「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい、マスター」
 見送る俺をマスターは見上げると、少し心配そうな顔になった。だけどそれ以上は何も言わず、俺の肩に腕を伸ばして軽く叩き、ひらりと手を振って出ていった。俺は彼女がいなくなった玄関をしばらく見つめる。だけど突っ立っていても仕方がないと思い直して日課の仕事をするためにキッチンへ戻った。
 朝食の後片付けをしながらも、俺の意識はパソコンの方へ飛んでしまう。もしかしたらジョーさんからメールが来るかもしれないのだ。
 俺はマスターに手伝ってもらって、もう早朝ではないという時間に一度ジョーさんにメールを送っている。ローラさんに謝りたい、そのためにそちらに行きたいと伝えるために。
 昨夜はいろいろあったから、ジョーさんも寝ていなかったのかもしれない。彼からの返信はすぐに来たのだけど、その答えはどう受け取ればいいのか迷うようなものだった。ローラさんには伝えておく。でもジョーさんたちが落ち着くまで訪問はしばらく控えてほしい、というものだったから。
 しばらくというのはどれくらいのことだろう。明日だろうか、明後日だろうか。もっともっと先なのだろうか。
 もしかしたら遠回しに、二度と来るなと言っているのかもしれない。マスターもその可能性はないとはいえないと言っていたから『しばらく』先の日は永遠に来ないかもしれない。
 どのみち今すぐ来てもいいと言われたりはしないだろうに、それでももしかしたらと思うと、そわそわしてしまうのを止められなかった。
「うわっ」
 注意力が散漫になっていたのだろう、洗った食器を濯ぐために取ろうとして、うっかり流しに落としてしまった。
「ああっ」
 意外に大きな音がしたので、ヒヤリとする。マスターのお気に入りのカップなのに……!
 慌てて壊れていないか確かめる。水で泡を洗い流して中も外も念入りに見てみたが、どうやら無事のようだった。
「良かった……」
 ほっと胸をなで下ろす。それから俺は自分の頬をぴしゃりと叩いた。手を拭かなかったので、両頬に水滴が飛ぶ。
(しっかりしろ!)
 俺は自分に言い聞かす。
 これ以上失敗を増やすわけにはいかない。マスターが許してくれるからといって、それに甘えていちゃ、駄目だ。俺はマスターのために存在しているのだから、与えられた役目――家事などのことだ――くらいはちゃんとやらなくては。
(マスター、大丈夫かな……?)
 そのマスターの今朝の様子を思いだしたら、ちくちくと心が痛んだ。彼女は朝まで一人でいたくないという俺の頼みを聞いて、ほとんど寝ないで学校へ行ったのだ。
 マスターはすごく気楽な調子で応じてくれたので、俺は本当にマスターは色々あったためにテンションが上がって眠れない状態になっていたのだと思っていたのだけれど、本当は違ったんだ。逆に色々あったから疲れていたんだ。でも俺が自分のしでかしたことに騒ぐわへこむわしていたので、多分放っておけなくなったんだろう。
 そうと気づいたのは、マスターが夜明け頃に寝オチしてしまった時だった。首が痛くなっていそうなほど頭が前に垂れていて、眉間にかすかにしわが寄っていた。メガネがずり下がりかけていたせいもあったかもしれないけれど、レンズの下に見える瞼の下側が黒みを帯びていたのはまつげの陰のせいだけではないだろう。照明の明かりを抑えていたので気づかなかったけれど、よく見れば肌の生彩が欠けていて、全体的に疲れているのだとその姿は訴えてきていた。
 なのにマスターは直前までなんだかんだと俺と対戦形式のゲームをやっていたのだ。けれど俺は別にゲームがしたかったわけではなく、マスターの近くにいられれば安心できたのであって――つまりマスターは一人用のゲームをしていても、はたまた他の作業をしていても、あるいは眠っていても構わなかったのだ。だから、あれは俺の気を反らせる目的であえて選んだのだろうと思っている。
 そのマスターはうたた寝から復活すると、眠気覚ましにシャワーを浴びてくるといって、お風呂場に行った。やけに時間がかかるなと思ったら、ついでにメイクもしてきたので、浮いた隈も疲れた肌もリセットされているように見えた。でもそう見えるだけで、疲労が回復されたわけではないはずなのだ。
(おまけに、今日はアルバイトがある日だし……)
 帰ってきたらマスターは疲れすぎて倒れてしまうかもしれない。
 そうなったら俺のせいだ。俺がもう少しマスターのことを考えて行動できていたら……。
 せめて次の休みの日にはうるさくつきまとったりしないようにしようと決意する。それにマスターが好きなご飯をたくさん作って栄養をとってもらうんだ。俺にできることはこれくらいしかないんだから。

