マスターの先輩、ジョーさんとの待ち合わせ場所であるコンビニに到着したので、マスターは携帯で電話をかけた。俺はそんなマスターを見下ろしながら、持っている紙袋を抱え直す。
 ビールが二十四本も入っている箱はかなり重い。丈夫な紙袋に入れてもらったけれど底が抜けるんじゃないかと思って、家からずっと抱えてきたのだ。
「すぐ来るって」
 携帯を閉じると、マスターは俺を見上げてくる。
「それ重くない? ジョーさんが来るまで下に置いておいたら?」
 それから紙袋を指指した。
「あ、そうですね」
 重いなら下ろせばいい。そんな単純なことに気がつかなかった。俺は少し赤面しながら紙袋を床に置き、両手をぷらぷらさせる。
「カイト、もしかして緊張してる?」
「え……と、少し」
 なにしろ余所のお宅を訪問するのは初めてなので、失礼のないようにしないといけないと思うと、少し怖いような不安なような気分になってしまうのだ。
「大丈夫だよ。ジョーさんは気さくだし、面倒見のいい人だから」
 にこやかに笑いながら、マスターは俺の背中をぽんぽんとしてくる。
「はい……」
「あ、もう来た」
 マスターの声に目をあげると、道路の向かい側に朧気に記憶のある男の人が立っていた。
 彼はマスターに気づいて軽く手を挙げ、車が通り過ぎるのを待つと大股でこっちに向かってくる。
「ジョーさん、どうもー」
「よう、 。とその従兄」
 しっかり顔を確認すると、確かに卵売場の人だった。でもこの人、こんな顔だったっけ? 最初に会った時には厳つそうな人だったと感じた気がするんだけど、今見るとそれほどでもないな。俺より体格はいいけれど。
「あ、えーと、こんにちは。この間は気付かなくて済みませんでした」
 それでもマスターが同じ人だというのだから同じ人なのだろう。釈然としないものを感じながらも、俺はぺこりと頭を下げた。
 ジョーさんは苦笑する。
「いいって。何ヶ月も前にちょっと話しただけの奴の顔なんて普通覚えてないもんだし」
 でも俺のことは髪の色ですぐにマスターの従兄のカイトだと思い出したのだそうだ。少しだけど話したことがあるし、後輩の身内なので挨拶くらいはした方がいいのかと迷っている間にも時間が経ってしまって、
「ガンつけてるように見えたと思うけど、勘弁な。こういう中途半端な知り合いって、どう声かけていいのかわかんなかったんだよ」
「いいえ、こちらこそ怖い人かと思ってしまって、すみませんでした。俺、顔に出てたでしょう?」
 考えていることがわかりやすいと、俺はマスターのみならず、犬の飼い主グループの人たちにも言われているのだ。だからきっとジョーさんにも勘付かれているのだろう。
「まあな」
 フォローのしようがないという風に、ジョーさんは頷く。
「ジョーさん、黙ってると怒ってるように見えるからね」
「しょうがねぇだろ、生まれつきのもんなんだから」
 マスターが笑いながら言うと、ジョーさんはうんざりしたような顔になった。俺の顔の筋肉は堅いんだよといいながら、彼は顎から頬にかけてぐいと押し上げる。
「あ、思い出した」
「ん?」
 マスターとジョーさんが俺に注目する。
「あ、あの、ジョーさんって春に会った時には髭が生えてましたよね……?」
 顔に手を当てる仕草で記憶がよみがえった。そうだ、確かに髭があったんだ。それがなかったからなかなか思い出せなかったんだ。
「ああ。そろそろ就活が本格化するから剃ったんだよ。説明会とかはまだだけど、やれるところから早めに手を打っておこうと思ってな」
 ジョーさんは言いながら顎を手でなでた。しゅうかつというと……就職活動、かな。これも受験とは違った大変さがあるということは、俺も少しは知っている。そんな大変な時期に俺たちのことで時間を取ってしまって大丈夫なのだろうか。
 心配になって聞いてみると、まだ忙しくなってないから大丈夫だと言われた。
「ところで の従兄も名字は なのか?」
「はい、そうです」
 俺とマスターは同時に返事をしてしまう。思わず顔を見合わせてしまって、それから吹き出した。ジョーさんも仲が良いことで、と言いながら笑う。
