もうこれどうしようと思うくらい、カイトは酒に弱かった。その上、たががすっかり外れてしまい、甘えモードになってしまっている。
 陰気な酔っぱらいよりは陽気な酔っぱらいの方がましだとは思うが、力加減もまるでできなくなっているため、押し返すのに一苦労だ。どうでもいいが離せ。そしてキスしようとするんじゃない。
「ジョーさん、これなんとかしてください!」
 いい加減対応しきれなくなり、わたしは先輩に助けを求めた。
「なんとかって」
 四本目のビールを飲んでいたジョーさんは、どうしろと、と目で問い返してくる。
「酔い覚ましの薬とかないんですか?」
「覚ますっていうか、二日酔いを緩和するドリンクならコンビニで売ってるぞ」
「うー」
 カイトが二日酔いになるかどうかはわからないが、このままでいるよりはましだろうか。おそらく自宅に帰ってPCに突っ込めば元に戻るだろうが、いかんせん、わたしの力ではカイトを抱えて帰るのは無理だ。体重をかけられたら潰れるのが目に見えている。かといってジョーさん――これまた結構酔ってきている――に頼むのも……。
「ちょっとコンビニに行ってきます」
「ドリンク買ってくるのか?」
「はい」
「なら俺の分もついでに頼む」
「パシリですか、わたしは」
「マスター、コンビニ行くの? 俺も行くー」
「あんたはここにいなさい」
 引き離しても引き離してもひっついてこようとするカイトをまた引き離して、わたしは立ち上がった。
 カイトのわたしに対するマスター呼びもジョーさんはすっかり慣れっこになってしまったようで、何の反応もないのが恐ろしい。他言はしないとは言ってくれたものの、酒の席だ、どこまで信用できるか。どうせだったら今晩のことは記憶から飛んでくれればいいのに、などと思ってしまう。
「マスター、置いてっちゃやだー」
 カイトは涙目ですがってくる。
 往復で五分もかからないコンビニに行くくらいで何を言っているんだか。だが酔っぱらい相手に正論は通じまい。とりあえず刺激しないように、頭をなでながらわたしは交渉してみた。
「……いい子でお留守番していたら、今日はもう一個アイスを食べていいことにしようか」
 アイスの威力は絶大だった。カイトは歓喜に目を輝かせ、幻影のしっぽをぶん回す勢いでお留守番していますと宣言する。
 ……疲れる。
 部屋を出て一人になった途端、思わずため息がこぼれた。カイトとの攻防でごっそりと体力が削られてしまっている。ドリンクは合計で三本買うことにしよう。わたしの分は疲労回復用だが。

 レジで少し並んでしまったので、五分少々かかってジョーさんの部屋に戻った。
 部屋番号を確かめてからドアを開けると、そこに黒ビスチェの女王様――しかも外国人だ――のような人がいた。キッチンと部屋を仕切るドアが全開だったので、奥まで見通せたのだ。
「すみません、部屋を間違えました」
 反射的にドアを閉めると、夜にも関わらず足音を響かせてすぐさまドアが開いた。危ないな、ぶつかったらどうするんだ。
「間違ってねぇ!」
「あれ、ジョーさん?」
 出てきたのは真っ青な顔色になっていたジョーさんだった。
「友達がきたんですか。わたしたち、退散しましょうか」
 もしかしたら新しい彼女かもしれない。夏休み前にジョーさんがフリーになったと聞いて色めきたったサークルの女性陣が何人かいたのを、わたしは知っている。ジョーさんは結構モテるのだ。
 しかしあの女王様のような人は格好はともかく、モデルかと思うほど綺麗だ。
……。カイトは一体何者だ?」
「え?」
 質問の意図を理解するより先に、血走った目をしたジョーさんに両肩を強く捕まれる。
「とにかく早く入れ」
 それから腕を捕まれて中に引きずり込まれた。靴を脱ぐ余裕も与えられないほどだったが、土足をするわけにはいかないと、蹴り落とすような感じでミュールを脱ぐ。
「……どうなってるの?」
 カイトは座り込んでぽかんと女王様を見上げており、女王様はそんなカイトを立って見下ろしていた。表情は険しい。ひどく警戒しているようだ。