 アルバイトから帰ってきたマスターは倒れこそしなかったものの、やはりかなり疲れているようで、足取りが少々危なっかしくなっていた。
「疲れたー」
 お風呂に入る気力はないと、シャワーだけで済ませてから彼女はソファにぽすんと座る。
「マスター、大丈夫ですか?」
 ソファの脇に立って、俺は尋ねた。
「んー、大丈夫。寝れば回復するから」
「……すみません」
「なにが?」
 不思議そうに目を上げて、マスターは問う。
「俺がわがまま言ったから、マスターを睡眠不足にしてしまいました」
 マスターは俺の答えを聞くと素っ気ない素振りで肩をすくめた。
「寝オチしちゃったけど、眠れそうにないと思ったのは本当だもの。だから別にカイトのせいってわけじゃないよ」
「そうなんですか?」
「うん」
 本当かな。でもマスターがこういう言い方をした時には、本当にそう思っているのか聞いたって、嘘でも本当でも前言撤回したりはしないのだ。俺は頭が回るとは言い難いので口で説明してもらったほうが理解が早いとは思うのだけど、彼女はあえてそうしていないのではないかと思うようになっていた。俺が気づくのを待っているというか、自分で考えられるようにしているというか。わかりにくいとは思うけれど、これがマスターなりの見守り方なんじゃないのかって。
 だから俺は重ねて問うことはせずに、気になっていた別のことを尋ねてみた。
「ジョーさんとは会えましたか?」
 俺の方には結局最初の一通以外のメールは来なかったのだけど。
「昼休みに少し話せたよ。わたしたちが帰ってからそれほど経たないうちにローラには一端お引き取り願ったみたい」
 それでその後はどうしたのだろうと続きが気になり、隣に座っていいかと断ると、マスターは俺が座れるようにスペースを開けてくれた。
「ローラには色々疑問点があるんだよね。その辺りのことはかなり気になっているみたい。たとえばLOLAは公式のイラストもないから、どんな姿をしているかはっきりしていないけど、ジョーさんのところのローラはああいう勝ち気な美人系だったでしょ。あの姿と性格はどのLOLAでもそうなのか、とか」
「はあ……」
「カイトのことも気にしてたよ。どこのKAITOもうちのカイトみたいな性格をしているのかって。そうだとしたら色気のあるKAITOが絶滅危惧種呼ばわりされるのも納得できるって。わたしは他のKAITOを知らないからさすがに答えられなかったんだけどね。で、実際のところはどうなんだろう」
「俺だって俺以外のKAITOには会ったことはないからわかりませんよ」
 けなされてはいないかもしれないけれど、誉められてもいないということは伝わってきたので、俺は軽く眉をしかめる。それはそうかとマスターは納得したように頷いた。
「それで、ジョーさんは今晩あたりにでもローラさんとお話してくれそうなんですか?」
「数日は無理そうみたい。帰省しないといけないとかで」
「帰省、ですか」
 週末にかかっているのだからそういうことがあってもおかしくはないかもしれないけれど、昨日の今日でそれって、タイミングが良すぎるなんて思うのは穿ちすぎかなぁ。
 なんて思っていると、マスターが苦笑した。
「言いたいことはわかるよ。でも法事だっていうから、前から決まっていたことみたい。でも」
 マスターは言葉を切った。視線が虚空をさまよう。
「嘘だとしても嘘じゃないのか、なんてこっちからは言えないよ。うるさがられない程度にはジョーさんにローラの話はするけど、わたしがやっているからって、ジョーさんにも実体化したボーカロイドのマスターをやってくれなんて強要はできないし。カイトとの付き合いも一年以上になるけど、負担が大きいと感じることは今でも時々あるくらいだからね」
 負担が大きい。やっぱりそうなんだ。
「それなのに、マスターは俺のマスターでいてくれるんですね。どうしてですか?」
 聞くとマスターは盛大に眉をしかめた。
「あんたがここにいたいって言うからじゃない」
「でもマスターが俺の言うことをきかないといけない理由はないじゃないですか」
 マスターは肘掛けに肘をついて、唇をとがらせた。
「情が移ったのは確かね。今のあんたをどうこうするのは、かなり抵抗があるし……。馬鹿な子ほど可愛いと言う人の気持ちもちょっとわかった。ずっと馬鹿なままでいられても困るけど」
「えっと、頑張ります」
 もしかしたらマスターは俺が思っている以上に俺のことが好きなのかもしれない。今のままの俺ではまだまだなのはわかっているけれど、顔が嬉しさで緩むのを抑えきれそうになかったので、俺は口元を手で隠して視線を反らした。
「だけど」
 続いて発せられたマスターの声は固い。それで俺も表情を引き締めた。
「ジョーさんはまだそこまでいってないの。わたしだってあんたが出てきた当初はどうするか迷ったよ。大変になるのは目に見えていたもの。だからジョーさんの出した結論があんたの望み通りにいかなかったとしても、責めるんじゃないわよ」
 真顔でマスターは俺を見つめた。冗談でもなんでもなく、起こってしまうかもしれないことなのだとその目が告げている。
「はい……」
 ぎゅっと俺は膝の上で両手を握った。

