秋も深まり、風も冷たくなった。先月ならば同じ時刻でもまだ明るかった空は、すでに薄暗くなっている。
 わたしは何かに急かされるように家路についた。早く帰って温かいものでも飲みたい。
「あれ……?」
 アパートが見えるところまで来たわたしは、思わず声を出してしまった。
 部屋の明かりがついていない。この時間にカイトが家にいないなんて珍しいことだ。多分買い物か小次郎の散歩に行っているのだろうけれど。
「ただいまぁ」
 いつもの癖で、玄関を開けると同時に帰宅を告げた。誰もいないと思っていたが、小次郎がお出迎えをしてくれたので、わたしは屈みこんで撫でる。
「ただいま、小次郎。……ということは、カイトは買い物か」
 いつ頃戻るかなと思いつつ、部屋にあがる。電気をつけると暗い部屋が一気に明るくなり、わたしはほっと息をついた。
(なんか、変な感じ)
 カイトがいないので、妙に部屋が広く思える。それに静かだ。本来はこんな環境なのが当たり前だったはずだろうに、カイトが出てきたから騒がしいのが通常形態になってしまったようだ。物足りないというか、調子が狂う、というか……。
(ま、待っていれば戻ってくるだろうし……)
 荷物を置いてお茶でもいれようと、わたしは寝室へ行った。そして上着を脱いで身軽になり、キッチンへ向かう。
(今日の夕飯はなんだろう)
 メニューがわかるのなら下拵えでもして時間を潰してもいいのだが、生憎めぼしい食材は昨夜使いきってしまった。改めて冷蔵庫を開けてみるも、やはりろくなものは入っていない。
「買い物、遅くなるのかな。なにか聞いてない、小次郎?」
 人間語の答えが返ってくることはないと知りながらも、わたしは小次郎に問いかけた。小次郎はわたしの足下をうろうろしながら、気を引こうとずっと見上げている。
「どうしたの。なんだか落ち着かないね」
 抱き上げて背中を軽くかいてやると、小次郎は小さく鳴いてあらぬ方へ顔を向けた。その視線の先を追うと、下駄箱に到達する。
「あっちが気になるの?」
 わたしは小次郎を抱えて下駄箱がある方に歩いた。小次郎がわたしの腕の中でもがく。開けてほしそうにしていたので、わたしはそこを開けた。外で使う用のおもちゃでも出してほしいのだろうか。
 わたしは下駄箱の中からかごを取り出す。外用の小次郎用品はまとめてこれに入れてあるのだ。
「え、なに。リード?」
 小次郎とかごを床に置くと、小次郎はリードを咥えた。
「散歩に行きたいの? でももう行ったんじゃないの?」
 カイトは午前と午後の二回、小次郎を散歩に連れて行くのを日課にしている。わたしも時間があれば午後の散歩に同行するが、最近は日が暮れるのが早くなったので、平日はなかなか行けなくなっているのだ。明るい時間に散歩が終わるようにと、時間を早めているからだ。
「んー……」
 だが小次郎はどう見ても、散歩に連れてってとおねだりしてきている。ということは、散歩には行っていないのだろう。二回ともなのか、どちらか片方だけなのかは、わからないけれど。
「もしかして……」
 わたしは下駄箱の中を確認した。普段履きのカイトのシューズはない。ということは、確実に外出している。
 それではと立ち上がり、リビングにある棚の引き出しを開けた。ここには生活費等の貴重品をまとめて入れている。カイトがよく使う食費入りの財布も普段はここに仕舞っているのだ。
 引き出しの中には財布があった。一緒にしまっているカイト愛用のエコバックもある。ということは、買い物に行ったわけでもないということだ。
「どこ……行ったの?」
 散歩と買い物以外にカイトが出かける先などそうそうないはずだが、と思いかけたところでわたしは一つの可能性に気が付く。
(ジョーさんのところに行ったのかな)
 わたしはもやもやと膨れ上がってきた不安を押さえ込むように、ぐいっと引き出しを押し込んだ。
 どこかに伝言メモでもないかと、リビング中を捜す。見つからなかったのでキッチンの方とわたしの寝室も捜した。けれどなにも見つからない。あのバカ、どこに行っていつ頃帰るかくらいは書いておきなさいよと心の中で毒づいた。
