですって答えました。役にたてることはあまりないし、俺がいなくてもマスターはやっていける人だけど、でも一緒にいていいよって言ってくれたから一緒にいさせてもらっています。今はとても幸せですって」
 わたしは大きくため息をつくと、その場にしゃがみこんだ。
 問題があって……なんていうから精神病んでるだとか病気持ちだとか思われたのだろう、とある意味でカイトの被害者である飼い主さんたちにわたしは同情した。
 それに幸せですって……。こういう話の流れではあまり使わないと思うのだが。なのに使ってしまったからカイトのこれまでの人生が大げさなほど不憫な感じで彩られてしまったのだ。ひとつひとつは間違ったことを言ってないのに、真実から少しずつずれてしまい、結果としてそのずれが大きくなりすぎて、盛大に誤解されることになったということか。しかし、通りすがりの相手とかならともかく、今後もつきあいが生じそうな近所の人にあまりよろしくない誤解をされたままというのは、後々とても困ることになりそうな気がする。できるだけ早く正さねば。しかし……どうすればいいんだ?
「あ、マスター、大丈夫です。ママさんたちと話すときには、ちゃんとマスターのことは名前で呼んでましたから」
 頭の上からおろおろとしたカイトの声が降ってくる。わたしがしゃがみこんだのは自分がわたしのことをマスター呼びしたからだとカイトは思ったのだろう。しかし、
「問題はそこじゃない……」
 とんでもないやっかいなことを引き起こしてくれカイトに、わたしは怒鳴る気力も失せてしまったのだった。





ママちゃんだのパパくんだの、正直書いてて背中がかゆくなった……。




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