「じゃあ、従兄の方も じゃ紛らわしいし、いつまでも従兄って呼び方だと失礼だよな。あんたのことはカイトって呼んでいい? それともカイトさんかな。ためくらいだと思ってたけど、年幾つ?」
「年ですか。えっと、二十二です」
 俺は暇つぶしを兼ねて懸賞に応募することがよくあるのだけど、年齢を書く欄があるときには二十二歳だと記入しているのだ。マスターに俺は何歳くらいに見えるのかと聞いたらそう言われたからだ。
「あ、一つ上か。なら敬語でなくていいっすよ。俺のが下なんですし」
「いえ、これは癖なので気にしないでください」
 実際には二十二歳ではないのだから、ジョーさんが俺に敬語で話す必要はない。でもそんなことは言えないので、その辺のことはぼかしつつ、俺に対してはタメ口でお願いしますと伝えた。
「それからあの、俺はジョーさんのことをジョーさんと呼んでいいんですか」
 すでに何度か呼んでしまったが、知り合ってすぐの人をいきなり名前で呼ぶのは馴れ馴れしいことなのだということを思いだしたので、俺は聞いてみた。するとジョーさんの顔から笑みが消える。
「俺のフルネーム、 から聞いてる?」
「いいえ」
「あ、ジョーさんはジョーさんだと思ってたから本名言うの忘れてました」
 わざとらしく両手を打ち合わせるマスターを、ジョーさんは苦々しい表情で睨む。
「お前な、仮にも先輩に世話になるって時に基本的なことを伝え忘れてるんじゃねーよ」
「いいじゃないですか、ジョーさんで通じるんですから」
 マスターは悪びれない。
「……まあ、俺もそっちに慣れてるけどな」
 首の後ろをかきながら、ジョーさんは名乗る。
「ししどみのるさんで、どうしてジョーって呼ばれているんですか?」
 名前のどこにもジョーという字がないのにと、俺は首を傾げる。
「穣を音読みにするとジョウって読めるからよ。ジョウの音が延びてジョーになったんですよね、ジョーさん」
「おお」
 マスターが答える。ジョーさんはあまり嬉しくなさそうな様子で肯定した。
 みのるという名前がジョウと読めて、で、名字がししど……?
「テレビにでる人で、同じ名前の人がいますよね」
 俺が指摘すると、ジョーさんはふう、とため息をつく。
「中学時代に俺の名前がじょうって読めると気づいたダチがその人とかけてジョーって呼び出したんだよ。でも俺の名字は宍戸じゃなくて獅子堂だからな。別物だぞ」
 ししどう、とジョーさんは念を押した。それから呼び方は名字でも名前でもジョーでもいいと言ったので、俺も彼のことはジョーさんと呼ばせてもらうことにした。
「ところでお前ら、夕めし食ってきたのか?」
 マスターは首を振る。
「まだです。時間が時間だから、どっかに食べに行くかコンビニで買えばいいかなと思って」
 まだ五時を少し過ぎたくらいなので夕食には早い時間だ。何時頃帰れるかわからないので、小次郎さんには餌と水の用意はしておいたけれど。
「じゃ、適当につまみながらやろう。せっかくビールも貰うんだしな」
「あ、忘れていました!」
 俺は紙袋を持ち上げると、どうぞとジョーさんに差し出す。受け取って中を覗いた彼は頬を緩めた。
「サンキュ。でも六缶パックくらいで良かったんだぞ。奮発したな、
 マスターはええーと声をあげる。
「そういうことは先に行ってくださいよ。謝礼だと思ったからのしまでつけたのに」
「悪かったよ。しかし俺、のしつきビールなんて初めてもらったぞ。お中元とかお歳暮みたいだな」
「もう、奮発した分、しっかり教えてくださいね。それから、飲むのは教えるのが終わってからにしてくださいよ」
「わかってるって。それにつまみは俺がおごるから機嫌直せよ」
「……しょうがないですね」
 ふくれっ面になっていたマスターは、まんざらでもないような顔になる。
 ううん、ジョーさんは面倒見がいい人だってマスターは言っていたし、その通りの人のように思えるけど……本当にそれだけなんだろうか。学校の関係者というだけにしては何だか仲が良すぎるように思える。
 一度は引っ込んだはずの疑念がまた頭をもたげてきた。
(マスター、ジョーさんはただの先輩ですよね?)