 ジョーさんに連絡を取ろうと、バッグから携帯電話を取り出した。しかしアドレス帳を開くのを躊躇する。
 日はほとんど落ちたとはいえ、時刻でいえばまだ五時だ。ここでジョーさんに電話してもしもカイトがいなかったら、なんだかとても恥ずかしいことになりそうだ。甘い、過保護だと、思われてしまうかもしれない。ジョーさんのところにいないのならそれはそれで心配になるだろうけど。
 カイトは見た目は成人に達している男性なのだから、誘拐などをされる心配はまずないだろう。先輩に連絡するか、それとも七時くらいまでは待つか。それから夕食をどうしようと悩んでいるところにジョーさんからの電話が鳴る。
 カイトはやはりジョーさんのところにいて、ローラ問題の相談に乗ってもらっていたそうだ。わたしにも事情説明をしたいので、先輩宅に来てくれたら夕食は向こうで用意するということなので、わたしは一も二もなく承諾した。やっぱりね、と思いつつも、心のどこかでは安堵しながら。
 散歩は明日まとめてするからと、小次郎に両手を合わせて謝って、わたしはアパートを出た。帰宅がいつになるかわからないので、小次郎のご飯はちゃんと用意してから。
 息が白くなるほどではないが、日が落ちるとぐっと冷える感じがする。ジャケットの前をしっかり閉めて今度はジョーさんのマンションへと急いだ。
 すっかり暗くなっているが、通りを歩く人はまだまだ多い。足音から後ろから走ってくる人がいるなと気づき、なんとなく振り返った。
ちゃーん。丁度よかったぁ!」
 同時に肩を叩かれる。ポンちゃん――ポメラニアンだ――のママさんがにこにこして立っていた。走ってきたので息が荒い。ポンちゃんも同様だった。
「あ、こんばんは。どうしたんですか?」
 ポンママさんは片手にぶら下げていたビニール袋をがさがさといわせて、中身をわたしに見せる。
「あのねぇ、実家からリンゴが段ボールで送られてきたのよ。でも家は狭いから段ボールをずっと置いていると邪魔だし、悪くなる前に食べきれないだろうからもらってくれないかと思って」
 中には大振りのリンゴが三つ入っていた。赤くてツヤツヤしておいしそうである。
「綺麗なリンゴですね。ご実家で作っているんですか?」
「そういうわけじゃないけどね。地元産ではあるけど。……もらってくれるかなぁ」
「リンゴ、好きですよ。ありがとうございます」
 わたしはビニール袋ごと、リンゴを受け取る。これから人の家に行くところだからこういう荷物があるのはどうかと思うが、なんだったらデザートとして提供してしまおう。
「良かった。今日は珍しくカイトくんに会えなかったからどうしようかと思ってたのよ。リンゴならね、あげてもあんまり迷惑にならないと思ったし、喜んでもらえるかなってね。私ねぇ、カイトくんがにこーって笑う顔、大好きなのよね。すっごく可愛いじゃない」
「あ、はい」
 確かにカイトの笑顔は気持ちがいい。すこーんと晴れ渡った空みたいな爽やかさがあるのだ。けれどこうして他人からカイトの評価を聞くと、良くも悪くもどう反応したらいいのかわからなくなる。
「あ、ちゃんも可愛いわよ」
 わたしの表情をどう受け取ったのか。誤解しないでね、というような目線でポンママさんは手を振った。
「でもねぇ、うちの息子、いま反抗期だから、余計に素直なカイトくんを見てると羨ましくなっちゃって。反抗期はないほうが後々大変になるって聞くけど、今が大変なのだって十分きついのよねぇ」
「お子さん、中学生でしたっけ。そんなに大変なんですか?」
「そうねぇ、親のいうことには反応しないし、してもうっとおしそうにするし。暴力はないからましな方なのかしらね。でもやっぱり可愛げはないから「このー」って思っちゃうわよ。二年くらい前まではママ、ママ、ってまとわりついてきていたのに」
 あーあ、とポンママさんはため息をついた。
「治まれば元に戻れますよ。わたしも反抗期は結構激しかったけど今はいい親子関係になっていると思ってますし……」
