ジョーさん宅を二度目に訪れた日から四日が過ぎた。昼休み中に電話がかかってきて、この後の予定を聞かれる。
 次の講義が終われば、今日はそれで学校は終わり。けれど夕方過ぎからバイトに行かなければならないと答えると、講義後の空き時間に直接会いたいと言われた。
 ただし、カイトは抜きで、と。
「どうしてですか?」
 怪訝に思いわたしは聞き返した。
 どんな話をしたいのか知らないが、実体化ボーカロイドに関わることだろう。ならばカイトがいた方が確認を取りつつ話を進めることができる。結局よくわからないまま終わることもある得るだろうが。
 電話の向こうのジョーさんの声はどこか煮えきらないものだった。
「ちょっとした推測があるんだ。それで、まずは の意見や感想が聞きたい」
「それはあまり良くない結論だから、ということですか?」
 わたしの声は自然と固くなる。
「推測は所詮推測だからな。確証のないことを当事者の前で言うこともないだろうよ。最終的にカイトに話すかどうかは、俺の話を聞いてもらった上でが決めてくれ」
 一体どんな推測がついたのだろう。そんな風にいわれたら気になってしまうではないか。
「わかりました。どこで落ち合います?」
 話は他人に聞かれない方がいい。だから校内や客席が仕切られているだけの飲食店はやめておこう。もちろんわたしやジョーさんの部屋も駄目だ。たとえPCに戻ってもらっていても声は聞こえるのだし、それぞれの理解できない言語で話しても、マスターたちがなにやら深刻な話をしているということに彼らが勘付かないはずがない。
 そういうわけで、わたしたちは大学から歩いて数分のところにあるカラオケ店で合流した。近くの部屋から漏れ聞こえてくる歌声を聞くともなしに聞きながら、実体化ボカロマスターの会合が始まる。
「最初に確認しておきたいんだが、LOLAの好物設定って聞いたことあるか?」
 セルフサービスのドリンクを一口飲んで喉を湿らせたジョーさんがおもむろに切り出す。
「LOLAの好物設定ですか? いいえ。気にしたことありませんでした。あるんですか?」
 意表を突かれた格好になったわたしは、反射的にそう答えた。
「一通り検索かけた限りではないな。けど内輪ネタみたいなものくらいはあるかと思ったんだ」
「あったんですか?」
「いや。見つからない。情報がないということと、も知らないということがわかればまずはそれでいいんだ」
 わけがわからないまま相づちを打つと、ジョーさんがどこから話したものかとやや遠い目になりつつ、ぼやく。
「とりあえず結論から言うと、俺のところのローラはリンゴが好物なようだ」
 へぇ、と感嘆にも似た声がわたしの唇から飛び出た。
「リンゴですか。じゃあこの間食べさせたのが気に入ったんですね」
「そういうことになるな」
 あの日の帰りがけ、ローラに残っているリンゴももらっていいかと言われたのだ。自分が選んで買ってきたものではないが、喜ばれるのは嬉しいものだ。
「リンゴで良かったですね。加工品なら年中手に入りますし、生のものはこれからの時期ならそれほど高くないですし」
 実体化ボーカロイドの好物に対する愛着度の激しさは身に染みて知っている。食費がかかるのはどうしようもないにしても、やたらと高いものでなくて幸いだ。他人事ながら安心していると、ジョーさんはきゅっと頬の内側を噛んだようだった。それからふうっとため息をつく。
「まあな。それはいいいんだ」
「ジョーさん?」
「なあ。のところのカイトは、最初に食べたものがアイスだったんだよな」
 そうですと頷く。
「で、あいつはアイスが好物なんだよな」
「そりゃあ……。KAITOですから」
 ジョーさんの様子にゆっくりと不安が広がっていく。だがとりあえずは返事をしないと、と肯定をした。
「うん。そこのところが問題なんだ。というよりも、一部のボーカロイドに好物設定なんてものがあるからややこしくなっているというか……」