「ジョーさん?」
 説明を求めると、彼は混乱した様子でPCを指差した。
「その女、そこから出てきた。ディスプレイから」
「……は?」
 ディスプレイからってどういう意味だ。
「カイトが引きずり出したんだ」
「はぁ!?」
 引きずり出した……って、ことはPCの中にいたということか? まさか……まさかこの女性は……。
 背筋に冷たいものが走る。
 そこへカイトが抗議するように拗ねた口調で遮ってきた。
「だってジョーさんが出していいって言うから俺、やってみたんですよ。このパソコン、俺がインストールされているパソコンじゃないから抵抗が大きくて。びりびり痺れたけど、ローラさんだってきっとマスターに会えたら嬉しいだろうなって思ったから頑張ったのに。でもなんだかローラさん、怒ってるみたいで。だけど何言ってるのかわかんないんです。マスターはわかりますか?」
 ぐらり、とわたしは倒れそうになった。
 カイトがさらりと口にしたその名前。PCモニタから出てきたローラ。
 ……やっぱり彼女が世界で最初に発売された二種類のVOCALOIDの片割れ、LOLAなのか。それよりもわたしのいない間に何をやっていたんだ、あんたたちは。ああ、酔っ払いを残して出かけたのは失敗だったか。
 そんなことを思いながらもわたしは彼女の全身に視線を走らせる。やっぱり興味がないわけではないのだ。
 彫りの深い顔立ちはどことなく気品があり、波打つ漆黒の髪を高いところでまとめて後ろへ流していた。眉も髪と同じ色。瞳は琥珀色で、小麦色の肌にまとっているのはウエストの一番細い部分までの丈のビスチェとローライズのぴったりとしたロングパンツだ。それにかかとの高さが十センチはあろうかというピンヒールを履いている。身長は女性にしては高いようだが、これのせいでさらに長身に見える。ついでに言うと、大きいのは背丈だけではない。胸もだ。どうして欧米系の巨乳というのはボールみたいに丸い形をしているのだろう。日本のグラビアアイドルなどはどれだけ大きくても引力や重さの影響を受けていますというのがわかるような形をしているのに。
 衣装は光沢のある黒が基調で、臙脂色のラインやレースがアクセントになっていた。むき出しの腕には細い金のブレスレットが数本ずつ。ピアスとネックレスもやはり金だ。インカムも装着している。アイラインのくっくりした目は今はわたしに向けられ、値踏みをするように見つめらている。赤く塗られた肉惑的な唇は、パッケージと同じといわれればそうかもしれないと思えるものだ。
『あなたは誰?』
 女性が問う。英語だ。
 ここのところ授業以外で英語を使うことがなかったから、反応が遅れてしまう。頭を切り替えないと。
『わたしは 。この部屋の住人の後輩です。あなたは……LOLA?」
『そう。 は彼のマスターなの?』
 長いまつげを伏せて、ローラはカイトを見おろす。カイトはやはりわけがわかっていなさそうな感じで小さく口を開けていた。バカっぽさが倍加するから、せめて口は閉じてくれないだろうか。などと思いながらもわたしはローラから目を離さずに頷いた。
 従兄だとしらを切りたいところだが、彼女がLOLAならごまかしても無駄だろう。すでにカイトが同類だということに気付いているような言動をしているのだから。
 問題はジョーさんの反応だが、とわたしは先輩の方をちらりと見やった。彼はまだ青い顔でわたしとローラのやりとりを見ている。手にはどさくさに紛れて落してしまったドリンク剤入りのコンビニ袋を持っていた。
 驚いてはいるようだけど、騒ぐ様子はない。ならばまずはローラを落ち着かせることにしようとわたしは彼女に改めて向き直った。
『なぜ彼は私を呼び出したの?』
 詰問するような口調でローラは尋ねてきた。
『カイトが言うには、マスターに会えたらあなたが喜ぶと思ったから、だそうよ』
 ローラはぴくりと片方の眉をあげた。