ちゃんが? それはあんまり想像できないわね」
「そうですか?」
「カイトくんはもっと想像つかないけど。あの子、反抗期あったの?」
「どうなんでしょう。その頃はカイトのことはよく知らなかったので……」
 カイトに関することでの口から出任せもいい加減慣れてしまったので、今回も当たり障りなく受け流す。するとママさんはしまった、というような顔になった。
「ごめんね。変なこと聞いちゃって。カイトくんならきっと生まれたときから素直ないい子よね」
 焦ったように早口でそう言うと、じゃあねリンゴ食べてねと言い残してママさんは踵を返していった。
「あー……」
 そそくさといなくなったママさんの背を見送りつつ、わたしは唸った。『不幸な生い立ちのカイトくん』がママさんの頭に浮かんだのはあの反応から見て間違いない。この人たちとつき合うようになってもう数ヶ月経つ。訂正をしようにも、どんな言い方をすればカイトがこの人たちにした説明や、これからもするであろう彼の世間知らず的な言動と矛盾しなくて済むか、見当もつかないのでそのままにしているのだが……。こういったわたしの煮えきらない態度はよくないのだろうか。わたしは自分で自分の首を締めているのだろうか……。

 ジョーさんの部屋に着き、中に入れてもらう。買い物と小次郎の散歩に行ってないと謝罪しつつもまとわりついてくるカイトを引き連れて奥に足を踏み入れると、ローラが片手をあげて挨拶してきた。
『ローラ、久しぶり。調子はどう?』
『悪くはないわ。でもわけがわからないことだらけよ。カイトはよくいままで人の世界でやっていけたわね』
 相変わらずの迫力美人は、テーブルに肘をつけつつそうぼやいた。
『なにかあったの?』
『ええ。わたしが説明してもいいのかしら、マスター』
 ジョーさんの方を見やってローラは問う。
『いいぞ。あと、俺とカイトの行動はそれぞれ説明すればいいだろ。とにかく食いながらやろうぜ』
 私が到着する直前に届いたというピザを広げながらジョーさんは言った。
「マスターもなにか買ってきたんですか」
 グラスの準備をしていたカイトがわたしの持っているビニール袋に視線を送る。それにしても訪問二回目だというのに、カイトはずいぶんこの部屋になじんでしまっているな。
「ああ、カイトへの貢物よ。ポンちゃんのママさんから。リンゴが実家からたくさん送られてきたんだって。ジョーさん良かったらデザートにこれ食べます?」
「リンゴなら嫌いじゃないからもらおうか。でもポンちゃんのママさんってなんだ?」
「ポンちゃんは犬の名前です。女の飼い主だからママさんと呼んでいるんです。うちも犬を飼っているんですよ。それで散歩しているときによく合う人たちと話すようになったりして。そういう関係の知人です」
 せっかくだから剥いてとカイトに二つ渡すと、流しを借りますねといってカイトはキッチンに行った。
「そういうつき合いって、面倒くさくないか。犬の話題だけで済むってもんじゃないんだろう?」
 ジョーさんが席を作ってくれたので、わたしはそこに座った。
「そうなんですけど、まんざら悪いことばかりでもないからやめる踏ん切りもつかないんですよね。カイトってママさんたちからの人気がすごいんですよ。最近、こういうお裾分け関係が増えてきていて。ママさんどころか、この間なんて幼稚園児の女の子から貢ぎ物されてましたし」
「はぁ? 幼稚園児?」
 ジョーさんはすっとんきょうな声をあげた。そしてキッチンを振り返る。
「マスター、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ」
 リンゴを剥きながらカイトが口を挟む。
「遠足でさつまいも掘りをしていっぱいとれたからってお裾分けされただけですよ。お母さんのマロンママさんがやっていたことを自分もやってみたかったってだけで」
「いやでもカイト、あの子にプロポーズされていたじゃない」