 もやもやしたものを胸のあたりに感じたが、口に出すこともできないまま、俺は先に行く二人を追ってコンビニに入店した。
 ジョーさんはパスタやお好み焼き、サラダ、唐揚げなどの食事になるようなものからしょっぱい系のお菓子などを次々に籠に入れていく。
「カイトは酒飲めるのか?」
 えびせんを手にしながらジョーさんは尋ねてくる。
「ちゃんと飲んだことはないから、よくわからないです」
 料理酒だったらなめたことはあるけど、マスターはまだお酒を飲んではいけない年齢なので、うちではアルコールらしいアルコールは買わないのだ。ないものは試しようがない。
「なら二人とも茶とかジュースとか持ってこいよ」
 ジョーさんはドリンク類が並んでいる方を顎でしゃくる。
「ジョーさん、わたしデザートもほしい」
 甘えるような声でマスターはねだる。マスター……そんな声も出せるんですね。俺には聞かせてくれたことなかったのに、と心の中で嘆いた。
 ジョーさんは苦笑いをする。
「わかったよ。好きなもん持ってこいって。でも俺は甘いのはそんなに食えないから、自分で食べきれる分だけにしてくれよ。残されても困るからな」
「やったぁ、ジョーさん大好き!」
 マスターは万歳する。
 俺は心の中で何度も自分に言い聞かせる。マスターが甘えるのはおごってもらえるせいなんだって。でないと俺、俺のマスターを誘惑しないでくださいって、ジョーさんに食ってかかってしまいそうになる。でもそんなことをしたらダメだ。ジョーさんはこれから俺たちの先生になるんだから。
「行こ、カイト」
「わ……」
 ぐるぐると思考が渦巻いていた俺はマスターに手を引かれて我に返った。手をつながれたまま冷蔵ケースに向かう。
 マスターの横顔を伺うと、彼女は家にいるときのようにリラックスしているような表情をしていた。つないだ手のひらから移る体温を感じながら、俺は自分を恥じる。
 そうだ、嫉妬なんてする必要はない。マスターは俺のことを忘れたりしない。今日のことだって、もっと俺にうまく歌を歌わせたいから、ジョーさんに会うことになったのだから。
(上達を望むマスターの邪魔をしてはいけない……)
 俺はマスターの手を強く握り返すと、深呼吸をした。よし、いつも通りに振る舞おう。
「どうしたの、カイト。痛いよ」
「すみません。あの、俺、ジュースとかよりアイスの方がいいんですけど、持ってきていいんでしょうか」
 顔をしかめて俺を見上げてきたマスターだったが、俺の質問を聞くと吹き出した。
「いいんじゃないの。アイスだってデザートになるんだし」

 ジョーさんの家はコンビニから二百メートルほどしか離れていないのだそうだ。だから電話をしてからあれだけ早く来られたのか、とコンビニ袋をぶら下げながら俺は思った。
 俺はお菓子類と弁当類の入った袋を持ち、マスターはデザートとアイスが入っている袋を持っている。そしてジョーさんは箱入りビールが入っている紙袋を抱えていた。
 よく考えたらジョーさんが一番重いものを持っているわけだけど、あのビールはお礼用なのだから、俺がジョーさんの家まで運ぶべきなんじゃないかと今更気づく。だけど誰がどれを持つかを割り振ったのはジョーさんなので……これが面倒見がいいってことなのかと俺は関心した。だって、有無をいわさずマスターには一番軽いものを渡していたんだもの。
 そしてマスターが言うように、ジョーさんは良い人なのだということも、俺にはわかった。なぜなら彼はダッツの新フレーバーに心を奪われていた俺に、買っていいと言ってくれたのだから。
 俺だってこういう時には遠慮をした方がいいとわかっていたから、最初は辞退したのだ。でも俺の視線がダッツの方にちらちら向かってしまうことに気づかれたのだ。さすがに恥ずかしくなったけど、好きなものを選んでいいんだぞとまた言われたので、申し訳なく思いながらもダッツを籠に入れさせてもらった。割引になっていないダッツを平然と買ってもいいと言えるなんて、ジョーさんはなんて凄いんだろう。マスターが懐くのも仕方がないと思えてしまう。