「どういうことですか?」
 ジョーさんは手元も見ずにドリンクをストローでかき回す。かしゃかしゃと攪拌される音が耳についた。
「KAITOだからアイスが好きなのか、最初に食べたものがアイスだったから、アイス好きになったのかってことだ。考えたことがあるか、
 思いがけない指摘に、絶句する。
「あいつはこっちに出てこれるようになって結構経つんだろ。その間に色々な食べ物を食べたんだよな。で、聞きたいんだが、そんなカイトにはアイス並に好きな食べ物がほかにあるか?」
「……いいえ」
 我知らず頭を振ると、ジョーさんはちらっと笑う。
「そんなに不安がる話じゃないって。ただローラを見ていて思ったんだ。ローラが最初に口にした食べ物はリンゴだった。それは たちも見ていただろう」
「はい」
「他にも食べ物はあった。あの日、ローラはリンゴ以外のものも一通り口にしてみたが、どれもそれほど琴線には触れなかったようで、結局はリンゴばっかり食っていた」
 ジョーさんの話を聞きながら、わたしは記憶を手繰りよせる。
「カイトにもそういうところがありました。実家にいたころはおやつ程度のものしかあげていなかったんですけど、アイス以外のものにはあまり興味を示さなくて」
 そのカイトが他の食べ物に積極的に興味を示すようになったのは、実家を出て自分でも料理をするようになってからだ。けれどそれは不思議ではない。彼は食物の摂取を必要としないのだ。必要のない以上、それらへの関心は自然と低くなるものだろう。むしろアイスへの執着ぶりが異常なのだ。
 なんだろう。だんだん、息苦しくなってきた。これ以上考えるのは怖い気がする。
 ジョーさんは軽く頭を傾げ、やっぱりなという顔になった。
「今まで経験のなかった「食べる」という行為。特に最初に行った時に感じた衝撃は結構大きかったろう。それで特にその「最初に食べたもの」を偏愛するようになったと考えることはできないか? 味覚の刷り込み、と言ってもいいかもしれないが」
 あれ、なんだか記憶にあるようなやりとりが……。
 そうだ。カイトもそんなことを言っていたんだ。味や匂いは自分には関係ない、最初にものを食べるのは怖かったと。その時にはそんなこともあったよね、としか思わなかったのだけど。
「じゃあ、もしわたしがカイトにアイス以外のものを最初に食べさせていたとしたら」
「それが好物になったんじゃないかと俺は思う」
「それは……想像がつきません」
 これが先輩の言っていた推測というものなのだろう。わたしの経験とも矛盾しないその考えは、真実味を帯びているように感じられた。
 呆然となりつつも何とか返事をしてから、気を取り直そうと持ってきていたオレンジジュースを口にした。冷たくて甘酸っぱい味に激しくなりかけていた動悸が収まっていく。
「でも、それって別に何か問題になるというほどのことでもないですよね」
 驚いたには驚いたけれど、改めて考えると「へぇ、そうなんだ」程度のことだった。わたしは動揺しすぎていた自分を誤魔化そうと照れ笑いをする。
「まあな。好きな食べ物があるのは別に珍しいことじゃない。俺にだってあるし、にだってあるだろう」
「もちろんですよ。でもカイトたちにそんな特徴があるかもしれないなんて、思いもしませんでした。確認する方法ってないのかな」
 確認がとれたところでカイトのアイス好きが変わるわけでもないだろうが、そこはそれ。全くの正体不明だと思っていたカイトたち実体化ボーカロイドにも何らかの法則性があるかもしれないというのだ。はっきりさせることができるのならば、それに越したことはない。
 ジョーさんはすでに考えを巡らせてあったのだろう、自信ありげに答えた。
「確認自体は難しくないだろう。好物設定のはっきりしているボーカロイドを用意して、カイトに引っ張りだしてもらう。そして設定とは違う食べ物を食べさせてみる。それがそのボカロにとっての好物になったら、当たりだ」
