マスターとジョーさんとローラさんは、俺にはわからない言葉でずっと話をしていた。
 俺も混ぜてくださいとマスターの服の裾を引っ張ったり、脇腹をちょんちょんと突付いたりしたけれど、邪魔をするなと言われ、頭をぐりぐりされたので俺はとても寂しくなった。
 話には入れてくれないのに、三人とも時折俺のことをちらちら見るものだから、ひどく居心地が悪い。会話の中では俺のことも話題になっているようで、時々カイトと聞き取れる言葉が混ざっていた。なのに詳しい説明はしてくれない。
(あーあ、帰りたいなぁ)
 俺は小さくため息をついた。
 こんな状態なら、俺がここに残っている意味はないんじゃないだろうか。でもローラさんを引っ張りだしたのは俺なんだから、彼女がどうなるかが判明するまではここにいないと。ジョーさんがローラさんをアから始まる怖い言葉をしようとしたら、俺がローラさんの味方になって反対するんだ。
 ……でもローラさんはそんなことであっても、マスターが決めたことなら受け入れるつもりなのだろうか。
 外に出られたらきっと喜ぶだろうと思っていたのに、実際は逆で、怒っていたし……。使われなくなって結構経っているみたいだから、マスターに会えたらきっと喜ぶと思ったのに、どうしてなんだろう。
 マスターに会いたいとは思わなかったのだろうか。
 一人でいるのは寂しくなかったのだろうか。
 歌わせてほしいと思わないのだろうか。
 俺は自分がそうだったから、同じVOCALOIDであるローラさんもそうなんだと思っていた。
 でもそれは俺の思いこみで、俺の行為はローラさんにとっては迷惑なだけだったみたいなのだ。
(こういうのを空回りって言うんだっけ)
 情けなくて、膝を抱えたくなる。だれど問題を引き起こした俺が拗ねた態度を取ったらいけないだろうと、ぐっと我慢した。
 それからしばらくすると、雰囲気が急に不穏な感じになってきだした。さっきまでは三人ともわりと淡々と話をしていたのに、ジョーさんはローラさんに詰問するような声音で話しかけている。対してローラさんは眉をあげ、肩をすくめて短い返答をしただけだ。でも彼女はもともと表情の変化が大きいひとのようなので、これは特別なリアクションではなさそう。
「カイト!」
 ぐるんとこっちに向きなおり、ジョーさんは俺の腕を掴んだ。
「うわ、はい!」
 びっくりした。俺に話が振られるとは思わなかった。
「パソコンの中にいるときに、外の音が聞こえるって本当か?」
 切羽詰ったように眉間にしわを寄せて、ジョーさんは問う。
「えっと……、はい、本当ですけど……?」
「……まじなのかよ。……で、音以外にもわかるのか? 閲覧しているサイトだとか、再生している動画だとか……」
 真っ青になりながらも鬼気迫る表情でジョーさんは続けた。掴まれた腕はかなり痛い。
「俺の場合は外に出入りするようになる前は、音しか聞こえませんでした。だから動画なら再生された音はわかりましたけど、どんなサイトを見ているとかはわかりません」
「外に出る前はってことは、今ならできるってことか?」
「はい」
「出る前は出来なかったのか、出来たけどやらなかったのかは……」
 立て続けの質問に、俺は首を傾げた。最初のマスターのところにいた時と、今のマスターに出会った後とでは相当変化があるから、当時の感覚は意識しないと思い出せなくなっているのだ。
「どっちも違います。自分のインストールされているフォルダから出られるかもしれない、出てみようという発想自体がなかったんです。だからやるもやらないもないんです」
「ふ……ん、なるほどな。で、今はできるってことは、外に出るようになってパワーアップしたとかそういう何かか?」
 ジョーさんは俺の答えを待つ間も何やら考え込んでいるようだ。掴んでいる手の力が緩んだのでようやく腕が解放される。俺は座ったまま後ろに少し下がり、腕を擦った。
「パワーアップ……ですか? ええと、そうかもしれません。外に何度か出入りしているうちに、自分にはこういうこともできるんだと気づいたことが結構ありましたから」
 でもジョーさんの質問は遠回りな感じがして、本当は何が知りたいのかわかりにくい。もっと直球に聞いてくれないだろうか。マスターならわかるのだろうかと彼女を見やれば、マスターは音量を抑えた早口でローラさんになにやらしゃべっていた。俺とジョーさんの会話内容の通訳だろうか。
