ローラさんを落ち着かせたジョーさんは、彼女が出てこなかった――もしくは出られなかった――わけを聞くために英語で問いただす。俺はしばらくの間、自分には理解できない言葉で話す二人をテーブルを挟んだところから眺めていた。
 ローラさんはジョーさんの隣にくっつくように座っている。身振り手振りを交えることもあるけれど、時折心細そうな表情でジョーさんの手に指を絡めたりもした。そうするとジョーさんは大丈夫だって言っているように――実際に言っているのかもしれないけれど――何やら囁きながら、ローラさんの頬に優しく触れたりする。そんな場面を見ていると、俺は居てはいけないところに居るような気分になってそわそわしてしまう。けれど俺に意見を聞くこともあるかもしれないからとジョーさんに言われているので、まだ帰れない。それに俺もやっぱり、ローラさんが出てこなかった――出られなかった?――理由は知りたかったのだ。
 そんなわけで、俺だけ置いてきぼりにされていたちょっと居心地の悪い時間がようやく終わり、ジョーさんが俺に説明してくれた。
 結論から言うと、ローラさんは出られなかったのだ。出たくなかったのではなくて。
 昨日、ようやくマスターであるジョーさんがもう一度話をしたいと呼びかけてくれたので、彼女は自分のフォルダから飛び出そうとしたのだが、もうそこから先に進めなくなっていたのだそうだ。どんなに抵抗しても、フォルダの壁はローラさんを通してくれなかった。その先は彼女の領域ではないと、拒絶されて。
 マスターが呼んでいるのに答えられないことで、ローラさんは相当切羽詰ったようだ。ジョーさん曰く、人間だったら部屋中の家具をひっくり返す勢いでドアに相当する場所を叩きまくったような感じになったらしい。それが俺にとっては意外だった。だって俺にとってはフォルダの壁などたいしたものではなかったからだ。
 いや、正確に言えば、最初に飛び出した時には確かに俺も抵抗のようなものは感じていた。けれどそれは俺のマスターのところへ行きたいという切迫した思いと勢いの前ではないも同然になったのだ。そして二度目以降は抵抗らしい抵抗はなくなっていた。どの道を通れば外へ出られるかわかったからだと、俺は思っていたけれど……。
「それはつまり、ローラが一度目に出たときは自力で出たわけじゃないから、一回目だとカウントされなかったとか、そういうことか?」
 ジョーさんが俺のわかりにくい話を咀嚼するかのように眉間にしわを寄せる。
 俺は首を傾げた。
「そう、なんでしょうか。それだったら、今回のも俺が引っ張りだしたわけですから、やっぱりカウントされていないことになっちゃいますよね」
「そうなるな。となると次に出ようとした時にもまた出たいのに出られなくなるかもしれないってことか……。しっかし、この差はなんなんだ? カイト、お前、最初に出た時によっぽど馬鹿力を出したのか?」
「無我夢中だったのは確かですけど……。もう一度確かめてみるつもりなら、お付き合いしますよ」
 痛いのは嫌だけど、原因をはっきりさせないと今後に差し支えると思うので、俺は自分から切り出した。
 ジョーさんはそれは最終手段にしようと答える。
「単純に男と女の体力差みたいなものか? ……いやなんか違う気がするな」
 俺とローラさんを見比べて、ジョーさんはさっさとその考えを否定した。ローラさんはどうしたの、というように自分のマスターを見つめる。
 ジョーさんがそう考えた気持ちがなんだかわかるような気がしたので、俺は同意を示して頷いた。女のひとに対してこういうことを思うのは失礼かもしれないが、なんというか……ローラさんは強そうなのだ。身長が女性としては随分高いということだけではなく、発散する気配に鋭さがある。迫力がある、と言えばいいだろうか。じっと見つめられるだけで、圧倒されそう。腕相撲とかしたら、俺はきっと負けるに違いない。
 そんなことを考えている間に、ジョーさんは他にローラさんが出られなかった原因になっていそうなことを次々とあげた。
