テイル・コートにトップ・ハット。
手にはステッキ、マントを羽織り……。
きっちり整えたオールバック。
白い仮面は闇にも眩く。
今日もエリックは正装をしてオペラを聞きに行く。
わたしはいつも通りに「いってらっしゃい」と見送ってお留守番。
さて、これから何をしようかな。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
翌日、朝食の席でエリックはふいに指摘してきた。
「お前は外に出たがる割には私がオペラを聴きに行く時には付いていきたいとは言わないのだな」
「……そうだっけ?」
思い出してみる。
「そうだね」
確かにその通りだったので頷くと、
「オペラは好きではないのか?」
いやに真面目に問いかけてくるので、わたしはちょっと考え込み、首を振った。
「ううん。好きでも嫌いでもないわ。なじみがなかったから興味がない、っていうのが正直なとこ」
「なじみがない、か。未来の日本ではオペラは受け入れられていないのかい?」
うーむ。わたしはあんまりオペラは詳しくないのだけど……。
「一応オペラは日本でも知られているわよ。オペラ公演の宣伝は珍しくないし。だけど敷居が高いイメージがあるからちゃんと聞いたことがない人の方が多いと思うわ。わたしもそう。チケットも高いしね」
「そうか……。では、聞けば好きになるかもしれないのだな?」
エリックはテーブルの上に手を組み、軽く乗り出してくる。
なんだか期待の篭っている目だ……。
「それはそうかもしれないけど、逆に聞いてもやっぱり興味がわかないかもしれないわよ?」
「やってみなくてはわかるまい?」
そりゃそうかもしれないけど。
「ではそういうことでいいな」
「え、もう決まっちゃったの?」
わたしは行くとも行かないとも言ってないのだけど。
「嫌なのか?」
エリックは軽く首を傾げ、本気で不思議そうに尋ねる。
「え……。嫌ではない、けど……」
「だったら構わないだろう」
満足そうに頷く。
「早速準備に取り掛かろう」
「さて、どうせなら君の好みそうな演目を選ぼうか。どんなものが好きなんだ?」
食事を終えると片付けもそこそこに、エリックは紙とペンを持ってくる。
「どんなのって言われても……」
よくわからないものをどう選べと。
「音楽のイメージでも、話でも。なんでもいいんだよ。思いつくものをあげてごらん」
「明るい話」
考えて答えた結果がこれだった。
「またずいぶん漠然としているな」
「だってー、本当にわからないんだもの。でもどうせだったら明るくて面白い方が観てて楽しいだろうし。勝手なイメージかもしれないけど、オペラってなんか暗い話が多いような気がするんだもの」
「必ずしもそうだというわけではないが……。まあいい、喜劇がいいんだな。考えておこう。後は……夜用のドレスを用意しないとな」
「ええ? あれだけ作ったのにまだ必要なの?」
揉めに揉めてようやくできたドレスがすでに衣装箪笥一杯に詰まっているのだ。これ以上作ってどうするんだ。
しかしエリックは眉を潜める。
「何を言う。ローブ・デコルテは作っていないぞ」
それからふっと口を閉じた。
沈黙が流れる。
きっと互いに同じ事を考えているのだろう。
『外に出す気がなかったのだから』と。
しかし当初交わした外出不可の約束は、すでに有名無実と化していた。
そんなわけで、またドレスを作る事になった。
それからニ週間くらいしてからのこと。
エリックは非常に真面目な表情でわたしを呼んだ。
「大事な話がある」
「はい」
わたしは椅子に深く腰掛けて、背筋を伸ばして手は膝の上に置いた。
「……そんなに畏まらなくてもいいのだが」
「じゃあ、そんなコワい顔しないでよ」
「この顔は生まれつきだ」
「そういうことを言ってるんじゃないって、わかってるでしょ?」
てい、とエリックの眉間に指を伸ばして深く刻まれた皺を広げた。
まったく……とかなんとかぶつぶついいながらわたしの手を押し戻す。
「知っていることだろうが、私はオペラ座の者にファントムと呼ばれている」
「うん、知ってる」
わたしは頷いた。
「私たちが生活するための金はオペラ座の支配人から脅し取ったもの。ボックス席にしてもそうだ」
そうなんだよね……。エリックは立派な犯罪者なのだ。
しかしそのことは普段はほとんど思い出さない。これって、人としてどうなのだろう。
だけど、警察に知らせるなんてできるはずもない。