「なるほど」
 その場合はカイトのきょうだい達から選ぶのが無難だろう。けれど、一つ大きな問題がある。
「でも、これ以上養う人数を増やすのはわたしは無理です」
 実体化させるだけさせてそれで終了というわけにはいかないだろう。実体化させるなら、カイトと同等に扱ってあげたい。そうでなければ後ろめたくなるだろうし、第一意識を持っている相手にそんなことをしたら恨まれそうだ。
 自分も同じだとジョーさんは言った。
「ま、好物設定に関して言えば、お互い高いものでもなく入手もしやすいものになって良かったというだけの話だな」
「そうですね」
 わたしはほっとしながらまたドリンクを飲んだ。カイトたちに知られたくないというからどんなことに気づいたのかと思ったが、こんなことだったのかと拍子抜けする。
 一日に一つ、好きな食べ物を楽しむ。そういうささやかな幸せを自分に許している人は珍しくないだろう。ならばカイトにそれをしてはいけないなんて、どうしてわたしに言えようか。なによりもアイスを食べている時のカイトはまさに至福という顔をしているのに。
 しかしジョーさんの推測が正しいとしたら、カイトのアイス好きはKAITOだからという理由ではないわけで。
(ジョーさんがカイトたちに知られるのを躊躇した理由もわかるような気がする。ローラはともかくカイトの方は下手すると相当動揺しそうだもの。アイデンティティの崩壊、とまではいかないにしてもね)
 そしてマスターである自分がこのことを把握しておく必要はあるかもしれないが、カイトに知らせる必要はあるだろうかと考える。カイトの反応を見てみたいという思いはあるが、やっぱり知らせない方がいいのだろうか。ぐるぐると悩んでいると、ジョーさんは硬い表情で言った。
「本題はこれからだ。今までのは前置きだ」
「長い前置きでしたね」
 部屋の空気が一気に重みを増したように思えたので、わたしはわざと明るい調子で混ぜ返した。
 ジョーさんは気負いをなくそうとしてか、笑おうとする素振りを見せる。けれどその笑みは強ばったものにしかならなかった。
「話は飛ぶが、ローラはあの日以降パソコンへの出入りを完全に自力でできるようになっている。それで、どうして最初にできなかったことが今はできるのか、考えてみたんだ」
「慣れとかじゃないんですか?」
 自力で飛び出したカイトと、引っ張り出されたローラ。外の世界への関心の高さへの違いが初動に影響を与えてもおかしくはない、ような気がする。
「そういうのもあるかもしれない。けど自力でパソコンに出入りできるようになる前と後とで何が違うかってことを考えて、で、推測を立ててみたんだ」
 しかしジョーさんは「最初の食べ物で刷り込み」説を唱えた時よりは自信がなさそうだった。
「ローラが自力で出入りできたのは、俺達と一緒に飯を食った後だったんだよな」
 ジョーさんが何を言いたいのかを理解するまで、しばし時間がかかった。
「……刷り込みだけじゃなくて、実際にエネルギー源になっているということですか? ローラが出入りできなかったのは、エネルギー不足だったとかそういうことだと?」
 食べ物は栄養にはなっていないだろうとカイトが言っていたのでそういうものだと思っていたが。
 ジョーさんは頭を振る。
「ちょっと違うと思う。エネルギーとして吸収しているのかどうかよくわからないが……。俺はあれがヨモツヘグイみたいな感じで作用しちまったんじゃないかと思ったんだ。、ヨモツヘグイってわかるか?」
「わかりますよ。イザナギとイザナミの神話に出てくる黄泉の国の食べ物のことですよね」
 イザナギとイザナミ――日本の神話だ。
 火の神を産む際に大火傷を負ったイザナミが黄泉の国に行ってしまい、それを悲しんだイザナギが彼女を連れ戻そうと黄泉の国へ行った。けれどイザナミは黄泉の国の食べ物――ヨモツヘグイ――を食べてしまったので、地上へは戻れないと拒んだのだ。その後色いろあったが、その辺については省略する。
