カイトたち実体化ボーカロイドについての思いがけない推測を聞かされたわたしは、やはりそれなりに動揺していたのだろう。仕事に行ったものの、何度かヒヤリとする場面を作ってしまった。大きなミスがなかったのが幸いである。
 そしていつもはおいしく頂く賄いを味わうのもそこそこに、勤務時間が終了するなり、飛び出すようにバイト先を飛び出した。
 頭の中ではまとまりきらない思考が渦をなす。
 ジョーさんと話したことをカイトに伝えるか否か。
 情報が足りなくて保留となった部分を、自分なりに調査してみるべきかどうか。
 それにカイトとの生活をどうするのかもちゃんと考えておかないといけないような気がしてきた。いつまで続けるのか。……いつまでも続けるのか。
 だが揺れる電車の中では答えなど出せず、駅に着いてしまったので結論はひとまず先送りにすることにした。
 人の流れを縫って改札を出ると、いつものところに見慣れた青頭が立っている。
「カイト――」
 アルバイトの時間は決まっている。帰りに乗る電車の時間もほとんど同じだ。けれど仕事が終わった後に少しおしゃべりをしていつもより一本遅くなってしまうとか。今日みたいに速攻で帰りたくて一本早くなるとか。そんなことをしても大丈夫なように、時間の余裕を持って彼はわたしの帰りを待っているのだ。
 愚直なほど、律儀に。
 うっとおしいと思うこともある。けれども今日は複雑だ。嬉しくてほっとして……泣けてくる。
 人目がなければいいのに。わたしは今とても、カイトの頭をぐしゃぐしゃにしてやりたい気分だ。それから、ぎゅうっと抱きしめてみたい。
「おかえりなさい、。なんだか顔色が悪いです。大丈夫ですか。バイトが大変だった?」
 わたしと合流したカイトは、心配そうにこちらの顔をのぞき込む。目よりは濃い青の眉が憂いの形を作った。
「ちょっとね。色々あったから」
「それなら早く帰りましょう。すぐお風呂に入れますよ。ゆっくりしてください」
 言いながらカイトはわたしの荷物を取り上げた。ありがと、とお礼を言うと、どういたしましてとカイトは笑う。それから途中でレンタルビデオ店に寄り、一本借りた。これが見たくなったのは、どう考えてもジョーさんのせいだ。

 温かいお湯はもつれていた心を落ち着かせてくれた。
 といっても何か解決策を思いついたわけではない。ただ急いで答えを出すこともないだろうと思えるようになっただけだ。
 気分が浮上したわたしは部屋着に着替えると早速DVDをセットする。
「疲れているなら早く寝た方がいいんじゃないですか。マスター」
 ごそごそするわたしにカイトは呆れたように言う。けれど自分もつき合う気のようで、いそいそと飲み物の準備をしだした。
 カイトがマグカップを二つ持ってくる頃に本編が始まる。拳二つ分ほど間を開けて、カイトは隣に座った。ソファの大きさに対して二人で並ぶには近すぎず、離れすぎない距離だ。
 こういうほどほどの距離感を自然と取れるようになったのはいつからだろう。一年と数ヶ月、たったそれだけとも思える時間の積み重ねだけれど、いつの間に、こんなに手放し難いものになっていたのだろう。
 そんなことを考えるともなく考えながら黙って画面に見入る。この作品をじっくり鑑賞するのは久しぶりだった。細部は忘れていたので、新鮮でもある。
 ジョーさんが例に出した場面は物語の導入部だ。
 豚になった両親に驚き惑い、逃げ出した先で透けてしまう自分に絶望する主人公。なすすべもなく嘆く少女に、白と水色の狩衣のような格好の少年が助けにくる。そして少年は少女に丸薬を飲ませようとした。
(ヨモツヘグイ――)
 反射的に頭の中に言葉が浮かぶ。それはなぜか苦いイメージを伴っていた。
 少年は主人公を助けたのだ。これを飲まなければ、人である彼女はやおよろずの神様が訪れるあの世界では存在できないから。トンネルと川の間にあると思われる、二つの世界のボーダーラインを知らなかったとはいえ、彼女は越えてしまったから。
 わたしはさりげなく画面から目をそらした。
 彼女とカイトが被って見える。
 もっともカイトは主人公とは違って、望んでこちらへ来たのだけれど。