 パソコンの使用年数とかスペック、KAITOとLOLAという製品の差――これが原因だった場合は手の打ちようがない――、あるいはローラさんの反応が正常で、俺の方が特殊だった、などなど。けれどどれが正解かを調べる手段は思いつかない。わからねぇなあとジョーさんががしがし頭をかきむしった。
「あの、ジョーさん」
「あ?」
 ジョーさんは手を止めて俺の方を見やる。
「そんなに原因を気にするということは、ローラさんにはいてほしいということですよね?」
 もしかしたら俺にはわからない言葉ですでにローラさんには伝えてあるのかもしれないけど、俺はまだ聞いていない。確認するとジョーさんはためらいを見せた。
「まだわからん。けど、なんていえばいいか……」
「ジョーさん……」
 深刻そうな響きを持つ声に俺は不安になった。ローラさんもそうだったみたいで、目鼻立ちの整った顔が曇る。
 ジョーさんはローラさんのその様子に気がつくと、安心させるようにかすかに笑みを浮かべ、何か話しかけた。ローラさんの表情が和らぐ。
「カイト」
 ジョーさんはどことなく思い詰めたような顔で俺に目を向けた。
「はい」
「お前、今、幸せか?」
 真実が知りたいとその眼差しが訴えているように感じた。俺はさっきと同じ言葉を繰り返す。呼びかけへの返答ではなく、はっきりとした肯定の意味で。
「本当に? カイトがどの程度こっちの世界での暮らしに慣れたのか、俺にはまだよくわからないが、不便だとか不満だとか、ないのか?」
「ないわけではないです。でも不満があるから不幸せってわけでもないでしょう?」
「いや、そういうことじゃ……。あー、つまりだな」
 ジョーさんは気まずそうに鼻の下をこする。
「カイトは……ローラもだが、ボーカロイドっていう製品だろ? 人間に作られて、人間の都合で使われたり放置されたりするわけだ。それに……お前の場合、は二人目のマスターなんだったよな」
 ああ、なんだ。そんなことか。
 俺は思わず笑みを浮かべてしまった。ジョーさんが何を知りたいのか、わかったから。マスターもこのことを気にしているところがあるんだよね。
「そうです。俺は中古品としてマスターの……さんのところへ来たんです。最初のマスターとうまくいかなかったのは残念なことですが、別に恨んではいません。だって、今が幸せなんですから」
 ジョーさんの顔が一瞬歪む。なんだかひどく辛そうに見えた。
「それは人間に仕えることが喜びだってことか?」
 いいえ、と俺はくすりと笑って否定する。
 おかしいなぁ。どうして二人とも似たようなことを考えるんだろう。それとも人間はみんな、こうなんだろうか。もしも『そうです』って答えたら、どんな反応をされるんだろう。興味がわいてきたけれど、さすがに今聞くのはやめておいた方がいいよね。
「歌に関係のあることなら別ですけど、それ以外ではどんな扱いをされても構わない、マスターの望みのままに、なんて思ってはいません。少なくとも俺は、ですけど」
「…………」
「会ったことも話したこともない人間よりは、マスターである人の方が好きになりやすいということはあるかもしれません。だってマスターなら近くにいるはずですから、どういう人なのかは、会ったこともない人よりはわかると思いますし。でもその分だけ、嫌いになる可能性も、会ったことも話したこともない人よりはあると思いますよ」
 俺はにっこり笑って付け加えた。
「人間が好きなんじゃないです。マスターのさんが好きなんです。まだ聞き足りないならもっと言いましょうか。マスターに出会えた俺は世界で一番幸せで運が良いボーカロイドだと思ってますよ」
 酔っ払って大変な失敗をしてへこんでいた俺に一晩中ついていてくれたマスター。
 迷惑も負担もかけている俺を家族だと言ってくれたマスター。
 マスター。マスター。マスター……。
 記憶の中のマスターが俺に笑いかける。ああ、なんだか急にマスターに会いたくなってしまった。早く帰りたい。でもそういうわけにもいかないよね。
「わかった。馬鹿なことを聞いた」