 なんてことを考えていると、額に汗を浮かべたジョーさんがぼそりと呟く。
「ローラも外の音は聞こえたと言っていた」
「俺と同じですね」
 やっぱり同じボーカロイド同士、共通点はあるんだと嬉しくなって俺は笑った。
「……お前、なんかむかつくな。殴りてぇ」
 ジョーさんは急に目を細めてすごむ。膝立ちになって、俺の襟元をぐっと掴んだ。
「な、なんでですか!?」
 驚いて俺はさらに後ずさろうとした。だが服が掴まれているのでそれほど後ろへ行けない。それでも逃れようと抵抗するも彼の力は強く、ただ襟のところが延びてしまいそうになるだけだった。
「やめてください!」
 そこへマスターが飛び込んでくる。ジョーさんの手首を押さえて叫んだ。
「さっきから一体なんだっていうんですか。音が聞こえるのはカイトのせいじゃないでしょう!?」
 そしてマスターは背中で俺をかばうようにして、ジョーさんと対峙する。あんな強い力が出せるジョーさんが本気をだしたら、マスターでは一溜まりもないだろう。マスターだってきっとわかっているはずだ。なのに俺をかばって、彼女は先輩に……自分より優位である相手と対立しようとしている。
……っ」
 ジョーさんは唸る。
「ま、マスター、いいんです。そこをどいてください。俺が悪いんです。ジョーさん、殴るなら俺を殴ってください。マスターにひどいことしないで!」
「カイトは黙ってなさい!」
 マスターが一括する。その必死な横顔に、俺は涙が出てきた。だけどマスターを危険にはさらせないとぐいと押しやろうとするも、彼女は足を踏ん張って俺が前に出ようとするのを阻止してくる。
「ますた……っ、ますたぁ〜」
 嗚咽がとまらない。マスターの背中にすがりつきたいのを堪え、とにかく自由にならないとと、ジョーさんの手をどうにかして振り払おうともがく。
「なんだよ……、俺が悪者みたいじゃないかよ……」
 ジョーさんは苛立たしげに顔を歪めた。それから立て膝から胡座に足を組み替えると、ぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。急に手を離されて、俺は後ろに倒れそうになった。
「……っそりゃあ、 はいいだろうよ。こいつが出てきたのは家族がいるときだったっていうんだからな。カイトがいなくても気を使っていただろうし」
 苦悩を搾り出すように、ジョーさんは言う。
「……あの?」
 怪訝そうにマスターは問い返した。ジョーさんはがばりと顔をあげたが、その顔はなぜか全面が真っ赤になっていたのだった。
「こっちは一人暮らしを始めてもう三年になるんだぜ。その間の生活音を全部聞かれていたなんて、冗談じゃねーよ。彼女がいた時期だってあったんだ。それを全部……全部……ちくしょー!!」
 ジョーさんは頭を抱えて突っ伏した。その切実な響きに、なんだか悪いことをしている気分になってくる。ジョーさんの『音』を聞いてたのはローラさんだけど、そのローラさんを引っ張りだしたのは俺なのだから。
「あー……。そういうことですか」
 マスターは笑えばいいのか同情すればいいのかわからないような顔になる。
「マスター? どういうことなんですか?」
 俺が理解している以上にマスターはジョーさんの変貌の理由がわかっているようなので尋ねた。マスターはちょっと俺の方を振り返るも、困ったような曖昧な笑顔を浮かべて俺の頭をぽんぽんとした。
「男の人は色々大変ってとこ?」
 それからまたジョーさんの方を向き直る。
「あまり気にすることはないと思いますよ。音が聞こえてもそれが何の音かまでは、細かいところまではわからないみたいですから。外に出る前の知識的な面は、かなり限定的らしいんですよ」
「それはお前んとこのカイトだけかもしれないだろう」
 切り替えされると、マスターは不服そうに唇を尖らせた。
「そうですけど……じゃあローラに聞いてみます?」
「やめてくれ。意味がわかっていてもいなくても、立ち直れなくなりそうだ」
「わかっていないなら別に悲観する必要なんてないじゃないですか」
「何言ってるんだ。お前らが帰ったあとに質問責めにされるかもしれないじゃないか。ローラの押しの強さからすると、あまり粘れそうにない」
「……ああ、そうか」
 マスターは納得したように頷き、それから同情の眼差しを彼に向けた。
「わたしの疲労回復用のドリンク、良かったら差し上げますよ」
「おう、置いていけ」
 ジョーさんは深いため息をついた。