 だが望んだからといって、境界を越えた世界に居続けることが本当に当人のためになることだろうか。本来の世界から離れてしまうのは、その者の中の何かを歪めてしまうことにならないだろうか。
「マスター、眠いんですか?」
 画面を見ないわたしに、そっとカイトは囁いてきた。眠いのならテレビを消そうかなとその顔には書いてある。
「ううん、眠くはないよ」
 そうですかとやはり小さな声で言うが、カイトは視線を画面に戻さない。見られているのが落ち着かなかったので、わたしは彼の顎をぐいと押した。それからわたしは鑑賞に戻る。
 見てみようと思ったきっかけはともかくとして、作品そのものはやはり面白い。両親と一緒に元の世界に帰るために――それまでの間はこの世界で生活していくために、主人公はなんとかして働く場所を得ようとする。その助けをしてくれることになる女性キャラが登場すると、カイトの肩がぴくりと揺れた。
 彼がこの作品を初めて見たのは、こっちに引っ越してきてしばらくの頃だ。テレビ放映していたそれを、やっぱりこんな風に一緒に見たのだ。だからカイトも話の内容は知っている。
 その時彼はこのシーンで、妹と同じ名前だとなんだか嬉しげに言ったのだ。それでわたしが、設定年齢も同じだよと言ったら、あんぐりと口を開け、そしていきなり検索しだしたのだった。それでわたしの話が事実だとわかると、釈然としない顔になった。
 わたしはちらりとカイトを見やる。今の彼は特に顕著な表情は浮かべていない。ちょっと頬のあたりが強ばっているような気はするけれど。
 外見年齢と実年齢が一致しないなんて、アニメ作品にはよくあること。とはいえわたしもこの女性キャラは十四歳には見えないので、カイトの気持ちは少しわかる。
 そうこうしているうちに話は進んで、主人公はお湯屋の最上階へ到着した。ここの支配人である魔女と直接話をしなくてはならないのだが、魔女は主人公の訴えを取り合おうとはしない。それどころか魔法を使って主人公を脅したり、彼女に協力者がいると読んで、それが誰か知ろうと甘言を操る。
 けれど主人公は魔女の誘いに屈しない。ひたすら、こう言うようにとだけ言われたことを繰り返す。
 偶然も重なって、魔女はとうとう折れた。主人公が働くことを認め、その契約を結ぶために契約書にサインをさせる。
 主人公は名前を書いた。
 魔女は主人公の名をぜいたくだ、と言い、漢字四文字で構成されているその名のうちの三文字を取り上げてしまった。残ったのは一文字だけ。読み方も変えられて、彼女は本来の名とは違った名で呼ばれることとなる。
(そういえば……)
 一瞬だけ映る、主人公が書いた彼女の名前。その字が間違っているという話を思い出した。
 ネットをしていて得た知識だったが、それを知った後に確認してみたら、確かに彼女は漢字を間違えていたのだ。
 主人公は小学生ではあるが、自分の名前を間違えて書くほど幼くはない。だからなぜ間違えたかについても憶測を立てられていた。その説は大きく分けて二つある。
 一つは単純に、常ではない状況であったため、うっかり書き間違えたのだという説。
 もう一つは、わざと間違えたのだという説。
 制作者サイドが正解を言わないので、どちらが正しいのかはわからない。けれど後者の説を唱える人は、その後の展開も絡めてこう続けていた。
 魔女に名前を奪われ、支配されると、だんだん己が何者なのかを忘れていってしまう。だからわざと間違った名前を書くことで、主人公は完全に支配されることから逃れたのだと。この少しあとで主人公は引っ越しのお別れカードに書かれていた字を読み自分の名前を思い出すのだが、完全に支配されていなかったからすぐ思い出せたのだと。
 説得力はあると思う。この作品は昔話に出てくるお約束がそこかしこにちりばめられているのだ。ここで使われているモチーフは「言葉には力がある」とか「本当の名前はみだりに他人に教えてはならない」という考えだろう。
 昔話には無理難題をしかけてくる鬼や死に神、悪い妖精などの名前を当てることで難を逃れるという話があるのだ。逆に自分の名前を言わないことで難を逃れるものもある。
 それに昔話ではないが、昔は本当の名前は言わないという習慣もあったという。本当の名前は両親などのごく一部しか知らず、通常は別の呼び名を使うとか。
(あれ……?)
