そーっと聞き耳を立てる。
 ドアの向こうからは何も聞こえてこない。
 俺は拳を作って数度ノックした。マスターが起きていたら聞こえるけど、眠っていたら聞こえない程度の強さで。
 眠りが浅くて目が覚めるという可能性もないわけではないけど、細かいことは気にしないことにする。
 ノックしてからドアに耳を当てる。相変わらず無音だった。
 俺はゆっくりドアノブを回して隙間から部屋を覗いてみた。遮光カーテンを引いているものの隙間から日が入り込んいるので、薄暗いながらも視界は悪くない。部屋の片隅に寄せてあるベッドからは規則正しい寝息が聞こえてくる。それに合わせて上掛けも微妙に上下していた。
「マスター、九時ですよ。起きないんですか?」
 口の周りに両手をメガホンみたいに添えて、でも音量だけは絞って、俺はマスターに声をかけた。
 返事を待つ。
 マスターはうんともすんとも言ってくれなかった。
 こうなると予想はついていたので、俺はまたそっとドアを閉めるとさっさと次の行動を開始した。
 財布と折り畳み式の薄いエコバックをズボンのポケットにねじ込んで、家の鍵をとる。玄関に向かう俺の後ろを小次郎さんがついてきたので、外に出たそうな彼の小さな頭をなでた。マスターがまだ寝てるから静かにね、とささやいて、俺は部屋を出る。
 今日はマスターがお休みな日曜日だ。夕方からバイトはあるけれど、それまでは自由だ。
 こんな日はマスターも一緒に買い物や小次郎さんの散歩に行ったりするのだけど、昨日……じゃない、今朝は五時近くに寝たものだから、起きてくるまでもう少しかかるだろう。
 しかしマスターが起きるのを待ってはいられない。今日は午前中までの強力なタイムセールがあるので、マスターを置いてでも俺は行かなくてはならないのだ。そして帰ったらさすがにマスターも起きているだろうから、調教の続きをしてもらうのだ。
 俺はふっと一昨日からのことを思い出す。唐突にツボに入ったとかいう曲を聞かされて、怒濤の調教デーが続いている。一昨日からといっても、学校もバイトもあるマスターだから、一日にかけられる時間はあまりない。だけど今日は日曜日だからということで、昨夜バイトから帰ってからのマスターは、数時間に渡って俺のことを構って構って構い倒してくれたのだ。
 もちろん俺はマスターの生活がぐちゃぐちゃになるのを快く思いはしないので、朝になってからでいいだろうとは忠告したけど、マスターはやたらハイテンションになっていてまるで聞いてはいなかった。
 そしてお兄さんぶって忠告なんてものをしたものの、はっきり言って俺は嬉しくて仕方がなかった。だってこんなに激しくマスターに求められたことなんてこれまでなかったことだもの。
 ボーカロイドにとってマスターから歌をもらうということは、やっぱり特別なことなのだ。おしゃべりをしたり、一緒に行動をしたりするのも嬉しいけれど、そういったものとは段違いに自分が満たされていくのがわかる。マスターに必要とされている、愛されている、とひしひしと感じるのだ。
 愛とかいったらマスターはきっと頬をひくつかせながら「そんなものはない」というかもしれないけど、俺がそう受け取ったんだからしょうがない。
 なにしろ今朝、身だしなみを整えようと鏡を覗いたら、心なしか肌艶が良くなっているように見えたほどなのだ。俺は見た目の変化というのは起きないようなので――起きるのなら髪とか爪が延びたり髭が生えたって良さそうなものだけど、全然だし――この変化は気のせいだと言われれば否定することはできないのだけど、でもこれはやっぱりマスターの愛情のせいだと解釈しておいた。
 そんなことを考えている間にスーパーに到着する。
 ここは俺達が暮らすアパート周辺にあるスーパーの中では一番遠くにあるので、今日みたいな特売でもない限り足を向けることはないところだ。
 買い物カゴを手にとって中に入ると、すでに売場はお客さんでいっぱい。にぎやかなかけ声に明るいBGMとでお祭りみたいだった。
 早速買い物をしよう、とメモを確認していると、ぽんと背中を叩かれた。
「おっはようカイトくん。 ちゃんは一緒じゃないの?」
 振り向いた先にいたのは、犬の飼い主仲間のラッキーくん――ダルメシアンだ――のママさんだった。
