「ねー、カイト。本当に大丈夫?」
 リビングのソファに座り、肘掛け部分に身を乗り出すようにしてマスターが言った。
「大丈夫ですよ」
 冷たい水に手を濡らしながら、俺は笑って答える。
「でもさっきの今なんだし、今日くらいはお皿洗い、代わるよ」
 うずうずと肩を揺らして軽く眉が寄っているマスターはぎゅうっと抱きしめたくなるほど可愛いかった。ここはできればさらっと流せれば格好いいんだろうけれど、ついつい笑みが深くなってしまう。
「本当に大丈夫ですったら。でも心配してくれてありがとうございます。嬉しいです」
 するとマスターの顔は一変し、ぷいっとそっぽを向いた。水音でかき消えがちだけど、別に心配しているわけじゃないとかなんとか、ごにょごにょ言っているようだ。なんで素直に心配しているって認められないんですかねぇ。おかしなマスター。
 結果的に寝ていただけらしいという結論になったとはいえ、あの後もまだジョーさんは俺の様子が気にかかったらしく、それならうちでご飯を食べようとマスターが提案したので、四人で夕飯を食べることになった。十日間もの間、留守にしていたので冷蔵庫の中にはたいしたものは入っていないけれど、買い物に行く時間くらいはあった。だが今日は外出をしない方がよいというジョーさんの忠告を受けたので、デリバリーを取ることにしたのだ。時間の余裕ができた間に、ジョーさんはローラさんを迎えに行った。まだ一回しか俺たちのアパートに来たことがないのでちゃんと道順を覚えているのかという不安もあるそうだけど、それ以上にまだ一人で出歩かせるのが怖いのだそうだ。ナンパされても上手くかわせないだろうしなって、ジョーさんはぼやいていたっけ。
 久しぶりに四人で食べたり飲んだり。今ではローラさんも普通に俺たちと同じくらい食べ物を口にするようになっていた。マスターの計らいで、デリバリー以外にも近所のコンビニで買ったデザートもある。俺にはもちろんアイスで、ローラさんにはリンゴのゼリーだ。
 食事中の話の内容は、さっきのさっきだから仕方がないとはいえ、俺の変化について。ジョーさんの判断としては、眠気がピークを迎えていたけれど、寝るという行為を俺がこれまでしたことがなく、そのため眠くなっているという判断ができなかったということ。その眠気はジョーさんの実家にいた頃からあったけれど、よその家であるということで我慢していたのだが、アパートに戻って気が緩んだことで心おきなく眠りだした……ということらしい。そして眠気がでてきたのは、フル稼働しっぱなしの身体を休めるためではないか、と推理していたけれど、実際にそうなのかどうかは、推測の域をでない。やはりここはジョーさんの提案通り、しばらくパソコンに戻らない生活をしてみるしかなさそうだ。
 とはいえ俺が倒れたことについては、俺自身はあまり気にしていない。眠っていたという感覚がないということが関係しているのかもしれないけれど。でも周りの人たちはみんなかなり深刻そうだ。特にローラさんは。
 それもそうだろう。外に出てからまだ三ヶ月も経っていなくて色々覚えなければいけない時期に、さらによくわからないことが起きたのだから。
 俺に起きたことはきっと条件さえそろえばローラさんにも起きるだろう。彼女は自分のマスターに、自分もしばらくパソコンに戻らないでいようかと言ったのだけど、ジョーさんが却下した。同じ実験を同時にすることに意味を見いだせないからと言って。
 でも俺は気づいたのだ。ローラさんもずっと外に出ているとなるとジョーさんは困るからこんな言い方をして断ったんだって。
 ジョーさんの部屋はキッチンなどの水周り以外には一部屋しかないので、ローラさんがパソコンに戻らない生活をする場合、ずっと同じ部屋にいることになるんだ。着替えをするだけでも気を使ってしまうだろう。