 ふと、ひっかかりを覚える。
(今更だけど、カイトのことをカイトと呼ぶのって、手抜きすぎたかな)
 なぜそうしているか?
 理由は明白だ。
 製品名がKAITOだからだ。
 人名として通じるものがすでについていたので、そのまま使った。彼自身も自分の名前をKAITOだと認識していたということもある。
(でもKAITOっていうのは、いうなれば種族名みたいなものよね。それなのにここにいるKAITOのことをカイトと呼ぶのって特定の犬にイヌって命名したみたいなものじゃない? そりゃ、当人が納得しているならどんな名前をつけてもいいんだろうけど、改めて考えるとちょっと違和感があるなぁ。わたしだったら自分の名前が「ヒト」とか「人間」だったらあんまり嬉しくないもの。……というよりもカイトのあの自己紹介って、わたしは個体名として言っているのだと受け取ったけど、本当にそうだったのかな……)
 有名小説風に言えば『我輩はKAITOである。名前はまだない』という状態だったのではないだろうか。
(でも……うーん)
 何かを根本的に勘違いしているような気持ち悪さを感じる。一体なんだろう。
「あ」
「どうしました、マスター」
 わかった。どこにひっかかっていたか。
「カイト。あんたなんで自分の名前がKAITOだと知ってたの?」
 カイトはぽかんとしたかと思うと、ことんと首を傾げた。
「言っている意味がわかりません、マスター」
 そうだね。さすがに唐突すぎた。
「だから、カイトが最初に出てきた時のことよ。自分のこと、VOCALOID KAITO だって名乗ったじゃない。あれ、どうして知っていたの?」
「どうしてって……だってそうじゃないですか」
「そうじゃなくて」
 話が通じなくて頭を掻き毟りたい衝動にかられる。しかし自分の説明が悪いことも理解していた。それに少し冷静になれば、この話題はかなりデリケートなものでもある。
 わたしはカイトの手をとった。
「えっとね、ちょっとあんたにとってはしたくない話かもしれない。けど大事なことだと思うの。だから落着いて聞いてね。パニック、起さないでね」
「マスタぁ?」
 一体どうしたんだとカイトは目を白黒させる。いや、目の色は変わらず青いのだがそんな雰囲気で。だがとりあえずといった調子でわかりましたと答えたので、わたしはこくりと唾を飲んだ。
「どうして以前の記憶――わたしにインストールされる前のことを覚えているの?」
「……どうしてと言われましても。いけませんか?」
 困惑しているのがありありとわかる様子で彼は答える。
「良い悪いの問題じゃなくて、なんかおかしいと思うのよ。だって、あんたのその記憶って、どこにしまってあるわけ? あ、今の身体がある状態なら頭の中にあってもおかしくないとは思う。でもPCにいる状態の時は? 中にある記憶装置に保存されているというなら、それはそれでいいの。かなり容量が圧迫されそうだけど……」
「はぁ……」
 主旨が見えないのだろう。カイトは覇気のない声で相槌を打ってくる。
「でもそれだと、前のマスターにいた頃のことを覚えているのはおかしいことになるじゃない。だって、別のPCだもの。あんたのCDロムに記憶の上書きってこともないだろうしね。だってそれを使うのって、インストールする時くらいだし。上書きできるほどの空き容量だってないだろうし」
「……そう、ですね」
 カイトの顔が暗くなる。わたしはべしべしと空いている手でカイトの腕を叩いた。ここで取り乱されたら話が進まない。内に引き込まれないようにしないと。
「カイトがああいう系統の存在だったら、本体であるCDロムの方に念みたいにまとわりついている可能性もあるかもって思ったの」
 わたしはテレビ画面を指差した。この作品に出てくる人間は主人公とその両親だけ。あとは人ならざる存在だ。