 いつのまにやら険悪な雰囲気が消えていたので、俺は頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。一体何が起きたのだろう。わけがわからない。
「あの、男の人は大変って……何が大変なんですか?」
 わからないなりに、これが特に関係しているのだと推測しておずおずと質問すると、マスターとジョーさんは顔を見合わせた。
「……英語で話しても日本語で話しても、カイトかローラのどっちかには聞かれるんだよな……」
「その辺に関しては後日学校でってことにしません? メールでもいいですけど。さすがにわたしでもボカロズがいるところでは話しにくい」
「それが無難か……」
 はあ、とマスターたちは同時にため息をついた。俺たちには聞かせられないことらしいので、心配になってくる。特に俺なんて、男なのに男の大変さがわからないのは問題なんじゃないかと思うのだけど、この様子では聞いても教えてくれそうにないだろう。検索かけたら引っかかるだろうか。家に帰ったら調べてみなくては。
 そこへジョーさんがこちらににじり寄ってきて軽く頭を下げた。
「さっきのはやつあたりだ。すまん」
「え、そんな、きっと俺が悪いんですし……」
 ジョーさんはうんうんと頷く。
「知らない方が幸せだった世界を知らされたからな。その点ではまったく余計なことをしてくれやがったぞ、お前は」
「えーと、その……すみません」
 俺はぺこりと頭を下げた。だけどジョーさんの雰囲気がさっきより優しくなっていたので、俺は思いきって尋ねてみることにした。
「ローラさんをどうするかは、決まったんですか?」
「いや、それはまだだ。俺は みたく、出てきてしまったからしょうがない、なんて気にはなれねぇよ。ソフトが実体化したってことも、まだなにかの冗談のように思ってるくらいだしな」
 ジョーさんは腕を組んで何度目かのため息をついた。
の話からすると、費用も普通にかかるようだし、こっち側に慣れるまで相当大変そうだからな。荷が重い」
 あまり希望の持てない返答に俺は肩を落とす。彼は生活音を聞かれていたことに強い拒絶反応を示していたから、このままではローラさんはパソコンに戻して終わり、ということにならないような気がする。そのままアから始まる怖い言葉をされてしまうかも……。ローラさんごめんなさい、俺のせいだ……!
「ジョーさん、お願いです。ローラさんにチャンスをあげてください」
「チャンス?」
 ここで俺が粘らないとローラさんが大変だ。彼女はマスターの指示に従いたいと言うかもしれないけれど、本心からそうしたいと思っているとは思えない。そうでなければ、わかっていないだけなのだ。彼女はまだ経験していないから。
 ア……が実行される時の絶望感を――。
「何日かでいいから、一緒に生活してみてあげてください。もしかしたら、すごく気が合うかもしれないじゃないですか。それに、できるようになるのは少し時間がかかると思いますけど、家事とかがやれるようになれば、ジョーさんの負担も少しは減ると思いますし……。とにかくア……、アから始まる怖い言葉を実行するのは、それまで待ってください。お願いします。お願いします!」
 俺は何度も何度もジョーさんに頭を下げた。勢い余って額が床と激突したけれど、痛みなんて感じている余裕はなかった。彼にとって俺の頭なんかなんの価値もないだろうけれど、そうしないではいられなかった。
「ちょっと、カイト……っ」
 マスターが腰を浮かせて俺を止めようとする。だけど俺は身じろいでマスターの手を振り払った。
 と、ぐいっと襟が引っ張られ、強い力に喉が閉まりそうになる。涙目で顔を無理矢理あげさせられると、怒ったような表情のジョーさんと目が合った。
「いい加減にしろ。俺はそんなに酷い男に見えるのか?」
「そうじゃありませんけど……っ」
「ならもう土下座するのはやめろ。それに別にお前に頼まれなくてもいきなり消したりしねぇよ。気分が悪くなるだろうが」
「本当ですか?」
「ああ」
「嘘ついちゃ嫌ですよ」
「おい、 、お前んとこのカイトはずいぶん失礼な奴だな」
 頬をひくつかせてジョーさんはマスターに文句を言う。
「躾が行き届かなくて済みません」
 マスターは決まりが悪そうな表情を浮かべて謝った。しまった、マスターが悪く思われてしまった。
「ジョーさん、マスターのせいじゃないです、俺が――」