 ……というのは俺のマスターの場合であって、ジョーさんは男のひとだから特に気にならないかもしれない。でも問題は夜だ。なにしろ俺に起きたことを思えば、眠気というのは俺たちの場合ひととは違って毎日訪れるものではないようだから。俺が十日ほどで限界を迎えたから十日は眠くならないと考えてもその間、同じ部屋に寝ているジョーさんと起きているローラさんという図になるわけで。
 これは、俺だったらそうしちゃうだろうなってことなんだけど、同じ部屋でマスターが眠っていたら、ずっとマスターの寝顔を見つめてしまうだろう。そうできる自信が俺にはある。だって他にやることもないからね。パソコンに戻れたとしても、夜の間は退屈なんだ。ましてやパソコンの外にいなければいけないのなら尚の事。
 幸いなことにと言ってよいのか、俺たちの部屋はマスターの寝室の他にリビングがあるから俺は夜の間はリビングで過ごすつもりだ。退屈なことには、変わりはないだろうけれど。
 皿洗いが終わって、さあマスターと過ごそうとキッチンの電気を消す。
「カイト」
 照れ隠しにむくれていたマスターはもうむくれてはいなくて、だけどやはり少し心配そうに俺のことを見上げてくる。
「わたし、お風呂に入ってくるから、カイトは今日はもうPCに戻った方がいいよ」
「え、でも」
 そんな、やっとマスターとゆっくりできると思ったのに。
 しかし俺が抗議の声を上げる間もなく、マスターの顔が深刻に曇る。
「やっぱり十日も出ずっぱりなのが良くなかったんだと思う。人間ならそもそも十日も寝なかったら気がおかしくなりそうだもの。カイトはそういう意味では頑丈ではあるだろうけど、でも身体に負荷がかかっていないってことはないんじゃないかって、ジョーさんの話を聞いていて思った。機械だって定期的にメンテナンスを受けないと長持ちしないんだよ。カイトは生物とも機械ともいえないかもしれないけど、だったら尚更体調には気をつけないといけないじゃない」
「マスター……」
「二、三時間早く休んだ程度で十日間の負荷が補えるかどうかわからないけど。だから明日になって、もし外に出るのがきついとかだったら、遠慮なく休み続けていていいんだけど……。あ、でも出られないなら出られないってメールでもしてくれると無駄に心配しなくて済むから助かるんだけど……」
 話をしながらさらにマスターの顔は暗くなっていく。俺はふとマスターのすぐ横にしゃがんだ。しゃがんだから目線が同じにはならなくて、ソファの肘置きを挟むようにして、ちょっとマスターを見上げる感じになる。
「やっとゆっくりお話ができると思っていたのに」
「まあ、つもる話はお互いにあるよね。でも、今日は」
「わかっています。俺も大丈夫だという俺の感覚が本当に大丈夫かどうか自信があるわけではないですから。だってなんともないと思っていたのに、倒れていたんですし」
「そうね。ごねないでくれて助かるわ。じゃあ、そういうことで」
 お風呂のスイッチでも入れに行こうとしたのだろうか。立ち上がりかけたマスターを俺は引き留める。
「待ってマスター、少しだけ」
「何?」
 マスターは中腰のまま動きを止めた。
「俺、ジョーさんのところで教わったことの話をしようと思っていました。ジョーさんが教えた内容についてはジョーさんがマスターに説明するって言っていたので、俺が感じたこととかそういう話を」
 最初、ジョーさんは理科を俺に教えようとしていたのだと思ったけれど、ジョーさんは苦笑して保健の授業だと言ったのだ。そして今までとはずいぶん違う内容のことを色々教わった。
「俺はマスターがくれたドリルの他にはネットやテレビで知った知識しかありません。犬仲間のひとたちとの交流で得たことも多少はありますけど、でもどれもこれも部分的なもので。だから今回ジョーさんが教えてくれたことで、その部分的なものだったものがつながったところもありました」
「そ、そう」
 マスターは俺の勢いに押されたのか、面食らった表情になる。それからマスターは目を泳がせたが、そろそろと立ち上がった。
「ジョーさんが教えてくれたことは理解できたと思います。そしてそれは大切なことだってことも、わかったつもりです。でも、理解しただけです。実感するところまではいけていません」