 大きくなったらおよめさんにしてね、というアレだ。休日などは犬の散歩をさせる人だけではなく、同伴してきた家族とも顔を合わせる機会もあるので、犬仲間の年齢層は実はかなり幅広いものになっているのだ。
「幼稚園児相手って、下手すると不審者として通報されそうだな」
「ジョーさんまでそんなこと言わないでください。その場にはその子のお母さんがいましたし、俺はちゃんとお断りしました。俺が好きなのはマスターなんですから」
「あれのどこがちゃんとした断り方なのよ」
 俺はのお嫁さんになりたいから君のことはお嫁さんにできないんだ、ごめんね、なんて。周りにいたママさんたちもぽかんとしていたじゃないか。すぐに気を取り直して、やだーカイトくんったら、と流されたけれど。
「カイト一人で他人と関わらせるのは本当に大丈夫なのか……?」
 わたしたちのやりとりを聞いていたジョーさんは不安そうに尋ねる。
「そういうキャラだと認識されてしまったので、なんとかなってはいます。知り合い以外には通用しないだろうから、その点は心配ですが」
「うーん……。カイトでこれだとしたらローラはもっと難易度高くなりそうだな」
 ジョーさんは眉間にしわを寄せる。
「むしろローラの方がすんなりいくかもしれませんよ。外国人だっていうのは見た目でわかりますから。変わった言動をしたところで日本に慣れてないからだと思われるだけでしょうし」
「そういう意味ではな」
 それにローラは女性だ。男と女ならば女の方が警戒心を抱かれにくいだろう。カイト同様のとんちんかんなことをしでかしても、笑って許してもらえそうだ。といっても、ローラはカイトよりもしっかりしていそうだから、そもそもそういった失敗はあまりしないような気もするが。
 そしてわたしはピザを食べつつ三人の話を順番に聞いた。話し手は話している間、あまり飲食ができなくなる。だがそれ以前にローラは食べ物に一切手をつけようとしなかった。
『ローラ、少し何か食べてみない?』
 四人いるなかで飲みもしなければ食べもしないひとがいるのはやはり気になる。わたしはピザを指差し彼女に勧めた。
 しかしローラはあっさりと断ってくる。
『それは人のエネルギー源になるものだと聞いているわ。それならわたしには必要のないものよ』
『そうだろうけど』
 チキンを咀嚼していたジョーさんはカイトを見やる。
「食べたものって、栄養になるわけじゃないんだよな」
 カイトはウーロン茶入りのグラスを置いて答えた。
「なっていないと思います。ただ味を楽しむためだけのものですね」
「それならボーカロイドの食費を出すのは無駄じゃないか?」
 どうなんだ、とジョーさんはわたしに問いかけた。
「それはそうなんですけど、食事のたびに何も食べない相手がすぐ近くにいるって、すっごく居たたまれませんよ。カイトも必要ないっていうから、わたしも最初の頃は好物のアイス以外は特になにもあげていなかったんです。でもだんだん耐えきれなくなりましたから」
「そういうものなのか?」
 よくわからなそうな表情で、ジョーさんは食べかけのチキンに視線を落とした。
「この辺りの感覚は人それぞれなのかもしれませんね。ジョーさんが気にならないのなら特に何も食べさせなくてもいいとは思いますけど、わたしは無理だったんですよ」
 当時を思い出しながら、わたしは苦笑交じりで続けた。
「人型をしているからかえって気になるんですよね。これが飼い犬だったら、人間の食べ物を与えるのはかえって病気の元になるからって、我慢できるんですけど」
「その例えはなんだか理解しやすいような気がするな」
 ジョーさんはふうんと考え込むと、ローラに目を向ける。
『ローラ、試しに何か食べてみないか』
『でも、わたしには必要のないことよ、マスター』
『食べたくないのか?』
『必要のないことをする意味がわからないだけ。命令だというのなら、食べるけれど』
『命令するっていうのは、好みじゃないんだがな』
 ジョーさんは苦笑する。ローラの強い眼差しが困惑にかわり、揺れた。