「あー、もううるせぇな。だから俺を悪者にするなっていってるだろうが。そんなに言うなら本当に悪者になってやろうか!?」
「や、やめてください〜〜もがっ」
 叫んでいた途中で口を塞がれる。後ろに回ったマスターが疲れたような表情で俺の口に手を当てていた。
「まひゅたー」
「カイト、お願いだから、ちょっと静かにしていて。具体的に言えば、口を閉じていて。さっきから話がこじれるばかりじゃない」
「ふぇも……」
「カイト」
 マスターの眉がきっと上がり、強くはないがしっかりとした声で俺の名を呼んだ。それでこれ以上ごねてはいけないのだと理解した。
 静かにしていますという意味を込めて俺は小さく頷く。マスターはわかってくれたようで、口を塞いでいた手を外した。彼女は軽く肩をすくめたが、やがて俺の頭をわしわしと撫でてくる。わけがわからなくてマスターを穴が開きそうなほど見つめたが、彼女はちょっと笑っただけで何も言わなかった。
 それからローラさんに英語で話しかける。ずっと放っておかれたローラさんだったが、話についていけないのを気にかける様子はなく、なぜか俺のことを気の毒そうな目で見つめていた。
 そして今度はまた俺が話についていけなくなる番だった。ジョーさんも加わって、三人だけで話を進める。
 だけど、会話は唐突に終わった。
「カイト、帰るよ」
「え?」
 黙っていろ命は解除されていなかったが、思わず声が出てしまった。
「とりあえず、こっちが話せることはみんな話してしまったから、あとはジョーさんとローラとでどうにかするしかないのよ。また何かあったら来ることになるとは思うけど、今夜はこれでお開きってことで」
「それでいいんですか?」
「付きっ切りでいても仕方がないしね。わたしたちがいない方が腹を割って話したりもできるでしょうし……。あ、それでカイトにも何か相談したりすることがあるかもしれないからメアド教えてほしいってジョーさんが言ってたんだけど、嫌じゃなければ教えてもいいかな」
 マスターは携帯を取り出す。
「俺は構いませんけど、俺のはパソコン用のですよ。携帯は持っていませんから」
 とジョーさんに言うと、
「メールが届けばどっちだっていい。カイトは家にいる時ならメールが届いたとかはすぐ気づくんだろ?」
  がそう言っていたとジョーさんは言った。怒っているようでも、呆れているようでもない、最初の頃のジョーさんのようだった。
 しばしの間、二人は無言で携帯を操作する。それからジョーさんの方から俺のアドレス宛に空メールを送ったから後で登録しておけと言われた。個人のアドレスはマスターのものに続いて二人目だ。まさか増える日が来るとは思わなかったので、こんな時に不謹慎かもしれないけれど、ちょっとどきどきする。
 それから帰り支度の済んだ俺たちを見送りに、ジョーさんとローラさんが玄関まで出てきてくれた。
「なあ、カイト。お前ってまだ酔ってるのか?」
 もたもたと靴ひもを結んでいる俺に、上からジョーさんが声をかけてくる。
「だから、俺は自分では酔ってないと思っているんですけど」
 でも酔っているみたいなんだよなぁ。さすがに多少は覚めたとは思うのだけど、自分ではよくわからない……。これは俺がボーカロイドだからなのだろうか。人間は酔っていれば自分が酔っているとわかるものなのだろうか。謎だ。
「手つきを見ている分では酔っているっぽいなぁ。いつもはこんなに時間がかからないもの」
 マスターは不安げに呟く。
「うちまでちゃんと歩けるかな」
「だ、大丈夫です!」
 俺はマスターの心配を打ち消そうと、素早く靴ひもを結ぶと、マンションの廊下に飛び出して、端から端まで歩いてみせようとした。でも雑に結んだ靴ひもの先が長かったようで、それを踏んづけてしまい、転んでしまう。
「……あのなあ、もう真夜中なんだから、あんまり騒がしくするなよ。苦情がくるだろうが。……送っていくか?」
 ジョーさんが呆れたようにマスターに言うが、マスターは頭を振って断った。まだ酔っているという点ではジョーさんも同じだからと言って。
 それから俺達はジョーさんとローラさんに別れを告げてマンションを後にした。深夜の道は人気が少ないけれど、街頭が明るいので帰るのには困らない。それに、俺がまた転ばないようにとマスターが手をつないでくれたので、あんなことがあった後だというのに、すごく嬉しくなった。

(あ、ああああああ〜〜〜〜!!)