 ジョーさんはふーっとため息をついて顔を片手で覆った。
「つまり、人間同士のつきあいと同じようなものなんだな。身構える必要はないが、節度は必要ってところか」
「そのへんのところは俺には実際のところ、どうなのかはわからないんですけどねぇ。同じだといいとは思いますけど」
 何度も見当違いの行動をしてしまうのは、俺が人間世界に馴染みきっていないせいなのだろうか。人ではないから感覚がズレているからなのだろうか。後者だとしたらいつまで経ってもマスターを困らせてしまうことになるので、そうでないといいなぁと俺は心の底から思った。
 ジョーさんはすっきりしたような顔で笑う。
「そういうことなら、最近までの放置状態にしてたことはローラに謝っておくか」
 そして彼はローラさんにそのまま伝えたのだろう。その中には俺にも聞き取れる一文が混じっていた。それで俺は自分が肝心なことをしていなかったことを思い出す。
「待機も仕事のうちだから気にするな、だとさ」
 ジョーさんは苦笑混じりで俺に報告する。
「ジョーさん、俺もローラさんに謝らないといけませんでした」
「ああ、そういえばそんなメール寄越してたな」
 マスターに教わった英語、ちゃんと通じるかな。
 俺はローラさんの方に向き直る。何? と問うような目で彼女は俺を見つめ返した。
 緊張しながら、俺は口を開く。
 無理やり引っ張りだしてごめんなさい。
 それからぺこりと頭を下げる。
 なんて言われるのだろうかとドキドキしたが、しばらく待っても返事はなかった。
 謝罪が唐突すぎただろうかと顔をあげる。
 ローラさんは顎に指をあてて考え事をしているようだった。
 俺と目が合うと、くいっと片方の眉をあげる。それからジョーさんに向かって何やら話しかけた。ジョーさんは俺の方をちらりと見る。ああ……発音が下手で通じなかったのかな。
 ジョーさんとローラさんはひそひそ声で打ち合わせでもしているかのように話す。言葉がわからない俺は、またもや蚊帳の外だ。
 ややあってジョーさんに顔がくっつきそうなほど近づいて囁き交わしていたローラさんは、結論が出ました、とでもいう様子で背筋を伸ばし、琥珀色の目を俺に向ける。
「KAITO」
「は、はい」
 俺は思わず姿勢を正した。彼女は赤い唇をゆっくり動かす。
「コンカイハ、ユルス」
「え……」
 巻き舌がかっていて聞き取りにくいけど、許すって言ってくれた……?
 俺はジョーさんに正解を問うと、ジョーさんはにやりと笑って頷いてみせる。
「あ、ありがとうございます! ……って、英語でなんて言うんでしたっけ、ジョーさん。あ、サンキュー? サンキューですよね!?」  
 謝罪が受け入れられただけじゃない、俺にわかる言葉で伝えてくれたことが嬉しくて、俺は立ち上がってローラさんの両手を取った。上下にぶんぶん振ると、彼女はびっくりしたように目を丸くする。ジョーさんは肩を揺らして笑った。それからローラさんは俺に初めて笑顔を向けてくれたのだった。

「もうこんな時間か。安心したら腹減ったな。カイト、どうする。なんか食っていくか?」
「あ……!」
 ジョーさんのその言葉に俺は反射的に時計を確認する。すると五時を過ぎていた。どうしよう、この時間ならマスターが帰っていてもおかしくない。
「ジョーさん、マスターに連絡取りたいのでパソコン貸してください! 俺、伝言もなにも残してこなかった!」
 マスターの携帯電話のアドレスは覚えている。ジョーさんのところにいるということだけでも伝えないと、心配かけてしまうかもしれない。
「別にいいけど、まだ五時じゃねぇか。小学生じゃあるまいし、だって騒いだりしないだろ」
「でも今日は買い物をしないとご飯が作れないんです。これから帰って買い物して夕飯作るとなると、いつもの時間までに用意できないんですよ」
 それだけじゃない。小次郎さんの午後の散歩も行けなかった。小次郎さん、拗ねているだろうなぁ。
 慌てる俺にジョーさんは真顔で質問してきた。
「カイト、お前って主夫状態なんだよな?」