『マスター、わたしはボーカロイドなの。人と同じに扱わないで。あなたと並び立てるのだと勘違いしてしまうじゃない』
『生憎こっちは人じゃない人型とつきあった経験はないんでね。どうしたって無理だ。パソコンから出てきたところを見ているから、人間じゃないことは理解しているけどな』
 これくらいなら挑戦しやすい大きさだろうと、ジョーさんはまだ手つかずのりんごを一つとった。八つに切ったそれは、カイトがちゃんと変色対策をしたので、瑞々しい色合いを保っている。
『ものは試しと思って挑戦してみろよ。普段は食べたくないなら食べなくていいさ。けど俺も誰かと一緒に飯を食いたいと思うときはあるし、そういうときにも必要ないからって断られると、さすがにへこむな』
 おどけた調子で言う彼に、ローラは逡巡する。
「ローラさん、食べ物を食べたくないって言っているんですか?」
 二人の様子から察したのだろう、カイトがわたしに尋ねてくる。
「うん。あんたもそうだったけど、人間の食べ物を食べるのって、最初は勇気が必要みたいね」
「音と違って味とか匂いは俺たちには関わりがないものですからね。俺もそういえば怖かったです。壊れるかもしれないと思いましたから」
 そうそう。そうだった。
「結果的に大丈夫だったとはいえ、思えばあの時はわたしも無茶を言ったよね……」
 カイトが壊れなくて良かった。今は本当にそう思う。
「ジョーさん、人の食べ物を食べてもなんともないのは俺で実験済みなんですから、もうそのリンゴ、ローラさんの口に入れてしまえばいいですよ。あーんって」
「あのなぁ」
 呆れ顔になったジョーさんをそのままに、カイトは名案を思いついたとわたしに満面の笑みを向けた。
「マスター。まず俺たちで見本を見せてあげましょう。俺にあーんってしてください!」
「いやよ。なんでわたしが」
 断るも、カイトはめげない。
「じゃあ、俺がマスターに食べさせます。はい、あーん」
 さっさとリンゴを一つとり、今度はカイトがわたしに口を開けるよう要求してくる。
「一気に論点がずれたんだけど。あんたってどうしてそうなの?」
「照れなくていいんですよ。しょっちゅうやってるじゃないですか」
「いつの話よ」
 適当なことを言うんじゃないと睨むも、カイトは心外そうに唇をとがらせた。
「忘れちゃったんですか? 一昨日もしましたけど」
「一昨日?」
 そうまではっきり言い切るからには実際に一昨日、わたしはカイトに「あーん」をされたのだろう。だがそんな恥ずかしいことをわたしがするわけが……。
「あ」
 思い出した。
「ただの味見じゃないの!」
 カイトは味を見てくださいという時にはスプーンに乗せてこっちに差し出すのだ。
「同じことでしょう?」
 わたしたちが言い合いをしている間に、ローラは深刻そうな顔でジョーさんにこんなことを尋ねていた。
『カイトって、 に好かれていないの? 何を話しているのかはわからないけど、彼女、迷惑そうにしているように見えるわ』
『いやあれは、喧嘩するほど仲がいいとか、気の置けない仲とか、そういうやつだな』
『ふうん』
 それからしばし黙ったかと思うと、真顔で彼女のマスターに言った。
『わたしもカイトみたいにした方がいいのかしら』
『それは本気でやめてくれ。ローラがカイトみたいになるなんて冗談じゃない』
 頼むからそのままでいてくれと懇願するように言うジョーさんに、ローラは満更でもなさそうな笑みを浮かべた。それからジョーさんの手からリンゴを取る。しゃくしゃくという音をさせつつ、彼女は三口で完食した。
「どうですか?」
 わたしとの言い合いを打ち切って、期待に目を輝かせ、カイトは問う。もっとも彼は日本語しか話せないのでローラには通じていないだろうが。
 改めてジョーさんが英語で聞き直す。真剣な顔でリンゴを食べたローラは、やはり真剣な顔で一言述べた。
『もっと試してもいい?』
『構わないぞ』
 ジョーさんはローラの前にリンゴを盛った皿を押しやる。
『ありがとう、マスター』