「日本には昔から万物に魂が宿っているっていう考え方があるからね。現実的にありえるかどうかは別として、わたしもその感覚はわかると思ってる。それならカイトもそういったものの一つであってもおかしくはないかなって」
「……もしそうだったら、マスターは俺が怖いですか?」
 カイトは不安そうにちらりと画面に目をやった。握っている手から震えが伝わってくる。
「まさか」
 その手をぎゅっと握り締めて、わたしはきっぱりと否定した。
「そうであってもそうでなくても、身の危険を感じるほど怖いと思っていたら、とっくに対処しているよ。そういうことじゃなくて、もしもわたしの思い付きが当たっているとしたら、名前って実は重要な要素だったんじゃないかと思ったの」
「名前が重要……?」
「あんたは実体化する前から音だけは聞こえていたじゃない」
「はい」
「なら、最初のマスターがあんたを使っている時にKAITOって口にした可能性は? それを自分の名前だと認識したってことはない?」
 わたしはKAITOを使っている間にしょっちゅう話しかけている。しかしそれはすぐそばに本人がいるからだ。けれど一人で作業している時に独り言を言う人も珍しくないだろう。それも人名として通じるものが名称になっている製品だ。口にし易いと思われる。
「聞いたことはなかったけど、カイトは前のマスターのところに行く前の記憶もあるの? 開発段階とか……はありえないか」
 カイトは呆然となりつつもふるふると頭を振った。青い髪がぱさりと揺れる。
「最初のマスターのところから、俺の記憶は始まっています。でもぼんやりしていて、始めの日がいつなのかはわかりません。自分はKAITOなのだと理解した後にカイトと呼ばれた記憶はありますけど……」
 それから表情の薄くなった眼差しでわたしを見つめた。
「開発段階がありえないというのは、なぜですか?」
「だってKAITOって公募で決まったんじゃない。それに開発段階での呼び名みたいなものの名残りが起動時にいつもでてくるでしょ。Taroって」
 漢字表記にするならばおそらく『太郎』だ。わたしは空いている方の手で空中にその字を書く。カイトは納得がいったというように頷いた。
「一番最初の男の子につけるにはすごく日本的でオーソドックスよね。それはともかくとしても、カイトは自分の名前をKAITOだと認識していたんだから、開発段階の記憶はないだろうと思ったのよ」
「それでマスターの言うとおりだったら、どういうことになるんですか?」
 カイトは両手でわたしの手を掴む。そして落着きなげに力を入れたり抜いたりした。なんだかこそばゆいのだが、この程度で済んでいるのなら好きにさせておこう。
「前のマスターがあんたをカイトと呼んだ。わたしもそう。だってそういう名前だと思っていたんだもの。でもKAITOというのは個人名じゃなくて、製品名でしょう。同じものがたくさんある。だから例えばの話だけど、もしもあんたに個人名を何か考えていたとしたら……」
 言葉を切るわたしに、カイトの喉が上下する。
「ここから先は自分でも飛躍した考えだと思うけど、もしそうしたら、あの子みたいに以前の名前だった自分を忘れていったのかもしれないね。記憶しているマスターは、その時々のマスターだけって感じかな」
 そして画面に目を向ける。再生中のお話は大分進んでいた。主人公は自分の名前を思い出していたが、あの世界の中でそれは稀な出来事だっただろう。
 カイトも画面に目を向けた。そして独り言のような声音で呟く。
「マスターは前のマスターのことを覚えている俺は嫌い?」
「好きも嫌いもないよ。前のマスターのことを覚えているカイトがわたしにとっては当たり前だから。でもそのことを抱えているのはきつそうに見える。だから忘れて楽になれるならその方がいいんじゃないかとは思うよ。もちろん忘れられる保障できないけどね」