「あ、おはようございます。 は起きる気配がなかったので、俺だけ来ちゃいました」
 最初の頃は小次郎くんのパパママと呼ばれていた俺とマスターだけど、マスターの決死のお願いにより、俺たちだけ名前で呼ばれるようになったのだ。学生であるということで大目に見られたっぽいとマスターはほっとした様子で言っていたけど、俺はパパと呼ばれなくなってちょっとだけ残念だった。
 ラッキーくんのママさんはにんまりと笑う。
「よっぽど遅くまで起きてたの? あんまり無理させちゃだめよぉ」
「俺じゃないですよ。 の方が張り切ってたんですから。まあ、俺も一緒になって調子に乗っちゃったんで、余計夜更かしすることになったんですけど」
 マスターがねぼすけなのは俺のせいじゃないけどやっぱり俺のせいなのかなと思いながら返すと、ラッキーくんのママさんはぽかんとした顔になった。
「あ……そうなの……。やっぱり……なんだか今日は妙に綺麗だなって思ったんだけど……本当にそれだったの。にしても今時の子ってずいぶんあっさりこういう話するのね……。ちょっとびっくりしちゃったわ」
「変ですか?」
 家の人の話をするのに今時もなにもないような気がするけど……と俺は首を傾げた。ママさんだって普通に子供が片づけしないだとか、旦那さんが全然話を聞いてくれないとかいう話をするのに。
 ラッキーくんのママさんは困ったような笑顔になった。
「いえ変じゃないけど、カイトくんにはあんまりそういうイメージがないし、日曜の朝っぱらからスーパーでする話でもないし……。あー、でも、カイトくん本当に今日はいつもと違うねぇ。よっぽど良かったのね。久々だった?」
「えっ、わかるんですか!?」
 思わず俺は声が大きくなってしまった。
「そりゃあ、わかるわよ。あなたたちよりよっぽど人生経験が多いんだし」
 胸を張るようにしてママさんは答える。
「ああ、そうですよねぇ。とにかく昨日っていうよりほとんど今日なんですけど、すごく良かったんですよ」
 人生経験ってすごい、と思いながら返事をするとママさんはいやぁだ、とかいいながらべしっと俺の腕を叩いてきた。
「痛いですよ」
「あら、ごめんねぇ。やだわー、カイトくんみたいな可愛い子と朝っぱらからこんな話するとか、やだわー」
 やだわといいながらもママさんはすごく楽しそうだ。
 それからママさんはお菓子売場にいるはずのお子さんを探しにいくということでそれからすぐ別れた。
 その後姿を見送ってから、やれやれともう一度メモを確認する。ここからなら卵売場が近いはずだから、まずはそこに行くことにした。
 早速向かった卵売場は特売品が普段の半値くらいになっているということもあって、ずいぶん大勢の人が集まっていた。俺は前にいた男の人の後ろに並び、手が届くくらいの隙間が開くのを待つ。あっちからもこっちからもほかの人たちが腕を伸ばしてくるので、なかなかタイミングがつかめない。落としても壊れないようなものならちょっと強引でも前に出るんだけど、さすがに卵はそうはいかないだろう。
 とはいえ、目的の物が手に入ればいつまでも留まっているものでもないので、さほど待たないうちに俺は前に出られた。前にいた男性が卵を手に取りその場を離れようとしたので、俺はその空いた空間に体をねじこませる。ちょっと肩が振れてしまったので、すみませんと言いながら軽く会釈をした。
「あ……」
 男の人はぎょっとしたように俺のことを見つめてきた。青い髪に驚いたのかなと思い、再び会釈をしてその場をやり過ごす。さすがに面と向かって何かをいわれることなどあまりないけれど――あまりないだけであって、全然ないわけじゃないのだけど――俺の髪の色はやはり目立ってしまうのだ。
 ようやく卵を手に入れたので、さあ次のところへ行こうと卵売り場を抜ける。ふと視線を感じたのでそっちの方向に目を向けると、さっきの男の人が俺のことをじっと見つめていた。
 見た目は俺と変わらないくらいの年の人で、長袖Tシャツにダメージジーンズというラフな格好だ。身長も俺と同じくらいありそう。睨んでいるというよりも、こっちに声をかけたいけどできない、そんな様子をしていた。
(……?)