「そう。それだ。説明が省けて助かったよ。ローラたちに適応させようとすると途端にオカルトじみてしまうからな」
 安心したように、ジョーさんはちらっと笑う。
「どっちかというとファンタジーだと思いますけど。その手の小説なんかにもたまに出てきますから。他の国の神話にも似たようなモチーフのものがあったりしますし」
 ジョーさんはなるほどと頷いた。
「そうなのか。俺はそっち系はあんまりわからん。俺は単位目当てに取った講義で出てきたのを覚えてただけだからな」
 その講義では、有名なアニメ映画をテキストに使ったので印象に残ったのだという。アニメに詳しくない人でも知っているような知名度の高いアニメスタジオが作ったものでもあり、海外でも賞を取った作品だ。もちろんわたしも何度か見たことがある。
 その作品は主人公の女の子が引っ越しの途中で神様たちのためのお湯屋がある世界に紛れ込んでしまった、というものだ。
 ジョーさんは該当部分のあらすじをざっくりと説明する。
 主人公がしばらく両親と別行動をしている間に二人は豚に変身してしまった。元来た場所に戻ろうとするも、帰り道は水に沈んでいる。頼れるものがいなくなった現実逃避か、「みんな消えろ」と主人公は繰り返す。だが消えていきそうになったのは自分自身だった。
 驚く主人公の元に、彼女に早く帰るように言った少年が現れる。小さな丸薬を渡し、それを食べるように促す。この世界のものを食べないと消えてしまうから、と。
「つまりはその丸薬がヨモツヘグイのようなものだっていう解説だった。ヨモツヘグイは黄泉の国に、そしてあの丸薬は魔女の温泉宿のある世界のコミュニティ――異文化圏に同化するためのアイテムだと考えればいい。だからその異文化圏に同化したくないというなら、ヨモツヘグイのようなものはありがた迷惑な代物になるわけだ」
「じゃあ、同化したい、受け入れられたい、というなら……」
 ジョーさんはわたしの言葉を引き継ぐ。
「ヨモツヘグイのようなものをさっさと食べればいいんだろうな。同じ釜の飯を食うって言い回しがあるだろう。なにも難しい話にしなくても、相手側のテリトリーで一緒に食事をさせてもらえたら、相手側に受け入れられたと考えるのはよくあることじゃないか?」
「言いたいことはわかります。でもそれが実際に効力を持つなんてことがありえるんですか?」
 感覚的には納得できる。だがアイスやリンゴにそんな力があるのだろうか。その点だけはいまいち信じられない。
 ジョーさんは軽く肩をすくめた。
「それに関しては俺だって確証があるわけじゃないから何とも言えない。けどローラがパソコンに自力で出入りするようになる前にした行動といえば、「話す」か「食べる」だけだ。そして一度目の出現から退出までの間には「話す」ことしかしなかった。ローラがボーカロイドであることを考えれば「歌う」ってことも実体化に影響を与えそうだが、俺が実体化したローラに歌ってもらったのは自力出入りができるようになった後だ。だから「食べる」ってことが重要なんだと判断したんだ」
「わたしがカイトに初めて歌わせたのは、外に出るようになってから半年以上後でした。だから「歌う」ことは特に影響はないんじゃないかと思います」
 カイトが放置されていたことは、一度目のローラ出現の時にすでに話していたので、とっくに判断材料にされていたと思う。けれども必要そうな情報は随時確認した方がわかりやすいだろう。
 ジョーさんは苦笑する。
「その話なぁ。さすがにカイトが不憫に思えたぞ。実体化までしたのに半年以上放置って、あいつやきもきしただろうな」
「そんなこと言われても……」
 こっちだって事情があるのだ。この場合、マスター側の状況を省みずに飛び出てきたカイトにだって問題はあると――あれ?