 それから数日が過ぎた。マスターを通じてのただの知り合いでしかない俺は、あれからジョーさんに再三のメールをすることもできず、やきもきとするだけの日々を送っていた。
 マスターは少しは話をしているようだけれど、進展しているのかしていないのか、よくわからないらしい。はぐらかされているように感じると言っていたから、状況は良くないように思えた。
 しかし。
「メール来た!」
 小次郎さんの夕方の散歩に行こうと準備を始めたところ、メールが届いたので、俺は反射的にパソコンに駆け寄った。そんなことをしなくても遠隔操作で開くこともできるのだけど、とっさに身体が動いてしまったのだ。
「えっと……」
 ドキドキしながらメールを開く。
「なにこれ」
 だが中身はたった二行で、それもローラさんは一切関係のない内容だった。

変なこと聞くけど、カイトは実体化したVOCALOID KAITOなんだよな?
もとはパソコンの中にいたんだよな?

 これは何かを試されているのだろうか。両方とも答えは「はい」だけど、そう答えてしまっていいものだろうか。
 マスターが帰ってくるまで返事を書くのは待とうか。でも、気になるなぁ。
 少し悩んだけれど、結局我慢できなくて俺は返事を書いてしまった。そうです、でもどうしてこんなことを聞くんですか、と。
 その返事もすぐに来た。それを読んだら、自分でも知らないうちに歓声をあげていた。

時間が経ったら、ボーカロイドが実体化したなんて、本当のことだとは思えなくなってきてたんだ。けどやっぱり夢じゃないんだよな。
ただそれを確認したかっただけだ。これからローラを呼び出して、改めて話をしてみるつもりだ。

 良かった。ローラさん、本当に良かったですね。
 でもメールの内容からすると、あの日以来ジョーさんはローラさんを呼ばなかったのだろうな。もう、ジョーさんたら。ローラさん、きっと待ちくたびれていますよ。
 なんて、ジョーさんにちょっと文句をつけちゃったけれど、本当は嬉しくて仕方がなかった。少し時間はかかったけれど、やっぱり気味が悪いからア……をしよう、という結論にはならなかったわけだもの。
 うまくいきますように。どうか、どうか、幸せな結末になりますように。
 この思いよジョーさんとローラさんに届けとばかりに、俺はパソコンに手を合わせてお祈りをした。
 どうなったのか気にしつつも、日課の家事をこなしていた翌昼過ぎ、ジョーさんからメールが届いた。

今いるか?
できるだけ早く返信がほしい。

 今日の夕ご飯は何にしようと、レシピサイトを閲覧中だった俺は、すぐに返信をする。

います。
どうかしましたか?

 今度もまた返信は早かった。

すぐこっちに来れるか?
ローラが出てこないんだが、出られないのか出たくないのかがわからん。出たくないならそれはそれでいいんだが、話ができないから出たくないのかもわからん。だからちょっと引きずり出してくれないか?