 それから残っていたピザやらサラダやらを全員で完食すると、さてこれからどうしようということになった。
 わたしはボーカロイドの専門家ではない。ローラの身に起きていることが何に起因しているのかはわからない。有効なアドバイス一つできず、歯がゆい思いがしたが、知らないものは知らないのだ。
 そこでジョーさんはカイトができることをローラにもさせてみることにした。カイト得意の、手を触れずにPC操作ができるというあれである。
 わたしたちが見守る中で、ジョーさんとローラは一つ一つ確認するように基本的なことから実行していった。
 キーボードやマウスには誰も手を触れていないのに、明確な動作をする自分のパソコンを、ジョーさんは驚きつつも真剣な眼差しで見つめる。こういうことをできるとわたしは説明したのだが、カイトにできることならローラにもできるのだろうと先輩は判断し、実際にはさせていなかったのだそうだ。というよりもジョーさんはローラに会うのが今が二回目なので、何も知らないのも同然なのだ。
「さてと、残るは、だ――」
 一通り思いつく操作をさせたジョーさんは腕を組んで重々しく告げる。
「パソコンへの出入りだけか」
 これまでのところ、カイトにできてローラにできなかったものはなかった。そうなるとなぜ出入りに関してはできなかったのかが謎となるが、できないものはできないのだろう。
 ローラはごくりと唾を飲み込む。
 ジョーさんは悩んでいるようで視線をあちこちにさ迷わせた。
「これだけはやらない、というわけにもいかないからな。ローラを出しっぱなしにしておくわけにもいかない。なんせ、二人暮らしをするには狭いから」
 カイトは励ますように声をあげる。
「また出てこられなかったら俺が引っ張ります。だから諦めないでください」
 そして小さくえいえいおーとするように拳を振りあげた。
 ジョーさんは頬をかく。
『救助要員のやる気が満タンなうちにやってみるか。ローラ、覚悟はいいか?』
『……ええ。やってみる」
『タッチアンドゴーでいくか。中に入ったらすぐに脱出してみてくれ』
『了解。マスター』
 ローラの声は固い。そして深刻そうな表情だった。けれど彼女は毅然とした態度でPCの前に立つ。それから片手をモニタに近づけた。
 ローラが出入りをするところを見るのは初めてだ。
 カイトがもそうだがローラもやはり細かな光の粒のようなものになった。
 そしてローラが消えて数秒。モニタの中心に指先が現れる。飛び出したそれは光の帯となり、再びローラの形を取った。
「出てきた」
 あっけに取られたようにジョーさんは呟く。カイトは喜色満面でやったぁと両手を挙げた。そしてわたしは疑問を覚える。
「ジョーさん、カイト、ローラって本当に自力で出入りができなかったの? こつがつかめなかったとかじゃなくて?」
 戻るときも出てきたときもカイトと同じだ。だからわたしがそう考えてしまうのは当然だろう。
 ジョーさんは首を傾げる。
「その点は俺にはなんとも言えないな。ローラが出られなかったと言っていただけだから」
 カイトは証言する。
「こつもなにもないですよ。だって俺はあそこを通れば出られると最初から感じ取れたんですから。むしろどうしてローラさんにはわからなかったのかがわかりません」
 わたしはカイトの証言をローラに通訳し、彼女の感覚について尋ねてみた。しかしローラは肩をすくめただけだった。
『確かに今ならカイトの言うことも理解できると思う。さっきと今とでは大違いだったわ。どこにもわたしの行く手を遮るものがない。それに、そうね、「道」がわかるというのかしら。ここを通ればいいのだと考えるまでもなく頭に浮かんだの。でも、どうして?』
 どうして。
 それはここにいる全員が思い浮かべた言葉だろう。
 原因があるとしたらなにか。前回と今回、そしてカイトとの差は何か。
 結論がでないまま、二度目の会合は日付が変わる前に解散した。







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