 カイトは途方に暮れた顔になる。こんなあやふやなことを言って混乱させるのは気の毒だ。けれどここにいるカイトのことをわたしはどれだけ知っているというのだろう。ジョーさんの推測を聞くまで、実体化したボーカロイドについて真剣に考えたことなんてなかった。ただなんとなくでずっと過ごしてきてしまった。
 例えばわたしは犬ではないので小次郎の気持ちや状態はわからないけれど、推測はつけられる。それは過去何人もの犬飼いや研究者が犬のことを調べたりしたからだ。人と犬とのつき合いは長いのだから。もちろん言葉が通じないので、本当に理解しているかどうかについては議論の余地はあるだろうが。
 けれどカイトは逆だ。言葉は通じるが、わからないことの方が多い。人と同じ姿をしているが、人ではない。食事はできるが排泄はしない。休むことはあるが、眠るわけではない。髪も爪も伸びないし、男性だが髭が生えることもない。そして自分の意志では歌を覚えられない。
 感情だって、謎だ。彼の言う好きや嫌いは、人と同じものなのだろうか。そうと表現するしかないからそう言っているだけで、本当は違うものなのではないだろうか。何一つ、確かなことはないのだ。
 だからわたしはその溝を埋めてしまいたい。けれどカイトと同じ存在は、わたしが知るところではこの世にもう一人しかいない。先行の研究者などいないのだ。だから自分で、ううん、わたしと先輩とで正解を見つけていかないと。
 カイトはこの手を離したら溺れてしまうとでもいうようにぎゅうっと力を込めてきた。かなり痛いが、不安が強いのだろう。我慢できるところまでは耐えることにして、カイトの返事を待った。
 しばらくして彼は答える。意外と声はしっかりして穏やかだった。
「別の名前になって前のマスターのことを忘れられたら、俺はマスターに手を焼かせないような落着いた性格になっているかもしれません」
「その可能性はあるね」
 なにしろカイトの情緒不安定さは前のマスターに放置され、捨てられたところに原因があるのだから。
「でも今名前を変えたら、マスターとのこれまでのことも忘れてしまいそうなので、俺は名前を変えたくありません」
 カイトは目を伏せる。長い睫が影を作った。
「ごめんなさい」
「あやまることはないよ」
 わたしはくしゃくしゃと青い頭をもみくちゃにした。カイトは一瞬びくっとしたものの、徐々に力が抜け、そのうち泣きそうになった。
「変えたくないならそれでいいよ。でもちょっと気になったんだよね。だってカイトって名前はわたしがニンゲンって呼ばれたり、小次郎がイヌって名前だったりするのと同じだし」
「それはちょっと違うと思います」
 カイトは袖口で目元を拭った。それからはにかんだような笑みを浮べる。
「俺には名字がありますから。 さんちのカイトくんですから。ただのKAITOじゃありません。ちゃんとした、俺だけの名前があります」
 なるほどそういう考えもあるか。
「名字付きなら個人名……か」
「はい」
 カイトは安堵の色濃い笑みを浮べる。それを見てわたしも気負っていたものが抜けていった。それからカイトは含んだような笑い声を喉の奥から発しつつ、にじにじと接近してくる。
「マスターぁ」
「……何?」
 なんだか調子に乗っている気配がしたので、警戒感を露にわたしは返事をする。
「俺、嬉しいです。マスターが俺のことをこんなに考えてくれているなんて。マスター、マスター。ぎゅーってしていいですか? 俺、俺、マスター大好きって気持ちが溢れそう」
 ほわんと眼を潤ませてカイトはわたしと目線を合わせてきた。顔が、近い。
「気持ちだけで十分だから」
 それ以上近づくなと、わたしはじりじりと脇に動く。しかしさほど大きくはないソファだ。逃げ場などないに等しい。
「それじゃあ俺の気がすみません。受取ってくださいマスター」
 カイトは瞳を期待に輝かせる。実力行使をしてこないのは、マスターとのお約束が効力を発揮しているからだろう。しかしこの無言の圧迫感……。わたしが折れると踏んでいるのか?