『マスターに会う、だなんて。私はそんなこと、望んでいない』
 切り捨てるように彼女は言う。ううむ、これはどう解釈したらいいのだろう。長年放置状態だったようだから、カイトのように絶望して頑なになっているのかだろうか。それとももともとこういう性格なのか。実体化したボーカロイドはカイトしか知らないから、比較のしようがない。
『ごめんなさい、ローラ。カイトがあなたに迷惑をかけてしまって。言い訳になってしまうけど、カイトは今、普通の状態じゃないの。だから代わりに謝ります」
 頭を下げるとローラは困惑したように瞳を揺らす。
『どうしてあなたが謝るの?』
『わたしがカイトのマスターだから。正常な判断ができない状態になっているのをわかってて、一人にしてしまったのは、わたしの落ち度だと思う』
 ここまで予想のつかない行動をされるとは思わなかったが、それだって言い訳だろう。カイトが家の外に出るようになってから一年も経っていないのだ。見た目は大人だし、それなりに上手くやっているように思えることも多いけれど、やっぱり色々と経験値が足りていない。だからカイトがやらかした不始末は、保護者としてわたしも責任をとらないといけないだろう。そういう義務があるというよりも、人としてのモラルとして。カイトがやったことだし、悪気はないのだから、わたしは知らないと切り捨てるのは、さすがに相手に失礼だ。
『やめて。人間に謝られたら、こっちはそれ以上何も言えなくなるじゃない。だからって、こんなのないわ。マスターが喜ぶ? どこが? 彼は私を見て逃げたのに!』
 つり上がり気味の目に涙を浮かべ、ローラはジョーさんをその視線の中にとらえる。つられて先輩の方を見ると、彼は急に自分に注目が集まったことでたじろいでいた。
『ええと、それは……』
 フォローのしようもないが、その反応は無理もないのだ。ジョーさんは全然事情を知らないのだから。
『あのね、ローラ。慰めにはならないと思うけど、一応言っておくわ。カイトがでてきた時のことだけど、わたしだって別に喜びはしなかったのよ。だって、いきなりだったんだもの。心の準備もなにもできてなかったからね。ジョーさんも同じなんだと思う』
 するとローラは疑うように目を細める。
『そうなの?』
 彼女が問うたのは、わたしではなくジョーさんだ。弓型の眉を不安げに寄せ、ローラにとってのマスターの答えを待つ。
 話がわかっているわけではないだろうが、カイトもやはりジョーさんを見ていた。ピリピリした緊張感漂う空気で、自分の返答が待たれていると理解したらしいジョーさんは、しばし硬直したかのように動きを止めると、わざとらしい咳払いをした。
、基本的な確認をしたいんだが」
「なんでしょうか」
 何をどう聞かれるか。わたしは審判を仰ぐような気持ちでジョーさんを見上げた。
「この……女はLOLAなのか。VOCALOIDの」
「そのようです」
「カイトも、そうなのか?」
「……はい」
 ローラとカイトは今度はわたしの方に視線を移した。日本語での会話になったのでローラにはわたしたちが何を話しているのかわからなくなったのだろう。説明を要求するような眼差しになっている。一方カイトは、ようやく自分でも理解できる言語での話になったので、安堵しつつも内容の不穏さに心配しているようだ。
の従兄だっていうのは、嘘なんだな?」
「そうです。だって本当のことなんて、言えないですから」
「ふ……ん」
 ジョーさんは腕組みをした。それからローラの方を見やる。
「ずいぶん普通に話していたようだけど、こういうことって俺が知らなかっただけで、結構あることなのか?」
「さあ……。わたしもカイト以外で実体化したボカロって、初めて見ましたから。よそでも同じことが起きているとしても、自分の経験上、ネットに書き込んだりするかどうかって思いますし。それにもし他の誰かがこのことを書いていても、痛い妄想だとしか思わないでしょうし」
「……まあな。しかし、勘弁してくれよ。まじかよ」