 なんだろう。ちゃんと謝ったのに足りなかったんだろうか。絡まれたら、いやだなあ。
 見た目でひとを判断しちゃいけないとかいうけど、やっぱり人はひとを見た目で判断するんだと俺は思ってる。だって、マスターの迎えに夜に駅に向かった時に、酔っぱらった男の人にちゃらちゃらしてるだのなんだの、いきなり絡まれたこともあるのだもの。俺はちゃらちゃらなんてしていないのに。髪が青いのは生まれつきだ。染めているわけじゃない。マスター以外の人に、そんな話が通用しないのは、わかっているけれど。
 うきうきした気分に水を差されたように感じて、俺はふいと顔を背けるとその場を去った。追いかけられたらどうしようかと思ったけれど、そういうことは起こらなかった。
 買い物を終えてアパートに戻ると、まだマスターは寝ているようで、リビングは静まりかえっていた。俺は音を立てないように買ったものを冷蔵庫に入れる。暇を持てあましていた小次郎さんが足下にまとわりついてくるのを踏まないようにしながら。
 そうしているとマスターの部屋のドアが開き、彼女は眠そうに目をこすりながらふらふらと出てきた。
「カイト、どこかに行ってたの?」
「あ、おはようございます、マスター。午前中までのタイムサービスが結構良かったのでスーパーに行ってました」
「そっか。おかえり、カイト。ついでにおはよう」
 言いながら彼女ははあくびをする。
「朝っぱらから元気ね」
「朝って、もうそろそろお昼ですよ、マスター」
「え? ……あー、そうだね」
 マスターは時計を見やる。時刻は十一時過ぎ。朝というには遅い時間だろう。
 マスターはぐっと背伸びをするも、ダルそうに顔をしかめる。肩のあたりから骨の鳴る音がした。
「なんか疲れが取れないなぁ。まだ眠い……」
「無茶な夜更かしをするからですよ。ご飯の用意をしようと思っていたんですけど、もう一眠りしてからにしますか?」
 早く調教してもらいたいのはやまやまだけど、マスターの体調が万全でないのなら無理をさせてはいけない。そう思って駄々をこねるのを堪えて言うと、マスターは食事にすると答えた。
 朝ご飯兼昼ご飯を食べてから、マスターはまた俺の調教を進めてくれた。昨夜――というよりはほぼ今朝だけど――ほどテンションは高くなかったけれど、意欲は相変わらず続いていて、こんな夢のような日がいつまでも続けばいいのに、と俺は思った。


 また少し夜更かしをしてしまい、明けた月曜日。
 学校から帰ってきたマスターは、帰ってくるなり俺のことをまじまじと見上げてきた。
「マスター?」
 夕ご飯の仕込みをしていた俺は挙動不審なマスターに、一体どうしたのだろうと眉を寄せる。
「わかんないなぁ」
 マスターはそう呟くと、首を傾げながら鞄を置きに自分の部屋に入っていった。
 わからないのはこっちですよマスターと言いたかったが、疑問はそれからほどなくして解けた。
 上着を脱いできたマスターが、確認するといった様子で昨日行ったスーパーがどこだったのかと聞いてきたのだ。俺は素直に答えると、やっぱりと彼女は一人で頷く。
「それがどうかしたんですか、マスター」
「それがねぇ、うちのサークルの先輩が昨日スーパーでカイトだと思うひとを見たっていうから。でもわたし、はっきりとどこに行ってたのかわからなかったから多分カイトだろうとは答えたんだけど……。場所、同じだからやっぱりカイトなんだろうね。それで先輩がカイトがなんだかキラキラしたオーラを発していたっていうから、なんだそれはと思って」
「キラキラしたオーラ?」
「うん。わたしもよくわからないんだけど、目を引く感じだったって。芸能人が目の前にいたらあんな感じなのかもって言ってたけど」
「はあ……」
 芸能人なんて一度も会ったことがないのでその例えでは俺には理解できない。すぐ下の妹ならもう立派に電脳アイドルと言っていいくらいだから芸能人といっても過言ではないと思うんだけど、まだミク本人には会ったことはないしなぁ。……会う日がくるかどうかもわからないしね。
「あ、そういえば、昨日ラッキーくんのママさんにもいつもと違うねって言われました」
「そうなの? 違うってどう違うの?」
「具体的なことは言っていなかったと思いますけど……たぶん原因があるとしたらマスターにたくさん構ってもらえたせいじゃないかなぁ」
 詳しく、とマスターが聞いてきたので、できるだけ昨日の会話そのままを再現するように俺は答えた。俺にはわからないことでも、マスターならわかることもあるだろうし。
 話を聞いていたマスターは、どんどん顔を俯かせてゆき、最後にはしゃがみこんでしまった。
「あんたはまた……」
「マ、マスター、俺、何か失敗してしまいましたか!?」
 この反応は絶対そういうことだ。これまでの経験からすると、それだけは間違いようがない。
「あんたはその話を何の話だと思ってたのよ。いや、言わなくていい。想像つくから」
 頭を抱えるマスターに、俺はおろおろする。言わなくていいというので言わないでおくけれど、調教のことでないというのなら、一体俺は――俺とラッキーくんのママさんは――なんの話をしていたのだろう。