 無事に部屋にたどり着き、パソコンに無理矢理押し込まれると、頭に薄っすらとかかっていたもやのようなものがすうっと抜ける感覚がした。
 同時に記憶も鮮明になり、自分の行動を客観的に把握できるようになる。
「マスターァ!」
 慌てて外へ出ると、マスターは驚いたように動きを止めた。
「どうしたの?」
 帰った時のまま、まだ着替えもしていない彼女の足下に這いつくばる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、マスター」
「カイト?」
「酔いが覚めました。なんか俺、すごい無茶苦茶やってしまいました」
 もう自分が信じられない。自分の正体を明かすようなことをして――。さらに他所の家のボーカロイドを引きずり出しただなんて。そんな能力が俺にあったことにもびっくりだ。いや、驚くというか、ああやっぱりな、という思いがなくもないけれど。
 だって俺は自力で出られたんだから、他のボーカロイドもきっと出られないこともないと思うのだ。ローラさんの場合は俺がきっかけになったけれど、今後は自分一人でも出入りができるようになっていると思うし……。
 だけど俺みたいなものは極めて少数しかいないだろうこともわかる。俺だって、無我夢中で飛び出さなければ、外に出られるということに気づけなかったままだろう。
 でもこのことを大っぴらにしたらまずいことになるということだけは、さすがに俺でもわかった。だって、つまり俺の――というよりも覚醒したボーカロイドの能力があれば、どんどんどんどんボーカロイドが増えていくことも可能だということだ。俺の本体はデータだけど、俺のこの身体は機械でもデータでもない。自然の生き物でもなければ機械でもない、そんな不気味な物体がいつの間にか増えていたら――さすがに人間たちは何らかの対応を起こすだろう。そうしたら実体化ボーカロイドのおそらく最初の一体目である俺はどこかの研究所に連れて行かれてきっと色々されてしまうんだ……!
 それだけじゃない。マスターだって俺の存在を知っていて黙っていたのだから、共犯ってことで酷い目に遭うかもしれない。マスターのご両親はどうだろう。あの人たちは本当に俺のことを知らないのに、マスターの家族だからやっぱり疑われてしまうのだろうか。
 駄目、駄目、そんなこと、絶対にさせられない。
 ぎゅっと目を閉じると涙がにじんだ。
「カイト、カイト? あのさ、反省したのはわかったから、いい加減頭上げてよ」
 マスターはさっきから俺の肩に手を当てて軽く揺すってくる。
 俺は頭を上げると決意を込めてマスターに宣言する。
「マスター、俺は二度とお酒は飲みません……!」
 少なくとも酔っていなければ、あんな暴挙は二度としないで済むはずだ。
 それから頭に次々と展開されたお先真っ暗な未来をマスターに話して聞かせる。聞き終わった彼女は戸惑ったような表情を浮かべ、
「ああ、うん、まあ、そこまで反省しているなら……わたしの方から特に言うことはないんだけど……」
 ともごもごと言う。
「反省なんて言葉じゃ済みませんよ。外に出るのを望んでいなかったローラさんまで巻き込んでしまって。マスターどうしましょう。ボーカロイドvs人間なんてことになったら、俺はボーカロイド側のリーダーみたいな感じになってしまうんですよ。それって人間からすれば悪の親玉とかラスボスみたいなものですよね。ゲームとかマンガだとそういうことになってますもん。そんなふうになりたいわけじゃないのに……」
 俺はただ壊れるその日までマスターと一緒にいられればそれで良かったのに。
「カイト」
 涙に暮れる俺の頬を、マスターの両手が包んだ。
「……え」
「落ち着いて。あんた、酔ってないかもしれないけど、パニックを起こしているよ」
 深呼吸しなさいと穏やかな声で命じられたので、俺はその通りにする。一回、二回、三回目で胸の中で渦まいていたものが少し薄れた。
「すみません」
 落ち着きを取り戻した耳に、少し高めの鼻音が聞こえてくる。
「あ……小次郎さん、起こしてしまいましたね」