わたしはエリックが好きなのだ。
それ以前に、すでにわたしは共犯者なのだ。
「だから、そこにのこのこ姿を現したら、捕まってしまうかもしれないのね?」
これが現実だ。
「そうだ」
エリックは頷いた。
「だから、少々君にも変装をしてもらいたいのだよ」
「それは構わないけど……」
言いかけて、わたしはふと気付いた。
「ねえ、それならあなたは普段どうやってオペラを聞いているの?」
エリックはしょっちゅうオペラを聴きに行っているのだ。姿を現したら捕まるのなら、彼はいつもどうしているのだろう。
「もちろん、誰にも見えないところで聴いているのさ」
エリックは人が悪そうに唇の端を持ち上げる。
多くの危険を掻い潜って生き延びてきた男の自信と、人びとに対する嘲りが入り混じったような表情だった。
「だったらわたしもそこにいればいいんじゃないの?」
「残念ながら、二人いるには窮屈すぎる。ボックスを使わないわけにはいかない」
エリックは肩をすくめた。
「ふうん。……ところでわたしはそうまでしてオペラを聴きたいわけでは」
ないのだけど。というより前に、不満そうにエリックは顔をしかめた。
「お前はそんなに私とオペラを聴きにいくのが嫌なのか?」
「違うってば! でもわざわざそんな苦労しなくったって……」
「私にとっては造作も無い事だ。だからお前はただ美しい音楽を聴きにいくつもりでいればそれでよい。わかったな」
今回のエリックはいやに強引だ。
「はーい」
やれやれ。
さて、結局わたしはどうしたかというと。
幽霊らしい白と銀色が基調の胸の開いたドレスを用意された。胸元は赤く、徐々に色が薄れていっている。髪型はこの時代からすれば古めかしいというスパニエル・カール――耳の横で縦ロールにしたもの――にされた。首にはルビーのついた真紅のリボンを結び、最後の仕上げに仮面をつける。鼻まで隠れる白いものだ。一見すると蝋人形のように見えるだろう。
コンセプトは「コンコルド広場からオペラ座に引っ越してきたマダム・ファントム」だそうだ。
コンコルド広場というのはフランス革命時にギロチンが置かれたところである。
つまり、わたしは首を切られた女の幽霊という役どころなのだ。
ところで、なぜ「マドモアゼル・ファントム」ではなく「マダム・ファントム」なのだろうかと聞いたら、身内だと思われた方が効果的だから、だという答えが返ってきた。
効果ってのはやっぱり支配人さんに対する脅し効果という意味だろうか……。
ごめんなさい、支配人さん。
これでも悪いと思っているんです。
準備が出来たところで出発。ドレスを汚さないようマントを着て、エリックに手を引かれるまま歩いてゆく。
仮面をつけていると視界が狭くなるので姿を見られるところに出るまでは外す事にした。
そうそう、エリックの仮面はいつものではない。
少し黄ばんだような色で、やはり鼻まで隠れるようになっている。
だが特に模様もついていないわたしのものとは違って、彼のは髑髏を模しているのだ。
じ、自虐的というかなんというか……。エリックがそれでいいのなら、わたしがどうこう言うべきではないのだけど……。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「本当に、出なきゃならないの?」
「今更何を言っているんだ」
「でも……」
当日。
何百段もの階段を昇り、細い通路を抜け、ところによっては背を屈めないといけなかったりするかなりきつい道のりを経てついたそこは、絢爛豪華な劇場の中だった。
ボックス席という名の通り、左右は壁で隣と仕切られている。
座って観劇をするためにしてはずいぶん広い。
肘掛け椅子は全部で四つ。それでも少ない方なのだそうだ。
わたしたちはボックスを仕切る太い柱の中から室内へ侵入していた。
オペラはすでに始まっており、軽快な音楽が場内を満たしている。
「まさか、明かりがついたままだとは思わなかったわ」
わたしはぼやいた。
現代の感覚では上演中は会場の明かりは消えているのが普通なのだが、この時代はまだそうではないらしい。天井のシャンデリアと壁のガス灯がしっかりと場内を照らしていた。
わたしの呟きを聞きとがめたエリックは、
「君の時代では上演中は暗くしているのかね?」
と尋ねてきた。わたしがそうだと答えると、満足そうに何度も頷く。
「素晴らしい。やはりそうでなくては。劇場の主役は舞台なのだからな」