 ジョーさんは片手で顔を覆った。
「あの、ジョーさん。わたし、ローラがでてきた時に居合わせなかったんで、具体的になにがどうなったのかよくわからないんですけど。一体どういう流れがあったんですか?」
 そこのところははっきりさせておかないと。カイトだけではなくジョーさんも絡んでいるのなら、カイトばかりの責任ではないだろうし。それにカイトが出てきた時と同じ現象なのかどうかも確認しておきたい。
 ジョーさんは気まずそうにローラをちらりとする。
がコンビニに行ってから少しして、カイトが俺にもうLOLAは使わないのかって聞いてきたんだよ。それで俺が曲だけじゃなくて歌詞まで浮かんだらまた使うこともあるかもしれないけどって答えたんだ。俺は曲は浮かぶけど、それに合わせて歌詞をつけるってのが苦手なんだ」
 そういえば、ジョーさんの作った曲というのはインスト曲が多かった。それで完成だと思っていたのだけど、歌詞がつけられなかったからという理由もあったのか。曲を作れるだけでもわたしからすればすごいことなのだけど、できる人はできる人なりに別の悩みがあるものなのだろう。
「そう答えたら、それじゃあ次にLOLAを使うのかわからないじゃないか。放置はかわいそうだって言い出してな。LOLAはきっと寂しがっているだろうから、出していいかって聞いてきたんだ。使ってもらえなくてもマスターと一緒にいられるなら、幸せだからって」
 その通りです、とカイトが頷く。
「で、カイトはどう見てもへべれけだし、俺も酔ってたしで――今は素面に戻った気がするけど――そうかそうか、じゃあやってみろって言ってな。そうしたらカイトがディスプレイの前に行って……。そのまま激突するんじゃないかと思って見てたら、腕がこう、中に潜り込んで……」
 思い出したのか、ジョーさんの顔がまた少し青くなる。
「液晶は勝手に光るし、カイトも光るしで、こいつ感電してるんじゃないかって思った。それからすぐに目が開けていられないくらい眩しくなったかと思ったら、光の帯みたいなのが出てきて、それが収まったと思ったらそこにローラが立ってたんだ。てっきり幻覚見るほど酔ったんだと思ったな。あれくらいの酒量でそこまでなったことはないんだが……」
 だがそれは幻覚ではなかったわけだ。
「カイトはローラの手を握ったままぶんぶん振って、はじめましてとか言ってて、ローラは呆然とした顔をしていたな。それから我に返ったみたいで、カイトの手を振りほどいた。何をするんだって英語で怒鳴りながら。で、幻覚だと思っていた女がリアルに動いてしゃべったもんだから、これは幻覚じゃねえとわかって、びびったわけだ。いきなり知らない奴が自分の部屋に現れたら気味悪いって思うだろうが」
「……まあ、そうですね」
 わたしもカイトが出てきたときには、不審者だと思ったからな。
「で、俺がそうなったもんだから、ローラがカイトを責めたんだ。マスターがおびえてる、どうしてくれるんだって。なあ、マスターってのは、俺のことなんだよな?」
「受け入れがたいでしょうが……そうです」
「だよな……。で、ローラが何を言ってもカイトにはわからないようでぽかんとしてて、それでローラもこいつには言葉が通じないとわかったみたいだったんだ。俺は俺でわけわかんねぇしで、三人とも黙ったまま次の出方を伺っていたところで、 が帰ってきたんだよ」
「コンビニになんて、行かなきゃ良かった」
 わたしはため息をつく。
「奇遇だな。俺もそう思ったところだ」
 ジョーさんは自棄になったような笑みを浮かべた。
「あの……」
 この部屋にいる四人の中で唯一へたりこんでいたカイトは、おっかなびっくりという風情で立ち上がる。
「俺……いけないことをしたんですか? ジョーさんはローラさんに会いたくなかったんですか?」
 ジョーさんはあきれたように答える。
「会いたいも会いたくないもない。ボーカロイドが実体化するなんて、誰が本気で思うかよ」