 俺、ジョーさんを見習ってみよう。面倒見がよくて頼りがいがあるしっかりした俺になったら、マスターは今よりもっと俺のことを好きになってくれるよね。
 あっと言う間にジョーさんが住んでいる学生専用マンションに着いた。外観は俺たちが暮らしているアパートより新しくて綺麗で、エレベーターもある。
 それに乗って五階まであがると、ジョーさんは鍵を取り出した。
「おじゃましまーす」
「おじゃまします」
「はいよ」
 招かれて中に入る。そこはキッチンと区切られたフローリングの部屋が一つあるだけだった。ベッドとオーディオセット、ローテーブル、それからパソコンが配置されている。テレビがないのは、パソコンで見られるようにしているからだろう。
「とりあえず適当に座っとけ」
 ジョーさんはキッチン側でごそごそしていたけれど、すぐにグラスを三つ持ってくる。買ってきたペットボトルのお茶をコンビニ袋から取り出したので、マスターが自分がやるといって注いだ。
「えーと、で、なにをどのくらいできるようになりたいんだ?」
 お茶を半分ほど飲み干すと、ジョーさんは俺たちを真っ直ぐ見つめた。答えたのはマスターだった。
「DTMの手順みたいなのを知りたいんです。えっと、DAWソフトっていうのを使うと、一通りできるって聞いたんですけど、ソフトも色々あるんですよね。ジョーさんもそれ、持っているんですか? あとはVOCALOIDの調整のこととか……」
「んー、なるほど。あ、前に断っておいたけど、俺がDTMにのめり込んでいたのは高校の時で、今はほとんど触ってないんだ。だから使っているソフトはちょっと古いのばっかりだぞ。VOCALOIDも初音ミクとかじゃないし。MEIKOでもKAITOでもないし」
「え、じゃあ誰なんですか?」
 思わず横から口を挟んでしまう。俺でもめーちゃんでもないとなると、残るは一番最初に発売された二人しかいないじゃないか。
「LOLAだよ。しかも俺が買ったわけじゃないんだ」
 ジョーさんはさらりと答える。
「え……。それってどういう……」
「俺、高校の時、交換留学制度使ってイギリスに行ってんだよ。ホストファミリーの親父さんと兄貴が音楽好きでさ。兄貴の方はバンドもやってたんだ。俺は楽器は独学でギターをやるくらいなんだけど、それでもすっげえ喜んでくれて、色々教えてもらった。あっちはDTMのことは知らなかったから俺が教えて。つっても、向こうの家にどのくらいのスペックのパソコンがあるかわからなかったから、ソフトも何も持っていかなかったんだけどな。まあ、フリーソフトでちょこちょこって感じで。んで、帰国の時にファミリーからのプレゼントってことでもらったんだ。俺が持ってなさそうな珍しいのを見つけたーって兄貴が今で言うドヤ顔をしてたなぁ」
 懐かしそうにジョーさんは目を細める。
 そんなことまで教えてもらっていなかったけれど、マスターはこのことを知っていたのだろうか。横目でちらりとすると、マスターは相槌を打って口を開く。
「英語ロイドって珍しいから、実物を見せてもらえるの、楽しみにしていたんですよ。わたしの持ってるボカロとは違うけど、エンジンは同じだから調整のコツとかは似たようなものだと思うし。他のソフトでもきっとそうですよね」
が持っているボカロって……」
 ジョーさんの視線が俺の方を向いた。マスターは乾いた笑い声をあげる。
「予想はついていると思いますが、KAITOです」
 マスターは笑みを張り付かせたまま、こっちを見ずに答えた。
「やっぱりな。ま、個人の趣味には口出しする気はないから」
「そうしてもらえると助かります」
 明らかな棒読み口調で彼女は答えた。やっぱりジョーさんは俺がKAITOのコスプレをやる人だと思っているんだろうなぁ。俺の頭とマフラー――秋冬用で色はやっぱり青だ。涼しくなったのでマスターが買ってくれたのだ――をまじまじと見てるんだもの。
 コスプレに関してはスルーして、何事もなかったかのようにジョーさんは話を続けた。
は今のところVOCALOIDしか使ってないんだよな」
「そうなんですよ。それに、カバー専門です。でもやれそうならオケも自分で作ってみたいなって思ってます」