どうやら明かりが点いたままなのは、社交のためのようだ。
「それより、こんなに明るいならいくら幽霊の仮装をしてたってすぐにバレちゃうわよ? 本当に大丈夫なの?」
こっそり覗いただけでもキラキラした格好の女の人たちと、黒ずくめの男の人たちがわんさといるのだ。いくらエリックでもこれだけの人の目を欺くのは無理なのではないだろうか。
しかしエリックは、
「大丈夫だ。もうそろそろのはずだからな」
「何が?」
「ほら、暗くなってきた」
にっと笑みを浮かべた。
どうやったのかは知らないが、確かに明かりが消えているようだった。
ガス灯は一斉に消えたらしく、それだけでかなり暗く感じる。
シャンデリアの蝋燭はまだ点いているのもあるが、それでもわずかなものだ。
客席からはとまどいの声が上がっている。
「どうやったの?」
「ふふ……」
エリックは笑うばかりで答えてくれない。
「さあ、われわれの出番だ」
手を取り、ボックスの中ほどを歩き椅子に座る。
と、観客たちはわたしたちに気がついたらしく、どよめきはさらに大きくなった。
舞台に目を下ろすと「ベル薔薇」に出てきそうな格好の役者たちが呆然としている。
と、舞台袖の方からあたふたと男の人が出てきた。
「お客様に申し上げます。ただいま会場内の照明に異常がございまして、ご迷惑をおかけしております。全力を挙げて点検中でございますので、そのまま舞台をお楽しみくださるようお願い申し上げます」
冷や汗をかいているようで、ここからでも真っ青になっているのがよくわかる。
「支配人だ」
エリックが囁いた。
わたしは了解したと頷く。
席についたら幽霊らしく、あまり動き回ったり大声でしゃべらないようにと注意を受けているのだ。口元には扇子を添えているので、囁き交わすのならば問題はないのだけど。
支配人の口上もあってか、帰る人はあまりいないようで、舞台はそのまま続行された。
とはいえ、オペラグラスを片手にこちらを覗いては気味悪そうな顔をする人たちがほとんど。下からも興味津々と見上げてくる。まあ、これだけ暗ければ本当に人なのか幽霊なのか自信を持って断言することはできないだろうけど。
と、ボックスの扉がガタガタと震えた。
誰かが外から開けようとしているらしい。
「落ち着け、大丈夫だ」
エリックは舞台に目を注ぎながら超然としている。
耳を澄ませば外からは言い合っている声が聞こえる。
「どうなっているんだ、開かないじゃないか!」
「鍵なんてないはずなのに」
「まさか本当にファントムが細君を連れてきたっていうのか?」
タイヘンなことになってるなあ……。
と、エリックはちらりと扉の方を見やる。
すると、
「私たちはオペラを楽しみたいのだ。静かにしてくれたまえ」
扉の外からエリックの声が聞こえてきたではないか。
わたしは思わず彼の方を見ると、笑いをこらえるように唇を引き結んでいる。
当然ながら、ボックスの外は静まり返った。
「今……何したの?」
「腹話術だ」
あっさり返される。
どこまで多才なんだ、この人は。
「そうなんだ」
「ああ」
「……」
ちょっとした沈黙。
「ねえ」
「なんだ」
「実際に聞こえる声が唇の動きより少し遅れているようにするのって、できる?」
「簡単だ」
「今度やってみてね」
「ああ……。腹話術に興味あるのか?」
「うん。面白いよね」
「そうか」
満更でもなさそうにエリックは眉を上げた。
オペラは面白かったけど、見に行くたびにこんな大変なことになるのなら、やっぱりあんまり行かないほうがいいかなと、思ったり思わなかったり。
それよりもエリックの機嫌がすごく良かったから、その方がよほど収穫だったりする。
滅多にないことだもの、ね。
JNさんからのリクエストで「二人でオペラを見に行く」です。
エリック×ヒロインというには微妙な出来な上に「オペラを見に行く」というよりも、「オペラを見に行くまで」の話となってしまいましたが、えー、こんなものでいかがでしょうか……?
春日にオペラの知識がないばかりに……。スミマセン、誤魔化し入ってます〜〜(平謝り)
それから、多分気付かなかった方のほうが少数かと思いますが、途中途中にあった見るからに怪しいアイコン(笑)はクリックしますとオマケページに飛びます。
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