 きつい口調に、カイトの目に涙が浮かんだ。彼はすがるようにわたしを見つめる。
「マスター。ローラさんも外に出られて喜んでいないんですよね」
「残念ながら、そうね」
 言葉が通じなくても喜んでいるかそうでないかなんて、雰囲気で読みとれるものだ。そしてローラが喜んでいないのは一目瞭然だ。
「俺、余計なことをしてしまったんですね」
 カイトがぎゅうっと目をつぶると、ぽろりと涙がこぼれる。次から次にあふれてきてくるのを堪えようとしているようだが、止まらなかった。震える声でごめんなさいと何度も繰り返す。
「ジョーさん、ごめんなさい。お、俺が悪いんです。だからローラさんをア……アから始まる怖いことをしないであげてください……っ。でも俺もアから始まる怖いことはされたくないです……」
「アから始まる怖いこと?」
 ジョーさんはなんだそれはという顔になる。
『どうして彼は急に泣き出したの? 私のせい?』
 困惑したローラも私に助けを求めるように聞いてくる。
『とりあえず、ローラのせいじゃないから。ようやく自分のしでかしたことを理解しただけで。で、ちょっとわたしとカイトの間だけで使ってた言葉が出てきたものだから、それの説明をジョーさんにするからまた日本語に戻るね』
 慌しく説明していると、ジョーさんが割って入る。
『事情がわかってないのは俺とローラなんだから、英語で話した方が早くないか? カイトにはあとで が説明しておけよ』
 ローラは驚いたように目を丸くする。
『マスター、私の言葉がわかっていたんですね』
 ジョーさんは不本意そうな顔をしていたが、腕を組んで頷いた。
『ああ。一応イギリスに留学していたこともあったからな。さっきから言っていたことは全部わかってた。けどなにが起きたんだかさっぱりで、ようやく の――あ、カイトのマスターな――話で少しはわかった』
 ふう、と息を吐くと先輩はカイトを見下ろす。
『迷惑かけてしまったのは悪かった。実行したのはカイトだけど、俺だって煽ったからな。もちろんそんなの、言い訳にはならねーよ。ならねーけど、このまま何もなかったことにしたってわからないことが多すぎて気になっちまう。だから現状をよくわかってそうなこっちの二人に話だけはきっちり聞いてこの後どうするか決めようと思う。……あんただって気になるだろ?』
 ローラはジョーさんを見つめてこくりと頷く。先輩はほっとしたように肩から力を抜いた。小さく笑みを浮かべると、腕を振ってテーブルを示した。
『よし、じゃあ突っ立っているのも何だし、みんな座れよ』
『あ、じゃあ少し片づけますね』
 テーブルの上は食べ残されたまま冷えた唐揚げや中身が空になった缶やペットボトルでいっぱいになっている。わたしはひとまず流しに空き缶などを運んで中身をすすぐ。カイトも手伝ってくれた。まだ落ち込んだ表情をしていたが、片づけ作業は慣れているので、手だけはてきぱきと動く。
 わたしは小声で囁く。
「カイト、もうお酒は飲んじゃ駄目よ。あんたの酒癖がこんなに悪いなんて知ってたら、絶対に止めていたんだから」
「飲むなと言うなら飲みませんが、俺、酔ってないですよ?」
 怪訝そうな顔で、カイトは首を傾げる。
「嘘でしょう。まだ自覚がないわけ? 本当に酔ってないっていうなら、あんたは自分から自分の正体を明かして、わたしの社会的立場も滅茶苦茶にしようとしたってことになるけど、そうなの? あんた、何か自棄になってるの?」
 カイトは釈然としないように言い返してくる。
「正体をばらしたりはしていないです。だって、俺、パソコンに入ったりしてないですし。VOCALOIDのKAITOだって言ったりもしてません。ただローラさんが外に出てくるのを手伝っただけです」
「普通の人間は腕だけだってモニタに沈んだりはしないんだけど。ローラを引きずりだした時点で、自分は人間じゃありませんって宣言したようなものじゃない」
 顔色は普段通りの上に口調もいつもと大して変わらない。見た目は酔ってない様に見える酔っ払いなんて、本当にタチが悪い。