 それは初耳だった。無理だと言い切っていたからマスターはオケは一切関わる気がないのだと思っていた。でも、俺を使うことでその考えが少し変わったのかもしれない。
(もしかしたらそのうち、オリジナル曲を作ってくれるなんてことも起きるのかな……)
 淡い期待にときめいていると、急にこっちに話を振られる。
「カイトはどの程度わかるんだ?」
「……え、俺ですか?」
 一瞬反応が遅れてしまい、声が裏返ってしまった。俺はただマスターとジョーさんのやりとりを聞いて覚えて、今後に役立てるだけの役割なのだと思っていたのだ。
「え、ええと、VOCALOIDの仕組みはわかります。調教のやりかたとかも。でもどういう風に仕上げたいかは 次第だから、上手くいかないことも多くて……」
「ちょ、カイト……」
 マスターは俺のわき腹をつねってくる。え、と思っているとジョーさんは調教かよ……と引いた目をして呟いていた。あ、調教って言い方はまずかったのか。
「あー、VOCALOIDでデータ作るのを調教とも言うんだよな。さらっと出てきたから一瞬何のことかと思った」
 ジョーさんは眉間をほぐすように指で揉んだ。調教って言い方も普通だと思っていたけど、そういうわけでもないようだ。今度は気をつけよう。
「す、すみません。あとはDTMの基本的な用語とかはわかると思います。でも肝心のソフトがないので実践したことがないので……」
 ジョーさんは眉間にあてていた手を首の後ろに回す。
「んじゃあ、ソフトの設定の仕方から……がいいか。二人ともこっちこいよ。説明するから」
 呼ばれたので、パソコンの前に移動したジョーさんを囲むように右と左に分かれて、俺とマスターはにじりよった。
 ジョーさんが説明する声とキーボードを叩く音だけが部屋に響く。しばらくすると相槌を打っていたマスターが質問をしだして、そのやりとりが続いた。
 そのうちジョーさんが作ったという曲を聴かせてもらったり、練習を兼ねて教えたところを自分で好きなようにやっていいということになり、だんだん空気がだれてきた。気付いたら二時間近くが過ぎている。
 そろそろ食べるものを食べようということになり、買っておいたものをテーブルに広げた。パスタや唐揚げなどはレンジで温め、適当に取り分けられるようにと割り箸と紙皿が配られる。それからBGMとして洋楽がかけられた。英語なので歌詞の意味は俺にはさっぱり理解できない。
 ジョーさんはビールを持ってきた。俺たちがあげたものを早速冷蔵庫で冷やしておいたらしい。
「ジョーさん、どうして今はDTMをやってないんですか」
 しばらくDTMをやっていないというのなら、きっと中にいるLOLAさんも放置状態なのだろう。放置されるソフトの気持ちは痛いほどよくわかる俺は、できるだけ責める口調にならないように気をつけてジョーさんに聞いてみた。
「熱が冷めたっていうのが一番大きいな。ギターやってるって言ったけど、他の楽器も入れた曲作りたくなった時に、他の楽器の練習までやってる余裕はないからってことでDTMに手を出し始めたんだ。やれるだけやって満足したってのと、自分の限界がわかっちまったってこともあって徐々にやらなくなった、ってところだな。ああ、でも、ギターは今でも時々やってるぞ」
「ギターがあるんですか?」
「クロゼットの中に入れてる」
「なんかそういうの格好いいですね。ジョーさん音楽系のサークルには入ってないし。群れてないっていうか、孤高のギター弾きというか」
 マスターは尊敬のまなざしでジョーさんを見ていた。
 ジョーさんは良い人だとは思うけど、マスターがジョーさんを褒めるのを聞くのは、やっぱりちょっともやもやする。
 ジョーさんはグラスを音がでる勢いでテーブルに置く。
「だからそういう誤解をするなって。俺はただ自分にはたいして音楽の才能はないってのがわかってるからバンド組んでやりたいとかは思わないってだけなんだよ。むしろ本気で音楽やりたい奴らからしたら、俺みたいなのは目障りだろうぜ」
「でもプロを目指すわけでなく、単に色々な人と趣味でのんびり演奏したいってグループみたいなのもありますよね。そっちも興味ないんですか?」