 マスターはもじもじと両手を組んだり解いたりを繰り返す。マスターが立ち上がったので、俺はぐっと首をそらして見上げなければいけなかったけれど、そうしているとだんだん首が痛くなってきたので、やっぱり立ち上がった。
「ジョーさんが言うには、俺は精神年齢が低すぎるんだそうです。そうかもしれません。自分ではわからないんです。でも今、ちょっと引っかかったというか、わかりかけたというか……」
「何を?」
 どことなく、聞くのが怖そうにマスターは問う。
 俺は、ジョーさんから言うのは控えればと言われていた言葉を口にする。
「俺はマスターが好きです。前からです。何度も言っているのでマスターはわかっていると思いますが」
「……そーだね。別に繰り返さなくていいよ」
 その話かと言うように、うんざりしたように彼女は肩を落とす。
 好きだと言い過ぎるから本気にされないのだとジョーさんに忠告はされていたけれど、やはりそうなのだろうとマスターの反応を見て思う。でも今重要なのはそこじゃない。
「俺の抱えているこの感情は恋愛感情ではないかもしれません。でも恋じゃないのはきっと今だけです。いずれ俺はあなたを愛するようになるでしょう」
 うつむき加減だった彼女はばっと顔をあげた。その目はこぼれそうなほど見開かれており、口はぱかんと開いている。可愛いとはさすがに言えない。面白い顔だった。
 ぱくぱくと声にならない声をあげるマスターに、俺は苦笑する。
「マスター。あなたが何気なく話すことや行動が、俺には時々やたらと染み込むことがあるんです。染み込んで染み込んで、もう染み込まないとなったときに、俺は一歩先に進めそうな気がします。マスターは今の状態から変わりたくないかもしれないけれど……でも、俺は進んでみたい」
 俺は少しかがんでマスターと目線を合わせる。彼女はずさっと音を立てる勢いで後ずさった。この反応、言わないでおくべきだったのかな。でも言わないと伝わらないじゃないか。でもマスター、俺のことを怖がっているように見える。やっぱり失敗だっただろうか。
 俺は彼女から少し離れた。
「ということで、俺がなによりも言っておきたいことは言い終わりましたので、マスターはお風呂に入ってくださいね。その間に俺はパソコンに戻りますから」
「あ、うん」
 背中に力が入っていないような声でマスターは頷く。
「それから、そんなことにはならない気がしますけど、外に出るのが厳しそうだったら、明日の朝に携帯にメールをするようにしますね」
「うん。そうして」
 やっぱり全然覇気がないまま、彼女は再び頷いた。それからふらつく足取りで洗面所に向かう。お風呂のスイッチを入れた音声がして、すぐに戻ってきた。と思ったら何もないところでつまづく。
「マスター、大丈夫ですか?」
 駆け寄るより先に壁に手をついて身体を支えたマスターは、大丈夫だと手を振った。本当かな。あの様子だとお風呂で溺れかねない。……心配だ。

♪・♪・♪

 俺には睡眠は必要がない。だから眠らないと見られない夢を見ることなんてない。だからあの変な噴水は公園にあるのだろう。
 実のところ、俺が倒れていたのは寝ていただけ説を聞いたあとも、半分以上信じられないでいた。だから小次郎さんの散歩をしに久しぶりに公園に行った時も、あの噴水はあるのだろうと思ったのだ。けれど公園中をくまなく回っても、やはりジョーさんが推理したように、円筒形の噴水なんてなかった。もちろん椅子とテーブルのセットだってない。年明け後の公園は去年と同じままだった。途中で会った飼い主仲間のひとたちにも聞いてみたけれど、この公園には前からあった噴水しかなくて、今のところ新しく建設される予定もないという。だからどれだけ納得がいかなくてもやはりあれは夢だったのだろう。そういうことなら、もしまた眠ることがあれば俺は夢を見るのだろうか。そしてその内容はまた公園なのだろうか、それとも別なもの?