 出てこない……?
 すぐに呼んでもらえると思っていたのにそうじゃなかったから、ローラさん拗ねてしまったのかな。俺なら絶対にそうなるからなぁ。
 いや、俺の場合は拗ねる前に寂しくなって、勝手に出てしまうだろうけれど。
 それはともかくここは俺の出番らしいので、すぐに行きますと返信すると、ジョーさんの家に急いで向かった。

「来たか。すぐ連絡がついて助かったよ」
「俺は家にいる時間の方が長いですから」
 ジョーさんの部屋の着くと、すぐに中に通される。
 電源のついたパソコンには開かれただけのVOCALOID Editorが表示されていた。
「ローラさんが出てこないって、メールにありましたけど……」
 モニターを一瞥して、俺はジョーさんに状況を尋ねた。
「書いた通りだよ。昨日お前にメールしたあと、ローラと話し合いをしようとして呼びかけてみたんだ。でもうんともすんともならなかった」
 ジョーさんはぴりぴりとした様子で髪をかきあげる。
「もしかして、その後ずっと呼び続けていたんですか?」
 睡眠もとらず、学校にも行かないで?
 驚く俺に、ジョーさんはあっさりと否定する。
「まさか。何回か呼んでみて、反応がないから今日は機嫌が悪いとかなにかで出る気がないのかと思って呼ぶのはやめたんだよ。でもいつまでも放っておいていいことじゃないじゃないか。だから朝になってからまた呼んだりしてみたんだが、やっぱり駄目だった。反応ゼロ」
 俺はここに来る前に考えた予想を口にする。
「ジョーさんがなかなか呼んでくれなかったから、拗ねたとか怒ったとか」
「そうだとしても、無視することはないだろう」
 むっとしたようにジョーさんは言い返した。
 それからふっとため息をつく。
「とにかくだ、俺には打つ手がもうない。あんまり反応がないんで、俺のパソコンにローラがいるなんてのは、悪酔いして見た幻覚かなんかだと思えてきたくらいだ」
「幻覚じゃないですよ。ローラさんはちゃんといます!」
 夢や幻だと思われて、ローラさんがそのまま放置されては大変だと、俺は力説する。
「わかってるよ。幻覚にしちゃ、あまりにもリアルだったからな。でも実際に無反応なんだから、そう思っても仕方がないだろう。それとな」
「はい」
「もう一つ可能性に思い当たった」
 ジョーさんはぴんと人差し指を立てる。
「どんな可能性ですか?」
「ローラはカイトが引きずり出したから出てきたわけだろ。あの時、お前もディスプレイも滅茶苦茶光ってた。スパークしているようにも見えたし……。だからもしかしたらその時にパソコンの中身が壊れたのかもしれないってな」
「……ええと」
 どうしよう。あり得ないと言い切れない。背中にひやりとしたものを感じながら、俺はパソコンの本体の方に恐々と目を向けた。……壊れていたらどうしよう。
「わかる範囲で異常がないかは調べた。で、結果は異常なし、だ」
「良かった……」
 ほっと息をつく。しかしジョーさんは容赦なかった。
「けどな、ボーカロイドの実体化がどういった理由で起こっているかわからない以上、通常のエラーがないから問題ないとはいえないだろう。実体化に関わるどこかの部分が壊れてしまったのかもしれない。そしてそれは通常のエラーチェックでは出てこないものかもしれない」
 そう言われても、俺も自分がどうやって実体化できたのか、具体的なことはわからないのだ。最初の時はそれこそ無我夢中で、ここをこうすれば外に出られる、なんて一つも考えたりはしていない。ただただマスターに捨てられたくなくて必死だっただけなのだ。
 ということをぼそぼそとジョーさんに伝える。全く役に立ちそうにない情報だけど、ジョーさんはとりあえずといった感じで頷いた。
「実際の理由はローラに聞いてみなけりゃわからないだろう。出れないなら出してやらなくちゃならん。出たくないってならそう言ってもらえればそれでいい。けど今のままじゃ話が進まないんだ。せっかく心の整理がついたってのにな。だからカイト、もう一度ローラを引っ張りだしてくれ」
「……わかりました」
 ジョーさんが本気でローラさんと向き合おうとしているのが伝わってきた。だったら俺もそのお手伝いをしなくては。
「ジョーさん、今話したことをローラさんにわかる言葉で言ってもらえませんか。もし出たくないのであれば、ローラさんにすごく抵抗されるかもしれないですし。でもマスターであるジョーさんがそう望んでいるなら、すんなりいくかもしれないので」
 ジョーさんのパソコンは俺がインストールされているわけではないので、その拒絶反応からか結構痛かった記憶もある。ローラさんに目一杯抵抗されたらそれに耐え続けられるか自信がない。
「わかった」