「高校時代だったら、それもありかもな。今はもうわざわざ探してまでそういうの、やりたいと思わねぇ」
 缶に残っているビールを全部注ぎきって、ジョーさんはまたグラスを呷った。ビールを飲んでいるのは彼だけで、マスターはコーラ、俺はメロンソーダをそれぞれ選んでいる。
「お前ら、よくそんな甘いもん飲みながら飯食えるな」
 マスターは唐揚げを咀嚼してから言い返す。
「別にわたしは飲んだっていいんですけど」
はだめです」
「お目付け役がうるさいから」
 と俺を指さした。俺は首を横に向けてマスターを穴が開いてもおかしくないほどじっと見つめる。
「俺はお父さんの味方なので、 が道を踏み外さないようにするのは俺の役目だと思ってますよ」
「うざいですよねー」
 マスターはジョーさんの方を向いて――つまり俺とは視線を合わせることなく――答える。
「いいコンビだな、お前ら。それに親公認なんだ。ま、そうでなければ同棲させないよなぁ。親戚同士なら隠しようがないだろ?」
 ジョーさんは苦笑する。
「同棲じゃなくてルームシェアですって」
 マスターは速攻で言い返した。
「は? つきあってるんだろ、お前ら」
「違うんですってば。わたしはつきあうならもっとこう……まともな人がいいんですよ。カイトじゃ話にならないんです。頭が悪すぎて」
「ちょ、ひどい! 少しはましになってると思ってたのに!」
 俺はマスターの両肩をつかむと、無理矢理俺の方を向かせた。
「ああ、まあ、少しはね」
 マスターは少しというところに力を込めて言い返した。
 ジョーさんは信じられないという口調で、
「つきあってないとか、嘘だろ?」
「つきあってないですってば。でかい弟みたいなもんです」
 マスターは肩をつかまれたまま、ジョーさんの方を向いた。
「どうしてそんなに嫌がるんですか」
 マスターってばひどい。でもこれだけ周りからおつきあいをしている――つまり恋人同士ということでしょう?――と見られているのに、どうしてマスターは頑として認めてくれないのだろう。一緒に同じ家に住んでいるというのは、犬の飼い主グループの人たちの話からするとおつきあいをしていると判断する大きな要因のようなのだ。でもそれだけではマスターは俺を恋人とは見てくれない。いったいどうしたらマスターは観念してくれるのだろう。……いや、それよりも。
「ジョーさん、さっきから俺たちがつきあっているかどうかをそんなに気にしているのは、 のことを狙っているからですか?」
「はぁ!?」
 ジョーさんは素っ頓狂な声をあげ、マスターはコーラを噴き出しそうになってむせた。
「あ、大丈夫ですか」
 俺は咳き込むマスターの背中をさすりながら、ジョーさんを睨んだ。
 いくらダッツを買ってくれた親切な人であっても、俺からマスターを奪おうとするなら俺の敵だ。LOLAさんの存在が俺に改めて自分の立場の危うさを教えてくれたのだ。
 俺はソフトなんだから、マスターに飽きられるまでしか存在できないのだから、その時間はきっと長いものではないのだから、俺の存在が許される間はマスターは俺だけのマスターでいてほしいのだ。他に目を向けないでほしい。それは相手が別のボカロでも人間でも代わりはない。
「違うって。おい、メロンソーダで酔ったのかよ」
「酔うわけないじゃないですか、メロンソーダで!」
 アルコールなんて入っていないんですから。
「それに俺はきっとお酒には強いですよ。ビールなんかじゃ酔えないでしょうね」
 食べたものはどこに消えているんだ、とマスターに言われている俺の身体だ、アルコールだってきっとそのままどこかに行ってしまうだろう。
 そう思って胸を張って主張すると、ジョーさんはビールを俺の前に置いた。
「んじゃ飲めよ。素面で絡まれちゃたまらん。酔っぱらいのがまだましだ。酔ってるんだって諦められるからな」
「すいません、ジョーさん、うちのバカがご迷惑を……。カイト、しばらく口を閉じててよ」
 回復したマスターは、俺の頭をぐいと押しやった。
 だけど俺はそのままの体勢で缶のプルタブを開ける。
 ビールがなんだ! お酒くらい、俺だって飲めるんだ!