 リビングの隅にあるベッドから頭をちょこんと出していた小次郎さんは、気だるげに目を開けてこちらを見ていた。真夜中なのに電気をつけたから明るいし、俺が大きな声で喚いたものだから、目が覚めてしまったのだろう。
「ちょっと電気暗くするか。小次郎ごめんねー。寝てるところを邪魔しちゃって」
 マスターは蛍光灯の明かりを一段階暗くする。それから声は抑えて、と囁いた。
 こっちにこいと手招きされたので誘われるままにソファに座る。マスターは今日は特別だと言って俺の頭を抱きしめてくれた。背中に手をあて、髪をゆっくりと撫でる。
「あんたのお先真っ暗な想像は現実にはならないから、安心しなさい。だってわたしには他にボーカロイドを持っている知人はいないんだから。ボカロ量産計画なんてできっこないもの。だからカイトもわたしも、わたしの両親も大丈夫だよ。何も起こらない」
 指摘されて我に返る。そういえば俺は別に他所のパソコンのネットワーク回線に潜り込むことまではできないから、ボーカロイドを増やすには、あくまでもボーカロイドがインストールされているパソコンが必要なんだ。
「あと、ローラに関しては彼女のマスターであるジョーさんが最終的な判断を下すことになるから、わたしにはどうすることもできない。だけど猶予をあげてほしいとはわたしも思っているから、できる限りジョーさんと話をする時間を取るようにするよ」
「はい」
「カイトはジョーさんから何か相談メールが来たらそれに答えること。ボーカロイドじゃないとわからないようなことを聞かれるかもしれないから、その時にはできるだけわかりやすく、親身になってね。わたしがいないときにメールが来て、判断に迷ったら転送しなさい」
 はい、と俺は頷いた。
「マスターはやっぱりすごい」
 ぎゅうっとマスターに抱きつく。
「すごいって、なにが?」
「だって俺と違って落ち着いているもの。それにマスターが大丈夫だって言えば本当に大丈夫だと思えるから」
「どっちかっていうと、カイトが動揺しすぎなだけのような気がするけど……。でも、そう言われて悪い気はしないかな」
 マスターは笑った。
「あ、そうだ、マスター」
「何?」
 ジョーさんのメールで思い出した。俺は俺にやれることをやらないと。できるかどうかは、わからないけれど。
「俺、ローラさんに直接謝りたいです。ごめんなさいって、あのひとにわかる言葉ではどう言うんですか?」
「簡単な謝罪の言葉なら難しくはないからカイトでもすぐに覚えられると思うけど……。もしかして直接言いに行くの? 行くなら先にジョーさんに都合のいい時間をメールして聞いて、訪問の許可を取るのよ。わたしも同行するからこっちの都合としては、学校とバイトがある時間帯は避けてね」
「はいっ」
 許してもらえるかわからない。ううん、それどころか会ってもらえないかもしれない。でも俺が悪いことをしてしまったのだから謝りたい。償えることがあるのなら、何でもしたい。でも……。
「マスター」
「なに?」
「明日、ジョーさんにメールすると思うとドキドキしてきました」
 だって俺がメールしたことがある相手はマスターだけなのだ。それ以外の人間の人、それも俺が迷惑をかけてしまった相手に用件を伝えるなんて、なんだか怖い気がする。
「自分から言い出したくせに。いいよ、わたしがメールするよ」
「いえ、俺がやったことなので俺がします。でも……朝まで一人でいたら、また真っ暗な未来とかローラさんのその後とかを想像しそうで……。あの、今夜はマスターのそばにいていいですか?」
「……うーん」
 マスターは眉間にしわを寄せる。だが返って来た答えは意外にも良いものだった。
「いいよ。わたしも今夜は寝てるどころじゃなさそうだから、付き合うよ」

 それから俺とマスターはヘッドフォンをしてレーシングゲームやパズルゲームなど、二人で遊べるゲームをして夜を明かした。
 なんだかちょっとこれは違うような気がしたけれど、確かに朝になるまで時間がつぶせたので、結果的には良かったのだと、思う。





ローラ視点での細かいやりとりは本編では書かないと思います。
(さらっと『彼ら側の事情』は書くつもりだけど)



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