「いいから、本当に。それにわたしがあんなこと思いついたのはジョーさんに触発されたからで……」
 カイトの動きがぴたりと止まる。
「ジョーさん? 何かあったんですか?」
 あ、しまった。口が滑った。まだジョーさん予想は話すと決めたわけはなかったのに。
「ローラさんにまた何かあったんですか?」
 心配そうにカイトは同輩の名を口にする。ううむ、この際だ。カイトの気を逸らせるためにも白状してしまおう。知られても困ることはないと思うし。多分。
「そうじゃなくて。あのね、実は今日ジョーさんと話したんだけど……」
 わたしはカイトに今日あったことを話した。見殺し云々のあたりはさすがに伏せたけれど。
 カイトは時々聞き返してくることもあったけれど、概ね静聴してくれた。一通り話し終わると、彼は真剣な眼差しで考え込む。
「つまり――」
 顔を傾けた拍子に蛍光灯の明かりが反射し、青い目がきらりと光った。なにを言われるのかと、わたしは柄にもなく緊張する。
「俺がアイス好きなのは最初に食べたものがアイスだったからだという可能性があるということですね」
「うん」
「それに、俺がこっちで行動できるのは、こっちの世界の食べ物を食べたからで、もし俺が最初に出会った日にアイスを食べることを拒否していたら、その日以降はでられなかった可能性がある、と」
「そうね。だってローラみたく、引っ張りだしてくれそうな実体化ボーカロイドの当てなんて、なかったもの」
「そうなったらマスター、どうしていたと思います?」
 問われてわたしは少し考える。それから肩をすくめた。
「どうもしてないと思う。受験のストレスで変な幻覚でも見たんだろう、とか解釈して、それっきりだろうな」
 カイトは小さく唸る。
「そうならなくて良かったとは思います。でも、もしもジョーさんの予測が正しいのだとしたら……」
 カイトはじっとわたしを見つめる。
「俺が外の世界に出たのは俺のせいですけど、居続けることができるようになったのはマスターのせいってことですよね」
 そうなるかもしれないけれど、しかし肯定したくないな。
 と思って黙っていると、カイトは満面の笑みを浮べて一気に距離を詰めてきた。
「俺をこんな身体にしたのはマスターってことですね。なら最後まで責任とってくださいね!」
 滅茶苦茶嬉しそうに目をきらきらさせつつ、カイトは語尾にハートマークがついていそうな声でそう抜かした。
「どこで覚えてきたの、そんなセリフ!」
 反射的に突き飛ばし、次いでべしっと頭を叩くと、カイトは不満げに頬を膨らませ、叩かれた場所をさすった。
「えー、なんか違います? 俺のせいが一でマスターのせいなのが二なんだからマスターの方が責任が大きいと思うんですけど」
「ふざけないでよ。あんただってPCに戻りたくないだのなんだのさんざんゴネたんだからせいぜいイーブン! わたしの方が責任大きいなんて認めないからね!」
 叫んだあとに気づく。
「別にまだジョーさん予想が当たったわけでもないんだから、それの検証しないとって話をしていたんじゃない。なんであんたはそう話をあさっての方にねじ曲げるの」
「俺は心からの感想を言っただけです。ねじ曲げてるつもりはありませんよ」
 カイトは異議ありと反論してくる。
「もう、そういう茶々はいいから、実際のところどうなの? ものを食べる前とあとの変化の実感とかはあるの、ないの!?」
 無理矢理話の軌道を修正すると、カイトはまだ反論したそうにしつつも、黙った。それからおもむろに口を開く。
「今年の夏、マスターが帰省している間のことですけど、俺、消えるかもって思ったことはあります」
「消える!?」
 不吉な言葉に胸がざわついた。
 カイトは表情を改め、淡々と言葉を続ける。
「マスターに会いたくて会いたくて、でもできなくて。寂しくて消えてしまうんじゃないかと思ったんです。思い返せば、俺が外に出ている間に丸一日以上なにかを口にしなかったのって、その数日間だけだったんですよね。最初の日に賞味期限の切れそうなものを処理して、それっきりでしたから」
 わたしはソファの手摺りに背中を預け、膝を抱えて座りなおした。
「ってことは、わたしが帰省している間、PCには戻らなかったの?」