 ようやくカイトは事の重大さを理解したようで、顔色が青くなっていく。
「ど、どうしましょうマスター。俺、俺、マスターにすごい迷惑をかけてしまいました」
「言いたいことは色々あるけど、まずはあっちの二人に説明をしなくちゃならないから、家に帰ってからよ。……いつ頃帰れるかわからなくなっちゃったけど」
「はい、ごめんなさい、マスター」
 ぐすりとカイトは鼻をすすった。

 テーブルの上は多少は見栄えが良くなったので、わたしは濡れた手を拭きつつ、さっきまで自分が座っていたところに座った。カイトはその隣に腰を下ろす。
「何をもめているんですか?」
 カイトは小さな声でわたしに尋ねてきた。
 わたしたちが片づけをしている間に、ジョーさんとローラは言い合いをしていたのだ。
「ジョーさんがローラにピンヒールを脱げって言ってるの。で、ローラはそれはイヤだって」
「どうしてですか?」
「向こうの国の人は家の中でも靴を脱がないものだから、その辺が関係しているんじゃない? よくわかんないけど」
「そうなんですか。でもマスターは俺が家の中で靴を履いていても特に何も言わなかったですが」
「それはスニーカーだからよ。家の中はともかく、学校とかで靴を履き替えたりすることはわたしたちだってするから、まだあまり抵抗がないのよね。でもピンヒールだと音もするし、フローリングに跡がつきそうじゃない」
 日本では室内では靴ははかないのだというジョーさんと、私は日本人じゃないから知らないわよと突っぱねるローラ。
 異文化交流は難しい。しかしやっぱりソフトだからといって、マスターの言いつけに従順に従うというものではないのはカイトと同じだ。ボーカロイドは我が強い性格なのが多いのだろうか。
「ああ、そういうことなんですか。俺たちの部屋も借りてるものですから、綺麗に使うように心がけていますよね」
 納得したようにカイトは頷く。
「俺の経験から言わせてもらいますと、出てきたばかりの時はマスターの置かれている状況とか人間の常識とかがわからない部分が多いんです。だからマスターが嬉しいと思うか思わないかって、結構大きな行動要因になるんですよ」
「……つまり?」
「ジョーさんが、ローラさんにその行為は困る、負担だって言えば従うんじゃないかなぁ。俺だったらそうしますけど」
「ふぅん」
 理詰めじゃなく感情に訴えるということか。あーでも、思い当たることがありまくる。
「あのー、ジョーさん」
 やってみる価値はあるかと、わたしたちそっちのけで日本とイギリスの違いを言い聞かせているジョーさんに、わたしは声をかけた。
「何だ」
 ピリピリしている口調で返されるも、わたしは構わずカイトの提案を伝える。
 ジョーさんは虚をつかれたような顔になったが、しばし考え込む。そしてローラに、
『そのままだと俺が困るんだ』
 と言った。
 ローラは唇を結んでかすかに頬を赤くする。それから、
『仕方がないわね』
 と言いながらピンヒールを脱いだ。
「こんなんでいいのかよ……。しかも消えたぞ、靴」
 ジョーさんはどこか納得いかないような顔になる。カイトは、
「マスター、ローラさんもツンデレですよ!」
 と言いつつわたしの肘をつついてきた。
「もってどういうことよ。もって」
「だってマスターもツンデレだし」
「違うから」
「マスターは素直じゃないですよね」
「うるさいよ、このバカ」
 ひそひそ声で話しているわたしたちを、ジョーさんは妙に疲れたような声でさえぎった。
「話、進めてもいいか?」
 この表情は、きっといつかのわたしが浮かべたものと同じものだろう。あまり嬉しくはない既視感を覚えつつ、わたしは愛想良く笑って返事をした。
 長い夜になりそうだ。





ローラの衣装はパッケージで使われているカラーから。



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