 俺の疑問が顔に出ていたのだろう。マスターはうろんげな眼差しで俺を見上げてきた。
「ラッキーくんのママさんはあんたがボーカロイドだってことを知らないでしょう。だったらカイトがキラキラオーラを発していても、その原因がみっちり調整してもらったことにある、なんて考えるわけないじゃない」
「あ……そうか」
 あまりにも俺の気持ちをぴたりと当てたような風に言われたものだから当たり前のように答えてしまったけれど、言われてみればマスターの言う通りだ。だけど、それなら……。
「それはわかりました。でもそれなら、ラッキーくんのママさんは何の話をしていたつもりだったんですか?」
 マスターはそれもわかっているようなので聞いてみると、彼女は顔を背ける。
「言いたくない」
「え」
「カイト、本当にわかってないの? わざとやってない?」
「へ?」
 マスターはすっくと立ち上がって俺の両腕をつかみ、揺さぶってきた。
「本っ当にわからない?」
「す、すみません。わからないです」
「わざとじゃないんだね? わざとだったら怒るよ!?」
「わざとじゃないです!」
 もう怒っているじゃないかと思ったけれど、マスターとしては爆発寸前なのでまだ怒ってはいないということなのだろう。冷静にそんなことを考える傍ら、俺は相当な問題行動を起こしてしまったらしいという結論に達していた。どうにかして挽回したいけれど、原因がさっぱりわからないので対処のしようがない。言いたくないと言われては俺としてはお手上げだ。
「マスター、ごめんなさい」
 何がなんだかわからないけれど謝罪すると、マスターは大きくため息をついて俺の袖を放した。
「いいよ……。今更取り返しなんてつかないもの。でも、またわんこ仲間に誤解されてしまったか……。もうカイトくんと仲がいいのね〜とか冷やかされるのに疲れたよパトラッシュ」
 マスターは遠い目になりながらも小次郎さんを捕獲して抱き上げる。実はさっきから彼は俺たちの足元に座って上を見上げていたのだ。
 どうしようもないけどね、と寂しく呟きながらマスターは肩を落とす。俺がマスターの両親に虐待されていたという誤解は、残念ながら未だに解かれていない。誰がどこまであの話を聞いたのかもはっきりしないから、ことさら否定してまわると余計に話が広がりかねないとマスターが懸念して、結局何もしなかったからだ。それに人の噂も七十九日――四十五日だっけ?――というから、蒸し返さなければそのうち収まるだろう、最悪誤解されたままであっても、卒業後もこのアパートに住むわけではないだろうし、それまでの付き合いならば我慢もできるだろうということで。
 俺はマスターに殴られも蹴とばされもしなかったことに安堵しながらも、マスターに余計な心労を与えてしまったことに罪悪感を覚え、どうにかして彼女の気分を紛らわせようとした。慌てて周囲を見渡すも、キッチンは作りかけの料理とその材料くらいしかない。
 いや、一品はほぼ完成していた。
「あの、マスター、せっかくここにいるんだから味見してください。はい、これ」
 俺はとっさにスプーンを取ると、ポテトサラダを少しすくい、マスターの前に差し出した。
 マスターは少し驚いたように目を見張ったが、躊躇なく口を開ける。俺はそこにスプーンを差し込むと、彼女の口の動きに合わせて引き抜いた。前にテレビで見た、餌をもらうひな鳥みたいで可愛い。
「どうですか。マヨネーズ、もっと入れます?」
「ううん、このくらいでいいよ」
 もむもむと咀嚼して、彼女は答える。小次郎さんは自分にも頂戴というようにマスターの腕の中でもがいたが、小次郎さんには人間用に作った食べ物はあげてはいけないとマスターにきつく言われているので、俺はごめんなさいをした。マスターも、これには玉ねぎが入っているから駄目、と小次郎さんに言い含めている。
「ねえ、前に作った残った分で丸いコロッケにしたのって、また作る?」
 味見が効果あったのか、マスターの表情に明るさが戻る。ポテトサラダの入っているボウルが見えるように身体を傾けながら、期待するように聞いてきた。
「はい。そのために少し多めに作っていたんですよ。マスターがあれをずいぶん気に入っていたようなので」
 マスターのお弁当には前の晩の夕食で残ったものを入れることも結構ある。でも同じものというのも飽きるだろうしということで、できるだけ手を加えるようにしていた。お弁当用に小さなボール形にしたポテトサラダコロッケはそんな風にしてできた一品だ。
「良かった。楽しみにしてるよ」
 きゅっと唇の両端があがる。本当に楽しみにしているんだとわかって、俺は嬉しくなった。
「よかったらこれからコロッケにします?」
「それでもいいけど、他のメニューって何? それ次第だと思うけど」
「他はですねえ……」
 わいわい話しながらふと俺は気づいた。俺とマスターが仲良しと言われるのが嫌だというさっきのマスターの話のこと。
 俺とマスターはこんなに仲良しなのに、そう思われたくないってどういうこと? それなら今のこの状況って何?