 楽しみのような、少し不安なような思いを抱えながら、夜もパソコンに戻らない生活を始めてから五日が経った。
 仮眠なしの二日間の徹夜でも結構きついよ、とマスターが言っていたけれど、五日が経過していても、やはり俺が自覚する限りにおいてはだが、何も変わった感じはしなかった。けれどこれはこれで確かにきつい。眠いとか疲れたとかではなくて、時間が有り余って仕方がないからだ。
 マスターは音量に気をつけてくれればゲームをしてもいいよとは言ってくれたけれど、マスターと対戦するわけでもないのなら俺はゲームをする気にはなれない。ネットサーフィンも英語の勉強も、昼間だけで十分時間が取れている。もちろん、夜の間も英語を勉強し続けたら俺の英語能力は飛躍的に伸びるだろうけれど、昼間もやっていることを思うと夜はなかなか、集中できなかった。
 それ以前に、リビングでは小次郎さんが寝ているのだ。電気をつけたら起こしてしまう。そうでなくても、俺一人のために夜中ずっと電気をつけるなんて、電気代がもったいないではないか。
 だから時々思いついた雑用をこなす以外は、明かりを消したリビングで、俺はひたすらぼーっと時間が過ぎるのを待っていたのだった。
(夜通し遊ぶっていう人は何をして遊んでいるんだろう……)
 暇すぎてうんざりしている俺はどうでも良いことをよく考えてしまう。
 お酒を飲んだりするというのは知っている。けれどそれだけで朝まで時間がつぶせるものだろうか。それ以外にもあるのだろうか。謎だ。
 時計を見上げると、もうすぐ夜中の二時を指すところだった。やっと次の時間が来たので、ぼうっとしていた頭がクリアになってくる。
 電波時計の長針と秒針が真上に重なるのを待って、俺はゲームを開始した。
 足音がしないように歩いて、マスターの寝室のドアを開ける。頭だけ突っ込んで中をのぞきこむと、マスターが熟睡しているかどうかを寝息を聞いて確認した。マスターは電気を全部消して寝るので目が慣れるまで少しかかる。それからそっと中に入った。
 このゲームは実のところ、二日目から行っている。初日があまりにも暇だったため、何かしないではいられなくなったのだ。
 区切りの良い時間にマスターの寝室に入って、十分間だけ滞在する。もちろんマスターが起きたらゲームオーバーだ。この十分で何をするのかは決まっていない。前回は音をたてずにスキップしながらベッドの脇をいったりきたりしてみた。他にも適当に踊ってみたりとか。
 我ながら馬鹿みたいだとは思うが、元々このゲームに意味なんてないので、こんなものでいいと思う。とりあえず、マスターと同じ部屋にいられるので、俺は満足だ。
 今度は何をしようかと、部屋を見渡す。今までは音を立てないで行動するだけだったから、今度はもうちょっと冒険してみようか。
 俺はベッドの足下側の端にゆっくりと腰を下ろした。マットが沈むと、マスターが身じろぐ気配がする。
 ドキドキしながら見つめるも、特に寝返りを打つことなくマスターは眠り続けた。ほっと息を吐き、緊張が解けたことでわけもなく笑えてきた。
 このゲームの最終形態としては、音を出すことだろう。もちろん、マスターが起きない範囲でだ。十日目の夜にすることだけはもう決めている。小さい声で歌ってみることだ。十日も続けられない可能性もあるけれど、それはそれ。
 俺はぶらぶらと足を前後に揺らした。その反動でマットがきしきしと揺れる。音も危険だが震動も危険だ。あまり揺らさないようにしようとは思いつつも、これを今回の冒険にしようと決めた俺は、揺らしては止め、揺らしては止めを繰り返した。
 規定の十分が経過したので、俺はまた音に気をつけつつ寝室のドアを開け、退散した。今回はなかなかスリリングだった。マスターが寝返りを打つこと一回、寝言みたいなうなり声みたいなものをあげること一回。うなり声みたいなものを上げたときには、腕で顔をこするような動作もしたから目が覚めかけているんじゃないかと思って本当に緊張した。一応、目が慣れれば部屋の様子はわかるようになるとはいえ、電気はついていないから、もしもマスターが目が覚めてもすぐにはバレまい。じっとしていたらまた眠ってしまうだろう、という計算はあった。……トイレに起き出したらアウトだろうけど。
 けれど今回も俺は勝った。マスターは起きなかったのだ。
 心地よい達成感に浸りながら、次の三時まで何をしようか考える。ゲームをするようになってからは、開始五分前と終了後五分後もドキドキ感が続くので、時間つぶしも大分楽になった。夜中も起きている生活は折り返しに来ているので、この分ならばなんとかやり過ごせそう。だけど、その後はどうなるんだろう。
 ジョーさんが次の何かを提案してくれるのだろうか。それとも俺が考えたことを実行してもいいのだろうか。ジョーさんが自分のことなんだから少しは自分で考えろというので頭をひねって考えたのだけど、これを実行しようとするとマスターに嫌がられる可能性が高い。だからジョーさんにも後押しをしてほしいんだけど……。