「わかってるよ。事情が事情だ。別にを責めているわけじゃない。けど俺も似たようなことになりそうだから、その間ローラをどうしようかと思うと気が重くてな」
「ジョーさんもローラを放置するんですか?」
 だってせっかく受け入れる気になったようなのに。疑問が顔にでていたのだろう、ジョーさんはわたしに思い出させるように、無駄にはっきりとした口調で答えた。
「就職活動は、これからが本番だ」
「……そうでした」
 カイトもローラもなんて間が悪い時に出てきてしまったのだろう。いや、ローラがこのタイミングで外に出てきたのはカイトのせいなのだが。
「ところでジョーさん――」
 わたしはさっき気づいたことを俎上に乗せた。ポイントはカイトと出会った日のことだ。
「カイトはインストールが一通り終わった途端に飛び出てきたんです。これにはさすがにヨモツヘグイの要素が関わっているとは思えません。カイト側に原因があると思うんですけど」
「そうだろうな。そもそもあいつはだいぶ前から自意識みたいなものがあったようだしな。でもその点に関しては本人に聞いたほうが早そうだ。判断は保留にしておこう」
「はい」
「じゃあ、まずはカイトが出てきた時のことを区切って考えてみようぜ」
「区切ってですか? ええっと……」
 なんとなく指を折りつつ、あの日のわたしとカイトがしたことを思い出す。
「PCからカイトが出てきて、その後状況把握のための話をして、その流れで一度カイトにPCに戻ってもらったんだっけ。でもこの時は難なく出入りしていたんですよ」
 これはどっち側に原因があったのかと思うかとジョーさんに質問してみると、彼は自信はないがと前置きして答えた。
「最初の勢いが残っていたからじゃないか。電源落すこともしていなかったんだろう? 俺の場合はローラのことを一週間以上放っておいてしまったんだが、カイトの場合はその日のうちに、だったわけだし」
「そうです。結局電源は次の日の朝までそのままにしたんですよね。カイトの要望があったからなんですけど。電源って、やっぱり関係あるのかなぁ」
 わたしが首を捻ると、ジョーさんは呻いた。
「どうなんだろうな。検証するのも難しそうだ。電源が入っていなくても意識はあるようだから、あんまり関係ないようにも思えるが」
 電源問題についても保留とし、わたしは三本目の指を折る。
「その後ちょっと揉めて、それからおやつを食べようとしたんです。その日のおやつにアイスを選んだのは自分が食べたかったからじゃなくて、カイトがいたからなんですよね。だってカイトがアイス好きだというのはよく知られた設定だったんですから。メーカーがつけたものではないですけど」
「気持ちはわかる。俺だってLOLAに好物設定があって、それが買い置きしてあったらきっと食わせてみただろうぜ」
 ジョーさんはちょっと気の毒そうに、だけど面白がっているような笑みを浮かべる。
 しかしそのアイスによってカイトはこちらの世界で行動することができる要素を身につけてしまったかもしれないのだ。与えたのは、他でもない。このわたしだ――。
 なんだかとても余計なことをしてしまったのではないかと軽く落ち込みつつ、またわたしは指折り数えて次の行動を思い出した。
「カイトと言い合いになった原因は、PCに戻りたがらなかったからです。でもアイスを食べ終わった後に態度が軟化しました。といっても条件付きでしたけど」
「あんまり放置すんなってことと一晩電源を消さないでくれってことだろう」
 大体の事情を知っているジョーさんはあっさりと続けた。それにしても他人の口から聞き直すと、カイトはずいぶんと図々しい印象があるなぁ。
 そんな新たな発見があったもののそれはやりすごしてわたしは人差し指を立てた。
「それもあるんですが、実はもう一つあります」
「もう一つ?」
 ジョーさんが指先に注視する。
「カイトは、自分が不要になったらちゃんとお別れを言いたいから事前に言ってくれって言ったんです」
「それは初耳だ」
「聞き手がLOLAであっても、アンインストールの話なんてあんまりしたくないですから」
 あの時は英語で話していたからカイトは気づけなかっただろう。そしてローラがこの手の話題についてどんな反応をするのかわからない。彼女はマスターに従うべしという信念を持っているように見えた。けれど、聞かされて気分のいい話でもないだろう。だからわたしはこのことをわざと省いたのだ。
「んで、はそれを承諾したと」
「してませんよ。なしくずし的に他の話題にシフトさせましたから。大体カイトは、しょっぱなから要求が多すぎるんですよ。あーなんか思い出したら腹立ってきた。あの時カイトを受け入れたのって、パニック起こしていただけだとしか思えない!」
 だんだん声を荒げていくわたしに、ジョーさんは落ち着けと言った。
「だからといって、自分からアンインストールをする気には今のところ、なっていないんだろう?」