 納得いかない。マスターの考えることって、時々本当にわからないよ……。

「そういえば何か忘れていたような気がしていたけど思い出したわ」
「何がですか?」
 できあがった夕食を食べだしたマスターはふっと箸を止めた。
「キラキラオーラのカイトを見かけた先輩の話。ジョーさんって言うんだけど、わかる?」
「名前は何度か聞いたことありますけど」
 マスターのサークル関係者ということで、時々マスターの話の中に出てきた人、という認識しかない。
「そうだけどそうじゃなくて、カイトは一度話をしたことあるのよ。ほら、新歓コンパの時に同じ方向に行く女の子たちも一緒に連れてけって頼んできた人」
「あ、あの人ですか。……でも顔なんて覚えていないですよ」
 ほんの数分の出来事だもの。……ん? もしかして、卵売場のあの人だったのかな。
 マスターに言うと苦笑しながら頷いた。
「例によって例の如く、カイトの髪の色で覚えていたみたいなんだけどね。でも、ちょっと冷や冷やしたんだ。今までそういうオタ系の話とかしない人だったからてっきり知らないんだと思っていたんだけど、あの人ボーカロイドのこと知ってたから」
「え……」
「髪が青いだけじゃなくて名前もカイトでしょ。コスプレイヤーかなんかだと思ってたみたい。あっちの方面はわたしは詳しくないけど、普通は特殊な色とか形の髪の場合ウイッグ使う方が多いんじゃないかな。でもカイトはそれを地毛でやってるんだろう、みたいな感じで考えていたみたい」
「コスプレ……ですか」
 ソフトが実体化した、なんて発想を真っ先にするとしたらその人の方がおかしいとマスターが言っていた通り、俺のことを本物のVOCALOID KAITOだとは思わなかったのだろう。安心したけれど、ちょっと複雑。だって俺はKAITOなんだから、格好だけ一緒と思われるのはなんだか悔しい。
「そう。レイヤーと思われるのもどうかと思ったんだけど、本物だなんて気づかれるよりはいいし、そういうことにしちゃったけどね」
「えー……。でも、そうするしかないですよね」
「あ、ねえねえ、せっかくだから本当にコスプレしてみない? そしたら嘘じゃなくなるし!」
 マスターは目をきらきらさせると身を乗り出して俺のことを見つめた。
「俺が俺のコスプレをするんですか?」
 何を考えているんだこのマスターは。別に誤解されたままでいいじゃないかと思っていると、マスターは勝手に話を進める。
「オンリーイベントとかならだったら何人もKAITOコスしてる人がいそうだからそっちの方が紛れ込みやすいのかな。でも詳しい人多いだろうから話のもっていかれかた次第ではカイトがボロをだしちゃうかもね。ならオンリーじゃない方がいいのかな」
「あの、マスター……」
 俺はコスプレをするなんてひとことも言っていませんけど。
「あ、そうだ。しょっちゅうコスイベントやってる遊園地があったよね。どこだったっけ、そこにしようか」
「マスター、その時には当然マスターもボーカロイドのコスプレ、してくれるんですよね」
「え」
 マスターの動きがぴたりと止まる。
「俺だけコスプレしたって面白くありませんよ。俺にとってはいつもの格好なんですから。でもマスターも何かやってくれるならやってもいいです。ついでに、俺の衣装は脱ぐと消えてしまうので、会場では自前のものを着ることはできません。たしかああいうのって、会場にコスプレしたまま行くのは駄目なんですよね? だからマスターの分だけじゃなくて俺のKAITO用の衣装も用意しないといけなくなるんですけど」
「う、うーん……二着分か……。幾らかかるんだろう」
 マスターはMEIKOでは胸が足りないとか、ミクでは足の太さが、とかぶつぶつ呟く。無茶ぶりをすればすぐに諦めてくれると思ってあんなことを言ってみたけれど、キャラ選択に迷っているだけであってコスプレをするということには特に躊躇している様子がない。なんということだ。マスターを甘くみていた。