「はい。せめてマスターの痕跡が残っている部屋の中にいた方がまだ我慢できましたから」
 どれだけ寂しがりやなんだ。そんな告白をされたら今後の帰省がとてもしづらいじゃないか。……だからといって帰らないわけにもいかないけど。
 わたしは眉間を揉みつつ、話が反れないように本旨に意識を集中する。
「それって食べたものの量とか回数によってこっちで滞在できる時間が決まるってことかな」
 空腹感こそ感じなくても、PCを出て活動するにはやはりエネルギー源が必要だということだろうか。カロリーとか栄養素を考慮する必要はあるかどうかはともかくとしてもだ。
 カイトは首を傾げる。
「どうなんでしょうか。ただ寂しすぎてそう感じただけかもしれません。でももしマスターの予想が当たっているのなら、俺に好きな食べ物があるのは良いことだと思います」
「?」
 今度はわたしが首を傾げると、カイトは目元を柔らかく和ませて微笑んだ。
「あの時はせめてアイスを食べて気分を盛り上げようって思ったので、アイス屋さんに行ってアイスを食べたんです。マスターは俺に食事をするように言いますけど、マスターが居ないときまでわざわざそんなこと、する必要があるとは思えません。でもアイスは好きだから別です。だからもし俺に好きな食べ物がなかったら、もしかしたらマスターが帰ってくる前に本当に消えていたかもしれません。だから俺がアイス好きなのは俺にとっては良いことなんです」
「意識してはいなくても、危機感が働いた……みたいな感じなのかな、その行動は」
 実際にはカイトは毎日アイスを食べていたわけではない。けれど他の食物を摂取していた。二人そろっている時には一緒に食事をしているから朝は毎日。夕食はバイトのない日だけ。これはわたしの方針ではあるのだけど、もしも食事を与えない方針のマスターであっても、同居人に好物のものを定期的にあげるくらいならしてもいいと思うだろう。そしてそれがこちらで活動するためのエネルギーとなる。
「……うまくできてるなぁ」
 いや、実際にこういう仕組みになっているのかどうかは定かではないのだが、エネルギーを全く必要とせずに活動できるというよりも、こっちの方が受け入れやすい。となるとPCにいる間のエネルギー源はやっぱり電気でいいのだろうか。PCにいる間は食物エネルギーはいらないだろうから、次回の出現時まで取り置かれている……? それとも少しずつ減少していくのかな。充電池が自然放電するみたいに。
「ねえカイト、このこと、確認してみる?」
 本当に活動エネルギーとして食物が必要なのか、必要なら一日動くのに最低でもどの程度必要なのか、栄養素やカロリーが関係するのか、それとも量か。
 調べるためにはカイトの食事は抜きにしなくてはならなくて心は痛むが、一時のことだ。知っておいて損はあるまい。
 けれどカイトは気が乗らないようだった。
「でもそれをやってみて本当に消えた場合、俺はどうなるんでしょう。パソコンに自動的に戻されるんでしょうか。ローラさんに引っ張りだしてもらえるならそれでもいいんですけど……本当に消えてしまったら? 俺、怖いです」
「そっか」
 確かに、こっちに出ている状態で行動不能になった場合どうなるかは、まだなったことがないからわからないのだ。本人が怖がっていることだし、無理強いすることもないのかも……。
「わかった。ならこの実験は少なくともローラにもカイトを引っ張り出せるとわかるまではやらない。でもわたしも少し心配なんだよね」
「え?」
「だってわたしのいない間に消えてしまいそうになったなんてさぁ。これからだって帰省することはあるし、他にもカイトのことを連れていけないところに泊まりで行くことだってあるだろうし……。帰ったらあんたがいなくなってたとかは、さすがにちょっと、イヤだな」
 知らない間に危機が訪れていたかもしれないと知って、背筋がうっすらと寒くなった。別れの時はいつかは来るにしてもこんな形で別れたくはない。
「マスター」
 カイトはゆっくりと瞬きをした。それからそわそわととしだす。
「マ、マスター。マスター」
「なに?」
「やっぱり抱きしめてもいいですか?」
「まだ諦めてなかったの」
 蒸し返すんじゃないと言外に込めて言うも、カイトは引かなかった。