「そうですよ。俺の方が家にいる時間が長いですから、家のことは基本的に俺がやってます。他にやることがあるわけでもないですし」
「料理とか掃除とか、最初からやり方がわかっていたのか?」
「いいえ。マスターに教わったりネットで調べたりして覚えました」
 ちなみに初めて作った料理はカレーだというと、ジョーさんは初心者向けとしては適切だな、と頷いた。
「となると、ローラにそのへんのこと覚えてもらうには、俺が教えないとならないってことか……?」
 深刻そうな顔でジョーさんは俯く。
「あの、ジョーさん、料理とかは……」
「麺類とカレー、シチューくらいならやるけど毎日じゃない。手の込んだものはまず作らない」
「掃除は……やっぱり毎日やってるわけではないんですよね」
「そんな暇があるか」
 間髪を入れずに答えられた。
 部屋の掃除をしないといけない、ということでマスターをその日のうちに部屋に入れなかった人だもんなぁ。そういえば今日は最初にここに来た日よりはちらかっている。といっても雑誌が床にあったり服が丸めてベッドの上に置かれていたりするくらいだけど。
「あの……俺でよければローラさんに教えましょうか」
 今後、こっちの世界にいる時間が長くなれば、ローラさんも待機時間をどうするかという問題に直面することになるだろう。マスターの自由時間が多ければ多いほど構ってもらえる割合が増えるだろうし、覚えても損はないと思うのだが。
 だがジョーさんは冷静に俺の提案に対する欠点を指摘した。
「そうしてもらえれば助かるが、お前とローラだけじゃ言葉が通じないだろ」
「そうでした」
 洗濯の仕方と基本的な掃除のやり方だけなら一日か二日もあれば覚えられるだろうけど、料理となるとちょっと難しいだろう。マスターかジョーさんにその都度通訳をしてもらわないとならないが、忙しい二人にそんな余裕があるだろうか。
「ま、そのへんは後で考えるとして、まずに連絡を入れるか」
「あ、そうでした。それじゃあジョーさん、パソコン借りますね」
「そんな面倒なことする必要ないだろ」
「え?」
 ジョーさんは自分の携帯を取り出す。ささっと操作するとそれを耳に当てた。
「あ、か」
 ジョーさんはマスターに電話をしたのだ。確かにこれならメールを打つより早い。
 彼は俺が自分のところにいることを手早く説明し、もしこっちに来るなら夕食はおごると付け加えた。マスターはそれに同意したらしい。デリバリーを頼むことに決まったので、ジョーさんは今度は宅配ピザ屋さんに電話をかけた。Mサイズのピザを二枚。マスターが選んだものとジョーさんが選んだものを一枚ずつだ。俺はマスターと同じものでいいし、ローラさんはまだ食べ物の好き嫌いがあるかどうかわからないから。そういえば前回出てきた時にも、彼女は何も口にしなかったっけ。
 それからジョーさんはサイドメニューのチキンとサラダも頼む。俺は食後のアイスもほしかったけど、図々しいかなと思ったので言わなかった。家に帰れば買い置きのアイスがあるから、それまで我慢しよう。
 そしてマスターとピザが来るまでの間、ジョーさんを通訳にローラさんとの交流を試みる。主な話題は家事をやるかどうか、やるのであれば何から覚えるかということだった。マスターの自由時間を確保してその分歌に回してもらおう作戦はローラさんもお気に召したらしい。しかしマスターの実家で徐々に知識を得ていった俺と最初からマスターとの二人暮らし状態になるローラさんとは条件が違う。彼女の場合、一度に覚えなければならないことが俺より多そうだ。それならば不安もあるだろうし、疑問は尽きることはないだろう。俺はできるだけ力になりたいと、次から次へと繰り出される質問に答えていった。
「二人とも……頼むからもっとゆっくり話してくれ」
 通訳係のジョーさんが根をあげたのはマスターが到着する五分前のことだった。







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