 思う存分悩んだらしいマスターは、ややあって顔をあげ、
「コスプレはとりあえずいいわ。それより今度ジョーさんちに行くことになったから」
「……はい?」
 とっさにマスターが何を言っているのか理解できず、動きが止まる。
「ジョーさんって、DTMやってる人だったの。わたしみたいにボカロブームでDTMの存在を知ったとかじゃなくて、前々からオリジナル曲とか作ってた人で」
 マスターは嬉しそうな気配を思い切り発してぺらぺらとしゃべる。
「わたしの場合はさ、本当にただKAITOしか使わないでやってるけど、それだけだとやっぱり足りないんじゃないかと思ってたんだ。よくわからないことも未だに多いし。エフェクトとかも少しは使いたいじゃない。でもソフトが色々ありすぎて、どれを使ったらいいんだか。サポートとかはあるにしても、こういう風にしたいときには具体的にこうすればいい、みたいなのがわかりやすく書いてる本とかサイトとかもなかなか見つからないし。一度詳しい人に教わりたいなと思ってたの。まさかこんなに近くにいたなんてね。男の一人暮らしで掃除は週に一度まとめてやる程度だから部屋を片づけてからにしてくれって言われて、今日は無理だったわけだけど」
「今日行くつもりだったんですか?」
 展開が早くありませんか。もしかして、これはフラグというものだろうか。うかうかしていたらそのジョーさんという人とマスターがお付き合いを初めてしまうかも……。
 ああ、そうだ。マスターは最近こそ口にはしなくなったけど、俺がいるせいで恋人が作れそうにないって文句言っていたっけ。てっきり諦めたんだと思っていたけど、違ったんだ。
「早い方がいいじゃない。こういうのって勢いが大事だと思うし」
 あっけらかんとマスターは言った。
「でも、向こうの迷惑になるんじゃ……」
 すごくイヤな予感がする。
 行かせたくなくて、とにかく俺は理由を探す。マスターが諦めてくれそうな理由を。
「迷惑なら適当に理由つけて断るでしょうよ。向こうからすればわたしは後輩なんだから、あしらうのなんて簡単だろうし。でも掃除するから後にしろっていうからには、それほど迷惑でもないんじゃないの?」
 駄目だ。理由が見つからない!
「マスター!」
 ばん、とテーブルに両手を打ちつけ、マスターをしっかりと見つめた。
「……何よ」
 ちょっと身体を引きつつもマスターは返事をする。
「行くときには俺も行きますからね!」
 フラグなんて立たせてやらない。へし折ってやる!
 そう決意を秘めて同行宣言をしたものの、マスターは呆れたように目をすがめるだけだった。
「当たり前じゃない。誰のために行くと思ってるのよ」
 ……へ?
「あ、授業料はビールがいいって。せっかくだからノンアルコールとか発泡酒じゃないのが飲みたいとか言ってたから、買っておいててくれる? わたしだと年齢確認されたらアウトだけど、カイトの見た目なら平気だと思うし」
 えーと。
「あの、マスター、俺のこと、最初から連れていってくれるつもりだったんですか?」
 恐る恐る問うと、マスターは頬をひくつかせる。
「だから、誰のためだと思ってるのよ……。どうせだったらもっと上手く歌ってもらいたいのよ、わたしは。でもそのやり方がわからないのよ!」
「すみませんでした」
 反射的に頭を下げる。
 天国から地獄に突き落とされた気分だったけれど、俺は相変わらず天国にいたのだとわかってほっとした。
 そうだよね、マスターは俺が好きなんだよね。
 俺たち、仲良しですもんね。
 他の男とのフラグなんて存在しないんだよね!
「わかりました。で、いつ行くんですか?」
「明後日。だからそれまでにビールお願いね」
「了解です」
 すっかり気分が浮上した俺は、元気いっぱいに返事をしたのだった。





ジョーはあだ名です。そして今回の話のメインはこの人です。



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