「あ、ちょっと……!」
 一気に呷る。するとマスターが焦ったような声を出した。
「んぐ……!」
 口の中に広がる苦みに驚き、反射的に吐き出しそうになるのを堪える。
「あんたみたいな甘党にビールは無理よ。せめて甘いチューハイからにしておきなさいよ」
「そういう問題じゃないと思うんだがな、 。おいカイト、大丈夫か。無理しないで流しにいって吐いてこいよ」
 しかし動くと口の中のものが吹き出そうなので、無理ですという意味を込めて小さく頭を振る。
 マスターは膝立ちになって俺の背中をさすり、ジョーさんは洗面器を持ってくると立ち上がった。
 だが俺は当初の驚きが過ぎると、どうにか吐き出すことなく口の中のものを飲む下すことに成功する。
「ビールって……苦いんですね」
 まだ動揺が抜けきらない。喉のあたりを押さえながら言うと、二人は力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「知らなかったのかよ」
「飲んだことないですし」
「にしたってなぁ」
 ジョーさんは呆れたような顔になった。
「本っ当にあんたは考えなしなんだから。よそんちで飲んで吐くとか勘弁してよね!!」
「……すみません」
 マスターの声は怒っているものの、まだ背中をさすり続けている。平気かと小さな声で聞かれたので、俺はしっかりと頷いた。
 俺は手にしたままの缶をじっと眺めて、もう一度口に持っていく。
「カイト、もうやめなさいよ」
 マスターは俺の手の上に手を重ねて止めにかかる。
「大丈夫です。さっきのは思いがけない味だったからびっくりしただけで……。苦いということはもうわかっているので噴き出したりしません」
「でも……」
 マスターは心配そうに眉をひそめた。
「これくらいの苦みなら平気です。俺はビールくらい飲めるんですよ」
 まだジョーさんへの対抗心は消えていなかった。むしろ情けないところを見せてしまったことを埋め合わせてやるという思いが強くなっている。
 缶をゆっくりと傾けながら、中身を喉の奥へ流し込む。うん、やっぱり平気だ。でも俺は苦いのより甘い方がいいな。甘いチューハイっていうのも、今度試してみよう。
「ごちそうさまでした」
 缶を置くと、二人は大きく息をついた。
「こんな冷や冷やした一気飲み、初めて見た」
 頭を抱えてジョーさんは呻く。
「カイト、本当に大丈夫? 身体の調子がおかしいとかない?」
「ないですよ〜。もう、マスターったら心配性なんだから。でもそれだけ俺のことが好きだってことですよね〜」
「……あ?」
 ジョーさんは顔をあげ、マスターは硬直した。
「……カイト」
「なんですかぁ、マスター」
 呼ばれたことが嬉しくて、抱きついて頬ずりをする。
 ふふ、マスター、マスター。ジョーさんには絶対渡さないんですからね。
「いたぁい〜」
 マスターは俺をひっぺがすと、両肩をつかんで思い切り前後に揺らした。
「あんた酔ってるでしょ。酔ってるでしょ!? つか、酒が回るのが早すぎるわ!!」
「よってませんよぉ」
 ただふわふわした感じがして楽しくってしょうがないだけですよ。
 上手く動かなくなった口でそう答えると、マスターはさらに手に力を込める。
「マスター、頭がもげるぅ〜」
「だから、マスターって言うな!」
 揺さぶるのをやめるかわりにマスターは俺の口を塞いでくる。今日のマスターは積極的だ、と俺は唇の隙間からどうにかして舌をだし、手の平を舐める。
「バカーっ!」
 べし、と頭を叩かれた。
 ぜいぜいと息を切らせているマスターの背後に、ジョーさんが静かに近づいてくる。そして落ち着かせるように彼女の肩をぽんぽんとした。

「あの、これは……」
 焦るマスターにジョーさんは真顔で、
「俺は他人の趣味にも性癖にも口を出す気はないから……安心しろ。どんなプレイが好きかなんてのも、他人が口出しすることじゃないしな」
「そ、そんなんじゃないです!」
「あ、言い触らしたりとかもしないから」
「それは助かりますけども!」
 マスターはジョーさんをすがりつくような目で見つめた。むっとした俺はマスターの腰に抱き付く。
「言い触らしていいんですよ。俺とマスターは世界で一番仲良しなんですから。だから誰も俺たちの間に割り込んじゃいけないんですよ」
「黙んなさい、この酔っぱらい!」
「よってないですってばぁ」
……大変なんだな、お前」





カイトの性格がどんどんひどくなっていく…(涙)

Q、カイトがあっさり酔うのは都合良すぎませんか?
A、神話の神様や妖怪も結構酒に酔っ払ってやらかした話があるんだから付喪神的なこのカイトが酔っ払っても問題ないと思ってる


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