「それは……そうですけど……」
 わたしは両手でドリンクのグラスを握りしめ、俯いた。
「だってそれって、わたしにとっては小次郎を保健所に連れていくことと同じですから。できっこないですよ。でも……」
 ジョーさんは黙って話の続きを待っていた。
「カイトは見た目だけならわたしとそう変わらない年齢ですけど、確実にわたしより先にいなくなるんですよね。今のPCが使えなくなった時が終わりだと思います。OSの問題がありますから、買い換えたPCだとちゃんとインストールできるかどうか。できたとしてもちゃんと作動するかどうか」
 心の奥底になんとなく漂っていたことがどんどん口からでてくる。けれどきちんと向き合ったことも考えたこともなかったので、ジョーさんに意図を理解してもらえているか、わからなかった。
「もしちゃんとインストールできなかったら、カイトはどうなるんでしょう。出てこれなくなるのかな。それだけじゃなくて、正常でないってことで苦痛を感じるとか、あると思います? ソフトが苦痛かどうか考えるなんて我ながら頭がどうかしているとしか思えないんですけど、今のわたしにとってVOCALOIDはただの音楽作成ソフトじゃなくなったんです」
 馬鹿でうざくて甘えたがりの構われたがり。顔と声が良いという長所がなければそうそうに縁を切っていたと思っていた。でも今ではそこも含めてカイトなのだと思っている。……馬鹿でうざいところは今でもどうにかしてほしいとは思ってるが。
「やっぱ情が移るもんだよな」
 しみじみと言うジョーさんに、わたしはすがるように目をあげた。こんな暴露話をするつもりはなかったが、一度動き出した口は止まってくれない。けれどジョーさんはからかうでもなく黙って聞いてくれる。それがとてもありがたかった。
「でもこういうのもどうかとも思うんですよね。だってわたし、このままだと確実に恋愛も結婚もできなくなりそうなんですもん。だってわたしに彼氏でもできようものなら邪魔してくると思うんですよね。カイトの存在を知った上でわたしのことを好きになってくれる人を探すのって、すっごく難しいと思うんです。だから真っ当な人生を送るつもりなら、どこかで区切りをつけないといけないとも、思うんですけど……」
 これが人間だったら。どれだけ大事だと思っていても、もしも死んでしまったら、生き返らせることは不可能だ。
 でもカイトなら。
 今のPCが壊れても、新しいPCにインストールすれば彼は戻ってくるのだ。今の機体が壊れる頃にはKAITOが対応できるOS搭載機は少なくなっているだろうが、全く入手できなくなっているわけでもあるまい。
 再生できる可能性があることを知っていて、それでもわたしはカイトを『見殺し』にしたままでいられるだろうか。
 ジョーさんは腿の上に肘をつき、両手を組んで真顔になった。
「そのことについては、俺も考えないとな。だがとりあえず、俺をその奇特な相手にしようとかするなよ。俺はあいつにアイスピック持って押し掛けられるのはごめんだから」
「いえ別にジョーさんに偽装恋愛の相手をしてくれなんて言いませんが。でもなんだか本当にやりそうな気がしてきた……。カイトって、わたしが他に気を取られるの、嫌がるんですよね」
 ジョーさんはさらりと言った。
「いっそあいつがちゃんと男になれればな。今のカイトはただ単に性別がオスってだけだろ。欲求の捌け口にもできないんじゃ、そりゃあ悩むわな」
「な、生々しいこと言わないでください!」
 思わずグラスを投げ出す勢いでわたしはジョーさんに食ってかかった。
「でもそういうことだろ?」
「やめてー。考えないようにしていたのにー」
 ぶんぶんと頭を振るとジョーさんは笑いながら言った。
「んじゃこの機会に考えとけ。なんなら俺があいつにそっち方面の教育をしてもいいぞ」
「ジョーさん、まさか……」
 恐ろしいことに気がつき、わたしは動きを止める。
「もうローラに手を出したんですか……?」
 先輩はあらぬ方に視線を泳がす。
「まだだけど、据え膳準備OK状態がずっと続いたら、揺らがないでいる自信はない」
 男と女の問題に第三者が口を出すのは無粋というものだ。だからローラが承諾するのであればわたしがとやかく言うことなどない。
 ないのだが、しかしローラはきっとまだ男女のあれこれの意味をわかっていないだろう。わかっていて受けるのとそうでないとでは大違いだ。
「ジョーさん。近いうちにローラと二人で話す時間をくれません?」
 わたしに教育係が務まるかどうかは疑問だが、何もしないよりはましだろう。そのうちにな、と答えるジョーさんにそこはかとない不安を感じている間に、会合は終了したのだった。







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