 それというのも、今回の実験が終わったら、俺は人間と同じ生活をしばらくしてみようかと考えたのだ。朝起きて、食事をし、日中は活動をして夜には眠るという、いわゆる規則正しい生活というのを実行してみるのだ。ジョーさんは俺が倒れたのは、眠気というものがどういうものかわからないから限界まで我慢してしまったのだ、と言っていた。それから以前聞きかじったことだけど、寝ないといけないのに眠れない時でも、布団に入って目をつぶっていればそれだけでもある程度の疲労回復にはなるのだという。もちろんこれは実体化ボーカロイド向けの知識ではないけれど、毎日同じ生活をしていれば、そのうち俺も毎日睡眠を取れるようになるかもしれない。身体が睡眠に慣れるかもしれない。ならその方がいいじゃないか。だってそれならもう、夜の間、一人で退屈しなくてすむ。
 そしてその生活に必要なものは寝具だ。いくら頑丈な俺だって、身体のどこかに体重がかかり続けたらそこが痛くなってくる。だから毎晩床に寝るというのは避けたい。ソファもあるけれど、身体が伸ばせないし狭いので、できればこれも避けたいのだ。
 となると俺の分の布団を一式買わなければならない。
 幸い、俺が当てた懸賞品で使わないものを処分したことで得たお金があるので安い布団セットなら買えそうなのだ。問題はそれを敷く場所だ。
 マスターが学校に行っている間にこれらに関する問題を色々考えて、まずは布団を敷く場所は必要だとあっちこっち計ってみた。その結果、もしもリビングに敷くのであれば、ソファとテーブルはキッチン側か窓の方に移動させなければいけないことがわかった。毎日のことと思うと、それはちょっと大変かと思う。それからリビングには布団を収納するスペースはないし、畳んであっても出しっぱなしはちょっと気になる。
 ということでマスターの寝室を計ってみたら、今度は布団そのものを敷くスペースがなかった。だからもし俺の分の寝具を買うのであれば、思い切ってダブルベッドを用意できればとても良いと思うのだ。それなら置けるから。セミダブルだともう少し部屋を広く使えるけど、俺とマスター二人ではそれも狭いだろう。
 もちろんその分、費用は跳ね上がる。俺が貯めた分では全然足りない。それにマスターは嫌がるだろう。ちょっとどころではなく、とても。
 でもそうなったらどれだけ幸せか。
 俺はジョーさんの実家にいたときに、何度もお願いして以前俺とマスターが二人で生活しているにしてはおかしい点がないか確認してもらった時に判明した、かなりおかしい点があるというその内容を聞き出したのだ。
 それは二人いるのになんでシングルベッド一台しかないのかということなのだそうだ。二人で使うにしても狭すぎるだろう、と。
 確かにそれはおかしいと、指摘されて初めて気づいた。
 さらにジョーさんは解説してくれて、クローゼットの中に布団があるかもしれないと思いつくくらいはするだろうけれど、同棲状態なのにわざわざ布団とベッドに分かれるのも妙な話だと。特に俺がマスターに遠慮ない好意を示しているのが丸わかりだからなおさらおかしな感じがすると。
 そうだよね。人間が二人暮らしているのなら、二人が使えるだけの寝具は必要だ。でも俺はずっと夜はパソコンに戻っていたので、そんなものは必要ではなかったのだ。
 だけど今後、それを使う必要があるかもしれないなら、日々の掃除のしやすさとか生活空間を必要以上に狭くしないようにとか色々考えると、やはりベッドが一番だと思うのだ。だから選択肢にはリビングに布団を敷いて、朝になったらマスターの寝室の片隅に置いておくということは考えていない。マスターだったら、それが一番いいと言いそうな気はするけれど。
 けれども簡単に新しいベッドを買いましょうとも言えない。お金の問題だけじゃない。それこそ今までの関係が崩れてしまいかねないのだ。犬仲間の人たちに勘違いされたのをそのままにしているという状態ではなく、本当の恋人になってくださいと迫るようなものなのだ。
 それは俺としては全く問題ないのだけれど、マスターはきっと、多分、おそらく受け入れてはくれないだろう。俺はそういう対象ではないのだ。マスターからしたら俺は小次郎さんより頭の悪い、手のかかる犬なのだそうだから。
 俺が意思表示をしたことでマスターが俺を今以上に負担に思うようになったら、この生活も終わってしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたい。だってそんなことになったら、約束した笑ってのお別れなんて、とてもできそうにないから。
 だから俺としてはマスターの方から俺がもっと近づいてもいいと思うようになってほしいのだ。そのためのあの日の宣言なんだ。
 ……とはいえ、道のりが遠いのはわかりきっていることなので、先が不安ではある。





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