 ジョーさんはモニタに向かって英語でしばし話しかける。それが終わると俺に場所を譲ってくれた。
 俺は腕まくりをしてモニタの前に立つ。ゆっくりと指先を画面の中に沈めようとして――。
「痛っ!」
 弾かれるような衝撃に、思わず手を引っ込めた。
「なんだかこの間よりも痛い気がします」
 指をさすりながらジョーさんに報告する。うう、この中に腕をつっこまないといけないなんて……。
「そうか? この間もこんな感じだったけど」
 けげんそうに眉を寄せて、ジョーさんはそう言った。
「ええー」
「お前、この間は酔ってたし、痛覚が鈍ってたんじゃね?」
「そんなー。だったらまたビールを飲んでからやりますから、ビールをください」
 飲まないと誓った俺だけど、この痛みがずっと続くとなるとかなりきつい。痛み止めとしてならアルコールの摂取もありかと、俺はジョーさんに頼んだ。
「お前の酔い方はひどいからな。飲ませてもいいけど、俺がに文句言われそうだ……」
 気が進まなそうにジョーさんは答える。
「うう……」
 たしかに俺の酔いっぷりはひどかった。だからあまり強いことも言えず、俺は涙を飲んで素面で再チャレンジすることにした。
 さっと入れてさっと引っ張ればいいんだよね。ローラさん、お願いですから、素直に俺に引っ張られてくださいね。
「えいっ」
 覚悟を決めて両手を突っ込む。途端、全身がしびれるような感覚が起こった。内側からは俺を押し返そうとするような感触もしている。これではさっと行動するなんてできそうにない。
「痛い痛い痛い痛い〜〜〜」
 まともに立っていられなくて、でもここから動くこともできない俺は小刻みに飛び跳ねるように足を踏みならす。
 こんなにびりびり来ているのだから、床を伝ってジョーさんもしびれているかもしれないとちらりと振り返るも、ジョーさんは心配そうに眉を寄せてこっちを見ているだけだった。ジョーさんはなんともないようだ。
「んん……っ」
 それならこれはやっぱり、俺がインストールされていないパソコンに侵入しようとしているから、拒絶されているのだろう。ようやく手首まで沈むことができた俺は、頭の片隅に残った冷静な部分でそんな風に考える。
「……っく」
 また少し先に進めた。だけどどこまで手を伸ばせばローラさんに届くのだろう。あの時の俺、教えてほしい。
 そのとき、ふっと頭に音が響いた。
「ローラさん!?」
 何を言っているのかはやはりわからないが、聞き覚えのあるその声は彼女のものだった。ああ、そうだ。思い出した。最初の時もそうだったのだ。彼女は何かしゃべっていた。だけど俺には理解できなかったから、それがローラさんがしゃべっているのだと認識できなかったんだ。
 痛みと不快感に全身を苛まれながらもその音に耳を澄ますと、ふいにKAITOという言葉が混じっているように聞こえた。
「そうです、俺、カイトです。ローラさん、俺の手が見えますか? つかまってください、引っ張りますから!」
 ぐぐっと力任せに腕をつっこむ。こんなことをしたせいか、痛みも抵抗も一気に強まったけれど、それよりも早くローラさんを出してあげないと、と必死だった。
 ほどなくして指先に何かが触れたかと思うと、それは俺の両手をつかんできた。手だ。でも力が強すぎて、手首に爪が食い込んでくる。
「ジョーさん、ローラさんがつかまってくれましたよ!」
「よし、引っ張れ、カイト!」
「はい!」
 今度は力を入れて引っ張る。すると突っ込む時とは逆に拍子抜けするほどあっさりと腕は引き戻すことができ――
「わ、わわ……っ」
 勢い余って、俺は後ろにひっくり返った。背中をしたたかに打ったのでさっきとは違う痛みで泣けてくる。
 逆さまになった視界には、光の帯がローラさんの姿を形作り、切羽詰った表情でジョーさんに駆け寄って抱きつくところが見えた。
「Master!」
 抱きつかれたジョーさんはしばしためらったが、安堵したように息をつき、彼女の胴に腕を回した。そしてぽんぽんと背中を軽く叩く。
(良かった……)
 ローラさんはやっぱり出られなかっただけなんだ。どうして出られなかったのかは、わからないけれど……。
 でも出られたのだから、もう大丈夫だ。理由が判明するまで、戻らなければいい。そしてその間にジョーさんと仲良くなれれば、彼もきっとア……をしようなんて気はなくなるだろう。
(でも、いいなあ、ローラさん)
 二度目の出現でマスターにぎゅーっとしてもらえたんだもの。俺なんてそうしてもらえるまで何ヶ月かかったことか。
 自分との違いを目の当たりにし、そんな彼女を心の底から羨ましく思うのだった。







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