「いえ一度は衝動が収まったのですが、マスターがあんまり俺を喜ばせるようなことを言うのでぶり返してしまいました」
 真顔で言わないでほしい、そんなこと。でも。
「……嬉しかったの?」
「はい、とても」
 瞳を潤ませて彼はしきりに頷く。
「別にこっちとしては喜ばせる意図はなかったんだけど」
「それでもです」
「……力の加減はできる?」
 勢い余って背骨が嫌な音を立てそうなんだよね。今のカイトを見ていると。
「が、頑張ります」
 そこでどもらないでほしい。不安になるじゃないか。
「……ちょっとだけならいいよ」
 途端、カイトの顔は喜びに輝く。早速とばかりに伸ばされた腕に囲い込まれた。
「カイト、ボタン当たって痛い!」
 重ね着していたシャツの装飾ボタンが頬に押し付けられる。少し大き目なこともあって、かなり痛い。
「すみません、脱ぎます!」
「なんでそうなるの。力を緩めればいいでしょ!」
 やっぱり許可するんじゃなかったと後悔しながら、カイトを押し返そう腕を突っ張ろうとした。
「だってこんなチャンス、今後あるかどうか……。ああもう、マスター逃げないでぇ」
 しかし片腕ながらもカイトはわたしをがっちり抱えているので逃げられない。しばらくごそごそしていたカイトはぺいっとシャツを脱ぎ捨てた。シャツの下は長袖Tシャツだったのでさっきよりはましだったがそれにしても――それにしてもなんて色気がないんだろう。――あっても困るけど。
(胸板って、結構硬いんだなぁ)
 自慢にならないが、これまで男性に抱きしめられたことはない。細く見えるがしなやかな筋肉があることが触れた箇所から感じられ、男女の身体の作りの違いを意識してしまった。
(あー、駄目駄目。考えない考えない)
 この先に行ってはいけない。わたしはともすると暴走しそうになる心臓を落着かせようとゆっくりと呼吸をした。
(……ん?)
 何かおかしい。そして何がおかしいのかをしばし考え、そして気付いた。
 ぎゅうぎゅうと締め付けてくるカイトの腕の中でもがき、どうにかして胸の中央あたりに耳がくるようにする。
(……やっぱり聞えない)
 場所がずれているのかと、手を滑り込ませ、その近辺を探る。
 だがやはり心臓の鼓動は感じられなかった。
(心臓がないの……? でも、血みたいなのは流れているよね)
 カイトは何度か料理をしていて指を切ったことがある。その時には血のような赤い液体が出てきたのだ。
 これも人間と実体化ボーカロイドの違いなのだろうか。それとも鼓動というのは抱き合った程度では感じられないものなのだろうか。こういう時には経験のなさが悔やまれる。ジョーさんだったらすぐに正解がわかるだろうが……。
(でもジョーさんに相談したらローラに確認取るよね……? 無駄に煽るようなことをするのってどうなのかな)
 好奇心と人としてのモラルの板ばさみに陥っていると、カイトがうっとりした声を出す。
「マスター……。こんなに熱心に応えてくれるなんて嬉しいです」
「……え」
 我に返り、自分がカイトの胸をわさわさと撫で回していたことに気が付いた。
「違う。ごめん、誤解だから!」
「照れなくていいんですよ。俺はマスターのものなんですから、思う存分構い倒してくれていいんです」
 さあどうぞと言いつつ、奴はすりすりと頭をすり寄せた。
「だから、違うってば」
「俺ももっとマスターのことを触っても良い?」
 吐息が首筋にかかり、ぞわっと総毛が立った。
「違うって言ってるでしょ、人の話を聞け!」
 渾身の力を込めて、わたしはカイトを押しかえす。それから久々の説教タイムをしてから、実体化ボーカロイドの心臓――というよりも内臓全般――の有無についての見解をカイトと話し合った。
 食物を消化している感じがない以上、内臓はないのではないかというのがカイトの結論だった。だからといって代わりのなにかが詰まっているのかどうかは不明だが。
 そしてその話が終わる頃には、DVDは再生を終了していた。結局、半分もまともに見れていない。
 返却日まではまだ間があるものの、再び見る気力は起きそうにない。何のために借りたのだろう……。







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